2019年9月15日日曜日

暇につぶされない。暇をつぶさない。



 「人生は暇つぶし」だなんてことを言う人がいる。ついこ

の間もそんなセリフを聞いたが、私も、一応そのことに異論

は無い。人生はそういうもんだと考えている方がいいだろ

う・・・。


 というのは表向きの話で、「暇つぶし」をすることは、実

は「暇につぶされる」ことなので、気を付けていないと深い

穴にはまってしまう。


 意味が分からない?


 「暇をつぶそう」とするということは、まず「暇」という

ものが有って、自分がその「暇」の影響下にあるということ

です。自分よりも「暇」の力の方が大きく、「暇」の圧力に

圧倒されて何かをせずにはおれなくなっているので、「暇つ

ぶし」をしてしまうのです。その行為は,自分の意識の上で

は「暇をつぶしている」のですが、本当のところ「暇」に動

かされてその場しのぎに何かをしているだけで、主導権を握

っているのは「暇」の方です。ですから、「暇をつぶしてい

る」のではなくて、「(自分の方が)暇につぶされている」

のです。

 そして「気を付けていないと深い穴にはまってしまう」と

いうのは、“その場しのぎの何か” が依存症や強迫神経症の

ような存在になってしまって、人生が “それ” に乗っ取られ

てしまうということです。その結果、人生の終わりに「とこ

ろで、自分は “何” がしたかったのか・・・」と呆然とする

ことになりかねません。


 ビジネスに血道を上げている人や、「趣味」や「遊び」と

称するものに入れ込んで人生を楽しんでいるつもりになって

いる人が、その人生の終わりにどのような感慨を抱くのかを

考えると、他人事ながら暗い気持ちになります(一時だけ

ね)。



 リチャード バックの小説『イリュージョン』(村上龍 

訳)の中に、こんな一説があります。


  自由に生きるためには

  退屈と戦う必要がある

  退屈を殺して灰にしてしまか

  退屈に殺されて家具になるか

  激しく根気のいる戦いである



 この一文が何を表しているのかはバックに尋ねてみなけれ

ば分かりませんが、〈退屈に殺されて家具になる〉という感

覚はよく分かります。「退屈に殺される」と、この世界の道

具になってしまって生き損ねるのです。(『退屈を味わう』

2017/5 という回にも引用しましたが)


 「暇」だと「退屈」します。

 しかし、「暇」「退屈」は自分に対する “世の中からの要

請” が無い時に生まれますから、それは世界や自分というも

のの本質に目を向ける絶好の機会なのです。ところが、人は

「退屈」を恐れます。何故でしょう?

 それは、世界も自分も無意味だからです。

 そのことに気付いてしまうからです。いいや、実は元々

のことに気付いていることから目をそらしていたいのに、

「暇」だとそのことが意識に上がってきてしまうので、それ

を恐れるのです。「無意味」  あるいは「理解不能」  

ほど人が恐れることはありません。人が「死」を恐れるの

も、生きていることが「無意味」だと感じさせるからです。

 その恐れゆえに、人は皆、必要もなく本当は望んでもいな

い事に、人生のほとんどを費やして生きて行くことになりま

す。


 その時その時は何か大したことをしているつもりが、実は

「退屈」に殺されていて、ある時、あるいは人生の終わりが

近付いた時、世界の片隅で家具になっていた自分に気付いて

呆然とします。

 「いったい、何がしたかったんだろう・・・」。


 だけど、「退屈に殺された」「暇につぶされた」と気付

けるのならまだましです。ただただ、アタマの中に悲しい・

恐ろしい「?」が浮かぶようなら、完全に生き損ねたので

す。もう終わりです。GAME OVER!


 「人生は暇つぶし」と考えて、あまり深刻に捉えずに生き

て行くのは精神衛生上結構なことだと思いますが、もっとイ

イのは「人生に “暇” ほど良いものはない」と思えることだ

ろうというのが私にとっての正解ですね  もちろん、「暇

な時間に何かができるから」ということではありませんよ。


 このブログは暇つぶしになりましたでしょうか?





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