2019年11月26日火曜日

人間の価値



 この前書いたように、私はとりあえず人間をやっている

(「演っている」というべきか?)。人間をやって、人間と

してある程度の価値があるところを、他の人間に見せてい

る。そうしないと、社会は許してくれないので。
 

 で、今日の話題は「人間としての価値」について。

 「人間の価値」って何でしょう?

 先に私の答えを書いておきます。「人間の価値」とは、

「人間であること」です。


 「男の値打ちは仕事だ!」とか、「女の価値は、子供を産

んで育てること」とか、「頭が良いこと」とか、「強いこ

と」とか、昔から人はいろんなことを言ってきた。けれど、

それらはすべて社会的な意味合いの価値であって、「人間の

価値」ではない。そういうもの言いは、社会がその “お話

し” の中に人を取り込んで、社会にエネルギーを使わせるた

めのものであって、実は、人には関係が無い。


 さまざまな「価値」を設定して、あらゆる人間に「自分に

は足りない “価値”」を意識させ、劣等感を抱かせ、不安に

させ、その不安を解消しようとする為に注がれる個人のエネ

ルギーを取り込んで、社会は存続し、肥大してゆく・・・。


 社会の中で言われる「人間の価値」って、ただの “お話

し” でしかないのだが、もの心付く前から刷り込まれるの

で、それがただの “お話し” だなんて、みんな気付けない。

 だから「かくかくしかじかで、お前には値打ちが無い」な

どと言われると、自分には生きる値打ちが無いなどと思って

しまう・・・。けれどそういうのは、「その “お話し” の中

では、エキストラでしかない」というだけのことだ。

 「あっ、そうなの?」と、おいとまして終わる話です。


 例えば恋人に別れを切り出されても、「ああ、そう。じゃ

ぁ、サヨナラ」と。

 ホントはその程度の事なんですよ。


 例えばオリンピックに出場して入賞もできなかっても、

「そういうことか」と。

 それで済む話です。


 確かに、その “お話し” の中では「価値」を認められなか

ったのですが、それは “お話し” です。「人間としての自分

の価値」とは関係の無いことです。

 何が出来ようが出来なかろうが、あらゆる “お話し” とは

無関係に、自分は存在している。“お話し” の中で「自分に

は価値が無い」と思わされたとしても、それで自動的に自分

が消え去るわけではない。その「消え去らない自分」の “消

え去らなさ” が「自分の価値」を証明しているのです。


 自分の価値を否定する誰かに対して、社会に対して、こう

うそぶいていい。

 「お前らが何を言おうと、それでわたしを消し去ることは

出来ないだろ? 所詮、それは “お話し” に過ぎない」

 社会から小突かれようと、誰かから無視されようと、

 「そう。で、お次は何だ?」

 そう思っていればいい。だって、今、生きているんだも

の。消え去っていないんだもの。

 あなたや私の「人間であること」の価値を、 “お話し” は

奪うことはできない。


 あなたも私も極悪人も聖者も、その「人間であること」の

価値に違いはない。

 その価値は揺らぐことはない。

 その価値の上に立っていれば安泰です。


 社会的には負け犬になるかもしれない。

 暮らしに困るかもしれない。

 一緒に居て欲しい人が離れて行くかもしれない。

 明日には死んでしまうかもしれない。


 でも、今、この時、揺るぎない価値の上にあなたも私も在

る。

 そのことに気付いていれば、安泰なんです。





2019年11月24日日曜日

とりあえず人間



 今朝、NHKの『日曜美術館』を見ていて心にとまった言

葉があった。

 今日は秋野亥左牟(あきのいさむ1935-2011)という画

家(絵本作家)を取り上げていたのですが、秋野さんの作品

も魅力的だったし、その生き方も面白かった。

 その生き方・暮らしぶりを振り返りながら、奥さんがこう

いうことを仰った。


 「とりあえず人間」


 よく分かる。

 私も、そういう意識を持ちながら日々の暮らしを続けてい

るから。

 私はそれを《世の中をたしなむ》と表現していますが。


 「人間」と書いて、中国語では「じんかん」と読む。日本

語で言う「世間」を表す言葉らしい。

 「とりあえず人間(にんげん)」というのは、「一応、世

間の人をやっている」ということだろう。


 人は世間の中で生きるしかないけれど、世間は人を幸せに

はしない。だから「とりあえず人間」というスタンスでいな

いと不幸になってしまう。「どっぷり」「ガッツリ」人間に

なると、日々は地獄になる。


 毎度書いていることだけど、世間というのは「世間」とい

うお話しであって、そこに実(じつ)は無い。実の無いこと

に深く関わるほど、生きていることの実感は薄れて行く。

 虚しい。満足することが無い。不幸になる。


 世間には本当のしあわせは無い。有るのは “お話しの幸

せ” だけ。

 それは「楽しみ」として関わるには良いが、それを生きる

ことの本質だと思い込んでしまうと、人は生きられない。


 テロだとか、強欲なビジネスだとか、政治だとか、他のさ

まざまな原理主義的なイデオロギーだとか、「世間」という

お話しを真に受けて、「どっぷり」「ガッツリ」人間をやる

連中がとんでもないことをして周りの人を不幸に巻き込んで

行く・・・。

 けれども、そういう人間がいくら「お話し」に入れあげ

て、「世間」を巻き込もうとしても、周りがみんな「とりあ

えず人間」というスタンスの人ばかりだったら、その人間は

“「お話し」を本当だと思い込んでいるおかしい人” という

扱いを受けることになる。どんなにその "入れ込みよう” が

凄くても、しょせん一人では何もできない。

 たとえヒトラーの演説が上手くても、当時のドイツ人がそ

れを「お話し」の一つだと受け止めていれば、ホロコースト

は起きなかっただろう。


 「とりあえず人間」


 そういうスタンスで誰もが生きるなら、世界の争いごとの

九割は無くなることだろう。

 そして、人は今よりずっと、穏やかにしあわせに暮らせる

だろう。


 「お話し」をいったん脇に置いて、「お話し」以前に存在

している「生の生(なまのせい)」に意識を向ければ、そこ

はすべてが足りている完全な世界。そこには “実感” という

「しあわせ」がある。


 と、そんなことを思いながら、こんなことを書いて、とり

あえず今日を生きる。





2019年11月17日日曜日

素直にね



 今、Michel Jones というピアニストの曲を聴きながら、

これを書き始めた。


 Michel Jones は80年代から活動している、いわゆる

「ニューエイジ」系のピアニストですが、その演奏は、素直

で自然で明るい。

 イメージが音楽になるまでの間に、計算やこだわりなどの

夾雑物が無いという気がする。私はすべての音楽ジャンルの

ピアニストの中で一番好きかもしれない。



 と、こういう取っ掛かりで始めて、話がどこへ行くのだろ

うと思ったのだが、さっき「素直」という言葉が出てきたの

で、「素直」について話そう。


 今回、『アナと雪の女王』の続編が公開されるということ

で、マスコミがよく取り上げている(宣伝しているというこ

とですが)。もちろん私は観ない。前回も観ていない。

 前回ブームになった時に、そこら中で「ありのままの~」

というあの曲が流れて辟易としたのをよく憶えている。

 あの甲高い声(とくにオリジナルの方)が耳障りだった

し、「ありのままの~」という歌詞が聞こえてくるたびに、

「“ありのまま” って、ほとんどの場合 “身勝手” ってことで

しょ。バカが勘違いするからやめてほしいなぁ」という思い

が浮かんでしまって嫌だった。

 もちろん私は映画の内容は知らないので、あくまでも上っ

面の情報でそう感じていたのだけど、人というものは、もの

ごとの「自分に都合の良い部分」だけを受け取るものなの

で、あの当時、映画を観た人の中にも「ありのままの~」と

いわれて、「自分の好きなようにするのがイイんだ!」と、

あの歌を “身勝手の免罪符” のように捉えた者もかなりいた

ことだろう。

 「素直」って、ホント、難しいんだ。

 「“素直” って、そんなものあるのか?」というぐらい、

つかみどころのないものです。素直にそう思います。



 コンビニで目にしたケーキが美味しそうだったので、その

まま持ち出して食べる。

 素直ですね。でも、万引きです。


 電車で隣に座ったオバさんが、ベラベラ大声でしゃべって

うるさかったので、「うるせえ!」と言って殴った。

 素直ですね。でも、暴行です。


 隣のクラスの女の子がすごく可愛くてのぼせ上ってしまっ

た。毎日後をつけて、家の前に張り付いて、出てきたところ

を抱き付いた。

 素直ですね。でも、ストーカーです。


 国の将来が心配だ!このままではいけない!なんとかしな

ければ!

 努力と運でカリスマ政治家になり、国のトップになって、

自分が正しいと思う政策を推し進め、新しい法律を作って、

国を害すると思われる人間を次々に投獄したり粛清できるよ

うにした。「これでわたしの思い描く “良い国” にな

る・・・」。

 素直ですね。でも、独裁者です。(良い独裁者というの

も、理屈の上ではあり得るとは思いますが・・・)


 苦しい・・・。もう、生きていたくない・・・。

 自ら命を絶った。

 素直ですね・・・。でも、悲しいことですよ・・・。


 いま挙げたようなことは極端な事ですが、私がただのひね

くれ者なんでしょうか?


 「ありのままの」って、「素直」って、あるいは「自分ら

しく」って、いったい “何” に従ったらそう言えるのでしょ

う?


 周りの人間の言うことに従ったら「素直」なんでしょう

か?

 自分の欲望に従ったら「ありのまま」なんでしょうか?

 自分の思考に従ったら「自分らしい」のでしょうか?

 自分の感情に従ったら「ありのまま」なんでしょうか?

 自分の感覚に従ったら「素直」なんでしょうか?


 わたしたちの中にも外にも、無数の “動かそうとする働

き” が常にあって、わたしたちを突き動かそうとしています

が、「ありのまま」とか「素直」とかいう意識が働くとき

は、実は迷っているときです。迷いがないなら、「ありのま

ま」とか「素直」とか考える前に、もう何かをしているもの

ですからね。「ありのまま」とか「素直」とかの意識が働く

のは、行動の選択に迷っているときなんですね。


 なぜ迷うのかというと、「自分にとって将来有利な選択を

したい」と思うからであって、実は「ありのまま」「素直」

といった意識の後ろには、“打算” が隠れているのです。


 「ありのまま」「素直」などというと、なにか「ピュア」

なイメージがありますが、その実態は “打算” です。

 『アナと雪の女王』が流行った時。あの「ありのままの

~」という歌が聴こえるたびに私が少し不快になったのは、

そのイメージと実態のギャップを感じていたからなんです

ね。


 「ありのまま」や「素直」という意識は、“行動” に係っ

てくるものですが、本当は、“在り方” に対するものです

(“在り方” も “行動” ではありますが)。

 「ありのまま」や「素直」ということが実体化するのは、

自分から動かない時だけですから。


 ですから、死人ほど「ありのまま」なものはありません。

死人に打算はありません。死人は迷いません。人が本当に

「ありのまま」「素直」になる時は死んだときです。


 もし、生きていながら死んだようにいられるのなら、それ

が本当の「ありのまま」であり、「素直」ということでしょ

う。そして、迷いの無い、穏やかな状態でしょう。
 

 どうしたら「生きながら死ねる」か?


 「自分にとって将来有利な選択をしたい」という打算が、

迷いになるわけですから、「自分にとって将来有利な・・」

という思いを無くせばいいわけです。そもそも、何が「自分

にとって将来有利」かどうかなんて、誰も知らないのです。

さらに言えば、「有利」ということ自体が、ある文脈・価値

観の中でしか意味を持ちません。いま、こうして生きてい

て、いずれは必ず死んでゆくわたしたちにとって、「有利」

って何ですか?


 そうしてみると、「自分にとって将来有利な選択をした

い」という思いを無くすのは、そう難しいことでもなさそう

です。

 本当は「知らない」、本当は「分からない」ことを、掴み

に行こうとかそうなろうとかするのは、ほとんど徒労だと分

かります。徒労だと分かっていることに、人はエネルギーを

注げません。

 「分かんないんだから分かんないままでいるしかないな」

 そうやって、迷いをストップさせたら、それが「生きたま

ま死ぬ」ことです。アタマに死んでもらうのです。

 本当に「ありのまま」で「素直」になったら、迷いなんか

無い。選択なんて意味を持たない。


 話を Michael Jones に戻しましょう。

 いま窓の外ではウインドチャイム(風鈴)が鳴っているの

ですが、あれは風まかせです。自ら「こう鳴ろう」とかいう

わけではない。

 Michael Jones の音楽も、自然から受けたイメージが、

彼の中を通って素直に音になって出てきているように感じま

す。

 「ありのまま」って、ウインドチャイムのような “在り

方” なんじゃないでしょうか。




2019年11月10日日曜日

すべてが黄金だった。



 すべてが黄金だった。


 なにを言い出したかというと、この前、突然「比較する」

という感覚が完全に無くなった時があって、この世界のすべ

てが、まるで黄金のように感じたんですよ。実際のところ

 “「存在していること」の絶対性” 以上の価値が有り得る

だろうか? あらゆる「比較」のその前に、すべての物と事

が “存在している” 。


 すべてが等価で、絶対で、最高の価値を持っている。い

や、価値を越えた〈価値〉として在る。「在ること」自体が

〈価値〉なのだ。いわば、すべてが黄金なのだ。これ以上な

いほど満たされているのだ。そう感じた。


 自分の身体も、空気も、大地も、水も、冷蔵庫も、石ころ

も、ハトのフンも、スマホも、ランドセルも、サンダルも、

カナヅチも、机も、階段も、インフルエンザも、癌も、白髪

も、口紅も、ゆで卵も、アイスクリームも、彼氏や彼女も、

子供も、ダンゴムシも・・・。

 何もかもが絶対の〈価値〉として現われている。


 気が付いたら、すべては黄金だった・・・。

 初めから終わりまでそうだった・・・。

 完璧に、満ち足りていた・・・。

 何の不満も無い・・・。


 《 足りないものは「満足」だけ 》と以前書いた。(『足

りないものは「満足」だけ。』2017/10)


 すべてのものが等価で、絶対で、最高の価値を持っている

のであれば、不満の持ちようが無い。そして、実際の世界は

「比較」の無い(「比較」できない)、すべてが等価で、絶

の世界なので、誰も不満など持ちようが無いはずなのだ

が、アタマが悪さをする。アタマは満足を知らない。


 もしも、すべての子供に、ものごころが付いてから、社会

「今に満足する」ことを教えるようにしたならば、この世

中はどのようになるだろうか? 「比較すること」を止め

ように育てたならば、どのような世界になるだろうか?

 「不満」というのは「否定」のことだが、「否定」の無い

ところには「憎しみ」も「争い」も「攻撃」も無い。「足る

こと」を知る世界は、穏やかな世界だ。


 ところが、この社会は、子供に徹底的に「比較すること」

を教え込む。

 「今に満足すること」を否定する。

 社会が培養してきた〈エゴ〉を子供たちに与える。

 それは、多くの場合「夢」や「成長」や「正義」という言

葉で隠されて、「善いもの」として子供たちに植えつけられ

る。

 そしてすべての子供が、自身の《命》  単に「生き延び

る」という事ではなく  の為ではなく、〈エゴ〉の為に生

きることになる。「満足」することを知らず、常に「足りな

さ」に苦しみながら・・・。


 バーノン・ハワードという人が、『なぜあなたは我慢する

のか』(日本教文社)という著書の中でこう書いている。


 《 人間の幸福のためにする社会の行為、計画はすべてま

やかしとなる、まるで一方の手でなぐり倒し、別の手で助け

起こし、助け起こしたところだけをとりあげて英雄的行為と

称するようなものだ。われわれが科学、農業などでなしとげ

てきた進歩は、人間の本性のせいではなく、人間の本性にも

関わらずといわねばならない 》


 「進歩」

 「人間の幸福」


 それらは社会の〈エゴ〉の偽装だ。

 〈エゴ〉は、「今に満足し、今すぐ幸福になること」を否

定する。いや、肯定できない。「比較」しなければ〈エゴ〉

は存在できないから。〈エゴ〉は人の生の中で、「比較」と

「否定」と「満足しないこと」という意識を再生産し、自身

を存続させようとするウイルスのようなものだ。


 わたしたちは皆、〈エゴ〉に意識を乗っ取られて生きて行

く。

 どんなに苦しくても、その苦しみは「幸福」や「善」のた

めに必要なものだという〈エゴ〉の偽装を信じ込まされ

て・・・。


 社会がどのように言おうとも、濁らされていない目で世界

を見ることができれば、世界はすべて黄金なのだ。


 (ちょっと、表現が “詩的” に過ぎたかもしれないけど、

そういうことですよ。ホント。)



2019年11月7日木曜日

誰の為に生きている



 突然ですが、あなたには、あなたの為に生きてくれている

人が誰かいますか?


 この世には私の為に生きてくれている人は、誰もいませ

ん。

 そして、あなたの為に生きてくれている人も、誰もいませ

ん。

 この世の誰一人として、誰かの為に生きている人はいませ

ん。


 こういう見解には、きっと異論が出るでしょう。

 親は子の為に生きているとか、弱い立場にある人の為に自

分のことは二の次で働いてる人もいると。


 確かにそうなんですが、そういう人は、そういう自分の人

を生きているのであって、“自分を生きている” だけです

(“自分の為” と言っていないことに注意して下さいね)。

誰かが、私やあなたの為に生きることはできないのです。


 ところが、人は誰も、誰かが自分の為を思って動いてくれ

ないと腹を立てます。

 家族や友人知人だけでなく、たまたま電車に乗り合わせた

見知らぬ人であっても、自分に対する配慮が感じられないと

腹が立ちます。

 「なんだ、コイツ!」と。


 でもね、誰も誰かの為に生きているわけじゃないので、自

分に配慮してくれなくったって当然だと言っても過言じゃな

いのです。

 自分の為に生きているという人でも、「自分の為に生きて

いるつもり」なだけであって、「誰かの為」どころか、「自

分の為」に生きることさえできないのです。

 誰ひとり、“(自分を含めた)誰かの為” に生きることは

できない。誰も皆、自分を生きるだけです。


 とはいえ、誰かが自分の為を思って動いてくれていると感

じられることは、もちろんあります。それはとてもラッキー

なことで、喜んでいいことだと思います。

 また、自分が誰かの為を思って、実際にその人の為になる

ようなことをできることもあって、それもとてもラッキーな

ことで、喜ばしいことです。

 けれども、それらは、たまたまそのようになって、そのよ

うに感じられるということであって、本当の意味で「誰かの

為」なのではありません。


 なんでまた、こんなことを書いているかというと、本当に

「人の為」になることが何なのか、ほとんど誰も知らないか

らです。そして、それを知っている人は、本当に「人の為」

になることは “自分” や “誰か” という意識が消えたところ

で生まれると分かっているので、「“自分” や “誰か” の為」

という見方をしません。

 本当に「人の為」を考えるなら、個人は相手にできないの

です。「人の為」になることをしようと思えば、広い意味で

の「人」に対して働きかけるしかないのです。言い換える

と、エゴをスルーして、それぞれの人の命の本質に働きかけ

ることが、本当に「人の為」になる。

 そして、そのような意識を持てば、誰かが自分に配慮して

くれようがくれなかろうが、そんなことは表面的なエゴのレ

ベルのことであって、問題視することはエネルギーのムダだ

と感じるようになる。

 そして、「誰も、誰かの為に何をすることもできない」と

認識した時、初めて、誰かと誰かの間に、お互いを認め合

い、慈しみ合うという、「お互いの為」になる心の交流が生

まれる可能性が出てくる・・・。


 「誰かの為」なんていうことを意識した瞬間、それはエゴ

の詐術にひっかかっているのです。

 人が本気で「誰かの為」に何かをする時は、ごく自然に、

なんでもなくそうする時や、止むにやまれずそうせざるを得

ない時です。「気が付いたらそうしてた・・・」というふう

に・・・。


 ずいぶん前にも書きましたが、スーパーのレジで前の人が

落とした十円玉を、ごく自然に拾ってあげるようなことが、

わたしたち人間の本質としてあると思うんです。その本質

が、もっと重大な局面でも素直にでてくるような、そんな人

と人との関りが、本当はあり得ると思う。実際にそこそこあ

る。けれど、アタマが邪魔をするので、なかなかそうならな

い。


 人間の可能性として、ごく自然にお互いの為に動くという

ことは、特別なことではないはずなんです。アタマが悪さを

しなければね。


 「自分の為に生きること」ほどバカバカしいことはない。

 ちょっと考えれば、それがどれほど無意味な事か分かる。

 じゃぁ、「人の為に生きること」が素晴らしいのかといえ

ば、それもまた違う。

 自他の区別を忘れて、何かをできる・・、してしまうこと

が、人として生きる上で最もしあわせなことだろうと思うの

です。

 でもまぁ、ほとんど「思う」にとどまっているのですが

ね・・・、私も・・・。







2019年11月3日日曜日

静寂と空間は内省を促す



 今日は奈良へ行った。

 久しぶりに時間の余裕ができたので、迂闊にも何も下調べ

をせずに出かけてしまったのだが、行ってみると、秋の行楽

シーズンの日曜日であるのに加え、国立博物館では「正倉院

展」が始まっていて、奈良公園ではフードフェスタが行われ

ているうえに、奈良女子大では “学祭” まで行われていて、

奈良の中心部は恐ろしいほどの人の数だった。


 路線バスは渋滞で全然進まないし、歩道は前から来る人を

よけながら歩くのに気を使い、本当にさんざんだったが、

れでもまぁ唐招提寺と東大寺法華堂を訪ねて、目的は果たせ

た。


 この二つの場所は、奈良で私がこれまでに一番訪れている

所ですが、どちらも「静寂と空間は内省を促す」という言葉

が最もふさわしいと感じられる所です  でも今日はちょっ

と違ったけどね。


 「静寂と空間は内省を促す」というのは、昔『エースをね

らえ!』を読んでいて憶えた言葉で、その通りだと思うので

すが、今回というか最近は、こういうことも思うようになっ

た。


 《 内省すれば、静寂と空間がある 》



 静寂と空間」は環境でもなく、外からやって来るもので

もなく、自分の外や内の状況によって、自分自身の中にみい

だすものである。

 さらに、その「静寂と空間」は自分の中に無限に深まって

いるがゆえに、〈自分〉という枠を無意味なものにして、世

界と一つになってしまうものだと。


 自分の中の「静寂と空間」に気付けば、どのような場所に

も「静寂と空間」が満ちているのが分かる。逆に、どのよう

な場所でも、その場所の背景に「静寂と空間」が満ちている

ことに気付けば、自分を、自分の中の「静寂と空間」に落ち

着かせることができる。

 出来事の後ろに、そして、出来事に揺さぶられる自分の後

ろに、 “完全に平安な場所” が在ることを、わたしたちは憶

えていた方がよい。そこを自分の本拠地にして生きる方がよ

い。いや、そうでなければ生き損ねることになるのだろうと

思う。


 今日の奈良は、まったく「静寂と空間」などと呼べるよう

な場所では無かった。でも、少し視点を変えれば、その「騒

然と過密」は、却ってその背後の「静寂と空間」を際立たせ

るものでもあっただろう。


 一匹の蚊も、一万人の人も、無限の空間を背景に生きてい

る・・。動いている・・・。

 「静寂と空間」にとって、ものの数や量は意味を持たない

だろう。「存在している」という、そのことこそが意味を持

っている(「意味」と言っても、人間の言う「意味」ではな

いけれど)。

 あのおびただしい人の群れは、「静寂と空間」の内を生き

ているのだ。自分がその「静寂と空間」でもあることを、ほ

とんどの人が意識せずに・・・。


 「静寂と空間」を気付かせる場所であるべき奈良が、あの

ような状況なのはまったく皮肉なことだけど  まぁ私も、

その「おびただし人の群れ」の一人ではあったのだった。



             東大寺法華堂(三月堂)  不空羂索観音