2019年11月7日木曜日

誰の為に生きている



 突然ですが、あなたには、あなたの為に生きてくれている

人が誰かいますか?


 この世には私の為に生きてくれている人は、誰もいませ

ん。

 そして、あなたの為に生きてくれている人も、誰もいませ

ん。

 この世の誰一人として、誰かの為に生きている人はいませ

ん。


 こういう見解には、きっと異論が出るでしょう。

 親は子の為に生きているとか、弱い立場にある人の為に自

分のことは二の次で働いてる人もいると。


 確かにそうなんですが、そういう人は、そういう自分の人

を生きているのであって、“自分を生きている” だけです

(“自分の為” と言っていないことに注意して下さいね)。

誰かが、私やあなたの為に生きることはできないのです。


 ところが、人は誰も、誰かが自分の為を思って動いてくれ

ないと腹を立てます。

 家族や友人知人だけでなく、たまたま電車に乗り合わせた

見知らぬ人であっても、自分に対する配慮が感じられないと

腹が立ちます。

 「なんだ、コイツ!」と。


 でもね、誰も誰かの為に生きているわけじゃないので、自

分に配慮してくれなくったって当然だと言っても過言じゃな

いのです。

 自分の為に生きているという人でも、「自分の為に生きて

いるつもり」なだけであって、「誰かの為」どころか、「自

分の為」に生きることさえできないのです。

 誰ひとり、“(自分を含めた)誰かの為” に生きることは

できない。誰も皆、自分を生きるだけです。


 とはいえ、誰かが自分の為を思って動いてくれていると感

じられることは、もちろんあります。それはとてもラッキー

なことで、喜んでいいことだと思います。

 また、自分が誰かの為を思って、実際にその人の為になる

ようなことをできることもあって、それもとてもラッキーな

ことで、喜ばしいことです。

 けれども、それらは、たまたまそのようになって、そのよ

うに感じられるということであって、本当の意味で「誰かの

為」なのではありません。


 なんでまた、こんなことを書いているかというと、本当に

「人の為」になることが何なのか、ほとんど誰も知らないか

らです。そして、それを知っている人は、本当に「人の為」

になることは “自分” や “誰か” という意識が消えたところ

で生まれると分かっているので、「“自分” や “誰か” の為」

という見方をしません。

 本当に「人の為」を考えるなら、個人は相手にできないの

です。「人の為」になることをしようと思えば、広い意味で

の「人」に対して働きかけるしかないのです。言い換える

と、エゴをスルーして、それぞれの人の命の本質に働きかけ

ることが、本当に「人の為」になる。

 そして、そのような意識を持てば、誰かが自分に配慮して

くれようがくれなかろうが、そんなことは表面的なエゴのレ

ベルのことであって、問題視することはエネルギーのムダだ

と感じるようになる。

 そして、「誰も、誰かの為に何をすることもできない」と

認識した時、初めて、誰かと誰かの間に、お互いを認め合

い、慈しみ合うという、「お互いの為」になる心の交流が生

まれる可能性が出てくる・・・。


 「誰かの為」なんていうことを意識した瞬間、それはエゴ

の詐術にひっかかっているのです。

 人が本気で「誰かの為」に何かをする時は、ごく自然に、

なんでもなくそうする時や、止むにやまれずそうせざるを得

ない時です。「気が付いたらそうしてた・・・」というふう

に・・・。


 ずいぶん前にも書きましたが、スーパーのレジで前の人が

落とした十円玉を、ごく自然に拾ってあげるようなことが、

わたしたち人間の本質としてあると思うんです。その本質

が、もっと重大な局面でも素直にでてくるような、そんな人

と人との関りが、本当はあり得ると思う。実際にそこそこあ

る。けれど、アタマが邪魔をするので、なかなかそうならな

い。


 人間の可能性として、ごく自然にお互いの為に動くという

ことは、特別なことではないはずなんです。アタマが悪さを

しなければね。


 「自分の為に生きること」ほどバカバカしいことはない。

 ちょっと考えれば、それがどれほど無意味な事か分かる。

 じゃぁ、「人の為に生きること」が素晴らしいのかといえ

ば、それもまた違う。

 自他の区別を忘れて、何かをできる・・、してしまうこと

が、人として生きる上で最もしあわせなことだろうと思うの

です。

 でもまぁ、ほとんど「思う」にとどまっているのですが

ね・・・、私も・・・。







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