2017年3月26日日曜日

リアルマトリックス ~経済に操られる人間~

 「マトリックス」という映画がありますよね。キアヌ・リ

ーブス主演の。もうだいぶん前の作品になりますが、観た方

も多いでしょう。なかなか面白くて、後の映画にも撮影手法

などで大きな影響を与えた、SFアクションの傑作です。

 観た事のない方の為に、内容をザックリ話しますと、
 

 世界は機械に支配されていて、その世界は人間の生体エネ

 ルギーによって維持されている。

 人間はカプセルの中で眠ったまま生かされ、効率良くエネ

 ルギーを得るために、バーチャルリアリティーの夢を見せ

 られているが、ごく一部の人間が目覚めてコミュニティを

 作り、機械に抵抗して人間を解放しょうとしている。

 主人公の“ネオ”は人間を解放する「救世主」として、戦い

 を始める。



 
 ザッと、こんな話なんですが、なんで今頃「マトリック

ス」の話なんか始めたのかというと、 「これ、現実やん

か!」と、最近分かったからです。

 今、わたしたち人間は、機械に支配されてはいませんが、

実は「マトリックス」と同じやり方で、別のものに支配され

ています。

 わたしたちを支配し、わたしたちのエネルギーを吸い取っ

ているのは、“経済”です。

 「“経済”が支配している」などと言うと、巨大企業や資本

家や、それらと手を握る為政者が動かしている。と考えると

思うんですが、そうではなくて、彼らも“経済”に支配されて

いるんです。わたしたちは“経済”というシステムそのもの

支配されているのです。

 「マトリックス」の中で、人間は夢を見せられ、その中で

欲望を満たされることで生き続け、エネルギーを生み出し、

機械はそのエネルギーを吸い上げることで存続しています。

 一方、わたしたちが今生きている世界では、人と人が直接

に、あるいはTVやインターネットを介して、欲望を刺激さ

れ、夢を持たされ、不安や虚栄心を煽られ、様々な活動をす

ることで世の中が動いていきます。そして、その世の中の動

きとは、現代にあっては“経済”の動きであると言っても過言

ではありません。

 わたしたち人間は、“経済”というシステムに動かされ、自

分で自分を惑わす夢を作り、その夢を自分で見て、目覚める

事を知らずに活動をし続け、自分のエネルギーを消費してい

る。そのエネルギーは人間本来の幸福の為ではなく、経済を

動かし、存続させる為に使われている。 資本家や為政者も

“経済”にそそのかされ、愚かな夢を見せられ、人々のエネル

ギーを“経済”というシステムに送り込む道具として、その

目をはたしているにすぎない。

 監督・脚本のウォシャウスキー兄弟が、経済システムのア

ナロジーとしてこの作品を制作したかどうかは知らないが、

少なくとも無意識のレベルでは、現実の世界をそのように捉

えていたのだろう。(公開当初、私はこの作品を観て「悟り

を描いた、宗教的な映画だなぁ」と受け取っていた)

 映画の中では、最後に“救世主・ネオ”が、目覚めた人間た

ちの生存の契約を“機械”と結ぶところで終わるが、果たして

わたしたちは”経済”から目覚め、自分たちの命(エネルギ

ー)を自分たち自身の為に取り戻すことが出来るのか?

 “わたしたちは、何の為に生きているのか?”

 少なくとも、“経済”の為ではないだろう。

 人間が作り出したものである“経済”だったが、いつしか人

の手を離れ、人の手に負えなくなって、作り手である人間が

操られている。

 今、目覚めている人はどれだけ居るのか?

 これからどれだけの人々が目覚めることが出来るのか?

 目覚めた人々は、“経済”の管理を逃れて生き続けられるの

か?

 “救世主”は、たぶんわたしたち一人一人だろう。

 一人一人が、自分自身の“救世主”にならなければならない

のだろう。
 

 「目覚めよ!」


 な~んてね。

 どんな未来が待っているのか? 野次馬気分でしばらく付

き合わせてもらおうかな。



2017年3月25日土曜日

ウソは無い


  《 この世には、嘘も裏切りも無い

         自分の読みが浅いだけだ 》


 私は、今まで裏切られた事がありません。

 私にとっては、この世に“裏切り”というもの自体が存在し

ていません。なぜなら、私は人を信用していないからです。

 人を信用していなければ、裏切られることなど有るはずが

ないですよね。


 別に私は、人に不信感を持って生きている訳ではないです

し、特別疑り深い訳でもありません。人間という生き物の不

完全さ、自分本位さ、出来の悪さを踏まえた上で人と関わる

ので、相手が約束を破ったり、私を騙していたことが分かっ

たりしても、「あら、そうなの?」「へぇ~。そういう事だ

ったんだ。」ぐらいの感慨しか持ちません。人間なんて、そ

んなもんだと思って生きていますから。


 こう書くと、「それって、結局“不信感”を持ってるんじゃ

ない」と取られそうですが、“不信”ではなくて、人間は出来

損ないだという“確信”を持ってるんです。人間の出来の悪さ

を“信じている”んです。

 だから、約束が守られなくても、騙されても、「あっ!そ

ういう事もある訳ね!」みたいな感じです。(まぁ、面倒な

事になって腹が立つことは有りますが、「騙された!」とい

う思いではなくて、「面倒くせー!」という怒りですね)


 ホント、「騙された!」とか「裏切られた!」とか言って

怒ってる人の気が知れません。いったい何に怒ってるのでし

ょう? 何を怒ることがあるのでしょう? バカですね。

 「機嫌の悪い奴はバカ」です。 読みが浅いんですよ。


 なんで、「物事が自分の都合の良い様にスムーズに進むと

は限らない」と疑ぐってみたりしないのでしょう? “予

定”や“予測”なんて、すぐ狂うでしょ。そういう人を見る

と、「お手軽な人だなぁ~」なんて思っちゃう。

 (イジワルでごめんなさい。私、イジワルなんです)


 とは言っても詐欺師のように、始めから悪意を持って騙し

にかかる者もいるわけなので、あまりバカだなんて言わない

方がいいですね。こういう場合、当然騙す方が悪いわけです

から。しかし、騙されるということは、「世の中には、詐欺

師だっている」という読みを持っていないか、読みが浅いわ

けなので、騙した方を非難しても後の祭り。騙した方の罪と

は別に、おのれの甘さを笑うのが、人としてのたしなみでは

ないのかと・・・。


 悪意が無い場合でも、例えば恋人が浮気をした場合、「裏

切られた」とか思うのでしょうが、「生まれてこの方一人の

人しか好きになった事がない」なんて人は、まず居ないでし

ょう。ですから、自分が付き合ってる内に、恋人が他の人を

好きになったとしても、なんの不思議もないですよね。それ

が何故「裏切り」なんでしょう? ごく自然なことです。

(結婚の場合は、また違う話になりますが、それはまたこの

次に・・)

 また、二股をかけてたとしても、「騙してた」という事に

はなりません。「君だけだよ」なんて嘘を言っていることも

あるでしょうが、それはホントの事を言うと、関係が悪くな

ると考えるからで、“関係を保ちたい”という思いのあらわれ

です。(こんなこと書いていいのかよ?)

 だいたい、友達は何人いてもいいのに、なぜ恋人は一人じ

ゃないといけないんですか? よくよく考えれば、なんの根

拠もないでしょ?(人類学者なんかからは、異論が出るでし

ょうが、今回はそこまでの対応はしません。たいした問題で

はないので)


 「根拠が有るか、無いかなんて知らない!わたしは恋人は

一人じゃないといけないと思う!」というのであれば、二股

をかけた恋人とは考え方が違うわけですから、「じゃあ、わ

たしとは考え方が違うから、これ以上付き合えないわね。さ

ようなら」ということで、終り。ですね。なにを「騙した」

「裏切った」と怒ったり、嘆いたりする必要があるのでしょ

う? (なんてこと言ってますけど、十代・二十代の頃は、

私もそんなもんでしたけどね)


 なんで、こんなムカつく様なことを言うのか?

 自分の思い込みや、欲求に振り回されないで欲しいからで

す。“人は出来そこない”だという事実に基づいて、自分を見

失う事なく生きて欲しいんです。


 私も、あなたも、誰もかれも出来損ないです。間違いま

す、約束も必ずは守れません、嘘もつきます、騙す事もあり

ます、どうしようもない奴なんです。自分も、他人も信じ切

ることは出来ません。自分にも人にも十分注意して、自分に

も人にも“お手柔らかに”付き合ってもらえたら、と思うんで

すよ。

 《 この世には、嘘も裏切りもありません 》

 “みんな出来損ないだ”というだけです。

 出来損ないと付き合うんですから、気を付けるのは当たり

前でしょ? 気を付けて下さいよ。 特に“自分”に。

 あなたにいちばん嘘を付き、いちばん騙すのは、“あなた

自身”だったりしますからね。だって、あなたは「出来損な

い」なんですから。


 

2017年3月24日金曜日

平和ボケはイケナイか?


  《 世界が平和になれば、

      ひとりひとりに平和が来るのではない

   ひとりひとりが平和になって、

        はじめて世界が平和になるんだよ 》


 “平和ボケ”という言葉を使う人があるけれど、「もうちょ

っと考えようよ・・」なんて思っちゃうんですよね。

 どういうことかというと、《 戦争だとかテロだとか、そ

の他の様々な危険だとか、そういった事なんか何も考えず、

「ぼーーーっ」としていられる状態を“平和”と言う 》と思

うんですけど、それは要するに「ボケてる」状態です。

 ですから、「平和にボケてしまう」のではなくて、「平和

=ボケ」なのであって、ボケていられるぐらいなら、そこに

は平和が実現しているわけです。ところが、その状況を見て

「平和ボケしてる!」と非難する人が現れて来る。

 その人は平和を非難している事になりませんか?

 平和になって、「ぼーーーっ」としていると、「ボケる


な!」と言われる。なら、いつ「ぼーーーっ」とすればいい

のでしょう?「平和はお嫌いですか?」と訊きたくなってし

まいます。



 「じゃぁ、テロの事も、北朝鮮の事も、中国の横暴もどう

でもイイと言うのか!」とか怒鳴られそうですが、私の答え

は二つです。

 「どうでもいい」と

 「考えましょう」です。

と、こんな答えをすると、また怒鳴られます。「答えが二つ

だなんてふざけるな!」と。



 確かに、テロリストも非行国家も、(なにを怯えてるの

か、強欲病なのかは知りませんが)実際に暴力を働いてくる

可能性は有ります。だからと言って「平和ボケだ!」「目を

覚ませ!」なんて言われたら、さっきも書いたように、わた

したちは、いつ「ぼーーーっ」と平和にしていたらいいので

しょう。これでは永久に平和を享受出来ないですよね?

 だから、まずは「どうでもいいや」と平和になってみたい

んです。そのうえで考えてみる。そして「防衛」だけではな

くて、「先制攻撃」も考える。

 もちろん「先制攻撃」と言っても、ひとつの「情報戦」で

す。

 たとえば「あんたたちも、非難や威嚇ばっかりしてない

で、うちらと同じ様に『ぼーーーっ』と平和にしません?」

なんていう外交は無理なのか? 

 そんな外交は人類史上一度もないでしょうが「日本が初め

やってみりゃいいじゃん」なんて思うんですけど。

 その一方で、「この国を守りたい」という志を持つ人達に

は、しっかりとした支援をして、準備をしてもらう。もちろ

ん、深い敬意を持って。

 「都合のイイこと言うな!」と怒られそうですが、「戦争

は最後の外交手段」といわれるように、自衛隊員の為に

際の闘は最後の最後まで避けなければなりません。その為

の「外交手段」として、「平和(ぼーーーっと、してい

る)」を見せびらかす・・・。それによって、世界の世論を

動かす・・・。

 「オレたちも、ぼーーーっと、しょうか・・・」という方

向へ・・・。


 世界中で人々が妄想して、興奮して前のめりに動いてる。

テロリストも非行国家もそうですけど、他の国やビジネスの

世界もそうですよね(だからビジネスと紛争がすぐ結びつ

く)。

 だから、その興奮をなだめてあげてはどうか?

 「一緒にぼーーーっとしょうよ」というアプローチに力は

無いのだろうか? やってみたら?



 戦争や紛争というものは、基本的に縄張り争いですが、そ

なことやってるのがバカらしく思えてくるような “「ぼー

ーーっ」と平和な気分” を発信する。

 「えっ?なんでぼーーーっとしないの? 何が不安なの?

を怖れてるの?そんなの妄想じゃない? 世界はまだ滅び

ていないよ? なんでのんびりしないの? 今やってる事がホ

ントウに必要なの?」

 そんなメッセージを、日本から世界へ向けて「ぼーーー

っ」と発信する。



 「そんなの絵空事だ。ふざけてる!」



 そう言われそうですが、その通りでしょう。

 こんな事ほんとにやったって、テロは続くだろうし、非行

国家は相変わらずでしょう。でも、テロリストや非行国家を

力で無くす事も出来ないと思いますけど? 

 一つを潰せたとしても、また別のが湧いてくる。
 
 そこは、相変わらず “力の論理の世界” ですからね。

 だから、それも絵空事ですよ。


 だったら、どうせ絵空事なら面白い方がイイ。

 勝手に平和になって、のんびり・ゆったり・ぼーーーっと

して、テロリストが銃を構えて現れたら、「まぁ、一杯飲め

や」と酒でもふるまう(すぐ殺されるでしょうね)。そんな

ふうに過ごす。



 だってね、平和に生きられないんなら、わたしたちは何の

為に生きてるんですか? 何度も言いますが、平和になって

ぼーーーっとしていてはいけないなら、いつ平和が来るので

すか? それこそ「ふざけんじゃないよ!」といいたくなり

ますね。

 人の世界が、平和を望みながら、平和になったら “平和” 

非難する。そんな世界なら、人がそんな事を続けるのな

ら、もう人類は滅んだらイイんじゃない? 生き続ける価値

はないよ。

 「戦争ハンターイ!」と言うより、

 「平和さんせーい!」と言っときましょうか?


 (問題の多い文章だねぇ。「オマエみたいなのは、真っ先

に殺されるよ」と言われるのは確実だし、実際そうなること

だろう。「非国民」と見なされてリンチにあうかもしれない

しね。ひとまず「平和とは、ボケるもの」だいう見方を示

せたら、それで良しとしておこう。他に誰も言ってくれない

からね。ただ、一言付け加えておこう。これを読んで本気で

怒り狂う人は、「国を守りたい」のではなくて、「戦争がし

たいだけ」でしょうよ)




2017年3月18日土曜日

なぜ人を殺してはいけないか?



 「なぜ人を殺してはいけないか?」

《 人を殺してはいけないのは、それが人が人として

   安心して生きてゆく為の、最初の約束だから 》

  
 「なぜ人を殺してはいけないの?」

 そう問われて、納得のいく答えを出来る人は、ほとんどい

ない様です。 大抵は道徳的な答えに留まっていたりして、

本質を突く答えになっていないですね。

 私が思うに、人を殺してはいけないのは、それが人として

の最初の約束事だからです。(約束と言っても、暗黙の了解

で、不文律としてですけど)

 人は人と交わらなければ生きて行けません。太古の昔か

ら、人と人は共同することで生き延びて来ました。誰も一人

では生きて行けません。生まれてきたら、周りの人間から生

き方を学ばなくては、生きて行けません。生まれた時からラ

ンボーみたいな人間はいませんよね? 人は人の手を借り

て、はじめて生きられるんです。

 誰が、いつ、どこで、誰を殺してもいいのなら、人は人と

交わって生きてなんか行けません。いつ殺されるかしれない

状況で、どうやって人と交わることができます?人を殺して


いいのなら、共同体は維持できません。共同体がなけれ

ば、人は生きられません。だから人を殺してはいけないので

す。

 道徳的な理由ではありません。共同体の秩序を維持する為

です。

 「人は人を殺してはいけない」

 まず、その約束事があってはじめて、人と人とが共同生活

を始める事が出来るんです。


 「じゃあ、死刑はどうなるんだ?人が人を殺してるじゃな

いか?」。そんなことを言う人もいるでしょうが、共同体の

成員を殺した者は、もう共同体の一員とは認められません。

つまり、その共同体の中では “人” では無くなってしまうので

す。ですから、死刑にしても “人” を殺したことにはならない

んです。

 詭弁ですか?

 でも、死刑の論理はそういう事だと思いますよ。

 私は死刑に賛成ではありませんが、死刑が存在するのは人

間社会の自然な成り行きではある、と思います。そして、経

済的な側面もあるでしょう。

 人を殺す様な人間を、共同体の中に置いておく訳にはいき

ません。でも、終身刑にして生かしておくには、共同体に余

裕が必要です。殺人者を生かしておく為に、普通の共同体員

が飢えては話になりません。そうなると、殺してしまえとい

う事になります。では、なぜ裕福な国である日本で、死刑制

度が存続しているんでしょうか?

 気分でしょうねぇ。

 「凶悪殺人犯=死刑」という論理的な整合性は有りません

から、死刑は日本人の心情には合うのでしょう。

 一方、ヨーロッパ諸国では死刑制度は在りません。意識的

にか、無意識的にか分かりませんが、宗教的な理由があるの

かな?と思います。(余談ですが、死刑が無い一方で、犯罪

現場では、けっこう犯人を殺害しています。このあたりの事

は、ウィキペディアの『世界の死刑制度の現状』を見て、気

付きました。)

 私は「死刑制度が在ることには、賛成ではない」と書きま

したが、それを望む人が居ることは仕方がないと思っていま

す。

 なぜなら、家族を殺されたりして犯人の死刑を望む人を説

得する言葉を、私は持たないからです。(無いこともないの

ですが、受け入れてもらえる可能性はほとんどないです。タ

イミングが合うかどうかですね)

 ですから、死刑制度には反対ですが、認めます。ただし、

「条件付きで」です。

 その条件とは、“死刑の執行を刑務官に行わせない”という

ものです。

 日本では死刑執行のボタンを、刑務官が押します。五人で

五つのボタンを同時に押して、誰が本当の執行ボタンを押し

たのか分からないようにして、精神面の配慮をしていると聞

きますが、それでも、そのストレスは相当なものでしょう。

一公務員である刑務官に、その様な重い仕事をさせていいと

は思えません。日本には、“人を殺す仕事” は他に存在しない

のです。

 自衛隊員が任務として、人を殺した事は無い(と記憶して

いますが)。警官も凶悪な人質事件などでは、犯人を殺害す

ることは有りましたが、止むを得ぬ場合の結果であり、それ

が目的ではない。可能な限り、犯罪者は生かして捕らえて、

司法の裁きを受けさせるのが、日本の警察の姿勢です。

 そのような日本のなかで、刑務官だけが人を殺す仕事をし

なければならない。彼らは、普通の人です。それが、ある日

死刑を執行して、家に帰り、妻や子供と顔を合わせる・・。

そんなこと、させていいんですか? 一公務員ですよ?

 私は、死刑の執行ボタンは、死刑を求刑した検察官に押さ

せるべきだと思います。あるいは、被害者の家族や関係者

で、自分の手で死刑の執行ボタンを押したいという者に。

 「被害者の家族にボタンを押させるなんて、そんなヒドイ

ことを考えるなんて・・・」

 そんな声も聞こえてきそうですが、普通の人であって、本

来は事件と無関係な刑務官にボタンを押させるのは、もっと

ヒドイと思うのです。

 そして、もし誰も「ボタンを押す意思が無い」「ボタンを

押せない」場合は、死刑を取り消し、終身刑に変更すればよ

い。そんな風に考えるんですが、どうでしょう?




 

2017年3月15日水曜日

未来は無い。

    《 未来は無い 》


 「何を言ってんだ?」 そう思ってません?

 未来は無いんです。未来が来たためしはありません。

わたしたちには、今しか存在しません。未来はわたしたち

の頭の中にしか存在していません。

 この「未来は無い」という言葉は、私が最近一番よく使っ

ている言葉です。

 夜、布団にもぐり込んで目を閉じると、ほとんど自動的に

アタマがさまざまな事を考え始めます。今日あった事、これ

から起こりそうな事、ずっとずっと昔にあった出来事、ひと

に話したら精神を疑われそうな想像などなど。そのほとんど

は、考えてもしょうがない事や、考えない方が良い事で、ネ

ガティブな思考のループにはまってしまうと、睡眠不足や精

神的ストレスで健康を害します。

 こういった事は、就寝時だけではなく、起きている時でも

アタマはやっていますよね。仕事中によそごとを考えていた

り。そういう“アタマのひとり遊び”(「エゴ・ワーク」とで

も呼びましょうか)を放ったらかしにしていると、ロクなこ

とになりません。 そんなときに「未来は無い」という言葉

は、とても役に立ちます。

 アタマがひとり遊びを始めるのは止められないと思います

が、アタマが勝手に動き始めている事に気付いたら、「未来

は無い」と心の中で呟きます。すると、面白い事が起こりま

す。就寝時など、目を閉じている時に「未来は無い」と呟く

と、その瞬間に、上を向いていた眼球がスッと降りてきて、

正面を向く位置に来ます。まるで、今現在を見据えようとす

るかの様です。何度やっても、自然とそうなります。そして

ざわついていた気持ちが静かになります。心と体が連動して

いるんですね。

 前に「もう存在しない過去が、唯一存在している現在を喰

ってしまう」と書いたことがありますが、未来も現在を喰っ

てしまいます。わたしたちには現在しかないので、その現在

を喰われてしまうと何も無くなってしまいますね。だから、

わたしたちは常に不安と不満を抱えていることになるんだと

思います。

 この頃私は、「未来は無い」と呪文の様に呟いているんで

すが、面白い事に未来がアタマから消えると、過去もアタマ

から消えるんです。このことで「過去」と「未来」がセット

になっている事が体感できます。未来の事を考えるには、過

去が必要です。過去に立脚しなければ、未来を考えることは

出来ません。過去にまったく無関係な未来を考えることがで

きますか? 論理的に無理なんです。アタマが考える未来は

脚色された過去でしかありません。ですから未来を否定する

と、同時に過去も消えるんです。そして、今が広がります。

自分が、世界が、広がっていることを感じられます。心が落

ち着き、安心が満ちてくるのが感じられます。

 わたしたちには、過去を否定することは難しい。今現在、

過去が存在していないのは確かですが、記憶が残っているの

で、否定しにくいのですね。でも、未来はわたしたちが考え

ない限り存在しないので、簡単に否定できます。ですから、

想い出したくない過去がアタマを占めてしまった時は、「未

来は無い」と呟くことで、過去も消すことが出来ます。

 「未来は無い」と呟いて、是非、今に安らいで下さい。

 「でも、未来の事を何も考えなかったら、この先ムチャク

チャになっちゃうんじゃない?」

 そう思うでしょうけど、どうせ考えた通りの未来なんて来

ないでしょ? ホントの未来は勝手にやって来ます。

 (でも、仕事の準備だとか、具体的な生活の事なんかは

 別の話です。例えば、借金を返すにはお金を準備しなけれ

 ばならないのは当然ですが、「準備できなかったらどうし

 よう」と考えるのはムダですね。「準備できなかったらど

 うしよう」という未来は消してください。)




 そういえば、聖書に「明日のことを思い患うな・・・・」

(「煩う」だったかな?)という言葉があったと思うけど、

「思うな」「考えるな」と言っても、なかなか難しい。でも

「未来は無い」と言うと、シャッターが下りるみたいに「ス

パーン」と切れる感覚があるので、やり易いと思う。だって

アタマが考える未来がやって来ることは、ほぼ無いですか 

ら、実際に無いものを「無い」と言うのは簡単です。

 未来はありません。

 良かったですね!




2017年3月14日火曜日

戦争法案ハンターイ!



 以前、ある駅前で「戦争法案ハンターイ!」「愛する息子

や孫を戦場におくるな!」とか言いながら、署名活動をして

いる婦人団体に出くわして、「その『愛する息子や孫』って

いうのが曲者なんだよなぁ」などと呟きながら通りすぎまし

た。


 もちろん、わたしも戦争には反対ですが、反対の理由に

『愛』が出てくると、「ちょっとマズイなぁ」と思っちゃう

んです。

 なぜかというと、普通にわたしたちが口にする『愛』には

色濃く執着が詰まっているからです。

 『愛する息子や孫』が、もしも他国の国家的な暴力で命を

奪われたら、果たして理性的にいられるか?

 『愛する』が故に、なおのこと憎しみが増し、報復を望ま

ずには居られないのではないでしょうか?

 自分の国の人間が他国に殺されたら、それが見知らぬ人で

あっても、「許せない!」「報復しろ!」ぐらいのことはす

ぐに言い出しかねないのが、わたしたち人間だと思いますけ

ど? そう思いません?

 それが『愛するひと』だったら、「自分で殺しに行く」な

んてことまで言い出しそうです。

 『愛』などという言葉・感情を、深く捉えもせず、戦争と

いうやっかいな人間の営みを考える足掛かりにするのは、甘

すぎると思うんですけどねぇ。


 私の心の中には、悪魔が眠っています。今、たまたま大人

しくしているだけで、キッカケがあれば、何を仕出かすかわ

かったものではありません。運よく、こんなブログを気楽に

書いていますが、とっくの昔に人殺しでもやらかして、刑務

所に入っていても不思議ではないんです。

 べつに私は犯罪者気質ではないですよ。自分で言うのも何

ですが、職場でも家庭でもご近所でも、優しいイイ人で通っ

てます。警察のお世話になったこともありません。でも、私

の中にある悪魔性を認識しているんです。そして、それは誰

にでもあると思っています。ひとは状況次第で何を仕出かす

か分からないものだと。


 《 悪魔でもその目的の為に、聖書を引用することが

   出来る 》
 

 そう言ったのは誰だったのか?忘れましたが、『愛』とか

『正義』なんて言葉を、悪魔は大好きです。そういった言葉

に関わると、ひとは理性を失い易いから。

 ところが、「愛する息子や孫を、戦場におくるな!」の御

婦人方は、自分の中に悪魔が眠っているなんて、きっと、考

えたことも無いと思うんですよね。 そこが悪魔の思うツボ

で、ひとは自分で気付いていないことはコントロールできま

せんから、いつのまにか「戦争ハンターイ!」が「アイツら

を許すなー!」になっていても驚くに足りません。

 ほんとうに恐ろしい事は、善意の中に隠れていたりします

からね。  ホント、私は自分が怖いです。

 「どうか、私が恐ろしい事を仕出かしませんように。」

 ・・・・・・・。

 

 

 

2017年3月13日月曜日

自分をずらす



  《 自分の世界の中心に、自分を置かない。

   自分を中心からずらせば、自分の世界(人生)が

   他人事になって、どんな問題もストレートに

   自分にぶつかって来ないので、とても楽になる 》


 世界は自分の為に有るのではない。そんな事は誰でも判っ

ている。判ってはいるのだが、誰でも自分の目で世界を見て

いるので、どうしても自分中心に世界を見てしまう。そして

、当然
ながら、だれもが自分を中心に世界をみているの

で、極端に言えば、この地球の上で70億の世界がせめぎ合

っている。その結果、世界は70億に分裂し、お互いを中心


からはじき出し合う椅子取りゲームが続くことになる。


 でも、丸い地球の上で中心などあるわけがない。中心は

人々の妄想(思考)の中にある。どれだけ我を張って人を

押しのけ、先を争っても、辿り着くべきゴールは無いので、

そのゲームにも終りは無い。世界中で無数の人々の果てしな

い闘争が続く。忙しくって、疲れるだけだと私なんぞは思っ

てしまうのだが。でも、まぁ、疲れるだけならまだいいんだ

けど、それだけでは済まないでしょ?ケンカになってケガを

したり、ストレスなんかで病気になったり、恨み・僻み・嫉

妬・逆ギレ・・・挙句の果てに殺し合い。まったく、正気じ

ゃないよね。



 なんで、自分が中心じゃないといけないんでしょう?


 「わたしは、そんなこと思ってませんよ」
 

 そうですよね。そう思いますよね。私も、あなたも、ドナ

ルド・トランプでもプーチンでもないし・・。


 でもね、やっぱりわたしたちは、自分が中心だと思ってい

るんですよ。

 トランプも、プーチンも、実際に関わる人間の数は、わた

したちとあまり変わらないはずです。その小さな世界の中

で、わたしたち同様、一つのからだで、一日は24時間で、

そう代わり映えのしない脳みそを使って生きています。自分

が国を動かしているつもりでも、支援団体の顔色を窺わなけ

ればならないし、自分が放った矢が、地球を一周して自分の

後頭部に刺さったり、所詮はひとりの人間なんです。わたし

たちより目立つだけで、わたしたちより、さらに妄想が激し

いだけです。そんな彼らとわたしちに本質的な違いは無い。

 わたしたちは、目立たない市井の人間ですが、トランプと

たいして変わらない数の人間関係の中で、自分の中心を保っ

て、バランスを取ろうと必死です。



 バランスと書きましたが、わたしたちが世界の中心に居た

いのは、そのバランスのせいです。中心とは、文字通りバラ

ンスのとれる真ん中のことですね。中心に居るから、この世

界で安定をとれるんです。



 「中心、中心って、僕は人と話すのが苦手なので、みんな

の端っこに居るのが楽なんだ」なんて言う人もいると思うん

ですが、それは自分の中のバランスが偏っているので、それ

に合わせたバランスのとり方なんだと思います。



 今、「バランスが偏っている」と書いたんですが、偏っ

ているのは、世の中のバランスと較べてという意味です。

 世の中で出来上がっている(ように見える)、既成の枠組

みのバランスのとり方に上手く合わせられないので、自分は

変なポジションに立っている様に感じてしまう。確かに「変

なところに居る人だなぁ」と見る人もいるでしょう。でも、

「変なところに居る人だなぁ」という視線をひとに向ける人

も、自分とは違う立ち位置にいるひとが立っているその場所

を、「変なところ」と設定することで、自分の立ち位置を

「変じゃないところ」と捉えてバランスをとろうとしている

のです。(こういう人が数人集まると、「いじめ」が発生し

ます。「いじめ」は自分の不安定感を抱えきれない人の、幼

稚な「不安定感解消法」です)



 だから、ホントはどちらも、中心にいる感覚はもっていな

い。

 ひとを「変なところにいる人だなぁ」と見る人は、自分が

中心にいると感じているでしょうが、本当は確信が持てなく

て、無意識な不安を抱えている。だって、この世界には中心

なんて無いんだから、誰一人として確信なんて持てるはずが

ない。もし「自分は世界の中心にいる」という確信を持って

いる者がいたら、それは“原理主義者”でしょう。

 原理主義者になるぐらいなら、世の中の端っこで、居心地

の悪さを感じている方がマシじゃないですか?


 で、原理主義者になれないわたしたちは、世界の中心には

居ないわけですが、依然として自分の世界の中心には居て、

自分の世界に侵入して来る他者と、対峙しなければなりませ

ん。ところが、バランスが崩れるのが怖くて、中心に居続け

ようとするので、誰かが自分の中心に向かって来ると衝突し

てしまいます。そして、いざこざが起こります。



 中心から退いちゃえばいいんですよ。どうせ中心なんて無

いんだから。「自分」なんて“世の中のお約束の価値観”が、

自分の中に集まって出来上がったものでしかなく、便宜的な

必要性しかないんだから。

 誰かが自分に向かって来たら、「分身の術」よろしく、中

心には影を残して、本体の自分は「すっと」横にずれる。そ

んなイメージで、自分をずらす。「柳に風」という言葉もあ

りますね。さらに言えば、始めっから自分を中心に置かない

様にする。「自分なんて、何でもない」。「自分はこう」と

決めない様にする。そうすると、人が向かって来てもぶつか

らない。



 「でも、そんな風にしていると、自分が無くなっちゃわな

い?」

 無くなりません。

 もともと無いんですから。思い込みですから。

 わたしたちは脊椎動物だからいけないのかな?つい、中心

を持ってしまうクセがあるようです。

 でも心理的にはアメーバみたいなものです。ホントは決ま

った形はない。そう気付いているのがいいと思いますよ。

 楽になりますよ。

 (あくまで心理的、意識の問題です。クルマが向かって来

たら避けてください。)

 

2017年3月11日土曜日

3.11

 今日は、東日本大震災から丸6年。

 あの日、仕事から帰った私は、テレビに映し出される津波

や火災などの映像に釘づけになり、ほどなくこう思った。

「・・・これは日本人の考え方を変えてしまうぞ・・・」

実際、災害は他人事ではないと、多くの人は今も感じている

だろう。しかし、残念ながら変わったのはその程度だった様

だ。もっと人間の本質的な部分を揺さぶった出来事だったは

ずなのに。

 なにもかもが呑み込まれてゆく、あの津波の映像を見た時

誰もが無常感(「無情」ではない)を持ったことだろう。

「この世界は、わたしたちの思い通りになるものではない」

そう感じざるを得ない、人類が今だかって見た事がない、強

烈な映像だった。

 そしてわたしたちは、人の営みの儚さに目覚め、改めて本

的な幸福を探し始めるだろうと。震災直後にはそんな声も

よく聞いたものだった。

 しかし、そうはならなかった。月日が経つにつれて、人々

は過去の自分に返って行った。被災者は元の暮らしを求め、

被災しなかった人々は、より安心で安全で快適な暮らしを求

め始めた。暮らしをサイズダウンすることでゆとりを持ち、

もしも大きな変化に見舞われた時には、身軽に対応出来る様

には進まなかった。一時はそう思ったように見えたが・・。

 その流れは意外でもあったし、「やっぱり」という感じで

もあった。世の中が根底から変わる、とてつもなく大きなチ

ャンスだったが・・・。(反原発なんていう狭い意味のこと

だけではなくて)

 わたしたちが得たものは必ず失われる。物だけではなく、

友達も、家族も、自分の命も、自分の世界も。

 無常の現実の中で、どう生きるのか?

 何を価値あるものとするのか?

 災害はまたやって来る。災害に限らず、望まぬ出来事は無

情に訪れる。わたしにも、あなたにも、何度でも。

 どうする?

  「災難に逢う時節には、災難に逢うがよろしく候

   死ぬ時節には、死ぬがよろしく候

   これはこれ災難を逃れる妙法にて候」
 
                     良寛

 もちろん、私も災難を望んではいないが・・・。

2017年3月9日木曜日

自由意志

  《 聞きたくないでしょうが

     自由意志というものはありません 》 


 「わたしたちには、自由意志などない」なんて、生きてい

るのが虚しくなるようなことを、何の為に言わなければいけ

ないんだ。そう思う人の方が多いのではないでしょうか。

 何の為に?

 気楽に生きる為です。

 わたしたちには自由意思はなく、ただ動かされ、思わされ

ているだけで、すべては必然です。

 自分も人も、すべての個人も国も、どのような集団も、し

かたなく、そのあるがままに在って、良いことも悪いことも

強さも弱さも、情けなさも気高さも、わたしたちの生み出す

ものではなく、ただ、わたしたちを通して現れて来るだけで

す。

 驕ることも、自己嫌悪することも、羨むことも、卑下する

ことも、嘲笑うことも、憐れむことも、個人の成果も、罪も

どんな事も、人の世の中での便宜的な意味しか持ちません。

わたしたちも、出来事のひとつにすぎない。

 すべてが在るがままで、そう在るしかない。わたしたちの

働きではない。わたしたちも、出来事のひとつにすぎない。

 だったら、自分の在るがままを肯定しちゃえば良い。今、

実際そうなんだし・・。(肯定出来るか、出来ないかも、あ

なたの必然ですが・・・)

 でも、その時自分を肯定する自分は、いったい誰なのか?

 この話を続ければ、終りがありません。合わせ鏡の中に、

無限にあらわれる鏡像のように、果てしなく続く否定と肯定

の繰り返し・・・・・。はて?どこが気楽なんでしょう?

かえって、矛盾の中で苦しみそうな気もしますが。

 要するに、考えても仕方ないので、考える必要はないとい

うことです。

 今、自分を肯定出来るのであれば、そういう働きが来てい

るわけなので(このブログを読んでいることもそうです)、

そのまま肯定すればよい。その流れに乗って行けばよい。

 肯定していいんです。

 自分で考える必要はない。

 考えたつもりで、考えさせられているだけだし。

 「しあわせとは機嫌が良いこと」と前に書きましたが、

 「しあわせとは自分を肯定出来ること」

でもあるんです。

  誰でも、何の条件も無く、何も考えず、自分を肯定してい

いんです。肯定してはいけない理由など無いんです。

 そして、世界がどんなに醜く、愚かに見えたとしても、わ

たしたちの世界は、今ある世界しかないのですから、今その

まま受け取るしかないのです。今、実際そうなっているのだ

し。

 世界がバカげているのは、あなたのせいではありません。

無責任でいいんです。

 「無責任でいいなんて言ったら、皆がムチャクチャをやり

だして、大変な事になる」なんて思ったりするでしょうが、

“自分は考えさせられ、動かされているだけ、世界のことな

んて知らないよ”ってことになれば、もうそこにはエゴが無

くなっていて、かえって落ち着いてしまうんです。余計な事

をしなくなっちゃうんです。

 だから心配は要りません。

 あなたも、私も、誰もかれも、そんな風な思いで生きられ

る様に動かされていけばいいんですが・・・。望み薄ですね

ぇ。(笑)

 おあいにくさま。

 



2017年3月6日月曜日

グリコのおまけ


 《 人生はグリコのキャラメルのようなもの

  オマケに気を取られて、本体を味わう人は少ない 》


 グリコのキャラメルを食べたことがありますか?

 大抵の人は食べた事があるとおもうんですが、キャラメ

ルの味を思い出せますか? 私は全然思い出せないんで

す(もっとも、オマケも思い出せませんが)。 森永のキャ

ラメルや、グリコのアーモンドキャラメルの味は覚えている

のですが、グリコのキャラメルの味は覚えていません。

 その理由は、キャラメルを買ったら、すぐにオマケを取り

出してオマケで遊んだり、オマケを組み立てたりして、キャ


ラメルを食べなかったり、食べてもオマケに気が行って味わ


っていなかったんだと思います。


 食べずにダメにしてしまったにしても、食べても味わって

いなかったにしても、もったいない話です。

 そんな事を、ある日想い出してこう考えました。

 「人生に似てるなぁ」


 仕事に精を出して結果を出す。

 趣味を楽しんで満足を得る。

 恋に夢中になる。

 スポーツに打ち込む。

 旅行に出かける、冒険の旅をする。

 映画を見る、本を読む、ブログを書く・・・。

 etc...


 こういった全てはオマケでしかないんです、わたしたちが

生きている事の。


 ダメだと言っているわけではないんですよ、結構なことで

す、楽しんで下さい。でも、生きている本質ではない。

 こういったオマケに夢中になっているうちに、わたしたち

はすぐに度を越した事をやり始め、問題を作り出す。

 小さい子がオモチャを散らかしてお母さんに叱られるよう

に、遊ぶのに夢中でしなければならない事を忘れているよう

に、世の中の問題のほとんどは、わたしたちがオマケを優先

してしまうことによって起こる。環境問題なんて、その典型

です。


 先程も書いた様に、オマケを楽しんでいいんです。いいん

ですが、本当はキャラメルを味わうべきなんです。そちらが

本体なんです。

 アタマが夢中になってるオマケはそこそこにして、今 こ

の身体が、自分が、生きているという本体を味わうべきなん

と思います。味わえば甘いのですから。生きるエネルギー

なるのですから。(実際のキャラメルの様に食べ過ぎる心

もないですし)


 「生きている事を味わう」ってどういうことか?

 余計な事は忘れて、「今、ここに在ること」 に引き籠る

こと言ったらいいのでしょうか。最近「マインドフルネ

ス」とうのが流行って来ているみたいですけど、まぁそん

な事でょう。(ただ「マインドフルネス」はオマケで遊ぶ

事を充実させる手段のような用い方をされている様なので、

ちょっと違うと思うけど)


 オマケがキャラメルの上に載っている様に、わたしたちの

アタマ(大脳新皮質)が身体の上に載っているというのは、

意味深です。

 キャラメルは味わうべきです。