2017年4月25日火曜日

手を合わせる意味



 若い頃から、何故だかお寺や仏像が好きで、ちょくちょく


奈良や京都へ出かけます。

 去年も、室生寺・法隆寺・薬師寺・唐招提寺へ、一泊二日

で行きました。

 「静寂と空間は、内省を促す」と云いますが、(「エース

をねらえ!」を読んで憶えました)法隆寺や唐招提寺などに

行くと、それを実感できますね。

 唐招提寺の食堂(じきどう)の縁側に座っていると、自然

と気持ちが静まって来ます。


 その唐招提寺に、去年行った時のことです。

 門をくぐり、正面の金堂の前へ。中には、中央に盧舎那仏

(東大寺の大仏と同じ仏ですね)、向かって左に薬師如来、

右に十一面千手観音、周りに四天王と梵天・帝釈天が安置さ

れています。

 ここの千手観音は、高さが約3メートルの大きな仏で、実

際に手が千本あって、千手観音の中では最も知られた物だろ

うと思います。

 私がここを訪れたのは四回目でしたが、いつも一番のお目

当ては、ここの千手観音でした。

 千手観音は、その千本の手で、衆生をあらゆる苦しみから

救うとされているのですが、私は別に救ってもらいたいと思

って参ったことはありません。これほどの物を作った、昔の

人々の思いの丈を感じられるのが好きなのです。


 今回も、今までと同じ様に手を合わせ、姿を拝見していた

のですが、その千本の手を見た時に、「はっ」と気付いたん

です。「この千本の手は、すべてを救うという意味ではなく

て、『すべて、与えてある(すでに、救ってある)』という

ことなんだ」と。


 “人が生まれ、苦しむこと無く若々しく年をとり(?)、

長生きして、満足して穏やかに死んで行く”、というのを“標

準”にして人生を捉えるために、限りなく苦しみが生まれ

る。

 いくつで死のうが、どんな人生を送ろうが、それぞれに、

それぞれの生であって、そこに良いも悪いも無い。それぞれ

に、それぞれの生が与えてある。ただ、そのまま、受け止め

て生きればよい。そういうことだと。


 だったら、そう生きられるか?ということですが、そう簡

単にいくはずもありません。

 でも、この「気付き」は大きな違いを生みます。

 「救われたい」と想う時、人は仏なり神なり運命なりを、

仰ぎ見ます。しかし、「与えてある(救ってある)」と観じ

時、人は今ある自分と世界を顧みます。まなざしのベクト

ルがまったく違ってしまいます。「(未来を)設定する生き

方」が「(現在を)確認する生き方」へと変わります。

「今。今があって、自分があるじゃないか」と、視線が今へ

向きます。

 
 「偶像崇拝」だとか、「ただの材木や土だ」とか、仏像な

んかに対してざまざまな批判をする人もいます。私も、千手

観音が燃えて無くなってしまったとしても、「それはそれで

嘆き悲しむ程ではない」と思いますが、今回の様な「気付

き」を持てることがあるのを考えると、「内省のための依り

代」として、仏像や寺には大きな価値があって、昔の人たち

の思いと営みに、深い畏敬の念を抱きます。

 
 唐招提寺は大変有名な寺ですし、十一面千手観音は国宝で

もありますが、そういう所や、古い仏像でなければ内省はな

い、という訳でもありません。

 神戸に「須磨寺」(正式には「上野山福祥寺」)というお

寺があります。親のお骨を預かって頂いているので、ちょこ

ちょこお参りするのですが、「源平ゆかりの寺」として有名

な古刹で、たいへん参拝者の多い寺です。歴史は古く、由緒

のある寺ですが、過去の火災などの為か、建物や仏像などの

多くは新しい物です。

 その須磨寺に、二年ほど前にお参りした時の事ですが、い

つもの様に本堂で手を合わせました。今まで、何度となく同

じ様に手を合わせて来たのですが、その時に、突然“手を合

わせる事の意味”が分かったのです。

 手を合わすのは、“対象とひとつになる為”なんだと。


 ご飯を食べる時、わたしたちは手を合わせます。

 食べることで、食物はわたしたちの身体とひとつになりま

す。

 誰かに感謝する時、わたしたちは手を合わせます。

 わたしたちが感謝の思いを持つのは、相手が自分の事の様

に、こちらに思いやりを寄せてくれる時です。

 わたしたちは、対象とひとつになる時、手を合わせます。


 仏に手を合わせるのは、仏とひとつに成るためです。(成

仏ですね) 仏を向こうに置いて、お願いをするためではあ

りません。

 仏とは、世界そのものです。その仏に自分を預けて、仏と

ひとつになることで、世界とひとつとなって“完全”を観じ

。それが「手を合わせる」ということでしょう。


 手を合わせて、その手と手の間に自分を溶かし込んで、世

界の中に自分を消し去ってしまう。

 それが、仏の前で手を合わすことの、望むべき在り方だと

思います。

 自分(エゴ)を仏(世界)の中に溶かし去り、一体と成る

ことで“すべて”を得、千手観音の手が表すように、「すべて

が与えられている」ことを知らされる。

 わたしたちは、途方もない智慧を内に秘めた文化の中で生

きているんだなと思います。

 遥かな昔から、いにしえの人々がその智慧を繋ぐ為に注い

だ思いと営みが、どれほどのものであったかを考えると、畏

敬の念が湧いてくると共に、茫然としてしまいます。

 それこそ、手を合わせるしかありませんね・・・・




 今回は、まともに仏教の話になってしまいました。

 実を言うと、私は“曹洞宗・浄土真宗派・華厳経部会・老

荘研究室”という立場の、仏教者です。

 (怒られるだろうなぁ・・・・・。)









 

 

2017年4月24日月曜日

結婚してもしあわせになる方法 Ⅲ


 《 結婚が何かをしてくれるのではありません

      結婚に何をしてあげられるかなんです 》




 結婚について、以前考えていた事を思い出したので、もう

一回結婚の話を。


 当たり前の話なんですが、結婚しても“結婚”が何かをして

くれるわけではありませんよね。

 “結婚”は言葉に過ぎません。

 結婚しても、そこには一人の男と一人の女が居て、一緒に

暮らしていくだけです。(この頃は「男と男」「女と女」の

組み合わせも有りになってきた様ですが)


 ところが、結婚願望のある人は、「“結婚”が何かをしてく

れる」、あるいは「“結婚”がしあわせにしてくれる」と思っ

ている場合が多いのではないか? 

 そもそも、結婚は人間に向いていませんから、結婚して、

しあわせになるのはなかなか大変です。

 それなのに、わざわざ「結婚したい!」と思うからには、

「結婚は良いものだ」「結婚すればしあわせになれる」と考

えているのでしょう。

 何故、「結婚すればしあわせになれる」と思うのでしょ

う?

 マインドコントロールされているとしか言えませんね。 


 一組の夫婦が(夫夫あるいは婦婦が・・・あ~ぁ!メン

クセー! 男と男。女と女。別にそれでもいいけど、なん

だっていちいち結婚したがるの? 「自由にすべき」だと思

ってるんなら、なんで“結婚”に縛られたがるんだよ? 男と

女の結婚で、充分にメンドウなんですけど?)・・・。


 ・・・え~、一組の夫婦が一緒に生きて行く。そして、し

あわせに暮らして行きたい。それならば、二人でしあわせに

居られる様に努めなければなりません。当たり前のことです

ね。それが、同棲だろうが、共棲だろうが、同居だろうが、

結婚だろうが、二人の人間が良い関係を保ちながら生きて行

こうとするのであれば、お互いがその為に努める必要がある

ことに変わりはありません。ところが、こと“結婚”に限って

は、「しあわせ」が標準装備であるかのような思い込みが、

根強く残っています。


 “結婚”のフタを開けても、“しあわせ”はセットに入ってい

ません!

 “結婚”が何かをしてくれるわけではありません。

 “結婚”は、単なる言葉でしかありません。


 では、“結婚”には何の価値も無いのか?

 価値が無いことはありません。

 一つには、社会が、個人の繁殖活動や、それに伴う経済活

を管理するのに、婚姻制度は便利だ(ホントに便利?)と

うことがあります。


 もう一つには、独身では出来ない、“家族の主催者”になる

という経験(生き方)が出来る、ということがあります。

 独身で生きるという事と、夫婦・家族で生きるというので

は、全く前提条件が違います。もちろん、家族を持つのが良

くて、独身が悪いなどと言うのではありません。それぞれ

に、良いところも悪いところもあります。

 結婚して家族を持つデメリットは、夫婦・親子間で、衝

突・食い違い・その他の問題が起きた時、そう簡単には逃げ

だせない、ということです。独身なら、そもそも問題は起き

ようがありません。


 一方、メリットはと言えば、自分に問題が起きた時に、助

けてもらえる可能性があることですね。独身なら、当然無い

ことですが、友達や親が助けてくれる可能性もあるので、こ

の部分にそれ程大きな差は無いでしょう。

 独身のメリットとして最も大きいのは、言うまでもないで

すが、縛りが無いということですね。片や、結婚は縛りだら

けです。何が嬉しくて、そんな面倒なことに踏み込むのでし

ょう?


 可能性は低いのですが、前に書いた様に、「相手の為に生

きる」ことが出来れば、相手の喜びが自分の喜びとなり、

自分の喜びが相手の喜びとなり、自分の喜びで相手が喜びを

持つと、その喜びがまた自分の喜びになって、「無限の喜び

ループ」が出来ることがあるわけです。

 独身でも、友達との間などで「喜びループ」は可能でしょ

うが、やはり、夫婦・親子の関係と比べると、繋がりの時間

の長さと思い入れの深さは持ち難いでしょう。結婚の縛りの

強さの裏には、繋がりの強さという側面もありますからね。


 「喜びループ」を生み出すのは、並大抵ではありません

が、不満たらたら「しくじったかなぁ・・」と思いつつ、長

い間結婚から逃げ出せずにいると、のっぴきならない大事に

巻き込まれてしまった時に、思いがけず相手との一体感を持

つ事になって、「喜びループ」を体験してしまうことがあり

ます。長く結婚していると、そういうラッキーもあります。

 「昔は大変だったが、今では良かったと思う」と話す御高

齢の夫婦がそこそこ居るのは、そういうラッキーがあった

か、そもそも覚悟があったかでしょうね。


 では、その「喜びループ」を生むにはどうしたら良いか?

 《 結婚に何がしてあげられるか? 》を考えるんです。

 一種のイメージトレーニングというか、結婚に対するイメ

ージを変えるんです。


 普通、“結婚”に対するイメージは「夫婦・家族の周りを

“結婚”が包んでる」といった感じだろうと思います。これ

を、次の様に変えます。

  「夫婦の間に“結婚”という子供ができた」

 という風に考えます。 そして、

  「“結婚”という子供が

  『あなたたち二人の“結婚”になれて良かった!』

   と思ってくれる様な暮らしを、作って行こう!」

 ということを、目標に据えます。

 二人で、良い結婚を作ろう。ということですね。


 結婚が何かをしてくれるわけではありません。

 一組の夫婦が、お互いの為に、良い結婚生活を作って行く

のです。

 「良い結婚生活を作って行こう」というのは、当たり前の

ことですが、その当たり前が、いつにまにか作り上げられた

結婚のイメージの陰に隠れてしまっています。

 
 相手の為に、結婚するのです。

 “結婚”の為に、結婚するのです。

 自分の為に、結婚するのではありません。


 そもそも結婚は人間に向いていませんから、身近に「結婚

します」という者があると、私はこう言います。

 「ひとまずは、“お幸せに”」


(「そんなこと言ったらダメですよっ!」と、二十代の女子

 に怒られましたが。 ハハハ! )




2017年4月22日土曜日

I have a no dream!

 「夢を持とう!」なんてことを言う人が、よくいますね。

 こういうことを言うと嫌われるんですが、「夢」って、ほ

とんど、99.9%、個人の「欲」だと思ってるんですけど。

違いますか?

 個人の欲望を、耳障り良く言い換えたものを「夢」と言っ

ているんでしょ?

 「何してもいいけど、少し申し訳なさそうな、後ろめたそ

うな顔してやった方がいいんじゃないの?」と思っちゃうこ

とが多いんです。

(僻み根性が強いだけかも知れません)




 マーティン・ルーサー・キングが “I have a 

dream!” と言ったのは文句ないですが、自分が個人

的な喜び・楽しみの為にしたいことを「夢」だなんて・・。


 そういう人は “I have a greed!” と叫

んで下さい。(I have a greedy mind

というのが正しいのでしょうが、気分ですから)


 友達に“熱い奴”が居るんですが、昔そいつが「おまえの夢

は、何や?」と聞いてきたので、「夢なんか、見なくなるこ

と」と答えたら、意外なことに、妙に納得してました。

 「夢」なんて言いながら、実は自分自身しっくり来てない

人が大部分なんじゃないのかな? 将来がハッキリしない事

が不安で、「夢」持つというスタイルに頼るのでは?  

 本当にしたい事をしている人は、「夢」がどうのこうの言

わないで、無我夢中でそれに没頭してますよ。(泥沼に"ハ

マってる”のかもしれませんが・・)

 そういう人は、「夢」というより、「やりたい事」を止む

に止まれずにやっているだけでしょう。素直なもんですし、

そうせざるを得ないんですね。

 自分のする事に「夢」なんていうラベルを貼る必要は無い

と思いますけどね。

 「夢を持て」とか「あなたの夢」は、なんてことをやたら

と口にする世の中には、「夢を持たない人に不要なコンプレ

ックスを抱かせたり、夢を持たない人にネガティブな目を向

ける人間を増やしたりするだけなんじゃないの?」という危

惧を感じます。



「夢」を持たない人は、普通に大勢いると思いますし、

「夢」を持つことが必ずしも良い事とは限らないでしょ?

 なんとなく生きて、なんとなく自分の役割を果たして、そ

の他大勢の一人として、一生を終える。そういう人が世の中

の大多数で、そういう人が世の中の基盤を支えているのに、

「夢」を強調するのは、目立つ人間が世の中を作って動かし

ているかの様な錯覚を与え、「夢」に挑んだり「夢」を実現



出来ない人間に、無用な「自己否定」を植え付けかねない。

 誰がどんな夢を持っても構わないけれど、ことさらに世の

中が「夢を持つこと」を煽るのは、なんだかいやらしい。

(共感してもらえなさそう・・・) 



 「夢」の実現は「アグレッシブさ」と切っても切れないも

のだと思います。

 「夢」と呼ばれるような想いは、気を付けていないと、個

人的にも社会的にも大きな問題を生むことがあります。

 「夢」をあんまり高く値踏みしない方がいいのでは?



《 夢を持つ権利はあるが、夢を持つ義務はありません 》



 夢の無い人は、胸を張って「夢なんか無いよ!」と言って

いいんです。



       I have a no dream ! 


 ほんと。オレって、とことん“パッシブ(受動的)”な人間

だよなぁ。(でも、けっこうしあわせに50年以上生きてま

す)




 

少欲知足。省エネよりも、省エゴを!


  《 省エネよりも、省エゴを! 》


 前回のブログは、気が付いたら「少欲知足」の話になって

いましたが、「少欲知足」というのは仏教の言葉です。(良

く知られた言葉なので、ご存じかも知れませんね)

 「少欲知足」は、「欲を少なくして、足ることを知れ」と

いう解釈と、「欲を少なくすると、足りていることを知る

(気付く)」という、二通りの読み方が出来ます。

 どちらかと言えば、前者の「・・・、足ることを知れ」と

いう、努力を促すというか、心構えを教える感じの受け取り

方が一般的なんじゃないかと思うんですが、私は後の方の解

釈が、より本質を衝いていると思います。
 

 “欲”=“エゴ”でしたから、「欲を少なくする」というの

は、「エゴを少なくする」ということになります。そうする

と、「エゴを少なくすると、足りていることを知る」と読み

代えることが出来ます。

 エゴを少なくすると、足りていることに気づくのです。
 

 エゴというのは、本来の自分ではなく、世の中の一部でし

たよね? 世の中の一部を、自分の一部だと思い込んでしま

ってるのが、わたしたち一般の在り方です。

 そのエゴが少なくなると・・、さらに言えば、エゴが無く

なると・・、本来の自分だけが残ります。で、“エゴ”=“欲”

でしたから、本来の自分だけなら欲は無いのです。欲が無け

れば、「足りない」という思いは生まれませんから、「足り

ていることを知る」。つまり満足するわけです。

 「少欲知足」は、本来の自分を取り戻す為の言葉です。

 でも、本来の自分に戻ると、なぜ満足するのでしょう?



 エゴというのは、世の中の一部でしたよね?

 一部でしかないので、不完全なんです。その上、世の中は

人の妄想、あるいは幻想によって出来上がっているもので

す。(もう少しソフトな言い方をすると、約束事によって出

来ています)妄想には根拠がありません。砂上の楼閣と言え

るもので、一時的・一面的なものでしかありません。世の中

は永久に完全になることは無いのです。

 人が、エゴの方に重心を置いて生きれば、永久に不完全な

ままであり、永久に満足はないのです。(“限りないもの 

それは欲望~~”と井上陽水が歌っていましたね)
 
 じゃあ、本来の自分だけなら、なぜ満足なのか?



 人も、自然の一部だからです。

 ここで言う自然は、海や山や森や多くの生き物たち、とい

った地球レベルの事だけではなくて、宇宙レベルのエネルギ

ー(物質)の循環、あるいは共調と言うようなことです。

 物理法則に熱力学第一法則(エネルギー保存の法則)とい

うのがありますね? 宇宙のエネルギーは増えも減りもせ

ず、形(状態)を変えるだけです。宇宙は完結しています。

ただ、揺らいでいるだけです。その揺らぎも、人の都合で時

間と空間を見るから、揺れている様にみえるだけで、宇宙は

法則通りに動いているにすぎません。

 宇宙という完全なものの一部に甘んじていれば、満足でき

るわけです。

 これは、わたしたちの身体とエゴの関係と同じです。身体

は身体のシステム優先です。面白いドラマの途中でも、オシ

ッコを我慢できない時がありますね。ドラマを観たいのは、

わたしたちのエゴの都合でしかありません、エゴの作り出し

たものを優先しようとするから、オシッコを我慢するという

不快が生まれるのです。エゴが無ければ、すぐに気持ちよく

オシッコができます。そして、もちろん身体は宇宙の一部で

すね。


 「アタマ」優先。「エゴ」優先。

 そういう生き方が、わたしたちの習い性になってしまって

いる為に、わたしたちは満たされることがありません。

 時々手に入る快感や興奮でお茶を濁しているだけで、ほん

との満足を知りません。でも、エゴは人間に作り付けなの

で、付き合わざるを得ません。

 意識があれば、エゴは生まれてしまうでしょう。そして、

皮肉なことに意識があるからこそ、ものを考え、学び、宇宙

との一体感などという、とてつもない企てをすることが出来

ます。意識がなければ、他の動物の様に、ただ本能のままに

生きているだけです。(もしかしたら、他の動物は完全な満

足の中で、生き死にを繰り返しているのかも知れませんが)

 エゴと上手に付き合う。そのキーワードが「少欲知足」な

んですね。


 それで、ついでの話なんですが、「環境破壊や戦争やテロ

なんかも、エゴが作り出している」という意味のことを、こ

れまでに書いてきましたが、環境破壊の対策で“省エネ”なん

て言うけれど、もっと根本の“エゴ”をなんとかしないと、省

エネなんて無理でしょう。だから、《 省エゴ 》で。


 と言ってはみたものの、誰かが“省エゴ”にすると、エゴの

強いアグレッシブな奴が、「これ幸い」とパワーアップして

くるので、世界は問題だらけのままなんでしょうねぇ。


 やはり、世界の事は放っといて、“省エゴ”は個人のしあわ

せレベルで行いましょう。私と貴方で。




2017年4月20日木曜日

“過剰”こそ、悪である。

 《 過剰こそ、悪であり、過剰を生むのは欲である 》


 この世の中の問題を生み出す一番の要因は、人間の“アグ

レッシブさ”だと前回書きました。

 ”アグレッシブさ”が人間の持つ“衝動”を外に押し出し、そ

の“衝動”が大きくなればなるほど、問題が大きくなっていき

ます。

 例えば、タバコであれ酒であれ、少しの量を楽しむのであ

れば特に問題にはなりませんが、あまりにも取る量が増えす

ぎると身体を壊してしまいます。それが、たとえ水であって

も、取り過ぎれば問題になります。(一気に水を5Lも飲ま

されれば、具合が悪くなるでしょうね) 

 「過ぎたるは及ばざるがごとし」という言葉もあります

し、どんなものでも、その量が適当であれば「薬」になり、

過ぎれば「毒」となります。「毒」と「薬」があるのではな

くて、その量によって「毒」になったり「薬」になったりす

るわけです。(トリカブトの毒でも、適量なら心臓の薬です

からね)

 人の持つ“衝動”も、外に出なかったり、出ても少しだけな

ら問題にはなりません。それが、ある線を越えてしまうと、

やっかいな事になってきます。“アグレッシブさ”が問題を生

み出します。この“アグレッシブさ”を別の言い方で言うと、

“欲”です。

 そして、“欲”をもう一つ別の言い方にすると、“エゴ(自

我)”です。

 “悪(問題)”を生むのは“欲”であり、“欲”とは“エゴ(自

我)”の別名です。

 何故、“欲”が“エゴ”なのか?

 「エゴ=自我」というのは、OKですよね?

 で、”エゴ”というのは、本来の自分の外側に世の中の干渉

によって出来たもので、世の中の一部です。

 “欲”というものも、本来の自分の外側に世の中が干渉して

生まれるもので、やはり世の中の一部です。

 わたしたちが、普段自分だと思っているものは、“欲”が、

人格であるかの様に振る舞っているものに過ぎません。

 “欲”は元々世の中の一部ですから、世の中と一体であり、

世の中に出て行こうとする性質があります。(出て行くとい

うより、自分でないものを、自分の一部として誤って囲い込

んでいるのですから、留めて置く方が無理なんです)

 ですから、“欲”が強ければ(多ければ)それだけ外に出よ

うとする力が強くなります。より“アグレッシブ”になるんで

すね。

 その結果、より問題を起こし易く、大きくし易くなるので

す。“アグレッシブさ”は“欲”の量とか、“エゴ”の強さと言

えますね。

 《 エゴとは欲であり、エゴとは悪の種である 》

 こう書くと、別に目新しいことでもありませんね。

 わたしたちが、問題の多い人生を送りたくなければ、“エ

ゴ(欲)”を少なくして、世の中の干渉を減らし、本来の自

分を大事にしなければならないでしょう。


 気が付いたら、「少欲知足」の解説になっちゃいました

ね。





  そうそう、今さらですが、ブログタイトルにある「アタ

マ」というのは、“エゴ”のことです。 




アグレッシブの脅威

 《 アグレッシブな人間ほど、困ったものは無い。 》


 世の中には様々な人間がいるし、ひとりの人間の中にも

様々な面があります。普通に考えて良い面や悪い面も。

 まぁ、人に親切なのは良い面でしょうし、暴力的なのは悪

い面でしょう。

 良い面が沢山ある人は“良い人”で、悪い面が沢山ある人が

“悪い人”ということになるんでしょうが、これらが外に出て

こなければ、良いも悪いもありません。無いのと同じです。

 普通、“良い人”と見なされるのは、「他人の為に自分の時

間とエネルギー(お金なんかも含む)を使う人」で、“悪い

人”とされるのは、「自分の為に他人の時間とエネルギーを

奪う人」と言ってよいと思います。

 “良い人”というのは他人優先ですから、謙虚です。人の為

に、自分は後にする。自分の得られるであろうモノを、他人

に譲る人です。(席とか順番とか物とか・・)

 “悪い人”は自分優先ですから、傲慢です。自分が先に立ち

ます。本来なら他人が得られるであろうモノを、力ずくで

(暴力・知力・政治力・経済力・様々な力で)自分のものに

しようとします。

 “良い人”は人に譲る人で、“悪い人”は先に立つ人ですか

ら、“良い人”と“悪い人”が出会うと、当然のことながら“悪

い人”が先に立ちます。競争(取り合い)になれば、“悪い

人”が勝つのが必定です。

 “良い人”と“良い人”が出会うと、譲り合いになります。競

争にはなりません。

 では、“悪い人”と“悪い人”が出会うと? 当たり前です

が、激しい競争になります。

 このことから分かるのは、「“悪い人”が関わらなければ、

競争というものは起きない」ということです。

 競争(取り合い)をするのは“悪い人”で、“良い人”は必ず

負けるということです。そうなるでしょ?

 このように言うと、“良い人”だけが「良い人」と言ってい

るみたいですが・・。(まぁ、仕方ないですね。ハハハ!)

 
 何を言いたいかといいますと、この世の中では前に出て力

を持つのは、ほとんどの場合“悪い人”になってしまう。とい

うことなんです。

 独裁者・悪どい政治家・平気で搾取して巨万の富を得る実

業家・自分たちに都合のいいように情報操作するマスコミな

ど。我先に奪い取って力を得、その力でさらなる力を手に入

れて行く。この世の中では、“良い人”に勝ち目はありませ

ん。

 最近、いろんな国で、トランプ大統領の様に、「この国を

変える!」と極端なメッセージを掲げて人気を得る指導者が

現れているようです。ああいうのは一種の“革命家”と見なさ

れて人気なんでしょうが、革命家は裏切るものです。「歴史

から学んだら?」と思うのですが、「今度は、この人は、違

う!」と思うんでしょうね。

 (ひとつ名言が浮かんだので、忘れないうちに書いておき

ます。

 《 「歴史から学ぶ人間はほとんどいない」

       ということを、私は歴史から学んだ 》  

                 いかがでしょうか?)


 話が脇道にそれました。

 この世の中では“良い人”に勝ち目はないのですが、

では“悪い人”はそんなに悪いのか?

 実は、どんなに悪い面を持っていたとしても、それが外に

出なければ、前に書いた様に「無いのと同じ」です。それ

に、誰でも悪い面を持っています。問題は、それが外に出て

来ることの方にあるんです。仮に悪い面が外に出て来ても、

出方が弱ければ、大した事にはなりません。

 この時の、押し出して来る力。“アグレッシブさ”が問題な

んです。

 悪意があろうが無かろうが、「先に立とう。自分の力を振

るおう」という“アグレッシブさ”が、物事を大きくして、さ

らに過剰にしていきます。

 悪意があることでも、過剰にならなければ大した問題を生

まないのです。

 世界で起こり続ける、経済の右往左往。テロリズム。環境

破壊。受験戦争。ブラック企業と過労死・鬱病。狂っている

としか思えない、エネルギー(資源)を大量に食い潰す娯楽

の数々など。

 これらを引き起こしているのは、人間の“アグレッシブ

さ”です。
 

 アフリカで生まれた人類が世界中に広がり、驚異的に数を

増やしたのは、「生き延びる為に、移動せざるを得なかっ

た」という側面もあるでしょうが、“アグレッシブさ”が一番

の要因だろうと、私は思います。

 それが、良かったか?

 今、私が居るのはその結果なので、何とも言いようがあり

ませんが、わたしたちを不安に陥れる大問題の数々を生み出

すのは、人間の“アグレッシブさ”であるのは、間違いないこ

とだと思います。

 (と、“アグレッシブ”に言いたいところなんですが・・)



2017年4月19日水曜日

人は皆、依存症。

  《 理由を知ろうとすることは

      無限に続く失望と不安です 》


 《 理由を知ろうとすることは、無限に続く失望と不安で

す 》けれど、好奇心を刺激する事柄であるうちは、知ろう

とすることも快楽となります。

 この事が、人間の文化を発展させて来ました。

 私が、今、こうやってブログを書いているのも、人間が好

奇心を持って知ろうとして来た結果と言えます。



 なのですが、好奇心を持って知ろうとする事は、知的な快

楽を求めることで、快楽を求める行為は、けっこう簡単に依

存状態を作り出してしまいます。“知的依存症”と呼べる状態

になるんですね。



 “知的依存症”には、歴史・博物・科学・数学(論理学)・

芸術・言語ループ(おしゃべり・活字中毒)の六つのジャン

ルがありますが(この六つでカバーできると思いますが)。

この中で“芸術”を除く五つは、一言で言うと「ストーリー

(物語)」です。



 人間は「ストーリー」が大好きです。依存症になるぐら

い。 いや、普通の人間は、「ストーリー」に依存しなけれ

ば生きられないと言っても、間違いではないでしょうね。

 人が物を考えるという行為は、「ストーリー」を組み立て

る作業と言えます。



 “「ある条件」のもとで「ある結果」が出る。”

人の思考はすべてこれで、「ストーリー」を作る作業です。

 人が意識を持ち、思考する限り、この依存から逃れること

は出来ません。これからはみ出すことは、即、“狂気”です。

 「ストーリー」の無い話を真顔で話す人がいたら、「この

人、狂ってる・・・」と思いますよね。

 それと、芸術作品には「なんだこれ?」と思わせるものが

沢山ありますよね? “芸術”は知的活動と情動(無意識の衝

動)の狭間で行われる行為なので、「よくわからない。(ス

トーリーが掴めない)」「・・・。(ストーリーが無い)」

ということになるんですね。岡本太郎が「芸術は爆発だ!」

と言ったのは、「芸術はストーリーの破壊だ!」ということ

ですね。だから“芸術”は別なんです。(「良くわかる!」と

いう芸術作品は、“ゴミ”ということですね。一方で「何が何

だかわからない。感動も無い。」という作品は、ただ単に

「狂ってる」だけなのかも・・・)



 人は「ストーリー」がなければ狂気に陥ってしまうので、

「ストーリー」を持てば持つほど(創れば創るほど)、安定

感を持ちます。それは、快感であり、無くてはならないもの

となり、「ストーリー」を持つこと(創ること)を邪魔され

ると、非常に不機嫌になります。自分の話(ストーリー)に

反論されると、腹が立つのはそういうことですね。



 人には、それぞれに「自分のストーリー」があり。それに

依存しているんですが、「ストーリー」を持つこと、つまり

「知ろうとすること」は、快楽(喜び)をもたらす一方で、

違う「ストーリー」を持つ他者との間で、すぐにゴタゴタを

生み出してしまいます。だって「ストーリー」は、”それぞ

れ”なんですから、A氏とB氏では話が合わなくても当たり

前ですよね。ですから「知ろうとすること」は、好奇心を満

たす範囲からたやすくはみ出して、人を(「ストーリー」の

否定による)「失望」や「不安」に導いてしまう事になりま

す。


 「ストーリー」を持たなければ、即、“狂気”だ。と言いま

したが、「ストーリー」を持つことは“依存”ですから、云わ

ば“病気”ですよね。

 “狂気”か“病気”ですよ!

 どうしたもんでしょう?

 でもまぁ、“狂気”より“病気”の方がましでしょうね。
 

 この世の中は、“病気”の人が集まって出来ていることにな

ります。

 それぞれが、それぞれの“依存症”に引き摺られたやり方で

人と関わって、その結果で世の中が動いているので、ろくで

もない事やバカな事が日々繰り返されるんですね。くどいで

すが、ほんとにビョーキです。正気じゃないね。


 「じゃぁ、アンタは『考えるな』と言うのか!」

 そんな、声が聞こえて来そうですが、考えないわけにはい

きませんね。

 《 「考えること」「知ろうとすること」は

         “依存症”であり、“病気”である 》

 ということを、常に意識しながら生きた方が、自分にも世

の中の為にも良いのではないかと・・・・・。
 


( というのが、今回私が組み立てた「ストーリー」です。

 ・・・・・「困ったもんだ」。)


 《 「正しい」とは

  そういうことにしておけば気が済むということ 》

 ホント、面倒くさいね。



2017年4月18日火曜日

知ろうとすることは・・・



  《 すべての出来事はキノコのようなもので

      突然立ち現われて驚かされるが

       気付かぬうちに菌糸が廻っているのだ 》


 わたしたちは、突然の出来事に驚かされることがよくあ

る。プライベートな事でも、社会の出来事や自然災害でも、

「なぜだ!」と声を上げ、あせったり、うろたえたりする。

 彼女に振られたり、ダンナが「離婚したい」と言い出した

り。繁華街で刃物を持った男が暴れ廻ったり、火山の噴火や

地震・竜巻。

 これらの事は、突然わたしたちの身に降りかかって来ま

す。しかし、「突然」に見えるだけで、わたしたちには気付

けないところで、それが起こるプロセスは進んでいるので

す。まるでキノコの菌糸が、土の中や枯れ木の中でいつの間

にか広がり、ある日、蓄えられた養分と温度・湿度の条件が

マッチした時、いっきに伸びて、傘を広げる様に。

 この見えない所で起きているプロセスは、どんなに努力を

しても完全に知ることは出来ません。 言わば、神の領域で

す。

 ところが、そんなにも複雑な事なのにもかかわらず、わた

したちはショッキングな事件が起きると、すぐに原因・理由

を知りたがります。

 殺人事件が起きれば、「動機はなんだ!」とか。

 列車事故でも起きれば、「早急に原因の追究を!]とか騒

いだりする。

 そりゃぁ、調べれば何がしかの答えは得られるでしょう

し、列車事故の場合、部品の欠陥・整備不良なんかが見つか

って、安全性が向上することもあるでしょう。

 しかし、直近の目立つ事柄が原因とされるだけで、その原

因にも、そのまた原因があり、その原因にもさらなる原因が

あって、遡ればキリが無いので、分かりやすいところで打ち

止めとなります。その為、改善したはずなのに、似たような

原因で再び事故が起こります。

 殺人事件などに至っては、犯人に動機を問い正したところ

で、本人にだって表面的な理由しか解らないでしょう。徒労

だとしか思えませんけどね。本人の考えより、それを取り巻

く状況と、生い立ちに目を向けることに力を入れる方が、ま

だマシだと思いますね。
 

 「事件」と言えるような大きな事柄から、日常の些細な事

まで、すべての事は起こるべくして、起こる。

 “天文学的に複雑なドミノ倒し”とでもいうようなもので、

あるピースが、いつ、どの様に倒れるかは、分からないが

です。そして、そのドミノ倒しの始まりは、“天文学的に

~”と言う通り、宇宙が誕生した時です。《世界は惰性で動

いている》と前に書きましたが、すべては必然です。人間に

は、おあいにくさまですが。
 

 すべては必然ですが、その詳細は知るすべもありません。

すべては何故だかハッキリしなくて、わたしたちは不安にな

ります。

 そのままでは居たたまれないので、わたしたちは理由を知

りたがります。しかし、いくら知っても心の底から納得出来

る時は来ません。来るはずがありません。


 《 理由を知ろうとすることは

         無限に続く失望と不安です 》 



オウム的な人




 古い話で恐縮ですが、オウム真理教がらみの話題を・・。

 とは言っても、別にオウムの分析をしょうというのではあ

りません。無差別殺人犯やテロ集団などの、狂信的な反社会

的存在から始まるお話です。

 22年前に地下鉄サリン事件が起きて、オウムのメンバー

が逮捕され、その後オウムは解体されました。今は二つの団

体に分裂して活動しているようですが、再び反社会的な行動

を起こさない様、監視が続いているようですね。

 当時、「こんな集団を野放しにしておいてはいけない」と

慌てて潰しにかかったわけですが、その様子を報道で見なが

ら、私はこんな風に思っていました。

 「まぁ、オウムは潰しておかなければならないけど、オウ

ムを潰したところで、“オウム的”な人間はいなくなるわけじ

ゃぁないからねぇ。興奮して、対処療法的なことで気を済ま

すのは、大人としてはどうなの?」


 “オウムを潰しても、オウム的な人間はいなくならない。”


 この事は、他のどんな出来事にも当てはまることですが、

菌類にしろ植物にしろ、その胞子や種が落ちた所が、生育に

適した場所でなければ決して育ちません。

 人間にも色々な者がいますし、一人の人間の中にも色々な

面があります。つまり、それぞれの種を持っているんです

ね。その種が、その種に適した条件に置かれると、育ち始め

ます。ヨーロッパやアメリカの中で、IS(イスラム国)の

アップした動画なんかを観て、テロを行う人間がいますが、

彼らには元々テロリスト的な資質(種)があって、それが現

在の様々な条件の影響によって、芽を吹き、育ってしまう。

仮に、彼らがインターネットに繋がらない状況にあったら、

条件が揃わず、テロリストにはならないでしょう。

 そのように、どんな出来事であっても、種とそれを育てる

条件(環境)がなければ、起こりません。

 逆に、社会の中にはどんな種でもありますから、条件が揃

えばどんな出来事でもおこります。

 ですから、サリン事件の後オウムを潰しても、日本の中に

は“オウム的”なものを持った人間がけっこうな人数いるはず

ですから、また条件が揃えば、反社会的集団が生まれるでし

ょう。


 わたしたちがしなければならないのは、人間の中にある危

ない種が育つような社会にしないことです。


 わたしたちは皆、程度の差こそあれ、危ない種を持ってい

ます。例外はありません。

 「わたしは、そんな危ない種など持っていません」

 そんなことを言う人間が一番恐い。


 “正義”を掲げた人間が、今までどれほど酷い事を行って来

たかは、歴史を見れば誰にでも明らかな事です。

 「オウム真理教」も世界を良くする為に、邪悪な人間を抹

殺しょうとしてサリンを撒いたのですし、ナチスにとっても

ユダヤ人を殺す事が“正義”だったのですから。

 そのような事をする人間は、カルト教団や独裁者だけにと

どまりません。

 経営者・教育者・科学者・様々な活動家etc・・・。自

分が正しいと疑わない人間は何をしでかすか分かりません。

要するに、原理主義者です。

 世界はあまりにも複雑すぎて、危ない種が育たない環境

(社会)を造ることは出来ません。出来ることがあるとすれ

ば、種が発芽しないような処理をしておく事だけでしょう。

 「自分が絶対正しいということはない」

 という認識を、すべての人間に徹底的に持たせる事が、危

ない種が育たないようにする、唯一の方法だと思います。


 などと言ってみたものの、そんなことは不可能でしょう。

 だって、こんな事を言うと、「『自分が絶対正しいという

ことはない』と思わない奴は、排除しろ!」って叫びだす奴

が、必ず出て来ますからね・・・・・。


 「どうにもなんない」

 それが、世の中に対する、私の評価です。残念ながら。

 どうにかなりますか?


 「世の中をどうにかしなければ」という考え自体が、すで

に“悪魔の罠”の入り口です。(「悪魔でも、その目的の為に

聖書を引用することが出来る」わけですから)

 そういった思考が、ほんのちょっとずれただけで、危ない

種の養分(エネルギー)になってしまいます。

 実は、「ほんとに恐ろしいのは、人間の持つ“アグレッシ

ブさ”なんじゃないか?」と、この頃思っているのです。