2018年3月31日土曜日

桜と水仙



 家の近所でもソメイヨシノが満

開となった。

 普段は花など見もしない人たち

が、この時ばかりは「サク

ラ!サクラ!」と口走る。花好き

の人なら尚の事テンション

が上がったりするのだが、誰もが桜に心

を奪われている間に、静かに姿を消す花

もある。水仙の花・・・。


 冬の間、わたしたちの目を楽しませてくれる花は少ない。

 ビオラやプリムラなどいくつか有るけれど、それらはまだ

もう少しの間人々の目に留まる。けれども水仙は、冬の間静

かな佇まいで花を咲かせ続け、人々の目を楽しませるのだ

が、桜の熱狂の最中に花の時期を終えるので、いつの間にか

消えている。

 「水仙の花が終ったな」と気付いてくれる人は少ない。


 冬の間、“孤軍奮闘” よろしく人を楽しませながら、人に

忘れ去られ、「キレイだったよ」というねぎらいなど受けぬ

ままに消えて行く・・。

 「ちょっと失礼だよな」と、水仙の代わりに呟いてみたり

するのだが、もちろん当の水仙はそんなこと関係が無い。

 水仙の花は、静かにやって来て、静かに去って行く・・。

 冬の寒さの中での、控え目ながらも、その凛とした佇まい

水仙だからこそのものだ。

 自己主張はしない。派手さは無い。けれど、確かに美しく

気品がある。静かに佇む高貴な人のように・・・。


 桜の悪口を言おうとしてるのじゃない。私も桜は好きだ

し、花見もする。桜が目立つのは桜らしいことで、桜の自己

主張でもない。“ただ、桜が桜している” だけのこと。

 水仙が、静かなのは “水仙が水仙している” だけのこと。

 忘れられている内に消えてしまうのも、水仙らしいだけの

ことで、水仙が何か不満を言うわけでもない。けれど、花を

愛でる側の人間から、一言あってもいいんじゃないかという

気がするんです。「綺麗だったよ。また、今度の冬にね。」

というぐらいのことが・・。


 花に限らず、わたしたちは “新しいもの” 、“やって来る

もの” 、“目立つもの” に心を奪われ、それまで自分を喜ば

せ、安らがせ、支えてくれたものを忘れがちなのは、間違い

ないでしょう。

 咲き乱れる桜の足元で、静かに消えて行こうとしている水

仙たちに、そして、水仙のような “人” や “事” たちにも

し思いを寄せる方が、生きることに豊かさをもたらすんじゃ

ないだろうか・・・。
 

 明日は、花見をしようと思う。

 桜と、まだ少し名残りを惜しんでる水仙のどちらにも、

「綺麗だね」と声を掛けよう。 






天上天下唯我独尊

須磨寺『誕生仏』


 「天上天下唯我独尊」

 お釈迦さまは、生まれてすぐに七歩歩いて、そう言った事

になってます。

 こういうのって、究極の知性であるお釈迦さまに、胡散臭

いイメージを付けてしまって、〈贔屓の引き倒し〉になりか

ねないと思うんだけど・・・、「神がかり」にしたいんだな

ぁ。



 理解しきれないから祀り上げて、祀り上げている自分の、

 “見る目” の正しさに酔いたいのでしょうねぇ。

 お釈迦さまにすれば、迷惑で不本意な話でしょうが、やが

てそうなる事は、生前から見越していたはず。だから梵天に

勧められるまで沈黙していたのでしょう。(梵天とは何か?

というのはまた後で)

 でも、語ったからこそ、無用な装飾や脚色に埋もれながら

も、本当の仏縁があった者には、法は伝わった。

 そして、法を受けた者は皆思ったことだろう「天上天下唯

我独尊」。




 写真は、須磨寺万神殿の『誕生仏』です。

 誕生仏は色々見ましたが、この誕生仏が一番好きです。

 新しい物ですし、作者も知りませんが、表情も姿も素晴ら

しいと思います。「天上天下唯我独尊」の深淵さが、よく表

現されていると感じます。



 「天上天下唯我独尊」という言葉の捉え方は、いくつかあ

るでしょうが、「ただ、私だけが尊い」というのは頂けな

い。「この世界で、自分はただひとりだという事が、尊い」

と捉えたいところです。

 それはお釈迦さまのみならず、すべての人、すべての存在

が「唯我独尊」だと・・。「ただひとつの絶対の存在」だと

いうこと。

 天地を指し、世界のすべてに包み込まれている『誕生仏』

は、観る者に語りかける。

 「これは、あなたの姿なんだよ」と。



 私も「唯我独尊」、あなたも「唯我独尊」、誰も彼もが

「唯我独尊」。ひとりひとりすべての人に、すべての存在

に、世界のすべてが与えられていると・・・。




 【〈梵天〉とは、古代インドの神〈ブラフマー〉であり、

万物実存の根源「ブラフマン」を神格化したもの】(ウィキ

ィペディアより)ということですが、要するに “宇宙の〈存

在〉そのもの” “エゴ以外のすべて” “宇宙意識” というよう

なものでしょう。

 お釈迦さまが悟った〈そのもの〉が〈梵天〉で、お釈迦さ

まに教えを説くよう勧めたのは、〈梵天〉自体に、〈エゴ〉

を払おうとする、働き・在り方があるのでしょう。



 そっとしておくと、泥水が自然と澄んで来るように、〈意

識〉においての “濁り” である〈エゴ〉を沈めようとする働

きが存在している。

 それが〈梵天〉であり、それゆえに、お釈迦さまに教えを

説くように勧めた。

 というより、そもそも〈梵天〉がお釈迦さまを悟らせたと

観るべきでしょう。



 「拈華微笑」の話で、お釈迦さまが、摩訶迦葉に教えを託

したように、〈梵天〉がお釈迦さまに教えを託した。そし

て、その〈梵天〉の “働き” は、当然すべての人間に及んで

いるはずです。

 すべての存在、すべての人間が、『天上天下唯我独尊』。

 すべてが『唯我独尊』だから、天上天下が『唯我独尊』。

 個々が、天上天下の一部で、同時に天上天下の全部。

 ただ見ればよい。

 ただ受ければよい。

 ただ沈黙すればよい。

 あれやこれやとしゃべり続けるアタマを少し黙らせて、

 観てみよ!

 聞いてみよ!

 触れてみよ!

 味わってみよ!

 嗅いでみよ! 

 世界に満ちわたる、わたし(梵天)を!

 そなたの中の、わたし(梵天)を!

 天上天下に、唯我独尊!


 宇宙いっぱい隅から隅まで、ひとりひとりの心の底まで、

梵天〉が、ささやき続けている。

 たった一言・・・、「ね!」と・・・。


 (「な!」でも、「ほら!」でもいい。言葉は邪魔になる

  から。言葉以前の世界と自分だから・・・)








2018年3月25日日曜日

「善い人」


 前回のタイトルは《絶対の善。絶対の悪。》

 しかし、そもそも「善」とは何か? 「悪」とは何か?

 広辞苑で【善】を引くと、「正しいこと」などと書いてあ

る・・・。このブログで取り上げる言葉で、私が辞書で調べ

るものは、辞書の製作者が「見て欲しくない」だろうという

言葉ばっかりだ。

 【善】なんて、どう定義すりゃいいのか?



 ・・・・(考え中)・・・・・・
 

 【善】とは、「生命を活かす働き」ということで、どうで

しょう?

 で、【悪】はその逆ということで、「生命を損なう働き」

ということであると・・・。



 ここで言う「生命を活かす」というのは、単に「死を遠ざ

ける」という事ではなくて、「その生命の在り様が、存分に

現れる」といった事を指しています。

 「それが、それである」という事。

 言い換えれば「生命をそのまま肯定する」という事。



 イスラム過激派にとっては、キリスト教徒を殺すことは

「善」。その事をキリスト教徒側から見れば「悪」。

 そんな立場の違いで変わってしまうものではなくて、あら

ゆる人間からしても変わらぬもの、それを〈善〉と呼びた

い。本当の〈善〉と。


 人は誰でも「善」を望み、「悪」を遠ざけたい。

 けれど普通、人は、本当の〈善〉を見い出せないので、

分にとっての「善」にしがみ付く。

 しかし、人が望む「善」は比較においての「善」なので、

人が「善」を見る時、その隣に必ず「悪」を見てしまう。そ

れゆえ、人が「善」に安住する事は出来ない。「善」は

「悪」を伴って来る。

 また、人は「悪」を遠ざけようとするけれど、「悪」を排

除する行為も、「悪」から逃げる行為も、「悪」を強く意識

することになってしまうので、かえって「悪」に関わってし

まい、怒りや不安をもたらす。

 どれほど「善」を望み「悪」を避けようとしても、その

「善」が比較においての「善」である限り、人は「悪」に苦

しめられることになる。


 「善」と「悪」の区別を持つ限り、本当の〈善〉に出会う

ことは無い。

 人は、区別し、比較することから逃れられないが、それに

囚われてしまうと、「善」と「悪」の循環の中で足掻くこと

になる。

 「善」や「悪」は、あくまでも社会で生活してゆく上での

便宜上の指標であって、人の幸福には直接の関係が無いのだ

ということを、しっかりと認識しておく必要がある。

 真に幸福で在る為には、本当の〈善〉に身を置かなければ

ならない。


 「それが、それである」ことの承認。

 「すべてが、存在として自分と変わりはない」という肯

定。

 すべての存在が、わたしたちの都合とは無関係に、それぞ

れに在る。その事実を、わたしたちはすぐに忘れてしまう。

 「自分が世界の中心ではない」

 「世界は自分の為に有るのではない」

 そんな明白な事実が納得できない。

 それと共に、「自分は〈世界以下の存在〉というわけでも

ない」という真実にも気付けない。


 わたしたちの「善」と「悪」は、“エゴのひとり遊び” 

と、それを拡げた “エゴのマスゲーム” のスコアボードに書

き付けられているに過ぎない。しかし、人はそれを見て一喜

一憂する。


 “遊び”・“ゲーム” 以前の存在として、自分が在り、世界

が在る。その「在ること」が〈善〉。

 社会の “ルール”・“約束事” 以前のものとして、すべては

在る。それを認めることが〈善〉。


 社会は「何をするか」、「どう在るか」を問う。

 「何」でも「どう」でもない。ただ「在る」。

 まず、その肯定から始まらなければ、わたしたちはエゴの

ゲームに巻き込まれて、スコアボードの「善・悪」に翻弄さ

れてしまう。


 世界には、「絶対の善」も「絶対の悪」も無い。

 それどころか「善」も「悪」も、カケラすら無い。

 この世界に存在するものの、「絶対性」を知ることこそが

〈善〉である。

 そして、それを知った「存在」が〈善〉である。


 「善い人」とは、「善・悪」の判断を保留する人のことだ

ろうと思う。




2018年3月23日金曜日

絶対の善。絶対の悪。


 ネット上にあふれる言葉や、テレビの中で発せられる言

葉。

 その中には、それがまるで「絶対の善」であるかのように

して、語られるものが少なくない。

 そこにはすでに、間違いようの無い「正しさ」が有って、

それを語る者が、その「正しさ」を微塵も疑っていないとい

う場面に出くわして、何とも気持ちの悪い思いをすることが

ょっちゅうある。

 「考えてしゃべれよ」と毒づきたくなる。



 「絶対の善」

 「絶対の悪」

 そんなものは存在しない。

 善と悪は相対的なものだということは、少し考えれば誰に

でも分かることだけれど、もしも「絶対の善」というものが

存在したら、その「絶対の〈善性〉」ゆえに、その「善」は

またたくまに世界を覆いつくし、世界は「善」だけになって

しまうだろう。

 だって「絶対の善」なんだから、どんな抵抗も受けずに、

すべての「悪」を退け、あらゆるところに行き渡り、世界を

平和と幸福でつつんでしまうだろう。

 けれど、そんなことは起こったことが無い。

 「絶対の善」は存在しない。



 では「絶対の悪」はどうか?

 もしも「絶対の悪」が生まれたら、世界は滅びることだろ

う。しかし、もしかしたら「絶対の悪」が世界を覆い、それ

が唯一のドグマとなって世界は安定するのかも知れない。

(それがどんな「安定」なのかは想像できないが・・・)



 「絶対の善」も「絶対の悪」も存在し得ないがゆえに、世

界は今のように在り続けているし、これからも、そう在り続

けるだろう。



 なんの後ろめたさも気後れも無く、自らの発言を「善」と

し、他者の「悪」を非難する人間の多さには、本当に驚かさ

れる。

 ネット上で匿名で語る者はまだしも、テレビなどで大真面

目に「善」を振りかざす神経には、吐き気すら覚えることが

ある。ホントに気持ち悪い。

 “自らの「善」を疑わないこと” ほどの《悪》は無い。



 そういう単純なことすら分かっていない人間が、テレビの

キャスターやコメンテーターをしていたりするのが、とても

恐ろしい。

 メディアごとにそれぞれの「意見」があってもいい。

 ただし、それを伝える時は、それが「意見」であることを

明確にしなければならない。「意見」を、単なる「ひとつの

情報」に忍ばせてはならない。

 『それがメディアの義務である』というのは、単純な理想

に過ぎなくて、ほとんどのメディアは、自分に都合の良い

「意見」を流すだけでしかない。



 新聞・テレビは「話、三分の一」。

 週刊誌・インターネットは「話、十分の一~百分の一」。

 私は、その程度の「信用度」だと思って見ている。

 事実が「向こうから」伝わって来ることなんて、ほとんど

無いだろうと・・。

 伝わって来るのは、“事実の断片” であったり、“修飾され

た事実” であったりして、真に受けると酷い目に会いかねな

い。

 〈情報リテラシー〉などと言ったりするけれど、結局のと

ころ「まず疑えよ!」ということに過ぎない。

 情報を疑い、自分の〈アタマ〉を疑う。

 言う側も、聴く側も〈アタマ〉が悪いんだということを、

肝に銘じて生きて欲しいものです。
 

 何が「正しい」かなんて、誰も知ってるわけが無い。知り

得ない。

 「正しさ」なんて、ある限定された条件の中でしか成立し

ないものです。

 「1+1=2」

 「1+1」=「2」なのは、〈「1+1」=「2」という

ことにする〉という約束(条件)だからであって、「1+1

=2」という現実があるわけではない。

 この世界には、同じものは二つと存在しない。

 この世界に「1」というものが存在したとしたら、それは

一つしかないので、「1+1」という状況はあり得ない。せ

いぜい「1+1に近いもの」ということぐらいだ。


 「正しさ」という希望を述べるのはいい。

 ただ、“申し訳なさそうにやってもらいたい” と思うけれ

ど、“当然だとばかり” の人間がほとんどなので、ハッキリ

言って、「ムカつく!」(私の「意見」はね)。



 

2018年3月21日水曜日

「どうでもいいな」。


 この頃、テレビを観てもあんまり面白くも無いが、私が物

心付いた時には、もうテレビが有り、テレビの無い生活  

自分の家にということではなくて、世の中に  というもの

が想像できない。テレビもラジオも無い世の中は、いったい

どういうものだろうか? ちょっと、リアルなイメージは持

てないですね。
 

 テレビやラジオ、そしてインターネットの存在価値という

ものは、単なる「情報の共有」「情報の操作」「情報の混

乱」で終わってしまうのか? 

 人間の、本質的で有益な「共感」の伝播に、資することは

出来ずに終わってしまうのだろうか?

 テレビもネットも、その中身のほとんどは、どうでもいい

ことばかりで(このブログがどうなのかは考えない事にす

る)、「これに何の意味がある?」という想いも持つのだけ

れど、実のところ、この世界は基本的に「どうでもいいこ

と」で出来ている。


 私が死のうが生きようが「どうでもいい」だろうし、ハリ

ウッドセレブが何をしようが「どうでもいい」だろうし、何

処かの国家が崩壊しようが「どうでもいい」だろうし、人類

が滅びようが「どうでもいい」だろう。

 「どうでもいい」か、「どうでもよくない」かは、個人の

アタマの中にある執着であって、この世界は、わたしたちに

関係なく変化してゆく。


 悲しいかな、自然の前には、人間は「どうでもいい」(特

別ではない)存在である。その “「どうでもいい」存在” で

ある人間がしていることが、「どうでもいい」ことなのは当

然です。

 人間が、「自分は “どうでもいい存在” である」と考え

事は、普通は虚しい、悔しい・・。けれど、自分を「どう

もいい」と思える事は、福音でもある。

 「自分も、世の中も、どうでもいいんだ」と思えたら(投

げやりではなくてね)、こんなに気が楽で、自由なことはな

い。


 実際に、世界はすべて「どうでもいい」というのが真実で

しょう。善悪や、軽重や、是非といった価値判断をして、わ

たしたちのアタマが、自分の都合で “もったい付けてる” だ

けのことです。

 「人の命」とか、「平和」とか、「自然環境」とか、「教

育」とか、人間が重要としている事がいろいろ有るけれど、

そんなの氷河期の様な、地球規模の環境の激変が起れば消し

飛んでしまう。地球にとったら、人間の思惑など何の意味も

無い。

 人間が、自分達の都合にこだわっている限り、人間は 

“「どうでもいい」存在” のままでしょう。


 だけど、自分の見ているこの世界と、自分自身を、謙虚に

「どうでもいいんだ」と感じられたら、その時には違う意味

が立ち現れて来ると思います。

 自分というものを世界と区別して、自分というものを独立

した存在のように感じていた想いを、「自分はどうでもいい

んだ」と放棄した時、自分が世界と同質のものとなって、

い意味で、世界の中に埋没する。世界とひとつになる。


 世界とひとつになれば、世界の前で “「どうでもいい」存

在” であった自分は、もう無い。

 もうすでに、自分は世界の側に入ってしまっているのだか

ら。


 テレビやラジオ、インターネットなどのメディアは、本当

は「どうでもいいこと」を、大層に、大袈裟に、深刻に、も

っともらしく、もったいぶって流し続けてきたけれど、その

嘘というか「愚行」には、もう付き合わなくてもいい時代が

来ようとしているのかも知れない・・・。



 メディアから流れるのは、人を「考えさせよう」・「動か

そう」とするメッセージばかり。

 それは、一見大切なことのように見えても、「考え・動

く」、そのことこそが問題を大きくしているのだろうと思

う。


 出来事を、「どうでもいいな」と、やわらかく受け止める

ことが、自分にとっても世界にとっても、良いものをもたら


すのだろう。そう思うけどね。



2018年3月20日火曜日

わたしたちの中の「オウム性」


 オウム真理教の起こした「地下鉄サリン事件」から、今日

で23年だという。

 先日は、これらの件で死刑が確定している元信者たちが、

拘置所から移送され、「死刑の執行が行われるのではない

か」という憶測が飛んでいる。それに対して、弁護士などか

ら成る団体が、「死刑の執行は、いまだにオウムの教えを信

仰している人間に、『死刑囚は《殉教者》』のイメージを持

たせることになる。彼らを死刑にせず、自分達の間違いを語

らせるべきだ」と、死刑に反対しているそうな。


 「死刑」是か否か?

 私はどちらでもいいと思っているけれど、以前にもこのブ

ログで書いた様に(『なぜ人を殺してはいけないか?』

2017/3執行するなら、起訴した検察か、死刑を望む

件の関係者に執行させるべきだと考える。刑務官にさせるべ

きじゃあない。


 「彼らを死刑にせず、自分達の間違いを語らせた方が良

い」という死刑反対派の主張に、私は懐疑的ですね。

 彼らが、現在の信者(隠れオウム)に「自分たちは間違っ

ていた」と語ったところで、「言わされているんだ」、「拘

置されている間に洗脳され、あいつらは堕落した!」という

受け取り方をするだけで、信仰(?)を捨てない人間は沢山

いるだろうと思うから。


 信者たちは、この社会の中で溺れ、浅原彰晃の幻影とドグ

マにしがみ付いているんだから、それに代わるものを用意し

てやらなければ、「それにしがみ付いてちゃダメだ!」と言

ったところで、手を離すことは無い。溺れちゃうもの・・。

 「死刑囚の死刑を執行するかどうか」なんて、現在の信者

の信仰心に対してあまり関係ないだろうと思う。(死刑執行

にキレて、反社会性が強まる可能性は、まぁ、あるかもしれ

ないけど)

 小手先の対応をしたところで、〈オウム的な人〉は無くな

らないと思う。社会の持つ、“非人間性” あるいは “人為性” 

とでもいうものを弱めない限り、社会は〈オウム的な人〉を

生み続けるだろう。


 わたしたちのエゴと、その「最大公約数」である、社会の

“善” は、そこに収まり切らない “人の持つ「何か」” を排除

する。けれど、人が社会を構成している限り、それは社会の

中に留まる。そして排除する力の限界に至ると、それは社会

の中心部になだれ込んで来る。
 

 「社会というものは、人が本来持っているものを排除して

成立しているものだ」ということを常に認識して、排除した

もののケアを欠かさぬようにし、同時に「社会が絶対の 

“善” ではない」ことを標榜しなければ、〈オウム的な人〉

に代表される「反社会的な存在」は、必ず生まれる。


 社会の秩序をより高め、安定度の高い「安心で、安全な社

会」になればなるほど、秩序から外れているものの排除はき

つくなる。《安心安全原理主義》は、必然的に、その排除の

ゆえに『反・安心安全原理主義』を生んでしまう。(私の事

か・・、困るなぁ。テロを起こさないようにしなくちゃ)

 存在しているものを無視し、臭いものにフタをしていれ

ば、いずれそれが表沙汰になるのは避けられないでしょう。
 

 わたしたちは面倒なことが嫌いです。

 面倒なことは排除したい。そりゃそうです。

 でも、「在るものは、在る」。

 消すことは出来ない。

 であれば、排除するのではなく、折り合いを付けるしかな

い。排除しても消えて無くならない。


 オウム真理教のしたことが、社会的に許されないのは当然

です。けれどそれは、社会が排除したり、取りこぼしたりし

たものが無秩序に積み上がり、必然的に崩れ落ちて来たとい

うことでしょう。

 何のエクスキューズもなしに社会の周縁に押しやられた者

の怨念が、噴き出したという言い方も出来る。


 社会は、それを嘲笑し、非難し、断罪して良しとするけれ

ども、もしもそれに社会と対抗し得る経済力や軍事力があっ

たなら、社会の方が潰されてしまう。そのことは歴史上何度

も繰り返されてきたことです。


 人は、〈オウム的な人〉を「あいつは異常(おか)しい」

と排除するけれど、それは、わたしたちの中の隠された “部

分” です。わたしたちの中のそれが、いつ共振して動き出さ

ないとも限らない。

 「自分はあんなバカじゃない」とタカをくくっていると、

気が付いたら、そっちの側に入って、社会に潰されそうにな

っているかも知れません。社会を潰そうとしているかもしれ

ません。


 どんな出来事も、他人事で済ませられ続けるとは限りませ

ん。

 わたしたちの中には、小さな他人が居るのですから。




2018年3月18日日曜日

生を明らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり


 道元の有名な言葉に、《生を明らめ死を明らむるは、仏家

一大事の因縁なり》という言葉がある。

 私はこの言葉を「生と死の真実を知ることが、もっとも大

切なのだ」と受け取って来たのだけれど、昨日突然、「単純

に、『生きることも死ぬことも諦めろ』ということだ、と捉

えていいのだ」と思った。


 本質的な受け止め方が変わった訳ではないが、今の自分に

はその方がしっくり来るし、より深く意識の中に入った気が

した。

 『生きることも死ぬことも諦めろ』ということは、「すべ

てを諦めろ」ということになる。「すべて」とは、要するに

〈自分〉ということだ。

 自分の物は何も無い。

 自分の物は何も無いのに、自分の物だと思って動かそうと

するから大事になってしまう。

 人は、他の生き物と変わらず、宇宙のエネルギー循環の中

を動かされているのにもかかわらず、アタマが勝手に “それ

以上の存在” だと思って〈自分〉を生きようとしてしまう。

それがあらゆる苦しみの原因だと。



 わたしたちは、生まれてしまった。生きさせられてしま

い、そして死ぬ。必ず死ぬ。
 

 以前『チェット・ベイカーの絶望』という話を書いた時、

《完全な勝利と、完全な敗北は人を同じ所に連れて行く》

書いた。

 わたしたちは、自分の意志で生まれて来たわけではない。

 わたしたちは、自分の意志とは関係なく死なねばならな

  自殺も自分の意志ではない

 〈自分〉というものは、スタートも終わりも〈自分〉のも

のではない。わたしたちは “完全に敗北している” のだ。

 それを「明らめろ」と。

 それを「認めろ」と・・。

 道元の言葉はそう諭している。



 「仏家一大事の因縁」



 〈自分〉の敗北を認めた時。

 〈自分〉から手を離した時。

 そこが「仏の家」(“仏家” は仏教徒という意味だけど)

であることを知る。

 「わたしは、始めから終わりまで救われているのだ」と。

 「世界は、隅から隅まで救われているんだ」と。



 仏教に限らず、世界には人を救いへ導く言葉が数多く遺さ

れている。

 それらは、単に知識・情報としてではなく、人の意識の中

で触媒として働く。意識を変容させる。

 化学反応の触媒が、温度・圧力・反応させる物質の濃度、

どで効果が変わる様に、“触媒としての言葉” も反応する

識の状況によって、変容の度合いが変わる。

 十年前に何とも思わなかった言葉を改めて聴いた時に、深

い省察を得たりする。(特別な言葉に限らず、言葉でない場

合もある)

 もしも、すべての状況が完全に整った時に、絶妙のタイミ

ングで最適の言葉を聴いたら・・。エゴは粉々に砕けて雲散

霧消する。「生」も「死」も意識から消えてしまい、〈思

考〉の無い《意識》だけがそこに在る。



 『生も死も諦めろ』
 

 《 わたしたちは、始めから終わりまで敗北している 》



 敗北しているから、戦わなくていい。

 一体、何と戦っているのか?
 

 完全な敗北は、完全な勝利となる。

 わたしたちの世界は、不完全な敗北と不完全な勝利に満ち

ている。つまり「あきらめが悪い」のだ。



 話がひと回りしたようだ。



 《生を明らめ死を明むるは、仏家一大事の因縁なり》  



 今回は私の中で、以前とは違う触媒反応を起こしたよう

です。

 でもまだ、意識の中には反応しきれていないエゴがブクブ

クと有害なガスを発生させている・・・。 




2018年3月17日土曜日

親切は結構難しい


 高齢者の介護施設を訪れると、認知症で車椅子に乗

ったお婆さんが、自分にどんな働きをするか知らない

薬を与えられ、飲んでいる。

 食が細くなり、食べ残しが増えると、「もうちょっ

とたべようね」と、介護士がいろいろ策を講じて食べ

させる。 

 手だけ、首だけでもと、ちょっとした運動をさせる

為に誘導する。

 元気で長生きしてもらおうと、考えうる限り管理す

る。

 親切だね。真面目だね。一所懸命だね。いい人達だ

ね。

 でもね…。そうやって管理されて生かされる人生

を、自分の人生としたい人が、どれ位いるのだろう

か?



 「あなたの為です」という言葉の意味も知らぬま

ま、訳も分からず薬を飲む。

 「長生きする為に食べましょう」と勧められて、『

いらない』と感じたご飯を口に運ぶ。

 「嚥下体操しましょう」と言われ、口をパクパクさ

せる。

 “車椅子の九十歳の認知症のお婆さん” が、食べた

い分だけ食べて、分からない薬は飲まず、静かにじっ

と座っていることは、いけないことなのだろうか?

 長生きはそんなに良いことなのだろうか?


 真面目で、一所懸命なのは分かる。しかし、「正し

さ」は人の数だけある。社会における「正しさ」だっ

て、時代で変わる。その「正しさ」をひとりひとりが

自問したことがあるか?



 尊厳死の話に繋がるけれど、「長生き」と「長生か

され」は違うだろう。
 

 個人を尊重するとは、どういうことか?

 時代の常識を当てはめてそれで済むのであれば、苦

労が無さそうだけれど…、いやいや、時代の常識とい

うものは、個人や身体というものを無視して、人を苦

しめることの多いものです。


 私の母は、九十歳で肺ガンの為、3日程苦しんで亡

くなりました。

 私たち家族は、「苦しんだこと」を可哀相に思いま

したが、九十という年齢には不足無く、淡々と見送り

ました。



 




 

2018年3月16日金曜日

テクノロジーに、バンザイ(降参)!


 世界中の何処か、私なんかのあずかり知らぬ所で、

大きなプロジェクトが沢山進められていて、世界が大

きく変わろうとしているらしい。


 けれど、人はこの世界に何ひとつ付け足すことはで

きないし、何ひとつ取り去ることもできません。

 せいぜい、右の物を左にやったり、何かを裏返した

りするだけのことです。

 わたしたちにできることは、世界を味わうことだけ

ですし、それだけがすべきことです。

 あくせくと何かを為す必要などありません。
 

 意図的に何かを為せば為すほど、そこから意図せぬ

ものが生まれ、それに対処するために “しなければな

らないこと” が生まれます。

 右の物を左にやった為にバランスが崩れます。そし

て、わたしたちは崩れたバランスを戻そうとします

が、その行為自体がさらにバランスの崩れを酷くして

しまいます。そのことは、政治、経済、環境問題など

の、人類の歴史に如実に表れています。


 一見、人の幸福に繋がっているように見えること

も、裏へ回ればより大きな不幸を生み出しているもの

です。山を築けば、何処かにその分の穴が出来ます。

それだけならプラスマイナス、ゼロですが、「山を築

く」という労力が、何処かにマイナスを生んでいるは

ずなので、全体ではマイナスになります。

 さらに、築いた山を崩れないように維持するという

労働が派生します。


 わたしたちが、無から有を生み出すことが出来るの

なら、人為によって幸福になることも出来るでしょう

が、わたしたちに出来るのは「右から左へ物を動かす

こと」でしかありません。いずれは無に帰すムダな行

為でしかありませんし、それが人為的であればある程

ムダさ加減も増します。


 そしてわたしたちは人為の極地へ行こうとしていま

す。人間のレベルを超えたAIを生み出そうと躍起で

す。 

 AIは、人為のまださらに先です。

 そして、AIの生み出すものは、その機能と意味によ

って、人間の「意図しない」、いえ「意図できない」

ものです。人間がそれに対処出来るかどうか定かでは

ありせん。そのこと(シンギュラリティ)を心配して

いる科学者も多くいるようです。

 わたしたちのアタマは、人為の生み出す問題を人為

によって解決できず、人為に人為を重ねて、問題を自

らの手に負えないレベルにしてしまい、[超人為]に

なんとかさせようとしているようです。
 

 別にAIを引き合いに出さずとも、「規則」「法律」

などの[超人為]でも、問題解決の為に作ったものに

縛られ、新たな問題を生み出すのは普通です。

 そのままにしておいた方が良いことを、考え過ぎて

いじるから、余計な手間が増えてしまう。

 素直に生まれて、素直に生きて、素直に死んだらい

いのだろうと思うけれど、わたしたちのアタマはそれ

じゃ気に入らないらしい。


 けれど、初めに書いた通り、わたしたちは右から左

へものを動かすだけです。

 子供が、車のオモチャを「ブーブー」と左右に動か

すのと本質的な違いはない。


 AIを生み出して、すべてをそれに任せる夢が叶った

ら、人類は、めでたく保育器の中で「バ〜ブ〜」と寝

ていられるのだろう。





2018年3月13日火曜日

「愛」とは何か?


 「ついに来たか」という感じで、「愛とはなにか?」とい

うことです。

 前回の最後に《愛とは、絶対の「許し」。絶対の「肯

定」》としましたが、それを、こう例えてみたいんです。

 “「愛」とは、エゴの世界に空いたブラックホールのよう

なもの” だと。



 もちろんここで言う〈愛〉は、「恋愛」や「母の愛」とい

った〈執着〉のことではありません。《絶対の「許し」。絶

対の「肯定」》なんですが、それがなぜ「ブラックホール」

なのか?


 世の中は、人々の〈エゴ〉が集まって作られていて、その

空間は〈エゴ〉による「否定」と「要求」で満たされていま

す。そこに〈愛〉が在ると、どう作用するか?


 エゴが「否定」し、「要求」する存在であるのに対し、

〈愛〉は「肯定」し、「求めない」存在です。エゴとは完全

に相反するものです。

 「肯定」し、「求めない」存在とは、ある意味 “無反応” 

な存在です。「否定」されても抗わず、「要求」されても抗

わない(暴力に対してだけは抗います。暴力は存在に対する

『絶対否定』だからです)。それは、他者からの反応によっ

自分の存在をたしかめているエゴにとって、恐るべき存在

す。自分からの働きかけが、すべて虚空に消えてしまい。

自身の存在が不確かにされてしまうからです。

 そのように、エゴにとって〈愛〉はブラックホールのよう

に働きます。


 〈愛〉がそばに在り、エゴがそれに関わると、関わった分

だけエゴの一部は失われます。すると、エゴが失われた分だ

け、その陰に隠れていた、その人本来のものである〈愛〉

が、表に現れて来ます。〈愛〉はすべてのものの “本質” と

して、どこにでも在るものだからです。

 目的を持たないが故に自ら働きかけることは無く、目的を

持たないが故にあらゆるものも拒まない。

 それは白紙の存在であり、空間そのものの在り方で

す。だから「どこにでも在る」のです。


 エゴを持つ事を刷り込まれ、エゴに依って生きることに馴

らされ、エゴの世界で否定し合い、要求し合う毎日に苦悩し

つつ、それより他に「やり方」を知らない・・・。

 そんな存在であるわたしたちが、時折〈愛〉に触れる時、

“「やる」こと” の息苦しさから開放され、安らぎを覚えま

す。〈愛〉は無条件で止まっているからです。エゴが無けれ

ば、わたしたちの意識は止まるからです。安らぐことは、意

識の停止ですからね。


 エゴは「やりたがり」です。

 動いていなければ、自分の存在を確かめられません。

 ですが、〈世界〉は実際には完結しています。そこに人が

付け加えるべきものなど、本当はありません。地球上に人間

が現れる遥か前から生物は生き続けていて、人間はつい先日

加わったばかりの新参者ですが、人間が現れる前の地球は不

完全だったのでしょうか? 人間が居ようが居まいが、〈世

界〉は完全です。そこに人が付け加えるべきものも、付け加

えられることも有りません。人はただ、引っ掻き回してるだ

けです。


 「やりたがり」で、「やらずにおれない存在」であるエゴ

には、“やる理由” が必要なので、まず「否定」します。

 「世界は完全じゃない!」と。

 世界が完全なら、“やる理由” が無いからです。エゴが

「否定したがる」のはその為です。そしてやる必要のないこ

とをして、世界を引っ掻き回し、ゴタゴタを創りだし、自分

で疲れます。


 そもそも、エゴには “存在理由” がありません。

 “存在理由” のないものが、なぜ生まれてしまったのか?

知る由もありませんが、それ故、エゴは “存在理由” を求め

ます。エゴの衝動、エゴの動機は、“存在理由” を明らかに

することです。

 が、それは永久に叶いません。「無い」ものはどうしよう

もありません。「無い」ものは「無い」のです。


 わたしたちには “存在理由” がありません。

 だから「理由も無くしあわせ」でいる必要があるのです。

 そして《しあわせになるのに理由はいらない 》ことに気

付くことが必要なのです。


 「理由も無くしあわせ」な存在は、〈愛〉そのものです。


 それはエゴに害されることが無く、却ってそれに触れるエ

ゴを消してしまうものです。


 〈愛〉とは、エゴ以外の “世界そのもの” です。