2018年3月9日金曜日

“瓶入り手紙” に詰めた「愛」


 「オーストラリアで、132年前の “瓶入り手紙” がみつか

った」というニュース。

 すぐに思った。「私のブログも同じ様なもんだなぁ」と。


 このブログなんか、インターネットの大海の中では、無い

に等しい。

 にもかかわらず、時々はフタを開けて読んでくれる人がい

る。本当に「奇跡のようだなぁ」と思う。

 読んでくれてありがとうございます。

 そうやって「なんだこりゃぁ?」と興味を引かれて拾い上

げ、読んでくれる人が「おっ。けっこう〈お宝〉じゃな

い!」と感じてもらえたら、それはお互いに素晴らしいこと

ですが、・・・・どうなんでしょうねぇ。「気持ち悪

ぅ・・・」と思われて、投げ捨てられかねないような

ものですからねぇ。

 それでもまぁ、好きで書いてるんだし、私にとっては「正

しい」ことですから、気に入る人が読んでくれればいいだけ

の話です。


 にしても、今回発見された “手紙” は、海流の調査などの

研究用だそうで、そのあたりはちょっと興を削がれますね。

“私信” だったら、もっと盛り上がる事でしょう。

 その点、このブログは、ほぼ “瓶入りの私信” です

ね。

「無人島に流れ着いた一人の男が、島での驚きと、その

美しさを誰かに伝えようと、思いの丈を綴って流れに放し

た・・・」という・・。(カッコ良く言い過ぎ・・)


 「何が美しいんだか分からないけど、驚きはするよ。わけ

の分からなさに」


 そういう人も当然いるでしょう。「正しさ」は人の数だけ

あるのだから。(〈真理〉は一つだけれど  その言葉の意

味において)


 自分が見たものの「美しさ」だとか「驚き」だとか、まし

てや、精神的な「気付き」のようなものを、100%言葉に換

える事は不可能で、それでもなお、その一端でも伝えられな

いかと思って、人は苦心惨憺する。

 その「苦心惨憺」のさまを見せるだけでも、人によっては

“何か” を感じてくれたりする。道路工事の横を通りかかっ

た時に、穴を覗き込むように。

 その中に “何” を見るかは、そのタイミングと、その人の

見方次第。

 私の場合は、そんな開き直りで書いている。というか、そ

うするしかない。ただ「苦心惨憺」に想いを込めて・・・。


 で、“何” を伝えたいのかといえば、「お互い、ホントに

しあわせになろうよ」ということなんでしょう。

 その「しあわせ」の邪魔をしてるのが、お互いの〈アタ

マ〉だから、〈アタマ〉の “「邪魔さ」加減” や、〈アタ

マ〉の外にある「美しさ」「気持ちよさ」みたいなものを、

少しでも感じてもらいたいと・・・。


 そんなことがどこまで出来ているのか、本人には分からな

い。それこそ「気持ち悪ぅ・・」と思われるだけかも知れな

い。でも、もうこれだけ書いて来たんだから、いまさらどう

思われようが・・・。
 

「良かれ」と思って書いて行く。

 少なくとも、「愛」は込めている。

 それだけは確かだと言えます。「愛」を感じてもらえてる

でしょうか?


 そう、これまでまだ「愛」を定義していませんでした。

 しておきましょう。
 

 《 愛とは、絶対の「許し」。絶対の「肯定」。 》







0 件のコメント:

コメントを投稿