2023年7月29日土曜日

自分に素直に ?



 今日、久しぶりに今井美樹を聴いていて『PIECE OF MY 

WISH』というよく知られたヒット曲を聴いていたとき、“ど

うしてもっと自分に素直に生きれないの?” という、誰でも

聞き覚えのあるサビの部分で「う~ん・・、そうか・・・」

と思った。何が「そうか・・・」というと、「誰も彼も、い

ついかなる時でも素直に生きてるよなぁ・・」と。

 “素直に生きれないの?” なんて、満足を知らない人間のた

わごとですよ。

 この前の「自分らしさ」の話と同じことだけど、実際にや

ること、やってしまうことがその人の「素直」ですよ。

(『PIECE OF MY WISH』は良い曲ですけどね)


 「本当は今の彼と別れたいけど、いろいろなことを考える

と “付き合っている方が良いのかな” と思って付き合い続けて

いる・・・」というような話はよくあって、この場合「本当

は別れたい」が素直な気持ちだということになるんでしょう

が、それはただ、覚悟を決めない女の愚痴であって、「付き

合い続けてる」という事実が、その女の「素直」です。現状

に満足する謙虚さがないのと、現状を打ち破る勇気がないこ

とを認めたくないので、グチグチと自分を繕ってるだけのこ

とです。自分で気に入ろうが気に入るまいが、いまそのよう

にしているのが、自分の「素直」です。

 自分を飾ろうとするから、「素直」という〈本当の自分〉

が存在するかのように思い込もうとしているだけで、実際に

やっていることが「素直な自分」そのものです。


 「素直な自分」なんてことを考える人は(かなりの確率で

ほとんどの人がそんなことを考えるだろうけど)、いまの自

分が気に入らないのでしょう? だから「これは本当の自分じ

ゃない」と考えるのでしょう? そんなことを思ったところ

で、実際の自分を消すことはできない。自分をごまかしても

そんなの表面上のことで、深層心理では自分に勇気や覚悟や

謙虚さが無いことに気付いている。その深層心理での自己認

識は、あとで必ず自分に祟るのですよ。自分が苦しくなった

り、誰かに八つ当たりして、それで次から次へと自分で困り

事を作り出してしまったり・・・。


 「本当の自分」とか「素直な自分」とかいうようなチープ

な夢は、自分をしあわせにしないですよ。「いまこうしてい

る自分」が「素直な自分」ですよ。「本当の自分」ですよ。

だって、実際にそう在るんだから、それを「これは本当の自

分じゃない」とか「素直な自分じゃない」なんていうのは妄

想以外の何ものでもないでしょう? そういう人には「つまら

ん夢を見なさんな」と言ってあげたい(まぁ、中学生までは

夢見ても仕方ないとは思うから、それでいいと思うけど

ね)。


 自分を飾ったって何にもならないんですよ。せいぜいつま

んない自己満足が得られるだけで、それよりも、不毛な自己

否定に鬱々とするのが関の山です。

 「なにものかでなくてはならない」とか「誇らしい本来の

自分というものが有るはずだ」というような、社会に刷り込

まれたお話しに我を忘れてるだけですよ。


 「いま、実際にそのようである自分」の何がいけないの

か? なぜ、それを認められないのか? その元を辿れば、社会

の刷り込みでそう思わされているということは誰にでも分か

るはずです。

 むしろ、「自分を飾ろう」という意識が無くなって、「な

んでもない自分」や「なさけない自分」や「出来の悪い自

分」を受け入れた方が、自分の中に有る〈命のエネルギー〉

とでもいうものが素直に流れ出してきて、自分をしあわせな

状態へ動かしてくれるように思いますね(責任は持てません

が)。そうした時に現れて来る「実際の自分」こそ「素直な

自分」でしょう。


 それは社会的評価とは何も関係ないかもしれないし、社会

からバカにされるような「自分」かもしれません(社会から

「凄い!」と言われることもあるでしょうが)。けれど、自

分を評価せずに「そのようである自分」を受け入れてあげら

れることが、自分に対する最善のことでしょう。

 とはいえ、その自分が「犯罪行為をしようとしている自

分」であったり、「DV 男との関係を断てないでいるような

状況」とかなら、「これが素直な自分 😊」なんて喜んでいる

わけにもいかない。そういうことなら変えることを考えなけ

ればいけませんが、そういうことになるとしたら、それはや

はり無意識に自分を飾っている可能性が高いでしょう。


 そもそも、自分が自分を否定するなんておかしいと思いま

せんか?

 社会から刷り込まれた “約束事の価値観” で自分を評価する

から、自分を否定してしまうのですよ。そして、そのせいで

生まれる自己否定感が、生きている上で実際に問題を起こす

ことに繋がって、本当に自己否定しなければ済まなくなるの

だと思います。


 人はみんな出来損ないです。それを否定して飾ろうとする

から、かえっておかしなことになる。

 自分で自分を気に入ろうと気に入らなかろうと、みんな素

直に生きてますよ。


 「ああ、さしあたりこれがいまの自分なんだな」と素直に

現実を受け入れてやれば、社会の刷り込んだ “約束事の価値

観” から少し自由になって、アタマの思いもしない自分とい

うものが現われて来る・・・。それが「素の自分」なのでし

ょう。


 「自分に素直に生きる」のではなくて、「素直に自分を生

きる」。

 それが、「素直」(というもの)がわたしたちに望んでい

ることでしょう。



2023年7月23日日曜日

「自分らしさ」に惑わされて



 (7/16に書いたものですが、少し書き足したので、
              
  改めて公開し直しました)

 先日、タレントの ryuchell が自殺したことで報道が続い

ている。ブログでこの話題には触れないでおこうと思ってい

たのだが、報道の仕方が気になったのでやっぱり書くことに

する。


 そもそも私は ryuhcell を好きでも嫌いでもないし、活動

に関心も無いのだけど、彼がテレビに出だしたときから、な

るべく見ないようにしてきた。見るのが辛いのだ。

 最初に見た時から「かなり精神的に不安定な感じの子だな

ぁ」と感じたし、「(自分を装って)すごく無理してる感じ

だなぁ」と思っ  人を欺いてるというような意味では無

いですよ  その「無理してる感じ」が痛ましいので、見る

のが辛かった。なので、この度の事を最初に知ったとき「や

っぱりなぁ・・」と思ってしまった。


 彼の生い立ちだとか、身体的・内面的にどういう人なのか

を私は知らないけれど、私が知り得る範囲での彼の言動から

思うのは、“「自分」が分からないのでとても不安で怖い” と

いう人なんだろうなということ。

 髪型や髪の色をどんどんと変え、子供を儲けたり、SNS で

積極的に意見を発信したりという生き方を見てると、必死に

なって「自分を探してる」ように見受けられた。

 「これでもない。これでもない。こうでもない。これも違

った・・」

 そんな風に、自分が落ち着ける在り方を求め続けていたの

ではないかと思う。そして、「これでもう大丈夫」と思える

「自分」を見つけたと思ったが、やはり何かが違う・・・。

「もう、疲れた・・・」。それが自殺への経緯なのではない

かと想像する。


 この度の報道で、彼が「自分らしさ」や「自由」という言

葉をやたらと使っていたことを知った。そして、そのような

姿勢を評価するコメントを、メディアや同じ業界の人たちが

次々と発信するのを見ていて、「違うんじゃないのか?」と

思ったのが、この話題に触れる理由です。「自由で、自分ら

しく生きてる人が、自殺するわけないだろう」と思うので。


 「自由」や「自分らしさ」を発信し続けて来た若者が、自

殺をする。なんでそうなるのか? 誰もそのことを考えようと

していない。


 「自由」や「自分らしさ」を求めることや「自由」や「自

分らしさ」の意味するところをしっかりつかまえてみようと

もしないまま、「それは価値あること」のような既成概念を

疑いもせずにモノを言う人たち。そのような人たちの取り巻

く社会で、「自由」や「自分らしさ」をいくら探したっ

て、“最終解” のようなものは見つからないだろう。


 「これが自分だろうか?」

 「これが自由だろうか?」


 探す前に「自分」や「自由」が何なのかを知らなければ探

せないだろう。


 「自由」=「世の中で気の済むようにできること」

 「自分らしさ」=「気の済むようにできて、なおかつ世の

中から肯定されている状態」

 そういうのが、彼やいまの日本人の思う「自由」と「自

らしさ」なんだろうと思う。いまの日本人が特別なわけで

なくて、昔から人というのはおしなべてそうなんだろうと

うけど、人は「自由」や「自分らしさ」を世の中との関わ

の中に探そうとする。彼が SNS などでことさらそういう

とを発信したのも、そういうことだろう。けれど、世の中

は「自由」など無いし、「自分らしさ」などというものな

は、そもそも気の迷いみたいなものだ。「自分らしくない・

・・」と嘆いたりすることも、その人らしさではないのか?

 「自分らしい」とか「自分らしくない」とか、あるいは何

も思わないとか、その時々にその人がそのように感じたり振

る舞ったりするのは、その人ならではのことなのだから、何

をしたって、それが「自分らしい」はずだろう。観念的でア

タマでっかちになっているから、悩まなくてもいいことに悩

むことになってしまう。

 「自由」でなかろうと、「自分らしく」思えなかろうと、

そんなことはお構いなしに、心臓は動いている。呼吸をして

いる。その「自分」に目を向けたことがあるのか? その「自

分」を慈しんでみたことがあるのか? 「自分らしさ」を求め

ることは、いまここにこうして在る「自分」に対して失礼な

のではないか?


 別に ryuchell を批判する気など無いのです。これまでも

書いてきたように、自殺した人を否定もしない。ただ自殺自

体は無い方が良い。だから、こういう事があると、ましてや

若い人だと「もったいない」と思う。仕方がないことなんだ

けどそう思う。そして、それを語る人たちの紋切り型の言い

分に不快感を感じてしまう。「本気で考えてないだろう?」

と。というわけで、ついこんなことを書きたくなってしま

う。


 『「自分らしさ」は自分じゃないでしょう』(2019/2) 

か、『本当の自由。』(2019/2) とか、いままでも書い

てきました。私はそういう人間だから、彼のように「自由」

や「自分らしさ」にこだわった人が自殺したりすると、なん

とも言えない気持ちになるのです。

 世の中の見せる幻想。世の中に刷り込まれた焦燥・・・。

それが、人を不自由で重苦しい観念の中に閉じ込める。


 これまで生きて来た自分。いま、いまのように在る自分。

これから、これからのように在る自分。全部自分なんだか

ら、どの一瞬どの一カケラを取っても「自分らしい」んです

よ。自分で気にいるかどうかじゃないんですよ。だって、そ

れは紛れもなく「自分」なんだから。


 紛争でも起きて、敵に捕まって、独房に閉じ込められて、

何日後かには殺されるのかもしれないというような事になっ

たとしても、でも、その狭い独房で、何一つしたいことがで

きないままで、それでも「自由」なんですよ。それは、普通

の生活を送っているわたしたちが、いずれは死ぬ存在だとい

うことを考えれば理解できるはずです。

 わたしたちはみんな、それぞれのさだめの中に閉じ込めら

れている・・・。けれど「自由」なんです。「自由」とは、

いま生きていることだからです。そしていま生きている「自

分」は間違いなく「自分」です。他の誰かであるはずがな

い。いま生きている「自分」の他に、「自分らしい、本当の

自分」など有るはずがない。

 「一週間後の自分」「一年後の自分」「30年後の自分」

は「今の自分」とは違う。けれど、それぞれにその時々の 

“いま” 、「自分らしい自分」です。


 どのように人生を送るのか、その人生がどのような幕引き

迎えるのかも、わたしたちは選べません。気分良く、気軽

に生きられるに越したことはないと思うけれど、それも選べ

い。なに一つ「自分」の自由にはならない。

 けれど、それに気付いた時、それを受け入れられた時、人

は自分が自由だと気付くのです。残念ながら、そういう必然

が無ければそうなれないのですが・・・。


 ryuchell には、そういう必然が無かった。

 それは良い悪いなんかとは関係ない。自殺したから悲しい

人生でもない。

 自殺してしまう人生なんだから、辛かっただろうとは思

う。それは気の毒な事だと思う。しかし、それが彼の人生な

らそれでいいのだ。ただ、それを見た他の人が何を考える

か?

 ひとりの若者が自ら命を絶ったのだ。そのことを考え、語

るなら、真剣に、生きることや命の底まで考えてもらいたい

のだ。ありきたりなお話しを聞かされるのはもうたくさん

だ・・・。




夏は暑いねぇ

 

 梅雨が明けて本格的な夏になった。外ではクマゼミが盛ん

に鳴いている。「危険な暑さ」なんてことをニュースで言う

けど、神戸では 35℃ を超えるようなことはあまりない。都

市だけどヒートアイランド効果は控えめなようだ。海沿いだ

し、北側にはすぐに六甲山の森があるせいで、市街地で焼け

つく空気の量が少ないということだろう。

 昔より暑いか? 自分の体感的には、あまり変わらないよう

に思う。歳のせいで暑さには弱くなってるけど😅


 「危険な暑さ!」

 あまりそんなことは言わない方がいいような気がする。そ

んなプレッシャーを与えると、ストレスで余計に暑さがこた

えそうだ。


 「こまめな水分補給をしましょう」

 「塩分補給をしましょう」

 熱中症対策に、テレビなんかが盛んにそう言うけれど、私

は「ホントにそれが熱中症対策になるの?」と訝しんでい

る。

 普通に三度の食事を摂っていれば塩分は足りてるはずだか

ら、仕事やスポーツなどで短時間に大量の汗をかくような状

態でなければ、水分も塩分も身体の求めに応じて摂ればそれ

でいいように思う。もちろん私は医師でも生理学の専門家で

もないので責任は持てない。なので真に受けてもらっても困

るが、医学の常識が覆ることはよくある。一素人の考えが的

を得ている事だって、これまでにも有っただろう。学者、専

門家というものは、意外とそれまでの学問的常識や専門家内

での雰囲気に流されて、物事の本質を見誤っていたりするも

のだ。なので、たとえ専門家の考えであろうと、私は自分が

疑問に感じることは疑ってかかる。そういう性分だし、それ

で OK だったこともよく有ったし。*(「的を得る」→「的

を射る」が本来の表現)


 毎年、高校野球の甲子園大会では熱中症で具合が悪くなる

人がでるだろうけど、それは観客の方で、炎天下でプレーを

している選手が熱中症で倒れるということはほとんどないだ

ろう。起きれば高野連の責任問題にもなるだろうから、選手

が熱中症にならないように十分対策はしているだろう。とは

いえ、あの炎天下で熱を受け、運動して身体の中でも熱を産

生しているのに具合が悪くならないのは不思議ではないか? 

そういうことを考えると、今の医学の熱中症の理解には穴が

あるんじゃないかと思ってしまう。


 学問、科学などは役に立つものだ、上手に使えばメリット

がある。けれど、そこにすべての答えが有るのではないし、

間違いだってある。さらに言えば、そこに示されてる答え

が、ほとんどの人にとって正しくて、有用なものであったと

しても、ある個人にとってはしあわせに繋がらないこともあ

るだろう。自分にとって正しいことは自分で決めるのだ。

 その決定がどのような結果を招こうとも、それは受け入れ

なければならないが、それが自分の在り方なら後悔は無いだ

ろう。


 好き勝手やって、人に迷惑をかけるようなのはいただけな

いが、世の中の常識を鵜呑みにし、教えられるがままに行動

して、それが間違っていてクラッシュしたら悔しくて笑えな

いだろう。だけど自分の気が済むようにした結果、不適応を

起こしてクラッシュしても、まだ自分のマヌケさを笑えるだ

ろうと思う。


 学問、科学が進んで、人は昔よりずっと賢くなって失敗が

減ったように思っている人は多いだろうけど、いやいや、世

界のニュースを見てごらんよ。問題だらけじゃない。


 「情報リテラシーを高める必要がある」なんて言うけど、

「情報リテラシー」を高める一方で、自分の身体や自然環境

に対する「感覚的リテラシー」が損なわれて、かえって不具

合が出ている面もあるだろう。


 学問だって科学だって、自分の感覚を使ってふるいにかけ

てみる必要があると私は思っている。だって、そうしないと

納得できない。

 学問や科学は「情報」に過ぎないが、こっちは「生き物」

だ。「情報」をいくら集めても「生き物」にはならない。

「生き物」は「情報を越えた要素」を持っている。その「情

報を越えた要素」にアクセスするためには「感覚」が要る。


 一般家庭にエアコンが本格的に普及しだしたのは昭和の終

わり頃からだけど、その頃は熱中症の死者はずっと少なく、

現在の方が圧倒的に多い。その理由を「温暖化」や「高齢

化」のせいだと説明される。「高齢化」は大きい要素だと思

うけど、昔だって夏は十分に熱中症の危険温度になっていた

から、「温暖化」のせいというのは疑わしい気がする。

 エアコンの無い暑い夏を、昭和までの日本人は自分たちの

感覚に従って普通に生きて来た。それを思うと、「熱中症」

「危険な暑さ」なんて脅かすことの是非と、いまの「熱中症

対策」は本当に妥当なのか考えてみた方が良さそうに思う。

熱中症に限ったことでもないんだけど・・・。


 アタマは不安になるのが得意で、不安を他人に分けたり他

人から不安を受け取ったりするのも得意だけど、アタマはし

ょっちゅうヘマをやらかすということを意識しておかない

と、不安が無くなるどころか、不安に潰されかねない。身体

と心の声にも耳を傾けないと、バカを見る可能性は高いだろ

う。


 そんなわけで、この夏の私の熱中症対策は “「暑いなぁ」

と感じたら氷を一つ口に含むこと” 。

 熱中症は「脳のオーバーヒート」が主たる問題なんじゃな

いかと思うので、脳のすぐ下に広がっている鼻腔に冷たい空

気を与えてやれば、脳を効果的に冷やせそうに思うから、こ

の夏は試してみようと思う。

 氷を一つ口に含んで健康に害が有るわけないので、気が向

けばお試しを。それで、身体がどう答えるかを聴いてみても

面白いと思う。ものは試しです。



2023年7月9日日曜日

苛酷な人生



 こういうブログを書いている人間なので、NHK の『こころ

の時代』をよく観る。先日観たのは、シリアの難民を撮り続

けているフォトグラファーの女性で、内戦以前からシリアを

取材していて、夫はシリア人。日本で家族4人で暮らしてい

るが、シリアで内戦が起きてからは、トルコなどを尋ねて、

難民となったいくつかのシリア人家族を撮り続けているそう

だ。


 話を聞いていて、彼女が、難民となる前のシリア人と、難

民となった後のシリアの人たちと関わる中で抱いた想いに共

感することがいくつもあった。


 私は、シリアのような国の人たちとも、難民となった人た

ちとも関わったことはないし、紛争を経験したことも、中東

のような環境で暮らした経験もない。なのに、なぜ共感を

えるのか? それは、この日本の社会では違う意味で紛争が

いていて、ある意味、私も「難民」だからだろう。


 彼女のシリア人の夫は、シリアで内戦が始まったころ、ち

ょうど兵役で政府軍にいたそうだ。そして、心ならずも市民

を弾圧する立場に立ってしまったという。その時の体験につ

いて彼は何も話さない。話せないことがあったのだろう。そ

の後、家族とトルコへ逃れた後、彼女と二人、日本へ来て暮

らすことになった。


 日本へ来て二年間、彼はノイローゼ気味になり家に閉じこ

もってしまうことになってしまった。その後、働く決意をし

たが、仕事を転々としてしまう。ある仕事では、始発電車で

出かけて、終電で帰ってくるという日々が続き、彼はこう言

ったという。

 「シリアで政府軍にいた時の方がましだった・・・」


 彼女が難民キャンプを取材していた頃の話では、難民キャ

ンプでは電気・ガス・水道・衣類・食事は最低限用意されて

いたので、そこにいれば生きてい行けるのに、紛争の続く、

危険なシリアへ戻る人が多くいたという。その理由が「ここ

にいれば生きていられるけれど、ここには生活が無い」とい

うことだったそうだ。

 そういった話を聞いて、あらためて思う。今の日本のよう

な経済先進国は、違う種類の紛争の只中にあり、多くの人が

難民となっているのだと。


 ニートや引きこもりや、鬱・パニック障害などで社会から

外れてしまう人々。それは「難民」だろう。

 もちろんすべてとは言わないが、「軍にいた時の方がマシ

だった」と思わせてしまうような社会の状況があることを、

「そんなに特殊じゃない」とわたしたちが思えるというの

は、この社会は何かを大きく間違えているだろう。


 これまでにこのブログの中で、コロナがらみの話などで、

「生物学的な生存は、生きることではない」という意味合い

のことを何度も書いたけれど、難民キャンプに暮らす人が言

ったように、「生きられるけど、生活が無い」ような状態

は、やはり「生きている」とは言えないのだろう。
 

 この国では、ふたこと目には「安心安全」。

 安全で、明日の暮らしを心配する必要は無く、豊かで便利

な生活が出来ていても、心の中では多くの人が闘争や束縛に

疲れ、自身の本来あるべき姿が分からない。多くの人がそれ

を既製の価値観でごまかし、娯楽でやり過ごしている。生き

られてる?


 別に、シリア人の価値観が正解で、いまの日本人の価値観

が間違いだと言うのではない。人が比較の世界に生きる限

り、程度の差はあれ、生きることからはぐれるだろうから。

ただ、日本人は生きることを大袈裟に飾り過ぎ、かつ大事を

取り過ぎているだろう。そのような感覚があるからこそ、

NHK の制作者もこのような番組を企画したはずだ。


 「難民」を生んでしまうような、豊かさ・安心・安全とは

何なのだろう?


 あからさまな苛酷さを生きねばならない人がいる一方、ぼ

やかされた苛酷さを生きていながら、それに気付かない人も

いる。いずれにせよ、“お話し” の中に本当の「生」は無い。

 そして、苛酷さはいつも “お話し” から生まれる。



 

2023年7月4日火曜日

ゴールドラッシュのあとに



 「今は文化のどん詰まり」。そういうことを何度も書いて

きた。

 産業革命以降、19~20世紀の間、大量の資源とエネル

ギーを投入できたことで、文化は指数関数的ともいえるよう

な多様化と拡大を見せた。文化のゴールドラッシュのような

ものだったのだと思う。そのゴールドラッシュの、最盛期あ

るいは爛熟期とでも言える時代を私たちは過ごしてきたのだ

と思っている。

 けれど、私たちは他の時代を経験していないので、そのゴ

ールドラッシュを「そんなもんじゃないの?」と普通のこと

のように思っているようだ。けれどそれはたぶん、大きな間

違いだろう。私たちは文化的にとても異常な時代を生きて来

たのだ。そして、おそらくその時代の終焉も見ることになる

のだろうと思う。いや、もうそれを目にし始めているだろ

う。


 ゴールドラッシュは終わった。20世紀と共に。

 時代の流れの中に次々と見つけられた “新しいもの” はもう

取りつくされ、川床にはほとんど残っていない。それでもま

だ、人々は川底を探り続けている。

 時折り、わずかばかり取り残された “砂金” を見つけること

があると大騒ぎする。最早、探り続けることが習い性になっ

ていて、そのこと自体を「楽しい」とする暗示にかかってい

るので。

 もうすぐ、輝くものは完全に出て来なくなるだろうから、

これまで得たものを大事にやりくりして楽しむほかなくなる

だろう。けれど、わたしたちは飽きやすい。多くの人は “新

しいもの”を求めて働き続けるに違いない。でも、いくら川底

をかき回しても、水が濁るだけ。


 川底を探るのをやめれば、川は澄む。しかし、本流では多

くの人が引っ掻き回すのをやめないだろうから、川が澄むこ

となどない。この世の終わりまであなたがそこにいたとして

も、澄んだ川を目にすることはできないだろう。社会は安ら

ぎを嫌う。アタマは止まることを怖れる。


 もしも、あなたが本流ではなく、小さな枝沢に独りでいる

のなら、あなたが掻き回すのをやめれば、川はすぐに澄む。

その澄んだ流れのせせらぎの音を聴くこともできる。その水

を飲むこともできるだろう。足を浸けて涼むこともくつろぐ

こともできるし、そうしていれば、鳥のさえずりも聞こえる

かもしれない。


 わたしたちはこの世界の中に居ながら、自分たちが “価値

がある” とした「文化」というものだけに目を向け、世界を

見ようとしなかった。


 自然を見る時でさえ、そこに「文化的」な価値を投影しな

がら見ていた。自分たちのアタマで世界を引っ掻き回して、

世界を濁らせてきた。

 世界は「価値」によって汚染されて、その本当の姿も分か

らなくなった・・・。


 ゴールドラッシュは終わった。

 丁度いいだろう。終わりを認めたくない者は放っておい

て、あなたは独り本流を離れ、“何か” を探すことをやめ、澄

んだせせらぎに心を向ければいいのではないか?

 「得ることの喜び」はもう終わろうとしている。

 あなたや私は「在ることの喜び」を楽しめばいい。そのゆ

とりの中なら、かつて手に入れたものをあらためて楽しむこ

ともできるだろう。鳥のさえずりのように・・・。


 あなたがこの世界に手を突っ込んで、“何か” を得ようと引

っ掻き回すのやめれば、即座に世界は澄む。いますぐにそれ

は確かめられる。

 目の前の濁った流れから、ただ手を引けばいい。それだけ

のことなのだ。
 




2023年7月2日日曜日

ヤマモモを知っている? ~文化の消える日~



 今日は天気が良くなったので、昨日のブログの最後に書い

たように、近くの山へヤマモモの実を採りに行った。

 ヤマモモという木は、東日本の人にはなじみが無いものだ

ろうけど、西日本の暖地には普通に生える木で、特に海に近

い所に多くて珍しいものではない。その実は酸味と甘みと独

特のヤニ臭さのようなものがあって美味しい。小さい頃にそ

の味を覚えて、大人になってからは、ヤマモモの実を採って

食べるのが毎年恒例のようになっている。

 今日採ったのは数年前に見つけたヤマモモの木の実で、普

通のものより実が大きい。違う品種ではなく個体差によるも

ので、こういう木が稀にある。和歌山出身の友達の I が「そ

ういうのは、和歌山では “ミズモモ” という」と言っていた。

粒が大きく、ジューシーだからだろう。


 持ち帰って塩水で洗い、食べ始めるとしばらく手が止まら

なかった。夏の味覚だ。けれど、東日本の人にはなじみがな

いのは当然としても、今では50歳以下の関西人では、ほと

んどヤマモモなど見たことも食べたことも無いのではないだ

ろうか? 

 四国あたりで栽培もされているようだけど、量が少ないこ

とと、あまり日持ちがしないことなどで、普通のスーパーや

果物屋には出回らない。私も店頭で見たことはない。高級青

果店などに並ぶ程度なんだろう。木自体はありふれたものな

んだけどね。


 今日の収穫

 美味しかった!

























 ・・・話は変わって・・・

 もう20年ぐらい前のことだけど、山歩きに行って、山頂

から谷筋のコースを降り、麓の河原で一休みしていた。

 そこは少し広くなった河原で、休日なので沢山の家族連れ

などが来てバーベキューをしていて、小中学生も多く走り回

って遊んでいた。

 木陰に座って周りを見渡すと、あちこちにクサイチゴやキ

イチゴ(どちらも野イチゴの仲間)が鈴生りに生っているの

に気付いて、「これだけ生っているのは珍しいな!」と驚い

たのだけど、誰一人として、食べるどころか関心さえ示して

いない。これだけ沢山の人が何時間も前から来ているのに、

実が採られたようにも見えない。

 子供たちはもちろん、親たちでさえ、それが食べられてな

おかつ結構美味しいということを知らないのだろう。知って

いても、そんな河原に生えているようなものを口にするのは

危ないと思っているのだろう・・・。私はそういう風に理解

して、その場をあとにした・・・。


 私は毎年、ヤマモモであるとか、野イチゴだとか自然薯

(ヤマイモ)のむかごであるとかタラの芽だとか、アケビや

ナツハゼの実なんかを季節ごとの楽しみにして来た。

 そういうものは里山のような環境の所や、都市部の河川敷

などでも見られるもので、特に珍しいものではない。昔か

ら、近所の人や年長の子供から下の子へ伝えられる、文化の

一部だったはずだけれども、そういうものはどうやら途絶え

ようとしているようだ。


 文化とはどういうものだろうか?
 

 「文化」。字面からすれば、「文にする(化す)」という

意味になる。今風に言えば「情報化する」ということにな

る。

 「どの木の実や山菜が食べられるか」とか、「いつ採れ

る」とか・・・、「木を伐る時にはどうするか」とか、「ど

んな用途の時にはどう加工するか」とかいうような情報を受

け継いで来たのが「文化」だろう。

 それが、暮らしに余裕が出て来て都市化してくると、“余

裕” の部分での楽しみが「文化」として受け継がれるように

なった。芸術、娯楽、宗教・・・。けれど、そこにはまだ、

自然の様子を見ながら、それに合わせて行かなければ生きら

れないという事実があり、「文化」も、その影響を色濃く反

映するものだったろう。しかし、現代は違う。


 日本のような先進国では、日常的には、ほとんど自然を無

視して衣食住を維持できるようになった。

 直接自然に対峙する “第一次産業” の従事者はともかく、多

くの人たちは、生活に必要な物を、生活に最適な形に準備さ

れた状態で手に入れることができる。「自然との折り合いを

付ける」「自然を上手に利用する」というような意味での

「文化」は、ほぼ消えてしまったようだ。


 そして今の「文化」は、“自然の性質を言葉にして伝え残

す” という「文になっていないものを、文にする」ようなも

のではなくて、ネットが象徴するように、「すでに情報

(文)になっているものを、組み合わせたり改変したりし

て、二次情報にする」ものになっているようだ(すでに、そ

れを AI がやっているしね・・・)


 今の「文化」は、人間と人間の間だけ、アタマの中のグル

グル回しのやり取りだけになっていると思えるけど、違うだ

ろうか? そういうものに、果たして古来からの「文化」とい

う言葉を充てていいのだろうか? 


 「文化の内容が変わって、それの何が問題か?」そんなこ

とを思われるかもしれない。「いや、大きな問題ですよ」と

私は思う。

 「文化」というものは、わたしたちの「意識」「思考」

が、人が暮らす自然環境と、“自分たちのからだ” という自然

環境との間で、折り合いを付けることで生まれてきた「知

恵」と「遊び」だったはず。ところが、現代の「文化」はア

タマとアタマの間で折り合いを付けて遊ぶだけのものになっ

ているだろう。その “折り合い” の付け方が間違っていたとこ

ろで、衣食住に影響は無い(閲覧回数の急減したYou Tuber 

なんかは困るんだろうけど)。

 それは、実質的な「生きること」から「文化」が浮いてし

まっていると言える。「文化」は人間の妄想の中だけのもの

で、さらに “情報化が容易な部分” だけを扱う、徹底的に「お

遊び」に終始するものになっているのだろう。もはや「文化

(情報にすること)」という過程は無いので、違う表現が必

要だろう。


 自分たちが生きている環境や、自分自身のからだという、

この世界の実質をなおざりにして、“現代の文化” は、アタマ

とアタマのグルグル回しを加速させて行くのだろう。


 「文化」は消えたのか? また息を吹き返す時が来るのだろ

うか?

 「文化」を消し去ろうとしている現代人は、「何化」する

のだろうか?


 養老孟司先生が「脳化」という表現をされてから30年以

上経ったけれど、現代人はいよいよアタマの中に閉じこもっ

て行くのだろう。
 

 私は、「文化」が途絶えたしても、それはそれで別にい

まさら困ないけれど、わたしたちのアタマが表現できるデ

ィテールと、構成できるパターンは、この世界が持つそれよ

りも情ないほど貧弱だ。アタマのグルグル回しが作る世界

の先行きは、とても暗く短いと思う・・・。それはたぶん、

正解だろう。

 ヤマモモを知ってる?