2018年10月28日日曜日

世界は奇跡であふれている


 前回ブログを書いたのが10/14なので、二週間書いてい

なかった。話の取っ掛かりというものが無かったので。


 ニュースなどを見ていると、言いたいこともあるのだけれ

ど、そんなことばっかりブログに書くのは「何かちがう」と

いう気がする。そういうふうに流れて行くと、ただの「言葉

び」や「思考依存」のような気がする。


 わたしたちの身の回りでは、日々無数の出来事が起こり続

ている。そういった出来事に関わり、対応していくこと

で、わたしたちの暮らしは続いて行く。それらの出来事との

関わりをまとめて、わたしたちは「人生」と呼ぶ。


 だれもが、自分のまわりで起こる出来事・物語にどう関わ

るかを自分の物語とし、それを「自分の人生」と考えている

のだろうが、他者の在り様を物語と見るのはいいとしても、

自分に物語などあるだろうか? そこにあるのは、自分のま

わりで起り続ける出来事に対応する働きだけであって、それ

を自身で物語化しているだけではないだろうか。


 「雨が降ってきたから傘をさす」

 「雨がひどくなったので、外出を止めて家に帰る」

 そういうことを物語とみなすことはできる。けれど、やっ

ている事は出来事に動かされているだけのことです。小説家

が物語を作るように、生み出された物語ではなく、起ってし

まった変化を物語としてつなげているだけです。

 「自分の人生」という物語は、自分の都合や習慣・条件付

けによって、恣意的につなぎ合わされた記憶の塊でしかな

い。そのようなものを「自分の人生」と呼び、誰かの人生と

くらべては、良いとか悪いとか、幸福だとか不幸だとか言

い、泣いてみたり自慢してみたりするけれど、ほんとうはそ

んなもの何処にも無い。ただの記憶です。一瞬ごとに消えて

行ったものを、抱え込んで撫でまわしたり、握りしめながら

投げ捨てようとしたり・・・。

 こうした、わたしたち人間の在り様は、何かの呪いでしょ

うか?

 もうすでに存在しないものに囚われて逃げる事も叶わず、

一方で、自らつかんで離そうとはしないものに振り回さ

れて苦悩する。


 「自分の人生」なんて無いのです。

 「自分の物語」も無いのです。

 無数の出来事の中で、自分という出来事が在り続けて行く

だけ・・・。

 その出来事の流れを他人が見て「あれが彼の人生」とみな

すことは、妥当だとは思いませんがその人の勝手です。けれ

ど、自分に起こった出来事をつなぎ合わせて、それを「自分

の人生」と見ることが人を幸福にするでしょうか? 記憶を

肯定的に捉えることが出来るなら、人はそれを幸福だと言う

でしょうが、もう済んでしまって、今は存在しないことを舐

め回す幸福とはいったい何でしょう?


 ネガティブな過去を悲しみ・憎むことと、ポジティブな過

去を喜び・抱きしめることとの間に本質的な違いはありませ

ん。そこにあるのは、自分の思考の条件付けによって恣意的

に作り出している、フィクショナルな感情です。「感情」と

呼ばれる “出来事” です。人が普通一般に言うところの「幸

福」も「不幸」も、また次の瞬間に消えて行くものです。


 そのような一過性のものではなく、そういった出来事を受

けているこの自分という存在が、“瞬間ごと” に持ち得る喜

びがあって、その瞬間を持ち続けて行くことは有り得るだろ

うというのが、私の見方です。


 そのためには、過去の記憶の塊  と、そのアレンジであ

る未来  でしかない「自分の物語」や「自分の人生」に向

いている自分の目を、今に向けなければならない。


 人が生きて行く上で、物語は必要でしょう。けれど、もの

がたりは “必要悪” です。ある程度生きて来たら、物語では

なく、今生きているこの自分の在り様に目を向け、耳を傾

け、味わい、感じて行くことが、わたしたちが本当にやるべ

きことではないでしょうか。


 季節が進む。

 風が木々を揺らし、秋の陽に葉がきらめく。

 さわやかなその風が頬をなで、髪をとかす。

 二度と無い出来事が瞬間ごとに私を訪れる・・・。

 拒むことを止めるなら、世界は奇跡であふれている。





2018年10月14日日曜日

人に人は救えない


 《しあわせになるのに理由はいらない》

 なんてことを言ったりしてますが、人種や民族の差別で酷

い迫害を受けていたり、極端な貧困や虐待の只中にいる子供

たちや、紛争地帯に暮らしていたり、そこから命からがら逃

げだして難民となっている人々、犯罪やテロの暴力に巻き込

まれてしまった人達・・・。その様な人達に「しあわせにな

るのに理由はいらない・・」などと言っても、とてもじゃな

いがそんな精神状態にはなれないはずだ。 

 〈衣食足りて礼節を知る〉というけれど、「礼節」はとも

かく、最低限「衣食」が足りなければ、しあわせを考える余

裕なんか持てるはずがない。


 こんなブログを書いて、しあわせについて語ったりしてい

るけれど、結局のところ、それぞれの人がしあわせでいられ

るかどうかは、“運” でしかない。


 人にとって、世界というものは理不尽で不公平なものだ。


 己の欲望や自己肯定感を満たす為に、他人を傷付けたり搾

取したりすることに苦痛を感じない人間がいっぱいいる。

 そのような人間を「人でなし」だとか「悪魔」だとか「畜

生」だとか言って、「人間とは思えない」と多くの人はそう

考える。しかし、それはまさに〈人間〉だ。ある面で非常に

「人間らしい」のだ。


 この世界には、人間の “狂気” が渦巻いていて止むことが

無い。

 一部の人間が狂っていて、大多数の人間はマトモだなんて

思っているけれど、わたしたちのアタマは「正しさ」を知ら

ないので、いつ自分が “狂気” を爆発させるか知れたもので

はない。

 現代の社会の中で「マトモ」だと思われている事も、その

ほとんどは自然の在り方からすれば「異常」なものだ。それ

が「異常」だと思われていないのだから、その「異常」がい

つ “狂気” として暴れ出しても何の不思議も無い・・・。


 暴力や搾取の対象とされてしまう人はもちろん不運だが、

エゴに深く蝕まれ、強欲や悪意を剥き出して生きてゆく人間

も不運だろう。

 前者は、苦しさに押し潰されそうで自身を顧みる余裕は無

い。一方、後者はエゴに振り回されて自身を見失ってしまっ

ている。


 世の中の見せる価値感から外れていると、人は不安を覚

え、苦しむ。その苦しみから逃れたいが為に、自分を肯定で

きる価値感を持つ集団になんとか入り込もうとするけれど、

その過程で、あるいは結果として、自分の拠って立つ価値観

から外れる者  またはわざと排除した者  をスケープゴ

ートとして踏みつけ、自分の足場とする。

 世の中に、悪意と狂気はあふれているけれど、そのほとん

どはエゴが生み出す(妄想する)不安・恐怖から逃れようと

する結果だ。


 〈自分〉というものの秘める “恐ろしさ” を人は自覚して

おく必要があるし、人が本当に良い世の中を求めるなら、社

会の方が個人に「自分の持つ恐ろしさ」を自覚しておくよう

に働きかけるべきだろうね。「べき」なんて言ってもどうし

ようもないけれどね・・・。


 たまたま縁のあった人、自分を顧みる余裕のある人に、そ

して私自身に、《理由もなくしあわせ》になってもらえたら

と、このブログを書いているけれど、それが一つでも二つで

も実現するかどうかは、私の力の及ぶところではない。(そ

もそも「私の力」なんて無いし・・。たんなる言葉のあやで

す)


 ほんと、話を聞いただけで、涙が出て来るような、理不尽

さでこちらの身体が怒りに震えような境遇に置かれている人

が大勢いる。

 その理不尽さを作り出して、他人を抑圧して喰い物にして

いる人間の側の救いの無さにも暗澹たる気持ちになる。

 どうにもこうにも、心が冷える・・。


 どうにもならない。

 私は、奇跡的な縁を願って、誰かが自分を愛せるキッカケ

になるように祈りながら、今日も「狂気」かも知れない話を

綴るだけだ。止むに止まれず、自分でもなぜそうするかも分

からずに・・・。


 人に人は救えない。

 人を通して「救い」が来ることはあってもね・・・。

 縁があれば、自分でしあわせになれるということでしかな

い・・・。


 溜め息が出るけれど、私がため息をつくのも随分な話だ。

私は救世主じゃないんだから。

 「人が人を救える」とか「自分が人を救えたら」なんて思

うのも、“悪魔のささやき” だと思っておいた方がいいだろ

う。

 「人の為」なんて意識は、エゴが自分の満足を得る為の偽

装でしかない可能性が高い。

 〈愛〉は “無心” だろう。

 すべては止むに止まれず動いて行くのだ・・・








 

2018年10月7日日曜日

〈損〉とはなにか?


 仮想通貨のトラブルが、またニュースになっているけれ

ど、まぁ大儲けしている人間もたくさん居るのだろうから、

まだまだパーティは続くのだろう。私には全く関係が無い

が。



 人というものは面白いもので、「他人が得をする事は自分

の損だ」と感じる人がいっぱい居ます。

 同僚の給料が少し上がったら、「自分は損してる」と感じ

たりする。

 同僚の昇給分が自分の給料から回されて、自分の給料が減

ったというなら、確かに損かもしれないが、自分の給料はそ

のままなのにもかかわらず、「自分は損してる」と考える。

 いやはやなんとも、ご苦労な性分ですよね。

 関係無いのにね。



 そもそも「損」とは何か?

 「損」というものは、ある “こと” を「当然あるべきも

の」として考える時に、初めて意識される概念です。自然に

存在しているものじゃないし、誰にでも共通の事でもない。

遠慮なく言ってしまえば「妄想」です。さらに言えば「慢

心」です。

 いったい何の必然性や妥当性があって、「当然あるべきも

の」などという考えが出て来るのでしょう?

 「こうあるはずだ」あるいは「こうあるべきだ」という勝

手なストーリーを自分の中に作り上げて、実際には存在して

いない状況と比較して、不服を申し立てる・・・。

 「性格わる~う・・」。



 ほとんどの人が、「損した」とか思うことがあるでしょう

から、ほとんどの人は「性格わるい」わけですね。まぁ〈ア

タマが悪い〉わけなんですけども、〈損〉っていったいなん

でしょうね?



 〈損〉というのは、「何かが欠ける」ということだと思っ

ていいんでしょうが、普通一般に「損」と言われる事が本当

に「何かが欠けて」いるのでしょうか?



 私が百万円で買った株が、値下がりして八十万円になって

しまったら「損した!」と思うでしょうが、欠けた二十万円

は誰かの為になっているのですから、「誰かに貢献した」と

考えることも出来ますね。仮に、私が何かに二十万円寄付し

たとしたら(出来ませんが)、私の懐から二十万円が欠けた

わけですが、私は「損した!」とは思いませんね。むしろ、

人の役に立てるという自己肯定感から「得した!」という感

覚を持つ事でしょう。〈損〉とはいったい何でしょう?



 《〈損〉とは、“幸運” が自分をスルーする事 》というこ

とのようです。

 そして、その結果を受けて不愉快に感じた時に、わたした

ちは言います。「損した!」と。

 わたしたちは、「自分に “幸運” が来るべきだ」と思って

いるのです。 そのように思っているからこそ、《 “幸運” が

自分をスルーする事 》を不愉快に感じるわけですね。

 しかし、なんだって「自分に “幸運” が来るべきだ」なん

て思っているのでしょう? 何の根拠や必然性があるという

のでしょうか?



 いつも卵を買うスーパーで卵を買って、たまたまその後に

別のスーパーに行ったら、そっちの方が卵が安かった。

 「損した!」



 よくある事ですが、その心情の裏には「自分に “幸運” が

来るべきだ」という “驕り” のようなものがあるのではない

でしょうか?



 自分は “何様” でしょう?

 なぜ、「自分に “幸運” が来るべき」なのでしょう?

 そもそも “幸運” とは何でしょう?

 「損した!」って言うけれど、いったい何が欠けたのでし

ょう?



 わたしたちは、自分が “何者” かも知らないし、何をもっ

て “幸運” とするかも定まっているわけでもないし、〈損〉

が何かもよく考えたことが無い。

 不愉快に感じた出来事に対して、ほとんど条件反射で「損

した!」というリアクションを取るだけですね。

 本当は、そのまま放っておけばいいだけの事に、ネガティ

ブな反応をするように条件付けられているだけなのでしょ

う。



 “幸運” とは、〈幸福〉を感じやすい巡りあわせのことで

す。

 “自分” とは、社会の関係性の中で持たされた〈自己イメ

ージ〉で、常に「肯定感」を持ちたがっている “欲求” で

す。

 わたしたちは、 “幸運” であることによって、「社会の関

係性の中で肯定された存在である」というイメージを持てる

ので、“幸運” にスルーされると「肯定されていないんじゃ

ないか?」という欠損感を抱きます。つまり「損してる」

と・・・。

 しかし、それは「イメージ」でしかありません。

 〈損〉なんて、存在しません。

 妄想に過ぎません。

 逆に、〈得〉も存在しません。

 のぼせてるに過ぎません。



 どんな出来事も、単に出来事です。

 それは、本質的には決まった意味や価値を持ちませんし、

後にどんな影響をもたらすか分かりません。

 「損した!」などと感じて、その出来事に振り回されてし

まうことこそ〈損〉でしょうし、出来事に振り回されない自

分でいられることが出来るなら、それこそが〈得〉でしょ

う。



 いままで、何度か紹介していますが、曹洞宗のお坊さんだ

った沢木興道という人が、こんな言葉も残しています。

 《「俺、ツマンナイ!」と思うことが

              一番「ツマンナイ」!》



 今年の、アメリカの “長者番付” で、ビル・ゲイツを抜い

て、AmazonのCEOのジェフ・ベゾスががトップになった

ようです。

 そりゃぁ、それだけ金があれば何でも出来るでしょう。

 何の必要もありませんが、秘密裏に私を殺すことだって容

易でしょう。

 けど、何が出来たって、誰に誉められたり尊敬されたり憧

れたりされたって、病気もするし、しわくちゃになってやが

ては死んでしまう “ただの人” です。

 「損だ! 得だ!」と、走り回って興奮しているうちに人

生は過ぎ去り、命は終わります。(まぁ、それも運命です

が)



 何が〈損〉で、何が〈得〉か。

 まず、それをしっかり考えなければ、何をしようと、何が

出来ようと、〈社会〉というエゴの総体に命を食い潰されて

終わるだけでしょう。



 「ちょっとでも得しよう」

 「ちょっとでも損しないようにしよう」

 そう思って、いつも辺りを見回して、鼻をヒクヒクさせて

いるのは、みすぼらしくて、本当の意味で “不幸” なんじゃ

ないかな。まぁ、貧乏人は仕方がない部分があるけどね。

(自己弁護です)