2018年10月14日日曜日

人に人は救えない


 《しあわせになるのに理由はいらない》

 なんてことを言ったりしてますが、人種や民族の差別で酷

い迫害を受けていたり、極端な貧困や虐待の只中にいる子供

たちや、紛争地帯に暮らしていたり、そこから命からがら逃

げだして難民となっている人々、犯罪やテロの暴力に巻き込

まれてしまった人達・・・。その様な人達に「しあわせにな

るのに理由はいらない・・」などと言っても、とてもじゃな

いがそんな精神状態にはなれないはずだ。 

 〈衣食足りて礼節を知る〉というけれど、「礼節」はとも

かく、最低限「衣食」が足りなければ、しあわせを考える余

裕なんか持てるはずがない。


 こんなブログを書いて、しあわせについて語ったりしてい

るけれど、結局のところ、それぞれの人がしあわせでいられ

るかどうかは、“運” でしかない。


 人にとって、世界というものは理不尽で不公平なものだ。


 己の欲望や自己肯定感を満たす為に、他人を傷付けたり搾

取したりすることに苦痛を感じない人間がいっぱいいる。

 そのような人間を「人でなし」だとか「悪魔」だとか「畜

生」だとか言って、「人間とは思えない」と多くの人はそう

考える。しかし、それはまさに〈人間〉だ。ある面で非常に

「人間らしい」のだ。


 この世界には、人間の “狂気” が渦巻いていて止むことが

無い。

 一部の人間が狂っていて、大多数の人間はマトモだなんて

思っているけれど、わたしたちのアタマは「正しさ」を知ら

ないので、いつ自分が “狂気” を爆発させるか知れたもので

はない。

 現代の社会の中で「マトモ」だと思われている事も、その

ほとんどは自然の在り方からすれば「異常」なものだ。それ

が「異常」だと思われていないのだから、その「異常」がい

つ “狂気” として暴れ出しても何の不思議も無い・・・。


 暴力や搾取の対象とされてしまう人はもちろん不運だが、

エゴに深く蝕まれ、強欲や悪意を剥き出して生きてゆく人間

も不運だろう。

 前者は、苦しさに押し潰されそうで自身を顧みる余裕は無

い。一方、後者はエゴに振り回されて自身を見失ってしまっ

ている。


 世の中の見せる価値感から外れていると、人は不安を覚

え、苦しむ。その苦しみから逃れたいが為に、自分を肯定で

きる価値感を持つ集団になんとか入り込もうとするけれど、

その過程で、あるいは結果として、自分の拠って立つ価値観

から外れる者  またはわざと排除した者  をスケープゴ

ートとして踏みつけ、自分の足場とする。

 世の中に、悪意と狂気はあふれているけれど、そのほとん

どはエゴが生み出す(妄想する)不安・恐怖から逃れようと

する結果だ。


 〈自分〉というものの秘める “恐ろしさ” を人は自覚して

おく必要があるし、人が本当に良い世の中を求めるなら、社

会の方が個人に「自分の持つ恐ろしさ」を自覚しておくよう

に働きかけるべきだろうね。「べき」なんて言ってもどうし

ようもないけれどね・・・。


 たまたま縁のあった人、自分を顧みる余裕のある人に、そ

して私自身に、《理由もなくしあわせ》になってもらえたら

と、このブログを書いているけれど、それが一つでも二つで

も実現するかどうかは、私の力の及ぶところではない。(そ

もそも「私の力」なんて無いし・・。たんなる言葉のあやで

す)


 ほんと、話を聞いただけで、涙が出て来るような、理不尽

さでこちらの身体が怒りに震えような境遇に置かれている人

が大勢いる。

 その理不尽さを作り出して、他人を抑圧して喰い物にして

いる人間の側の救いの無さにも暗澹たる気持ちになる。

 どうにもこうにも、心が冷える・・。


 どうにもならない。

 私は、奇跡的な縁を願って、誰かが自分を愛せるキッカケ

になるように祈りながら、今日も「狂気」かも知れない話を

綴るだけだ。止むに止まれず、自分でもなぜそうするかも分

からずに・・・。


 人に人は救えない。

 人を通して「救い」が来ることはあってもね・・・。

 縁があれば、自分でしあわせになれるということでしかな

い・・・。


 溜め息が出るけれど、私がため息をつくのも随分な話だ。

私は救世主じゃないんだから。

 「人が人を救える」とか「自分が人を救えたら」なんて思

うのも、“悪魔のささやき” だと思っておいた方がいいだろ

う。

 「人の為」なんて意識は、エゴが自分の満足を得る為の偽

装でしかない可能性が高い。

 〈愛〉は “無心” だろう。

 すべては止むに止まれず動いて行くのだ・・・








 

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