2023年12月17日日曜日

“自分” ほど鬱陶しいものはない



 You Tube で、サムネに【ブッダの教え】なんて書いてあ

る動画をちょっと見てみたら、「自分らしく生きるために」

みたいな話で自己啓発本なんかによくあるような内容で、

「これのどこが【ブッダの教え】だ」と少し不快になった

(私が【ブッダの教え】を間違わずに理解している保証もな

いけれど・・・)。


 で、「自分は『自分らしさ』についてどんなことをブログ

に書いていたっけ?」と思って、以前のブログ(『自分らし

さに惑わされて』2023/7・『「自分らしさは自分じゃないで

しょう』2019/2)を読み返していたら、 “自分” がするこ

とは、要求ばっかりです」なんて書いてあって、その言葉を

深掘りしたくなった。ホント、“自分” がすることは要求ばっ

かり。

 他人にも要求するけれど、自分自身に対しても要求ばっか

りする。

 「それじゃいけない」「ああしろ」「こうしろ」と、“自

分” ほど、自分にとって鬱陶しいものはないというのが普通

でしょう。まぁ、その「普通」に気が付かないのが普通だろ

けど。


 このブログを始めてすぐに書いたことで、《 意識(自意

識)というものは社会が脳の中に浸潤して来たもので、どち

らかと言えば自分ではなく社会に属するものです 》というの

があるけれど(『意識というものは・・・』2017/1 )、“自

分” というものはわたしたちに忍び込んでいる社会なので、

わたしたちのために活動しているのではありません。だから

「ああしろ」「こうしろ」と鬱陶しいわけです。要するに

 〈 アタマが悪い 〉ということですね。


 【ブッダの教え】の基本的なことに「無我」というものが

あるけれど、「我なんて無いんだ」ということで、「我とい

うものは、本当の自分じゃないですよ」と教えてくれている

わけですね。本当の自分じゃないものに関わっていると、本

当の自分を生きられなくなるのは当然のことで、本当の自分

を生きられないのなら、それは不幸に決まっているでしょ

う。

 なので【ブッダの教え】といいながら、自己啓発本のよう

に「自分らしく生きること」が「社会的に成功することや安

定すること」のように教えている動画を見て、私は不愉快に

なるわけです。


 「自分らしく生きたい」「自分らしく生きよう」と自分に

言っている “自分” に「ちょっと静かにしろ!鬱陶しい!」と

黙らせて、いまのこの自分を味わってみるのは、やってみる

打ちのあることだと思うのです。

 「自分らしく」なかろうがどうであろうが、いま自分は生

きている。誰もが、この宇宙で一回こっきりのそれぞれの人

生のいまを生きている。脳の中に忍び込んだ社会(アタマ)

とは無関係の自分がある。それは何にも縛られていない。何

も求めていない。何も恐れていない。自分らしくする必要な

どない自分が在る。




2023年12月9日土曜日

仕事に酔う人々



 日本は人手不足なんだそう。

 少子高齢化や、きつい仕事が嫌われることなどが原因だと

か言われる。まぁ確かにそれはあるのだろうけど、私には違

う理由も見える。

 文化が爛熟し、文明が進み、提供される生活の質、娯楽の

バリエーションが無制限に拡大されたことで、仕事の種類と

量が社会がカバー出来得る範囲を超えたのだろう。

 十人の人がいて、仕事の種類と分量が11有ったら当然人

手が足りない。そういうことがあからさまに顕在化したんだ

ろうと思う。


 十人で11種類の仕事をなんとかしようとすると、当然一

人が 1.1 の仕事をしなければならない。実際には、日本では 

1.5 ぐらいの仕事をするはめになっていることが多いだろう

から、過重労働になって、パワハラが起きて、鬱病になった

りするけれど、それでもまだ足りないということになってし

まったんだろうなぁ。

 あれもこれもと欲張り過ぎて、自分で自分の首を絞めてい

るのだろう。「足るを知れ」という言葉はすごく昔に発せら

れたものだけど、人間はそれが得意じゃない。

 社会は人手不足だけど、個人は時間不足・お金不足・睡眠

不足・リア充不足・自己肯定不足・・・・。足るを知れ。


 個人が足るを知ったら、社会に求めるものも減るので、仕

事の種類と量も減って人手不足も緩和されるだろう。


 経済が衰退する? 


 今の人間は経済の奴隷で(『リアルマトリックス』

2017/3 参照)、そのせいで人間の方が衰退しているんだろ

うし・・・。人間の本来あるべき姿に近付くだろうと思うか

ら、経済ぐらい衰退した方がいいんじゃないか? (本当にそ

うなったら、私は真っ先に困る立場の人間だろうけど 😂 )


 仕事って本質的に何なのか? そんなこと、ほとんど誰も考

えたりしない。普通は「生活するお金を稼ぐための行為」

「人生に充実感を持たせるための行為」という二つが回答と

して出てくるだろう。そして「イイカッコする為のパフォー

マンス」という側面もあるだろう。それが人間にとっての仕

事。ならば、人間以外の生き物にとっての仕事とはどういう

ものか?

 「食べ物を得ること、子孫を残すこと」、以上、終わり。

彼らはシンプルでいい。けれど、人間も同じ生き物なので、

人間にとっての仕事も、本当は「食べ物を得ること、子孫を

残すこと。以上、終わり」のはずなのです。


 澤木興道老師がこんな言葉を遺している。


 人間ぐらい悩ましい動物はない。

 複雑なエサを食いやがって、なにをやっておるのかと思え

 ばダンスでもやりおる。妙な科学なんか発明して水素爆弾

 やミサイルやら、   あい打ちしよる。
                                                                                           
                   『禅に聞け』より


 もともと他の生き物と同じように、人間の仕事(すべきこ

と)もシンプルなはずなのに、なんでもかんでも複雑に過剰

にしてしまうのがわたしたち人間だ。そして、その複雑さと

過剰さに興奮して喜んだりもする。オマケが大好きなんだ

ね。

 そして、そのオマケに異常で過剰な価値を与えすぎて、オ

マケの為に人生を費やしている。他人から褒められたり自尊

心が高まったりするのが気持ちいいからだけど、それと引き

換えに失っているものについては気が付かない。あるいは気

が付かないようにしている。


 「言ってはならない真実」

 「聞いてはならない真実」

 誰もが意識の奥の方でそれを知っていて、言わないよう

に、聞かないようにしている。

 それぞれの人が、それを聞いてしまっても、そういう話は

理解できないようにするプログラムをアタマの中に持ってい

るし、そういう話をする人間は嫌われる。場合によっては殺

されることもある。(私がネットの辺境でこんなことを「ブ

ツブツ」言っているのも、殺されないためです😄)「言って

はならない真実」というのが有るのではなくて、「真実」と

いうものは、すべからく「言ってはいけない」のかもしれな

いね。


 澤木老師の言葉にあるように、人間のしていることはほと

んど余計なことで、当然ながら「仕事」というものも本当は

する必要のないものです。現代では特にそうです。

 象徴的なのがビットコインのマイニング。そのために世界

で使われる電力は、日本の総電力使用量の15%にあたるそう

ですけど、やってることは “金儲け依存症者” のコンピュータ

上のシーソーゲームで、何も生みださずただ膨大なエネルギ

ーを消費しているだけ。

 落語で、八っぁんと熊さんが二人で酒樽を担いで売りに行

く途中に、自分で飲みたくなって「代金を払うから飲ませ

ろ」と相方に金を渡して一杯飲み、その姿を見て相方も飲み

たくなって、「今度はオレが金を払うから飲ませろ」と言っ

て飲み、そうやって金をやり取りしながら飲み続けて、売り

物の酒は無くなった。手元に有るのは元々有った自分たちの

小銭だけ・・・という話があるけど、それと同じ。のっぴき

ならない事態を引き起こして酔いがさめた時に愚かさに気付

くのでしょうけどね。


 「仕事が大事」なんてことを言って、仕事がその人の価値

を計る大きな目安みたいになっているけれど、大抵は自尊心

の担保と達成感から脳内で分泌されるドーパミンやアドレナ

リンに酔っているだけのことです。


 こんなことを言うと嫌われます。「言ってはならない真

実」だからでしょう。けれど、酔っぱらいながら生きるのが

良い人生でしょうか?


 現代に生きるわたしたちは「仕事」をしなければしようが

ない。だけども、酔い過ぎるのと酔い続けるのは避けた方が

良さそうではないですか?

 ときどき酒を楽しむように、仕事もほどほどにした方が良

い人生ではないでしょうか?

 まぁ、人それぞれ好き好きですし、どのように仕事をする

かも「ご縁」しだいですけど、「仕事」というものは賞賛さ

れるばかりのものではないと私は思う。一見大事な仕事に思

えてもね。


 もちろん、わたしたちが生きる為に本当に必要な仕事とい

うものも有るけれど、それは決して「酔う」ためのものでは

ない。

 仕事に酔ったりしたくない人でも、すでに酔っぱらってる

人間に引きずりまわされてしまうようなことも沢山あるし、

なかなかそれを逃れられない。けれど、“ぼったくりバー” み

たいなところに連れていかれそうになった時は、蹴り飛ばし

てでも逃げる方が身の為でしょう。


 わたしたちが本当にすべき仕事は、いわゆる「仕事」から

退いた時に、自ずと表れて来るものでしょうね。



 

2023年11月26日日曜日

やり過ごす



 この前『必然だから』という話を書いた時、最後の方で 

“「必然」をやり過ごす” と書いたけれど、「やり過ごす」と

いうのはかなり重要なキーワードだなと思う。


 和尚(ラジニーシ)の本にある逸話で、昔、ある王が、賢

者に自分を見失わない為の言葉を与えてくれと頼み、その言

葉を指輪に仕込んでいたそうだ。そして絶体絶命のピンチに

陥った時、初めてその指輪を開いてその言葉を見た。そこに

はこう書かれていた。

 「これもまた過ぎ去る」

 王はその言葉に安らいで、運命に身を任せることにしたと

ころ、状況は良い方に転じて命拾いをしたという。その後

も、王は自分を見失いそうになる時はその指輪を開き、その

言葉を見て安らぎを覚えるようになった。


 「これもまた過ぎ去る」


 すべては過ぎ去って行く。

 好ましい運命も、苛酷な運命も過ぎ去って行く。

 この生命も過ぎ去る。

 自分の死も過ぎ去る。


 すべては過ぎ去るものなのに、わたしたちは自らそれに関

わることで、それに押し込まれたり、それに引きずられたり

して苦しんでいる。

 すべては過ぎ去る。

 わたしたちが「自分」だと思っている、このエゴも過ぎ去

る。

 過ぎ去るものなら、それは眺めているべきものではないだ

ろうか。


 やり過ごす。


 どのような出来事も、その時々のお話しでしかない。けれ

ど、関わらざるを得ないことも当然ある。腹が減ったら食べ

なければしようがない。自分がガンになったとしたら関わら

ざるを得ない。けれど、そういったことでも、“自分が関わっ

ているという状況” という出来事自体が過ぎ去る。自分その

ものも過ぎ去る。

 無視するというのではなく、出来事を見守ってやり過ごす

のならば、わたしたちの意識はその影響を受けない。乱され

ない。


 江戸時代の有名な禅僧である白隠は、ある時近くに住む娘

を孕ませたという嫌疑をかけられた。

 激怒して怒鳴り込んで来た娘の両親に対して、白隠は何の

弁明もせず「ほう、そうか」とだけ言った。実は娘は他の男

と関係を持っていて、その男を守ろうとして嘘をついていた

のだが、白隠はただ黙って成り行きを受け入れていた。

 白隠の態度を見て良心の呵責に耐えられなくなった娘が両

親に本当のことを話すと、両親は慌てて白隠の所を訪れて謝

罪した。すると白隠は「ほう、そうか」とだけ言った。


 この白隠の話は作り話のような気もするが、別に作り話で

もいい。そこに語られていることがわたしたちのヒントにな

るならそれでいい。

 白隠は自分の運命を眺めている。

 なぜ関わりながら眺めていられるか?

 〈自分〉という命の本質は、出来事とは違う次元を生きて

いると感じているからだろう。


 今年の暑い夏が過ぎ、なにやらハッキリしない秋も過ぎ、

冬がやって来る。

 わたしの前を、季節は何十回も過ぎ去って行った。見守る

意識でやり過ごすならば、それらは美しく懐かしい記憶とし

て思い起こされる。

 過去に関わってしまった事でも、それを意識の上で改めて

やり過ごすならば、過去の記憶のトゲは抜かれる。すべては

過ぎ去って、もうここには無いのだから。


 「いま」も過ぎ去る。

 「未来」も過ぎ去る。

 わたしたちの思考や感情も過ぎ去る。

 ただ〈自分〉の意識だけがここにとどまっている。

 〈自分〉はいつも、出来事の外で安らいでいる。




2023年11月19日日曜日

みんな予言者 🤪



 その昔、『ノストラダムスの大予言』という本がベストセ

ラーになった。私も読んだ。いまでも、予言とか終末論みた

いなのはもてはやされる。私も、そういう話を面白半分には

見る。けれど、「未来に何が起ころうが知ったこっちゃな

い」というのが、いまの私の本音です。 


 人間はこの世界のパーツの一つですよ。そんな存在である

人間が、「人間に何が起こるか?」と考えることが、そもそ

も思い上がり。何が起きてもいじゃん。どうせ、いつか必ず

みんな死ぬんだし。


 なげやりですか?


 でも「来年、何が起きるか?」と考える時、その人は来年

も当然のように自分が生きていると思っているわけですが、

いったい何を根拠にそう思うのでしょう?「あなたは来年ま

で生きている」という予言でも聞いたのでしょうか?


 未来を知ろうが知るまいが、放っておいたら未来はやって

来る。どうにかしようとしても、どうにかしようとすること

も取り込んだ上で、どうにかしようとしたことを取り込んだ

未来がやって来る。わたしたちが「知っている未来」が来る

ことはない。


 企業が「未来を作る」とかいう CM を流したりす

る・・・。ああいうのを見ると私は笑ってしまうんだけど、

同時に不快感もある。「その、アンタらがいじくった “未来”

に責任は持つのかよ?」などと思ってしまうので・・・。


 「 “未来” とは何か」なんて考えてみたことも無く、凡庸な

ノリで “未来” なんてことを口にする。そういうのを見ると

「未来は暗いなぁ・・・」と感じてしまう。


 『未来は無い』(2017/3)。このブログではそういうこと

も書いた。もう6年以上前のことですが、その頃はまだ誰一

人このブログを見た人はいなかった。その時にいまのような

状況はまったく想像もしていなかった。

 いまのような自分の状況も、まわりの状況も、コロナ騒動

も物価の上昇も外国の戦争も・・・。


 未来は無い。無いものを誰も知りようがない。無いものに

気を使うのは暇人(ひまじん)のすること。

 未来は無い。無いものを誰も知りようがない。無いものに

は気を使わないのは閑人(ひまじん)のすること。「ひまじ

ん」でいるなら、「閑人」でいるほうが楽しいだろう。


 予言を気にするというのは、自分と世の中がどう関わるこ

とになるかが気になるということで、世の中にとらわれ過ぎ

てるわけです。けれど、前もってそれを知ることができたと

して、自分の力で世の中を変えることができますか? 本当に

未来を知ることができたところで、どうしようもない。どう

にかできるなんて思うのなら、かなり妄想癖が進んでいるで

しょう。先に書いたように「どうにかしようとしたことを取

り込んだ未来がやって来る」だけです。


 この前『ゴジラ -1.0』を観て来たことを書きましたが、あ

の後ふと思ったのが、「ゴジラを倒そうとせずに放っておい

たらどうなるのか?」ということ。

 これまでの映画で、ゴジラは何度も日本に上陸しては街を

破壊し、そして海へと戻る。

 人々は対策を練り、ゴジラを倒そうとする。『シン・ゴジ

ラ』ではそのせいでゴジラを怒らせ、かえって壊滅的な被害

を受けたけれど、放っておいたらゴジラはどうするのだろ

う?

 何度も何度も上陸しては、街を破壊するのだろうか?

 もしかしたら、もうやって来なくなるかもしれない。上陸

してそのまま日本海へ抜けて行くかもしれない。日本アルプ

スあたりにお気に入りの場所を見つけて、そこで静かに暮ら

すかもしれない。誰もどうなるかしらない。けれど、映画の

中では「またやって来て破壊の限りを尽くすだろう」と想定

して、必ず戦いに持ち込む。それはなぜか? わたしたちが、

戦うことが好きだからでしょうねぇ。

 未来を守りたいというのは表面上の意識で、本当は、戦う

ことでエゴが自身の存在の手ごたえを得たいのではないのだ

ろうかと思う。

 確定していない未来に、確定しているかのようなストーリ

ーを投影して危機感を覚え、「戦わなくては、わたしたちの

未来は無い」と思うけれど、それは表向きの理由なのでは?


 「わたしたちの未来」とは、「わたしたちが夢見る未来」

「わたしたちが作ってゆく未来」ということでしょうけど、

「わたしたちが夢見ない、作らない未来」というものを想像

してみてもいいんじゃないだろうか?


 未来に自分たちの希望を描き、それを実現させようと未来

に手を出す。いまあるものを変えようとする。それはもしか

したら未来を汚しているのかもしれない。思いもかけない面

白い未来が来る可能性を潰しているのかもしれない。なにせ

未来は誰もしらない。

 ところが、「未来が分かる」という人が現れて予言をした

りする。

 予言がなされるというのは「未来が確定している」という

ことです。確定しているのなら、それは必ず起こる。必ず起

こる事を事前に聞かされたところで、「だからどうしろ

と?」ということになる。必ず起こっちゃうんでしょ? 仮

に、その時が来るまでの努力で予言が覆るのなら、それは予

言が間違っていたということになる。予言は役立たずでご都

合主義です。


 予言とはそういうものですが、実は誰も彼もがしょっちゅ

う自分の未来を予言して、良い予言ならその予言の内容が現

実になるようにとか、悪い予言ならそれを回避するようにと

かしています。普通は「予想」とか「想定」とかいいますけ

ど、実のところ、それは予言ですよね。凄いですね。みんな

未来を見通す力を持っているのですよ・・・。


 『未来は無い』という話を書いた私ですが、仮に未来が有

るとして、未来はやって来るものでしょうか? 違うでしょう

ね。未来はここから生まれるものだと思います。ここから展

開して行くものだと思います。

 本当の未来はどこかからやって来るお話しではない。

 世界やわたしたち自身を変えようとする働きから生まれる

ものです。

 わたしたちひとりひとりは、自分の中に自分の未来を抱え

ている。それはわたしたち(エゴ)の自由にはなりませんけ

ど、自分から生まれて来る未来を受け止め続けるのは、結構

ドラマチックで楽しいことではないでしょうか?