2018年12月31日月曜日

止まれ!



 大晦日です。

 《光陰矢のごとし》。

 《月日は百代の過客にして・・云々》。

 そして《諸行無常》。

 気付けば、一年は過ぎ去り、跡形もない。

 記憶の中では、この一年は存在したけれど、はて、それが

本当にあったかどうか?


 べつにボケてるんじゃないですよ。「過去の出来事が実際

にあったかどうかは、本当は検証不可能だなぁ」と思うだけ

です。

 なぜなら、過去を検証しようとする行為自体が次の瞬間に

は過去になってしまいますから、“過去を検証しようとする

行為” が過去にあったかどうかの検証が必要になります。そ

うやって、無限に検証が必要になってしまうので、「検証不

可能」だというわけです。

 メンドウなこと言ってますが、べつにそれでどうこうとい

うことではありません。大晦日を迎えて、「思考」で遊んで

るだけです。



 とはいえ、そのように《諸行無常》で捉えどころのない年

月を、わたしたちは一年で区切って「良かった」の「悪かっ

た」のと採点したりする。

 この一年が百点だろうが十点だろうが、そんなものもう無

い。“イイ想い出” でも有る人はちょっと機嫌良くなれるか

もしれないけれど、それだけのことでしかない。まぁ、一年

の記憶が商売の役に立ったりはするのだろうけど。



 この一年がどうであれ、今こうして生きているのなら、百

点じゃないの?


 わたしたちには、“今” しかない。

 “今” があるのなら、わたしたちは生きている。

 “生きること” って、“今” があって “生きている” ってこ

とがすべてだから、「今、生きている」のなら百点でしょ

う。

 で、生きている人は、誰もが「今、生きている」のだか

ら、生きている人は、みんな百点でしょう。

 さらに、すでに死んだ人も、死ぬ瞬間までは「今、生きて

いる(今、を生きていた)」ということだったのだから、み

んな百点でしょう。


 そんな風には思えないと言われるかもしれないけれど、わ

たしたちの〈アタマ〉がしゃしゃり出て、もうすでに無い過

去にこだわって、妄想して、比べて、評価しなければ、《諸

行無常》でサッパリしたものです。

 “今、生きている人” は、「生きている」という一点にお

いて、誰も彼も等価です。

 生命にとって、「生きている」ということがその真価であ

って、人であれ他の生き物であれ、それ以外の事は枝葉末節

の事でしかありません。

 “今、生きている” のなら、それで完璧です。



 『いま生きているということ』という、小室等さんの曲が

ある。谷川俊太郎さんの詩に小室さんが曲をつけて、1976

に発表した曲。

 当時、中学三年生だった私は、生まれて初めてコンサート

というものに行きました。それが、神戸文化ホール・中ホー

ルであった、小室等さんのコンサートで、その時に生でこの

曲を聴き、とても感動した。


 この世界で、この瞬間、無数の出来事が起っていて、そこ

にはそれぞれ、その出来事を受ける人がいる。出来事そのも

のである、その人がいる。今、生きている一人一人が・・。


 無数の命が今を生きている中で、ただ人間だけが命以外の

事に惑わされ、今生きていることの価値を受け取りそこな

う。

 〈アタマ〉を持ち、「思考」せざるを得ないわたしたち人

間が、区別し、評価することから解放されることはとても難

しい。

 過去を抱え込み、未来を妄想し、〈アタマ〉は「思考」し

続ける・・・。


 「止まれ!」


 今、生きているこの時、この場所、この命を味わう為に。

 今、生きているこの時、この場所、この命に親しむ為に。


 振り返ることを止めない、先走ることを止めないわたした

ちの〈アタマ〉に号令を掛ける。


 「止まれ!」 と。


 一年を締めくくり、新しい年の始まりに気持ちを入れ替え

るなら、自分にそう言ってみるのもいいんじゃないかと思

う。


 2019年 1月1日.午前 0 時。


 「止まれ!」


 自分を、命を、確かめる。



 良いお年を。






 




2018年12月30日日曜日

“状況” はどうだい?


 BUNP OF CHICKEN の名曲『ロストマン』は、「状況

はどうだい?」という歌詞で始まります。


 ここで使われている「状況」という言葉に、作者である

Fuji くんがどこまでの意味を込めているのかは分かりませ

んが、私にとっての「状況」という言葉は、ほとんど「世

界」または「宇宙」という言葉と同義です。



 「状況」というと、まわりの環境といった意味合いで使わ

れていると思いますが、私からすれば、自分の “状況” も含

めた、「世界全体のその時の在りよう」のことです。


 「背が高い。足が短い。肌が荒れている。風邪を引いてい

る。腰が痛い」というようなからだの状態や、「イライラす

る。ウキウキする。悩んでいる。腹が立っている。彼氏の事

を考えている」といった頭と心の状態も、自分の “状況” で

すね。

 世界との関わりの中で、自分の “状況” というものが決定

されてしまいますから、〈自分〉というものは、物理的にも

精神的にも世界の “状況” の一部です。この世界には、今、

この時の “状況” というものがあるだけであって、〈自分〉

というものは存在していません。ただ単に、わたしたちの思

考が、世界を〈自分〉と〈それを取り巻くもの〉に区別する

ので、〈自分〉というものが有るように思えるだけです。

 そうでしょ? 眠ってしまえば、〈自分〉も何もありませ

ん。〈自分〉は思考の産物です。


 さらに、わたしたちの周りにいる人たち(個人)は、わた

しの思考の産物です。

 そりゃあ確かに私の家族とか友達とか、好きな芸能人とい

うのは実在していますよ。その身体とか行動はね。

 でも、その名前とか、その人の性格とか、その人の経歴な

どといったパーソナルイメージというものは、周りの人たち

の思考に過ぎないのであって、その人自身に “実在” してい

るのではありません。〈自分〉とか、〈その人〉というの

は、わたしたちが社会生活を送る上での、便宜上の約束事と

いったものです。

 人間は社会生活を必要とする生物なので、どうしても〈自

分〉と〈自分以外の人〉を設定しがちです。


 わたしたちは普通、〈自分〉というものを、「世界の状況

の一部」だなんて思っていません。「世界の状況の中に〈自

分〉という独立した存在が置かれている」と思っています。

 でも、それが〈アタマ〉が起こす根本的な間違いで、そこ

からわたしたち人間のさまざまな苦悩が生まれます。


 わたしたちが〈世界〉と〈自分〉を区別するようになった

のは、わたしたち人間に「思考」というものが生まれたため

ですが、わたしたちが「思考」を持ってしまったのはわたし

たちの責任ではありません。気が付いたら「思考」していた

のですね。

 〈アタマ〉が悪さをして、わたしたちは苦悩し、数え切れ

ない問題を生み出すのですが、その〈アタマ〉はわたしたち

が望んで持ったものではありませんから、その点に関してだ

けはわたしたちは責任を持つ必要はないでしょう。「オレ、

知らないもん!」と鼻歌を歌っていたっていい。


 とはいえ、〈アタマ〉の悪さを放ったらかしにして、事故

(肉体的・精神的・社会的な)を起こせば、痛い目に合うこ

とに変わりはありませんから、注意は必要ですね。


 「世の中で何が起ろうが、自分が何をしでかそうが、わた

しの責任だけど、わたしの責任じゃない」

 というような態度が求められます。


 意味がわからない?


 わたしたちは “世界の状況” の一部です。

 〈自分〉というものは「有るように見えるだけ」のもので

す。

 「有るように見える」部分での責任はありますが、そもそ

もは「無い」のですから、「無いもの」に責任の持ちようも

ありません。だから「自分の責任だけど、自分の責任じゃな

い」ということです。


 よく分からない面倒なことを言っていますが、「ケース 

バイ ケースで機嫌良くやりましょう!」というようなこと

でしょう。


 「わけの分からないことを並べ立てて、結論がそれか

よ!」と思われたかもしれませんね。でも「世界と自分は

別」という認識でいるのと、「世界と自分は分れていない」

という認識でいるのとでは、「機嫌良くやる!」為の方法論

に違いが出ます。

 《 “状況” の中に〈自分〉が居るのではなく、〈自分〉も 

“状況” なのだ 》という前提は、おのずとわたしたちの考え

と行動を変えます。そして、その変化は「良いもの」だと私

は思っています。


 と、このような文章を読む “状況” に陥ってしまった〈あ

なた〉の、 「 “状況” はどうだい?」。




2018年12月26日水曜日

弱音を吐ける強さ~BUNP OF CHICKEN の「本当」


 この頃、BUNP OF CHICKEN をよく聴いている。

 メジャーデビュー当時から好きだが、今回は第四次のマイ

ブームといったところ。



 彼らの曲の魅力は改めて言うまでもないが、その一つを挙

げるとしたら、バンド名とも絡むが「弱音を吐いてしまう」

ということにある。

 「強さを求める」気持ちはあるけれど、BUNP は「強が

らない」「強いふりをしない」。

 弱さをさらけだしてしまうことが、Fuji くんのボーカル

と相まって、曲に血を通わせる。BUNP OF CHICKEN に

多くの人が惹かれるのは、彼らの音楽には血が通っているか

らだろう。



 そこには、薄暗く、見通しの利かない社会の中を彷徨い続

け、くたくたになって座り込んでしまいそうになりながら、

なんとか立っている生身の人間がいる。綺麗ごとでも、お為

ごかしでもない、その「生」の言葉が、同じような思いをし

ている人たちを勇気づける。


 〈 生活は平凡です 平凡でも困難です ・・・・・

   ・・・・・・死にたくなるよ 生きていたいよ 〉

                才悩人応援歌  



   バンドをやろうなんて人間は、イイカッコを言いたいも

のです。「強くなろう!」なんて・・・。

 しかし、BUNP は「強くなれない・・。上手く行かな

い・・。どうにかこうにか生きている・・」といった “弱

音” を吐く・・・。はなはだカッコワルイ。でもそれが人間

の「本当」だろう。「本当」だから、言う。


 弱音を吐く音楽というものは、もちろんこれまでもあった

し、多くの共感を得てヒットした名曲もいろいろとある。た

だ、BUNP の吐く弱音はあまりにも「生」だ。リアル過ぎ

る。なぜそうなのかはよく分からないけれど、要するに「本

当」を歌っているからだろう。

 そういった「本当」を表明する者が珍しいということは、

逆に言えば、世の中は「本当じゃない」言葉であふれている

ということです。


 誰だって弱音を吐くことはある。けれど、基本的に「弱音

を吐くこと」は歓迎されない。“イケナイこと” に分類され

ている。だから、誰もが、弱音を吐かないようにしているの

だが、それは “イイこと” なのか?
 

 「弱音ぐらい吐かせろよ」と言いたいね。


 たぶん、世界中で、「弱音」はしまい込まれている。しま

い込まされている。


 「弱くてはいけない」

 「強さを持たなければいけない」

 でも、なぜ?


 わたしたちは何も分からないまま、何か」を得ようとす

るエゴとエゴの闘争の中に放り込まれる。その中では、「強

くなければいけない」。

 弱みを見せると軽く見られ、バカにされ、食いものにされ

てしまう・・・。だから、自分を守る為には、弱音を吐くわ

けにはいかない。ごく身近な人の前で、ごくたまにだけ許さ

れるぐらいだ。


 誰もが、「弱音を吐かず」、「強くあろう」とするけれ

ど、そんな生き方に向かわせる世の中は、本当に “良い世の

中” なのか?

 誰もが気楽に弱音を吐ける世の中の方が、人間的で、自然

で、生きやすい平和な世の中なんじゃないだろうか。


 そりゃぁね、毎日毎日、朝から晩まで弱音を吐いているよ

うな人間はウザイですよ。そういう人間にはカウンセリング

が必要です。「もう、死んだら?」ぐらいのことを言われた

としてもしようがない。

 けれどね、小さな弱音を一日に二~三回。大きな弱音を年

に一~二回吐くぐらいが、人間として健全なんじゃないかと

思う。それを “イケナイこと” と見做す世の中の方が、たぶ

病気なんですよ。人間の本来性から外れた「何か」に、無

用な自己否定を強いられているですよ(まさに「強いられ

て」いるんですね)。


 想像して欲しい。

 誰もが、苦しい時には気軽に弱音を吐き合える世の中を。

 どう考えたって、生き易いでしょう。

 苦しかったら弱音を吐いて、その時、力を出せる人は弱音

を吐いている人を助けてあげる。そうやって「お互い様」で

動いて行く・・・。弱音を吐いたからって、社会が停滞する

わけじゃない。むしろ、物事がスムーズに進んで行く気がす

る。


 もしも、世界中の男が素直に弱音を吐けたら、戦争なんて

無くなるだろう。

 「殺し合いなんてやだよ。死ぬのは嫌だし、ケガしたら痛

いだろ?」

 そんな「弱虫」ばっかりだったら、どうやって戦争する?


 けれど、現実の世の中は「弱音」を否定する。

 その方が、『誰か』に都合が良いんでしょうね。



 そんな、この世の中で、BUNP OF CHICKEN は大きな

声で「弱音」を吐く。

 バカにされたり、なめられたりするリスクがあるのは承知

の上で、それでも「本当」だから言わずにいられない。


 それは、ひとつの勇気の形だろう。

 それは、あきらかに「強さ」だろう。

 それは、「強がり」ではない「強さ」だろう。


 「強さ」といっても、「弱さ」を逆手に取って “弱者の論

理” を振りかざすような姑息なものではない。人として当然

持っている「弱さ」を、お互いに認めようというだけの話だ

と思う。「 “本当” を認める強さ」とでも言うべきか・・。


 “強がりごっこ” が、いつから続いているのかは知らない

けれど、もうそろそろお終いにしてもいいいんじゃないか。

 それが、“ごっこ” に過ぎないことを、本当は誰もが口に

したいのだろうと思うし・・・(だからこそ BUNP が支持

される)。
 

 とはいうものの、エゴの強い者は抵抗するだろうけどね。

 エゴは世界征服を目指してるから、「強さ」という “支配

の策略” を手放したくはない。世界を征服したところで、何

にもならないんだけどね。それが分からない。〈アタマ〉は

バカだから。


 誰にでも得意なことと苦手な事がある。

 誰にでも、強くいられる時と弱音を吐きたい時がある。

 それが自然。それが人間。

 そんな当たり前の事が、何故受け入れられない?


 弱音を吐かせてあげられるというのは、愛なんだけどね。






 
 

2018年12月22日土曜日

そもそも、「正しい」ということが “間違い” なんです


 毎回々々、口から出まかせを書き連ねて、今回で三百回目

になる。

 言ってる事は同じで、年寄りの繰り言のようでもある。



 「わたしたち人間の、〈アタマ〉は悪い。気を付けましょ

う」

 それだけのことです。



 わたしたちは「自分が正しい」と思っている。

 「自分は間違っている」と言う時も、「『自分は間違って

いる』というわたしの認識は正しい」という、持って回っ

た “正しさ” を隠し持っている。



 さらにわたしたちは、この世界に「正しいこと」が存在す

ると思っている。

 この世界に存在している “正しさ” を見つけ、認識し、そ

れに拠って立てば、「自分は正しい存在である」と思う。 

 しかし、この世界に「正しいこと」は存在しない。

 「正しいこと」が存在するのは、わたしたちの〈アタマ〉

の中だけだ。自分が「正しい」としていることが「正しい」

というだけでしかない。“正しさ” は人それぞれに違う。人

それぞれどころか、一人の人間の中でも気分や状況によって

“正しさ” は変わる。



 わたしたちは、「正しい」判断をし、「正しい」行動をと

れば「間違いが無い」と考えるので、常に “正しさ” を求め

るけれど、“正しさ” ほど当てにならないものは無い。

 “正しさ” には、何の実態もありません。



 アメリカの “正しさ” は、中国からすれば「間違い」。

 中国の “正しさ” は、アメリカからすれば「間違い」。

 ダンナの “正しさ” は、妻からすれば「間違い」。

 妻の “正しさ” は、ダンナからすれば「間違い」。



 みんな自分の都合の良いように、好き勝手に「正しいこ

と」を言う。ほんとうに始末が悪い・・・。



 誰もが “「正しいこと」がある” ということにしておきた

い。そうしないと、自分の言うこと為すことが、「自分の都

合でしかない」ということが表沙汰になるので、好き勝手が

しにくくなる。

 「それは、お前の都合だろ!」

 その一言で、終わらされてしまいますからね。



 何度も何度も言わなければならない。

 《 「正しい」とは、

    そういうことにしておけば気が済むということ 》

 でしかないと。



 初めてこの言葉にふれた人は、うっかり「その言葉

は、“正しい” のかよ?」などとツッコんではいけません。

泥沼にハマりますよ(などと言って、わざと泥沼にさそう悪

い奴・・は、私です)。それはともかく、本当に考えてみて

欲しいんです。「正しい」とは、そう定義するしかないんで

す。


 「正しい」は、わたしたちの〈アタマ〉の中にしかない。

 言葉を変えれば、ある文脈の中だけでしか成立しない。


 “正しさ” が良いことをもたらすのは、その “正しさ” が有

効な文脈(状況)の中だけです。つまり “正しさ” は常に、

「条件付きで、『正しい』」ということです。


 わたしたちは、人の意見を認めたりする時に「正し・・」

と前置きすることがありますね。あれは条件を付けているわ

けですが、「正し」または「正す」という言葉は、“条件付

け” や “方向付け” をするという事でしかありません。「正

しい」という言葉も同じです。

 ところがわたしたちは、「正しい」という言葉に、〈絶対

の善〉とでも言う様な意味合いを持たせている様です。


 「正しい」という言葉を定義する時に、わたしたちは

「【正しい】とは、正しいことである」としか言えません。

 【正しい】を ”正しく” 定義することは不可能だからです

(分かってもらえますよね?)。

 その結果、誰が・何を「正しい」と主張しようが、誰もそ

の “正しさ” を否定する事ができません。なぜなら、誰も

「正しい」という事がどういうことなのか、「正しい」が何

なのかを知らないからです。


 その「正しい」の得体の知れなさを分かって欲しくて、

《「正しい」とは、そういうことにしておけば気が済むとい

うこと》だと、私は言うのです。


 「正しい」を主張し、訴える人を動かしているのは、べつ

に〈善〉というようなものではなく、不安や恐怖、そして欲

望です。

 「正しい」という言葉を、多くのエゴイストや小心者が利

用して、人を欺いて来た。

 「正しい」という言葉の為に、誰もが傷付き、悲しみ、苦

悩し、命まで奪われてきた。

 「正しい」は、とっても胡散臭くて、醜悪です。
 

 私は思います。

 《「正しい」を「正しい」と考える事は

        「正しいこと」ではありません 
 



 それにしても、なぜ誰も彼もが「自分は正しい」と思いた

いのでしょう? 

 正しかったら何か良いことでもあるのでしょうか?


 あるのです。


  自分が正しかったら、自分の “正しさ” を正当化出来るの

です。


 で、それがなんなんでしょうか・・・・?



 ということで、こう結論付けましょう。


 《「正しい」ほど、“間違ったこと” はない 》







2018年12月18日火曜日

“弱者の味方” の味方


 私は、社会的弱者の味方です。

 私自身が、社会的弱者の部類に入ると思いますから、当然

ながらそっち側です。ただ、何をもって社会的弱者とみなす

のかという問題が残りますが・・・。


 私が、自分を弱者の味方だと言ったって、それで具体的に

何かしてるのかといえば、余裕があれば少しばかり募金をし

たりする程度のことで、「味方」だと胸を張れる様な人間で

もありません。


 私は、その程度のものですが、世の中には、立場の弱い、

苦しんでる人たちの為に奔走している人がいっぱいいます。

その中には、本当に自分のことを後回しにして、他人の為に

動いている人も結構いますね。そういう姿を見ると、素直に

「偉いなぁ」と思います。「自分にはできないなぁ」と。


 そういった人たちを動かして行くものは、何なんでしょ

う?

 何がそうさせるのでしょう?


 阪神淡路大震災の時、それまでの人生の中ではリーダーシ

ップを発揮するような事の無かった、どちらかというとその

他大勢の一人だった人が、自然発生的に避難所のリーダーと

して頑張ったり、後に災害支援などのNPOを立ち上げたり

するといった事が結構あったようです。

 そういった生き方へ進んで行く人というのは、「そういう

風になっている」としか言えないですね。


 社会の中に、人の心の中に、バランスを保とうとする働き

があって、物事が大きく振れた時に、反対側へ動かそうとす

る力が自然と出てくる・・・。その時に、その戻ろうとする

振り子の前にたまたま居た人が、その先頭に立つ事になるの

でしょう(次に何かが起きた時に、その振り子の前に居るの

があなたかもしれません)。

 そうであれば、当然逆もありますね。

 破壊的な方へ振り子が振れる時にそこに居る・・・。悪魔

のような人間・・・。そういう役どころは御免こうむりたい

ですが、もしかすると自分に回って来るかも知れません。
 

 それは「運命」ということですが、弱い立場の人に寄り添

おうとする人を動かす直接的な動機は、やはり罪悪感でしょ

うね。「理由もなく、自分は楽な立場に置かれている」とい

う感覚。後ろめたさ・・(それを感じることこそが運命です

が)。

 その罪悪感から逃れたいが為に、弱い立場の人を放ってお

くことが出来ない。そのままでは済まされない。

 だから、そういった人たちの多くは、心の内では本当はと

ても苦しいのだと思う。だって、その罪悪感が消えることは

ないでしょうからね。

 表面上は、人の為に働いて充実感や喜びを感じたりするで

しょうが、ホントは自分が助けて欲しいぐらいなんじゃない

でしょうか?


 人はみんな弱いですよ。

 強く見えたって、強がっているだけだったり、そのときの

状況が強く見せているだけであって、人は本質的に弱いもの

だと思います。誰もが “弱者” です。

 なぜなら、エゴは常に不安だからです。そして、エゴを持

たない人はいないからです。


 人(エゴ)は自分の弱さを恐れます。

 それを隠そうとし、無いことにしようとします。ですか

ら、他人の弱さに寄り添う事で自分の弱さを刺激されたくな

い。自分の弱さに気付きたくない。そうして、強がりな人間

ほど弱者を遠ざけます。

 一方で、弱者を目の当たりにしたことで、それによって自

分の弱さを突きつけられ、自分の弱さをごまかせなくなって

しまった人は、自分を救いたいが為に弱者に手を差し伸べず

にはいられなくなるのでしょう。「この人が弱い立場から抜

け出せるのなら、自分も弱さから抜け出せるだろう・・」

と・・・。


 精神科医やカウンセラーは職業ですから、“弱者の味方” 

と言ってしまうとちょっと違うでしょうが、ああいう職業の

人の自殺率は、一般の人より高いそうです(日本ではどうか

わかりませんが)。そういうことを考え合わせると、やはり

弱い立場の人の為に奔走しているような人は、その弱い立場

の人より、さらにしんどい思いをしているかも知れません

ね。


 「こんなにつらいのに、なぜ自分はこんなことを続けてい

るのだろう」

 そんな風に思いながら、日々を送っているんじゃないでし

ょうか。


 〈 “弱者の味方” の味方 〉が必要だと思います。


 この際、ちょっとだけ私がなりましょう。


 具体的に何も出来ないし、どうしたらいいかも分かりませ

んが、「 “弱者の味方” の〈弱さ〉を心配している人間だっ

ているよ」ということが伝わるなら、ほんの少しは気が休ま

るんじゃないかと思うんですよね。

 それだけなんですけどね・・・。


 お役に立てずに申し訳ないです。




2018年12月17日月曜日

〈アタマ〉を “クビ” にする~健全な “自己経営” の為に~


 『絶望しましょう』というのが、前回のタイトルだったん

ですが、誰も絶望したくはないですよね。

 なので、「上手に絶望しましょう」みたいなことを書いた

わけですが、ということは、「下手な絶望」と「上手な絶

望」があると、このブログの書き手は思っているわけです。



 「〈絶望〉に上手も下手もあるのかよ」という反応もある

でしょう。

 〈絶望〉には上手・下手があります。



 「自ら命を経つ」「自暴自棄になって、破壊的な行動をと

る」というのは、「下手な絶望」をしたからですね。


 「自ら命を絶つ」のは、“セルフイメージ” を守る為に、

社会の中にある “自分の身体” を消そうとする事です。

 「自暴自棄になって、破壊的な行動をとる」というのは、

“セルフイメージ” を守る為に、それを否定的に扱う社会を

無いものとする。あるいは消そうとする事です。だから「無

差別殺傷事件」を起こす者が出てくる。

 「下手」に絶望してしまったわけですね。



 では「上手な絶望」というのはどんなものか?

 “セルフイメージ” は、実態の無い、とても脆いものであ

ることを知って、自分(セルフイメージ=エゴ)を守り続け

ることは出来ないという結論を出す事でしょう。違う言葉で

言えば、「自分(セルフイメージ=エゴ)をあきらめる」と

いうことになりますね。



 普通に考えると、自ら命を絶つことは「自分をあきらめ

た」ように思われますが、そうではないですね。

 《 自殺する人は、自殺する以外生きる道が無かった人》

ということで、 “自分(セルフイメージ)” を守ろうとして

世の中からの完全な脱出を謀るのですね。「自分をあきらめ

られない」のです。

 ですから「上手に絶望する」場合は、〈アタマ〉で認識す

るところの “自分(セルフイメージ)” を葬って、命は命の

ままに任せるということですね。それまで自分の人生のコン

トロールを任せていた〈アタマ〉を、“クビにする” ことで

す。



 例えて言うと、〈アタマ〉というのは口先ばっかりイイこ

と言って、その実ゴタゴタばっかり生み出してる取締役のよ

うなもので、それが明るみに出たら、クビにするのは当然の

ことでしょう。ところが、“アタマの悪い取締役” が生み出し

た問題に苦悩して、オーナーがクビを括ってしまったりす

る・・・・。


 それで、経営が良くなればまだしも、アタマが悪い奴が後

を引き継ぐのですから、結局潰れてしまいます。それこそ

「絶望」です。



 なので、「絶望」するのは、行き掛かり上経営を任せてい

た “アタマの悪い取締役” に対してで、自分自身(オーナ

ー)ではありません。



 実際の世の中では 、“アタマが悪い” のはオーナーの方だ

ったりすることも普通ですが、ひとりの人間の中では、悪い

のは必ず取締役である〈アタマ〉です。

 〈アタマ〉は、なんの根拠もなく、確固たる自信を持って

自分の正当性を主張します(根拠が無いからこそ、強弁しま

す)。その「揺るぎなさ」に惑わされて、本来の自分である

わたしたちの方が、自身を否定してしまう・・・。



 健全な “自己経営” の為には、〈アタマ〉はクビにしなけ

ればなりません。〈アタマ〉には家族も、生活の実態もない

ので、彼が困ることがありません。安心してクビにできま

す。

 ただ、対外的な実務能力はあるので、いったんクビにして

から、現場の実務者として非正規で働いてもらいましょう。



 自分に絶望する必要はありません。

 〈アタマ〉にだけ絶望させれば良いのです。

 そもそも〈絶望〉は、〈アタマ〉が先走って行って、何処

かから持って帰ってくる、おどろおどろしく見える得体の知

れない観念ですが、そんなものは受け取る必要がないので

す。



 「変なのも持って帰ってくるな!持って帰って来たオマエ

が始末しろ!」と、突き返せばいいのです。



 たとえその〈絶望〉が、本当に自分の息の根を止める力を

持っていたとしても、先に息の根を止められるのは、〈アタ

マ〉の方でいいのです。自分自身はその間に覚悟を決めれば

よろしい。


 以前テレビで、ホスピスで長く働いてられる方の話を聞き

ましたが、いよいよ死期が近付いて来ると、非常に穏やかに

なられる方が結構多くおられるそうです。

 そういった方々は〈アタマ〉が先に絶望して、“生” の経

営権が自分自身に戻って来るのでしょうね。

 自分(セルフイメージ)にこだわって、それを守ろうとい

う思いも、もうどうでも良くなって、開放され、本来の自分

の自由さに気付くのでしょう。

 たとえ残された命があとわずかでも、生きている内にそう

いう想いになれるのはしあわせなことでしょう。



 あなたの〈アタマ〉はどんな仕事をしていますか?


 上手すぎる話を持ち込んだり、へんな取引先を連れてきた

り、大事な取引先と縁を切ろうとしたり、現実性の無いプロ

ジェクトをぶち上げたり・・・。そして、そういう失敗を、

ありとあらゆる手段を使ってごまかす・・・。

 よくよく見てみれば、ロクな事はしてないはずですよ。



 健全な “自己経営”   良く生きるということですね  

の為には、〈アタマ〉を “クビ” にしなければならないので

す。




 

2018年12月16日日曜日

「絶望」しましょう。


 いい天気になった。

 寒いけど、ちょっと散歩でもしようかなと思わせる陽射し

が窓から射し込んでいる。平和なものだ。

 世の中ではさまざまなゴタゴタが起っているだろうし、地

獄のような光景が今まさに展開している場所もあるだろう

に・・・。



 人間から見れば、世の中は理不尽で不公平なことばかり

で、今たまたま笑っていられる人間も、それが明日まで続く

かどうかも定かではない。わたしたちはそれを知っているか

ら、すぐに不安になる。



 中にはあまり不安にならない人もいるけれど、そういう人

は不安を別のものにすり替えていたりもする。不安を感じる

のが嫌なので、不安が湧き上がってくるとそれを怒りに変換

するとか、薬物や酒やギャンブルや食べ物やスマホやさまざ

まなものに依存したり。



 明日どころか、次の瞬間に何が起こるかも分からない。

 なにも、事故や災害や事件の事だけを言っているのではな

くて、そばに居る人が急に不機嫌になるかも知れない。

 「そんな程度のこと・・」と思われるかもしれないけれ

ど、そばに居る人が不機嫌になるというのは、人の脅威の中

でも最も大きな事だ。大抵の人はそんなふうには意識してい

ないだろうけどね。災害や事故や病気などの方を大きな脅威

だと思っていることだろう。



 けれど、誰しも自分の事を振り返ってみればすぐに分かる

ことで、わたしたちを不安にし、悩ませる最も大きなもの

は “身近な人の不機嫌” です(たまたまそばに居る見知らぬ

人も含まれる)。人生の主要な問題はそれです。

 “身近な人の不機嫌” ほど、日常の中で人にまとわりつい

て、人を不安にさせるものはない。


 厄介なことに、不機嫌になって周りの人を不安にさせる人

が不機嫌になる原因は、その人が感じる不安です。

 不安が不機嫌を生み、その不機嫌が別の人の不安を生み、

その不安が不機嫌を生み・・・と、終りの無い連鎖が人の間

に拡がって行く・・・。たとえ今、そばに居る人が不機嫌で

なくても、その人が不機嫌になる可能性を感じるだけで人は

不安になってしまう。

 過去の経験から未来の出来事を想定して、実際には何も起

きていないのに、勝手に不安になってその不安が周りに拡が

ってしまう。



 考えてみれば本当にバカな話ですが、人がその習癖から自

由になる事はほとんど不可能です。これは恐るべきことで

す。



 不安を感じるのは、生物としての本能的な生存戦略でしょ

うが、そこに「思考」が入り込むと、人は必要のない不安を

覚え、必要のない行動を執り、必要のない問題を自ら作り出

す。そして、実際に殺人が起きたり差別や迫害が起きたり

し、戦争まで起こる・・・。ほとんど救いようがありませ

ん。



 不安を生物としての身体的レベルにとどめておければ、事

はそう大きくもならないのでしょう。その時その時のその場

所での問題にとどまるでしょうからね。しかし、わたしたち

にはアタマがあって、アタマ(思考)はその発生の瞬間から

不安を生み出す。なぜなら、アタマはそれ自身の存在理由も

存在意義も分からないので、自身の存在自体が不安だからで

す。

 不安はわたしたちのアタマにセットになっているのです。


 どんなに文明が進んでも、学問や科学が精緻になっても、

それらを生み出し発展させるものは、わたしたちのアタマ

(思考)なので、それによって人々の不安が解消されること

はない。せいぜい、不安を今ある場所から目につかない場所

へ移動したり、隠したりできるだけです。

 科学や学問やそれが生み出した物が、人々の不安を解消

し、安心や平和をもたらすことは不可能です。

 むしろ、アタマの活動を少なくさせることでしか、不安を

減らすことはできない。それゆえに世界から宗教が無くなる

ことはない。


 神や仏という絶対的な存在から示された(らしい)、教義

やしきたりに則ることによって思考を停止すれば、その中で

は不安を感じずに済むからです。けれど、それは結局のとこ

ろ不安のすり替えや隠蔽、または依存でしかありませんね

(『宗教は民衆のアヘンだ』という言葉もありますね)。文

化が人に与える他のものと、本質的な違いはありません。

 わたしたちが不安から解き放たれることはないのでしょう

か?


 いいえ。時折、宗教だけでなく、学問や科学や芸術の世界

でも、それを突き抜けて思考の呪縛から逃れ、不安から自由

になる人が出て来ますね。彼らは何故突き抜けることが出来

たのでしょう?
 

 〈絶望〉したからでしょうね。


 “平穏” や “永続的な幸福” を求めて、宗教や学問などを突

き詰めて、突き詰め切ったけれど、そこには平穏も幸福もな

かった。思考の極限まで行っても、思考には不安がセットに

なっていますからね。そして、絶望したのでしょうね。


 ところが、その時に大転換が起る。

 それまでの自分の人生を賭けて、やれることは全てやっ

た。にも関わらず、結果は出なかった。もう自分には何も残

されていない。もう何も望みは無い。絶望・・・。

 そうして、アタマがすべての望みをあきらめた時、自身の

無力さを心底実感した時、思考は止まる。

 思考が停止すれば、同時に不安も止む。


 「あっ、そうだったのか」


 自分は、結局何処にも行けなかった。

 何処に行く必要も無かった。 

 何処に行こうと、自分がいる所は、常に、ここだった。


 何処かへ行こうとするのが間違いだった。

 何かを得ようとするのが間違いだった。

 何かになろうとするのが間違いだった。
 

 アタマという詐欺師に振り回されていただけだった。


 《 真のしあわせは〈絶望〉の果てにある 》


 わたしたちは、“上手に〈絶望〉する” 必要があるようで

す。 


:::::::::::::::::::::::::::



 アタマは、すぐに故障する家電を売りつけておいて、修理

代を稼ごうとする悪徳業者のようなものですね。

 「もったいないから」「困るから」と、すぐ故障する家電

を使い続けても、自分のエネルギーを吸い取られるだけで

す。それが無い生活を検討する方が良いでしょう。

 わたしたちの暮らしは、本当は必要ないものであふれかえ

っています。物に限らずですけど・・・。



2018年12月15日土曜日

角さんと宗方 仁


 さてと、前回 角さん(角淳一)のことについて書きまし

たが、その前の前に書いた 宗方 仁 とは、ほぼ真逆のパーソ

ナリティです(角さん、ゴメン!)。

 いったい、私の中でどのようにして 角さん と 宗方 仁 が

共存できるのでしょう? 私は一貫性の無い、その場しのぎ

の口先だけの人間なのでしょうか?



 いいえ、私の中では一貫性があるのです。

 宗方 仁 に誘われて進むと、人は自分と出会うことになる

のです。そして私が自分と出会った時、横に居たのが 角さ

ん だったのです。



 ヒーローになれなかった私は、平凡なひとりの人間である

ことを認めざるを得なかった。と同時に、平凡も非凡もそれ

ぞれに、それはそれでその人なのだと気付いたのでした。

凡も平凡の内だと・・・。



 賞賛され、尊敬され、たとえ伝説の人となろうとも、運命

に動かされて混乱し、涙し、時折安らぎを覚えながらも、苦

悩しながら生きて行く存在であることに、ヒーローも凡人も

違いはない。ヒーローは、その時代の光の当たり方によって

ちょっと目立つに過ぎないし、それが故に、かえって苦しむ

かもしれない。

 むしろ、平凡に安住出来ない人間は、エゴによって動揺さ

せられているに過ぎないのかもしれない。



 平凡でも非凡でも、人はそのように生きさせられているの

であって、社会の約束事の外では平凡も非凡も無い。

 ひとりの人間が、生きて、死ぬ。

 それに尽きる。



 宗方 仁 という、研ぎ澄まされた日本刀のような人間に誘

われて進んだ先に、ゆるさの極致のような 角 淳一 がいる

(角さん、ゴメン!)。



 角さん が悟りを開いているわけではない(と思う)。

 でも、宗方 仁 の先に 角 淳一 がいるというのは、修行僧

が厳しい修行の果てに、やがておおらかさを身に付けること

と同じだという気がする。



(何だかまた、角 淳一 というオッサンを持ち上げすぎた様

です。このまま褒め殺しにしようかな)



 でもね、平凡とか非凡とかに心が捕らわれている内は、人

は安らぎを持てないんですよ。やっぱり。

 平凡に見えようが、非凡に見えようが、ひとりの人間はひ

とりの人間なんです。生まれてやがて死んで行く。

 伝説になったって、人類が滅びる時にはその記憶もろとも

消えて行くのです。

 「そんなこと負け惜しみだ」と思われるかもしれない、で

も、そう言う人も消えて無くなります。



 平凡に甘んじ、非凡に甘んじ、とにかく自分が自分である

ことに安んじる・・・。



 そう、『エースをねらえ!』の中で、お蝶夫人が ひろみ 

にこう言いますね。

 「『わたしがやる』とか『わたしにならできる』とか、い

つも自我が表面に出る者は、頂点には登りきれない。天才は

無心なのです」と。


 物語の体裁として、岡ひろみは頂点を目指すわけですが、

作者の山本鈴美香が真に描こうとしたのは、それぞれの人間

が「自分を生きる」ことだったでしょう。



 平凡も非凡も忘れた時、人ははじめて自分を生きるので

す。



 (何だかカッコイイ終りになったな~!・・と、こういう

ことを思ってしまうのがいけないんだよな。でも、こういう

ことを思ってしまうのが “平凡” の証拠で、平凡でいいと思

えたらそれでいいのだから・・・、メンドウです・・・。と

ころで、角 さん は何処へ行った?)