2024年5月5日日曜日

有ること難し ~ その弐



 「有り難い」・・・。そんなこと言ったって、我が子が死

んだりしたら「有り難い」なんて思えるわけがない。

 当然です。人間ですから。けれど、“「有り難い」と思えな

い自分” が有り難い。などとも思います。


 泣けばいいし、そんな運命を恨んだっていい。そうしてい

る自分も「有ること難し」で、そうするより他ない自分で

す。そこまで自分とって重要な存在が、自分の子として生ま

れてきて、その命のすべてを見せて去って行った・・・。そ

れも空前絶後の事です。「有ること難し」です。


 なにもかもが「有ること難し」です。

 前回、“嫌な事や嫌な奴は「有りがち」です” とも書きまし

たが、それはわたしたちのアタマが「有りがち」な受け止め

方をして苦しむからそのように表現したのであって、その 

“嫌な事や嫌な奴” も、それ自体は、そのそれぞれが「有るこ

と難し」です。すべてがこれっきりです。


 ある妙好人が、高齢になって寝たきりの妻の介護をしてい

た。目をショボショボにしながら世話をしているのを見た知

り合いが「じいさん、たいへんじゃのう」とねぎらうと、

「(おむつの交換も)一回々々、やり始めのやり仕舞いなの

じゃ」と言った。


 難儀なことも、そのひとつひとつの「これっきり」を、

「有ること難し・・・」と受け取ってゆく。

 「これっきり」の今の自分が、「これっきり」の出来事を

生きてゆく・・・。時には、それは酷く苦しいかもしれな

い。耐えられないかもしれない。でもそれはそれで「これっ

きり」。


 なにもかもが「有ること難し」。

 ありがたい自分。

 ありがたい世界。


 *妙好人=浄土真宗の信者で、真実の教えにめざめ、
      お念仏の生活を送った人




2024年5月4日土曜日

有ること難し



 「わたしたちは、わけもわからないままこうして生きてい

る。ありがたいことではないですか?」


 前回そんなことを書いて終わった。けれど、「生きてても

面白くないし、何もありがたくないよ・・・」という人も多

いでしょう。「ありがたい」という言葉を感謝の意味で捉え

れば、確かにそういうことも言えます。でも「ありがたい」

という言葉は、本来〈感謝〉を直接表す言葉ではない。


 「ありがとう」は「有り難う」。「ありがたい」は「有る

こと難(かた)し」。

 感謝の念が湧いてくるような事は、有ることが難しい事

あって、言い換えれば「滅多にない事」という意味。それが

好ましいことなら人は「ありがたい」と言う。

 けれども、「滅多にない」という基準が適応できる事な

ら、好ましくない事でも「有り難い」と受け取ることができ

るのでは?


 カミナリに撃たれて死にかけた・・・。あるいは死んだ。

 「これは滅多にない!有り難い!感謝🙏」。 そういうの

は、有り?


 そんなのナシですよね。けれど、有りにするのも面白いん

じゃないでしょうか? だって、それが起こってしまったのな

ら、拒絶したってしようがない。《 機嫌が悪い奴はバカ 》で

すからね。起きてしまったのなら、面白がってしまった方が

賢いでしょう。


 嫌な事や、嫌な奴に関わると文字通り「嫌になる」。そう

いうのが続けば「生きてたって面白くない」という気持ちに

もなる。「こうして生きていることが、ありがたい」なんて

思えない。けれども、自分がこうして生きていることは「有

り難い」どころか、宇宙で二度とない事です。あなたも私も

宇宙でこれっきり。ここだけ、今だけ(なんかのキャンペー

ンみたいだ)。「有り難い」を超えている、空前絶後です。

 その一方で、嫌な事や嫌な奴は「有りがち」です


 誰かに悪口を言われる。よくあることです。人はそればっ

かりやってるんだから。

 犯罪に遭う。災害に遭う。そうそう遭うわけでもないけ

ど、そういうことが世の中によく起こるのは誰でも知ってい

る。珍しいわけではない。

 そういう「有りがち」なことに次々出会いながら、空前絶

後の「自分」が生きている。「自分」の方にまなざしを向け

てみれば、その事はとてつもなく「有り難い」んじゃないで

すか?

 私なんかそれを考えると「これはホントに凄いぞ・・・」

と感嘆してしまうんですけどね。


 《 ここだけ 今だけの

       「自分」という空前絶後のキャンペーン 》


 あなたも、凄いことなんですよ🩷






2024年5月3日金曜日

「勇気」はいらない



 前回「哀言葉は “勇気” 」なんて書いて終わったけど、「勇

気」という言葉が使われる状況というのはなにがしかの危機

だから、そこには多かれ少なかれ緊迫感なり不安なりがある

わけで、「哀言葉」という表現もあながち的外れでもない

かもしれない。

 加えて「勇気」というものがことさら意識されるような状

況では、「勇気」はあまり良い結果をもたらさないんじゃな

いかとも思う。アタマが介入し過ぎてね。特に考えずにやっ

てしまう方が、人に本来備わった勇気が出るように思う。言

葉にしなくてもいい勇気がね。


 「勇気」という言葉は、「努力」という言葉と兄弟みたい

なものだろう。“がんばれ系” の思考だね。

 「勇気」や「努力」という言葉が出てくるような行為は 

“はじめにアタマありき” で、そのせいで行為自体がぎこちな

くなる。心と体のスムーズな連携が邪魔されて、出せるべき

ものが十分に出せなくなるだろうし、自分と周りとの良好な

繋がりも阻害されるだろう。

 少し前に「無心のはたらき」という話を書いたけど(『無

心に・・・』2024/3)、アタマが邪魔せずに「無心のはた

らき」がスムーズに出てくるのが望ましい結果を生むでしょ

う。

 例えば、駅で線路に落ちた人を助けようとして、とっさに

無我夢中で飛び降りて助けたとかいう場合、それは「無心」

なればこそ素早く行動できるからでしょう。でも、無我夢中

で助けようとして二人ともはねられてしまうということもあ

る。けれど、それは無我夢中の中での事なので、それで完結

しているからそれで良いのだと思う(はなはだ納得してもら

いにくいでしょうけど😅)。


 ただなりゆきに任せて生きてゆく。

 「勇気」も「努力」も、考えるに及ばない。


 生まれて来るときに「勇気」を出して生まれて来たわけじ

ゃない。

 生まれて来るときに「努力」して生まれて来たわけじゃな

い。

 命のはたらきによって、無心のなりゆきで生まれて来た。

 命のはたらきによって、無心のなりゆきで生きて来た。

 それなら、命のはたらきに任せて生きていればいい。

 無心のはたらきに身を任せていればいい。

 アタマは生き方を採点してあれこれ言うけれど、命は生き

方を採点したりしない。アタマより命のはたらきが先なんだ

から、命のはたらきを優先する方が良いに決まっている。ア

タマが文句をつけるので、間違っているように思わされるけ

れどね。



 ・・・ここまで書いていて、「ああ〈南無阿弥陀仏〉のこ

とを書いているんだな」と気が付いた。私は真宗の信者では

ないけれど、すっかり〈南無阿弥陀仏〉が身についてしまっ

ているんだなぁ。


 浄土真宗の僧侶の藤原正遠(しょうおん)さんが、こんな

言葉を遺しておられます。


 《 不可思議と 思うは思議なり 自力なり

       まかせまつれば まこと不可思議 》


 わたしたちは、わけもわからないままで、こうして、生き

ている。ありがたいことではないですか?






2024年4月28日日曜日

合言葉は「勇気」



 カッコいいタイトルですが、この言葉は、昔の橋本治さん

の本のタイトル。で、橋本さんも昔のアメリカ映画のタイト

ルから頂いたそう。 

 なんとなくこのタイトルを思い出して、「勇気」について

書いてみようと思った次第。


 ゲーテが言った。

 「勇気を失くした? 生まれてこない方がよかっただろう」


 井上陽水は『娘がねじれる時』の中で歌う。

 「“勇気” なら持ちなさい 得になるから」


 “勇気” って良いものなんですかね?

 それ以前に “勇気” ってあるんですかね?


 極端な行動の結果が、望ましいものだった時には “勇気” と

呼ばれ、結果が悪ければ “無謀” とか “愚行” とか呼ばれるだ

けで(“蛮勇” なんてことも言うね)、“勇気” という意志の

ようなものがあるわけじゃないでしょう。ただ単に、その時

そうやっちゃったことについて、後付けで “勇気” だとか 

“無謀” だとかラベルを貼るだけのことでしょうね。

 “勇気” なんてものは無い。

 “勇敢な人” もいない。

 ただ「止むに止まれずそうしてしまうこと」や、「そうし

てしまう人」があるだけ。


 わが身を顧みずに人助けをする人などはカッコいいし、良

い事だと思う。そういうことを否定する気はない。私だって

そういう人でありたい。けれど、そういうのも “勇気” ではな

くて、「止むに止まれずそうしてしまう」という話。


 まぁ傾向として勇敢な人・臆病な人というのはあって、普

段からそういう評価をされていたりもするけれど、どちらが

良いとか悪いとかいうことでもない。やはり結果次第だか

ら。


 登山なんかでよく「引き返す勇気」とか言う。「リスクが

大きいと思ったら予定を変更して引き返せ」と。

 引き返すと、強行した場合にどうなっていたかは分からな

い。本当に臆病だっただけかもしれない。強行して上手くい

っても、たまたま運が良かっただけということもあるし、案

の定、遭難して死んでしまったということもよくある。どう

評価されるかはやはり後付けだし、その評価にも、評価する

者の好みが出るわけだから、勇敢か臆病かなんて本当はどう

でもいいのだろう。


 そういうわけで、「勇気」という言葉も人を評価し査定す

るためのものであって、評価される側ではなく、評価する側

が自分の気分を良くしたいために使われるものですね。

 「あいつは臆病だ!」とバカにして心理的な優位性を得

る。「あの人は勇気がある」と言う時は、「自分は “勇敢な

人の側” の人間なのだ」と無意識に自己肯定に利用する。

 評価される方はといえば、勇敢か臆病かなんて関係なく

て、自分はそうしてしまったというだけのこと。評価なんて

関係ない。


 「勇敢か?臆病か?」などと、人(自分も含めて)を評価

するのは、評価することで自分の心理的安定性を高めたいと

いう人間の臆病さの表れと捉えてもよさそうです。ならば人

を評価しないというのは勇気が有ることなのかもしれませ

ん。だって「評価しない」というのは無謀です。「謀(は

りごと)をしない」ということですからね。
 

 「(人を)評価しないという “勇気”」

 それは自分と他人を自由にする。


 ゲーテの言う「勇気」は、たぶん世の批評を物ともしない

ということでしょうし、陽水が「“勇気” なら持ちなさい」と

歌うのは、半分は皮肉でしょう。世間一般で使われるところ

「勇気」というのは口に出さない方が良い言葉ですね。


 哀言葉は「勇気」。とでもしておきましょうか。

 (こじつける勇気・・・ですね。ただの愚行ですか😅)




 


2024年4月14日日曜日

無・責任



 タイトルには「無」と「責任」の間に「・」が打ってあり

ますね。「無責任」という言葉とからめての表現なのでこう

いうタイトルにしましたけど、今回書きたいことは「無の責

任」ということです。あらゆる「責任」は自分に有るのでは

なくて、「無」の方に有るという、究極に「無責任」な考え

をご紹介しようということです。


 「“「責任」は「無」の方に有る” ? なんじゃそりゃぁ?」

そんな感じでしょうか? なので「無」についての説明が必要

ですね。


 老子は「無為自然」と言っていて、その「無」が説明した

いことなんですが、そのために先に親鸞の言葉に触れなけれ

ばなりません。

 親鸞は「自ずから、然(しか)らしむ」(自ずから、そう

あらしめられる)と言っています。なのでその言葉を手掛か

りにすると、「無為自然」というのは「無の為(な)すこと

によって、自ずからそうあらしめられる」という読み方がで

きます。


 親鸞は “「阿弥陀仏」の働きによって自ずからそうなる” と

言っているのですが、老子の言葉では、それ(阿弥陀仏)が

「無」という言葉で表現されているわけです。どちらにして

も、この世界そのものの働きによって、すべては自ずからそ

なると考えているわけです。


 老子は「無為自然」と言い、親鸞は「南無阿弥陀仏」と言

う。表現は違えど、どちらも言っていることは同じで、「オ

レの知ったこっちゃね~よ😊」と言っているわけです。

 完全に無責任で、すべては「無の責任」。だから「知った

こっちゃね~よ😊」と・・・。


 で、いまのような世の中では、こういうような無責任な態

度は断罪されてしまうし、自分自身でも罪悪感を持ちそうで

す。けれども老子や親鸞は罪悪感を持たない(親鸞は断罪は

されましたが)。なぜなら「責任」と同時に、自分の「(社

会的な)価値」を認めていないから。

 社会的な「責任」と「価値」はバーターですから、片方が

なくなればもう一方もなくなる。そうして老子と親鸞は、

「責任」と「価値」という束縛から解放されて自由になっ

た。


 すべては「無」に責任があるので、「無」の為すがままに

任せていれば良い。もとより任せるしかない。自分の出る幕

はないし、できることもない。すべては「無」が行う。この

自分の運・不運も、生かすも殺すも・・・。

 「無」の働き(無為)に身も心もあずけて、その流れのま

まに流されて行く気楽さは、実は誰でも知っている。生まれ

てくる前。母親のおなかの中で何も考えずにいた時に・・。

 アタマが悪い・・・。



 

2024年4月13日土曜日

良く生きるとは



 せっかく生きてるんだから良く生きたいと思うのは、誰に

とっても当然のことだろうし、そうあるべきだろう。はっき

りとそう意識しているかしていないかにかかわらず、誰もが

良く生きようとしているだろう。ただ、人それぞれに何が

「良く生きること」かが違うようなので、誰もが「自分は良

く生きているのだろうか?」という心もとなさを持っている

ようだ。人というのは比べるのが習い性だから。


 「良く生きる」とはどういうことか?

 別に何も難しいことはない。要するに「満足して生きる」

というだけのことだろう。それだけの話なのだけど、人それ

ぞれに満足する条件が違うので、他人を見て「あれ?自分の

やってるのは間違いなのかな?」などと思ってしまって、何

やら難しく考えてしまったりする。しかし他人は他人、気に

する必要はない。自分が納得し、満足していれば、何の問題

もない。

 とはいうものの、自分なりにでも満足することはなかなか

難しい・・・、そう思う人が大半だろう。でもそれは「満足

すること」について勘違いをしているだけだ。


 「勘違いをしているだけ・・」と表現したけれど、この勘

違いがとんでもない大問題を生み出しているので、「・・だ

け・・」などと言っている場合でもない。天国と地獄の分か

れ目ぐらいの違いが有る。


 先に「満足して生きる」と書いたけれど、こういう表現を

見聞きすると、普通は「満足を求めて生きる」と考えて、満

足するために、精神的、身体的、社会的に何かをしようとし

る。満足の為に生きることになるだろう。けれども私が言い

たいことは違う。「満足して生きる」とは「満足してから、

生きる」ということ。

 まず満足してしまった上で、さまざまな「生きて行くこ

と」をこなして行くのです。


 「まず満足するなんて、どうやって?」

 そう思われるかもしれない。けれど何も難しくはないので

す。単に、満足すればいいのです。いますぐ。このままで。


 満足するのは誰なのか? もちろん自分です。

 自分を満足させるのは誰なのか? それももちろん自分で

す。

 満足するのは自分の仕事。自分の裁量です。自分の自由に

できることです。けれど、誰もがそれを認識していない。満

足は、誰かや何かとの関りの中で得るものだと思っている。

それが大変な勘違いです。

 いま生きている・・・ならば満足できるはずなのです。


 生まれてくるときに、用事も目的も与えられていないので

す。単に生きてゆく為に生まれてくるわけです。ならば生き

ている時点で満足でいられるはずなのです。

 ところが生まれてすぐから、世の中から、比べる習性と目

的意識を刷り込まれてしまうので、生きていることを達成し

ている自分に目が向かなくなってしまう。


 世の中に教えられたような条件を気にすることなく、満足

してしまえば良いわけです。まず満足してしまえば、生きる

ことは余興のようなものです。

 満足した上でのことなら、いわゆる、良いことが起きたら

「おお!ラッキー😆」。悪いことがあっても、「ああ、こう

いうのもあるわけね😅」という感じで受け止められる。


 「満足」という😊 状態が基本なので、出来事によってはそ

こにちょっとした「快・不快」の揺らぎがあるだけ。

 そのようにして、日々を受け止めて行くなら、それこそが

「良く生きる」ということ。「機嫌良く生きるということ」

でしょう。




 

2024年3月31日日曜日

夢かうつつか



 三日前、ヤマザクラの花が咲いた。去年より一週間ほど遅

い。全国のソメイヨシノの開花も遅くて、トンガの火山噴火

の影響が出ているのかなと思う。

 天気予報では何も言わないけれど、フンガ・トンガ=フン

ガ・ハアパイ火山の噴火では成層圏に莫大な量の水蒸気が送

り込まれ、その影響で成層圏が冷えたため「偏西風の蛇行が

起きて、大きな気象の変化が起きる可能性がある」と、気象

学者が言っていたらしい。去年は日本では特に目立った変化

は感じられなかったけれど、今年はどうだろうか? 今年の夏

は猛暑か?冷夏か?まぁ「可能性」なので特に何もないかも

しれない。便利な言葉ですよ「可能性」というのは。どんな

予測・想定を語っても、「可能性」と言っておけば後でどの

ような結果でも言い逃れができるので、学者などは「可能

性」という言葉を頻繁に使う。

 このブログでは「可能性」という言葉はあまり使わないけ

れど、代わりに「・・・と思う」という表現をよく使う。断

定的に言わない為に。

 断定的に言えるような事柄について語っているわけではな

いので、言わないというより「言えない」というのが実情で

すけどね。

 そんなあやふやなことなら始めから黙っていれば良さそう

にも思うけれど、なにぶん自分の意志でやっていることでは

ないのでそういうわけにもいかない。まぁ、あやふやでも中

途半端でも、断定的ではないのがこのブログの良いところだ

と思う。

 誰もわけが分かって生きているわけじゃないんだから、断

定的でない方が、人の「生きるということ」に即しているの

ではないだろうか。


 話が変な方に行きそうなので、サクラの話に戻ることにし

よう。


 ヤマザクラは野生種で、花が咲き、実がなり、種ができ

る。我が家の横のヤマザクラも、鳥が運んできた(らしい)

種から育った。一方、ソメイヨシノは江戸時代に生まれた園

芸品種でオオシマザクラとエドヒガンという桜の雑種だとさ

れている。ソメイヨシノは一代雑種で種ができない。いま日

本中で見られるソメイヨシノは、すべて挿し木や取り木で増

やされたクローンで、あの花は “あだ花” だ。


 その “あだ花” にほとんどの日本人が目を奪われれる、この

頃はサクラ目当てに日本へ来る外国人も多いらしいけど、

開のサクラの、どこか現実離れした夢かうつつのような感じ

は、あの花が “あだ花” であるからかもしれない・・・という

気もする。


 夢かうつつのようなサクラの花と、わたしたちの日々の暮

らしと、どちらが “うつつ” か? そんなことも考えてみたり

する。


 “あだ花” であっても、ソメイヨシノの花は実際に咲いてい

る。けれど、人間のしていることの多くは、アタマの妄想

だ。

 「あいつ、あんなこと言わなくていいだろう😠」とか。

 「あの人、わたしに気があるみたい🥰」とか。

 「このビンテージジーンズ80万円だぜ😎」とか。


 人が自然に目を向けたときに、それを「夢かうつつ」の

ように時折感じるのは、実は逆なのかもしれない。

 普段、現実だと思っている自分たちの行いが妄想で成り立

っていることが、自然の美しさや大きさなどの強い実体感に

よって揺さぶられるのではないだろうか?

 満開のサクラに “夢うつつ” を感じているのではなくて、満

開のサクラを前にして、自分の想いが “夢うつつ” と感じられ

てしまうのではないか? だから時折「満開のサクラはなんだ

か怖い」という人がいるのだろう。


 何が「夢」か?

 何が「うつつ」か?


 サクラを見上げて、感じとってみるのも一興かもしれな

い。

















そういえば、霊雲(りょううん・れいうん)という禅僧は満

開の桃の花を見て悟ったのだった。それを〈霊雲観桃〉と言

う。