2021年1月31日日曜日

あなたのせいなの?


  私は、自分を弱い人間だと思っている。関西で言うところ

の「ヘたれ」。昔の表現なら「アカンたれ」  すぐに「ア

カン(だめだ)」と言う。

 その一方で、他人から「メンタルが強い」などと言われる

こともある。けれどそれは、私が非常識な人間なので、常識

的な人が傷付く場面で結構平気なのを見ての印象だと分析し

ている。私は、やはり弱い人間だと思う。


 メンタルも弱い。身体的持久力もあまり無い。健康そのも

のということも無ければ、社会的に目立って活躍できるよう

な能力も無い。少なくとも、通常、社会が評価してくれるよ

うな強さは持ち合わせていない。おかげで、これまで随分苦

しい思いをして来たが、その「苦しい思い」さえ、他の人か

らしたら「その程度で?」と言われるかもしれない。まった

くもって、強くない。


 けれど、そんな私から見ても、弱い人はたくさんいる。

 「この人、大丈夫?」「この先、生きて行ける?」と心配

になる人はいくらでもいる。


 実際、弱い人は社会で淘汰される。社会の底辺で、ひどく

苦しみながら、希望も無く、ただ生きるといった状態だった

り、その挙句死んでしまったり、自殺したり・・・。

 それは生物としては当然のことかもしれない。どのような

生物でも、弱い個体は淘汰されてしまう。けれど、人間以外

の生物が受ける淘汰は、あくまでも自然のバランスの中での

事であって、人間の社会の中での淘汰とは意味が違う。

 人は、多くの場合で、人と人が作る妄想によって淘汰され

る。

 人は妄想によって絞め殺され、幻想によって押しつぶされ

たりしてしまう。

 現在では、「経済」という幻想の産物から完全に排除され

れば、人はほぼ死ぬしかない。
 

 そのように淘汰される人間を、社会は、「当人が弱いから

仕方がない」と見做す。


 「ちょっと待て」と思う。


 そのような、自分の置かれた状況への適応力が無い人間

が淘汰されるのは、仕方がないとは思う。けれど、その状況

は人間が作り出した約束事であり、幻想に基づくものだ。そ

こで適応できなかった人間には、なんらかのエクスキューズ

が有るべきだろう。 その当人の「弱さ」は社会の約束事が生

み出すものであって、当人の責任ではない。

 たとえば、非常に社会的能力が高い人でも、高齢になれば

その能力は衰え、身体的にも衰え、「弱い人」となる。それ

はどんな人も避けられない。その人を「弱いから仕方がな

い」と簡単に排除するのか?でも、それは “明日の我が身” だ

ろう。自分は、それを受け入れるのか?


 その時代。その状況。その文脈。

 「弱さ」の在り様はその時その場所で違う。

 たまたまその時その場所で「強さ」を出せる者のご都合主

義で、「弱い人」が作られるだけだ。

 その時その場所で、「強い人」は確かに「強い」。

 けれど、その「強さ」をなにか絶対的なものだと思うのな

ら、それは下品なことだ。その人の為にも、周りの人の為に

も良くない。ましてや「弱い人」の側に立たされた人には、

救いが無い。


 私は弱い。

 沢山の人が、弱い。

 けれど、比較することで動くしかない社会にあっては、

「弱い」側にまわる人が生まれるのは当然のこと。

 当然のことなら、「弱い人」は胸を張って「弱く」あって

いいだろう。

 社会が、「強い」側が、それを許せないのなら、その社会

は、「強い」側の人間は、大した能力を持っていないという

ことではないか?


 社会のすべての出来事は、すべての人の立場は、時代によ

る。状況による。文脈による。
 

 「強い」としても、あなたのせいじゃない。

 「弱い」としても、あなたのせいじゃない。
 

 社会がそれを認めなくても、それが本当なのだ。

 胸を張って「弱い人」であればいい。

 もちろん「強い人」も胸を張っていい。

 そして、それぞれに、いつの時も、「強い」「弱い」なん

てことを越えて、「人である」ことに胸を張っていい。


 このことの確信については、私は「強い」。






2021年1月26日火曜日

心の物語



 さっきまで、今朝録画しておいたEテレの『こころの時

代』を見ていた。

 今日は、終末期の癌患者さんやその家族の方たちのこころ

のケアを長年続けておられるお坊さんと、これまで関わった

方の話を聴けたのだが、とても良い番組だった。 

 番組を見ている途中で、気が付いたことがあった。話の中

にそういう言葉が出て来たわけではないのだけれど、わたし

たちには「心の物語」が必要なんだなと。


 何千年も昔から、宗教というものがその役割を担ってきた

けれど、残念ながら、あまり上手く機能して来たとは思えな

い。そこで語られる物語は、信じなければ成立しない所でと

どまり、信じる必要さえない所までは、なかなか導いてはく

れない。だからこそ、篤い信仰を持った人であっても、自分

の身近な人の死に深く深く打ちのめされたり、自分自身の死

を自然に受け止めたり出来ないといったことが起きてしま

う。

 それは、そこで語られる物語が、自意識や社会意識の中に

納まっているものであって、その外にある「死」に象徴され

ることに対して、開かれていないからだろう。


 わたしの中に浮かんだ「心の物語」というのは、「死」に

対して開かれていて、「生」と「死」をつなぐ道のようなも

のとして、語られ、持たれるべきものです。では、それはど

のようなものか?

 「物語」といっても、それは必ずしもストーリーというわ

けではない。「生」と「死」をつなぐ道筋として、こころに

留め置かれるもの。いくつかの言葉、イメージ、気配といっ

たもの。


 「死」は「生」を分断するものではない。


 最近の私は「命」というものを〈 存在させるエネルギー 

という風に感じている。

 この世界のありとあらゆる “存在” を在らしめる働きだと感

じているんです。その働きによって、まず無生物(物)が存

在させられ、その無生物のあちらこちらに、さらなるエネル

ギーが集約することで、生命が動き出す。



 ~私の中のひとつの「心の物語」~


 ひとりの歌手がいる。彼が歌い出すと、そこに歌が生ま

れ、ひと時のあいだ、美や喜びや楽しみや切なさなどが交錯

するが、歌が終われば、また静寂が訪れる。そこには沈黙を

守る歌手が立っている。彼が消えてなくなるわけではない。


 「死」とは、歌を生みだす歌手のようなものであり、

「生」とは「死」が歌う歌のようなものである。わたしたち

それぞれの歌であるそれぞれの「生」は、「死」というエネ

ルギーに支えられて生まれ、時が来れば「死」という沈黙の

中へ静かに還る。絶対の安らぎの中へ戻り、次の歌となるの

を待つ、あるいは、その安らぎの中で、他の歌を聴いてい

る。


 人は、「死」が歌う、“わたし” という「生」のバイブレー

ションを直接受け取り、他の “わたしたち” のバイブレーショ

ンも楽しむ。生み出された “わたし” を慈しみながら。そして

た、静寂と安らぎへと戻る時まで・・・。





2021年1月20日水曜日

社会はお好きですか?



 今は、生き辛い時代だとよく言われる。確かにそうだろ

う。けれど世界のどこでも、いつの時代でも、生き易いこと

はなかっただろう。ごく一部の人が、幸運にも生き易い人生

を送ったことはあるだろうが、それがしあわせとイコールだ

ったかどうかは分からない。

 いつの時代も生き辛いとは思うが、今の日本で言われる

「生き辛さ」というのは、例えば江戸時代や平安時代の「生

き辛さ」とは違うものだろう。まぁ、当時を経験していない

のでホントのところは分からないというのは当然だけど、た

ぶん違うだろう。


 今の「生き辛さ」は、 “圧縮されることの苦しさ” だと思

う。

 暮らしのすべての面で、効率とスピードと正確性が要求さ

れ、ある目的へと追い立てられ、押し込まれ、多くの人が人

間の限界レベルまで追い込まれている。

 以前、タイムリミットについて書いたことがあるけど、今

は「誰もが “見えない時間の壁” に押し付けられて息ができな

い」。そんな時代だと思う。


 仕事はもちろん、家事だってそう。勉強もそうだし、遊び

だってイベントやテーマパークのような「用意された遊び」

なら時間の制約がある。

 社会が明らかな圧力を及ぼしていることもあれば、“自分の

中の社会” が自分の顔をして、自分にプレッシャーをかけた

りもする。


 「がんばらないと・・・」


 それが、自分ではなくて、“自分の中の社会” の言葉だと気

付いている人は少ない。


 さまざまな脅しや美辞麗句を並べ、 空疎な報酬と腹黒い罰

をちらつかせて、人を “時間の壁” へと追い詰めて行くこの社

会。

 上手くやって押し潰される前に目的をクリアしても、す

ぐに次の壁が立ち現れて、心休まる暇は無い・・・。心の底

まで社会に侵食されてしまっている人は、そんな状況にマゾ

ヒスティックな喜びさえ感じたりするが、それが倒錯だとは

考えもしない。


 もう何千年も前からではあるけれど、現代に至っては、完

全に「人は社会の為にある」。

 けれど、本当は逆なはずだ。「社会は人の為にある」。そ

うじゃないですか?


 「人は、社会をしあわせにする為にある」

 「社会は、人をしあわせにする為にある」


 どちらがお好きですか?


 数千年の時を経て、社会はあまりにも複雑になり過ぎた。

 具体的にも、心理的にも、人は無数の事柄に取り囲まれ、

それらの事柄がそれぞれに呟き続ける。


 「ドウシテクレルノ? ワタシヲドウシテクレルノ? コノマ

マデイイノ? イツマデマタセルノ?」。


 社会は、人が協同することで生き易くなるために発生した

システムだったはずだろうと思うが、今は、人が生き辛くて

も、社会を維持することが目的になっている。

 そういう社会、あなたはお好きですか? 




2021年1月17日日曜日

“神” の迷い

 


 「自分は何の為に生きているんだろうか?」


 そういう思いを持ったことがない人はいない。

 いないと思うが、もしかすればいるかもしれない。いると

すれば、その人はかなり恐ろしい人だろう。私はそういう人

とは関わりたくない。そういう人は “生きている冷酷” とでも

呼ぶことが相応しい人間だろうから。


 「自分は何の為に生きているんだろうか?」

 「生きていて何になるのだろうか?」

 「わたしたちは何処から来て何処へ行くのか?」


 生きているなら、そういう迷いを持つのが当たり前。持た

ない方がおかしい。だって、誰一人答えを知らないのだか

ら。


 誰一人答えを知らないので、しようがなく、人は “神” を登

場させる。

 キリスト教徒は〈神〉が世界を創ったと言う。他のほとん

どの宗教もそう考える。

 日本にも「国産み神話」があるように、あらゆる民族が、

“神” が自分たちと自分たちの生きている世界を創ったという

物語を持っている。そして、「答え」を “神” に棚上げして、

自らの迷いから逃れようとしてきた。


 でも、世界を創った “神” が存在するのなら、私は尋ねてみ

たい。

 「あなた(神)を創ったのは “何” ですか?」


 きっと “神” も迷っていることだろう。

 そして時折り “神” も「“神” の神」に尋ねていることだろ

う。「あなたを創ったのは何ですか?」・・・・・・・・・

・・・   ・・・     ・・   ・     ・

 

 “神” も迷っているのだから、安心して迷えばいいのだろ

う。

 “神” と共に迷うのは幸福な事ではないだろうか?

 迷うことは、“神” と共に「在る」ことではないだろうか?


 わたしたちは、幸福にも、わけも分からず存在している。

 わたしたちは、幸福にも、迷い続ける。


 「自分は何の為に生きているんだろうか?」

 「生きていて何になるのだろうか?」

 「わたしたちは何処から来て何処へ行くのか?」


 それは知り得ないけれど、その「問い」は幸福の中に浮か

んでいる。



2021年1月11日月曜日

『コロナパンデミックは、本当か?』 コロナ ㉗



 神戸市のホームページに「わたしから神戸市へ提案」とい

うものがある。実は、昨年の2月17日にそこへメールを送

った。その内容は「神戸市は新型コロナの PCR 検査をしない

でほしい。疫学的調査の為ならばよいが、その際でも、結果

は公表しないでほしい。なぜなら、検査をしたところで、抗

新型コロナ薬のようなものはないので、治療に役立たないば

かりか、検査結果の公表は、いたずらに市民の不安を煽るだ

けになるだろうし、検査や大袈裟な防御対策に人員と時間と

資材を割くよりは、肺炎治療にそのエネルギーを投入した方

が実際的で有益だろうから。そして、その旨を、あらかじめ

公表してもらいたい。そうすれば、他の自治体がそれに続い

て、大きな社会的な混乱を招くことを防げるかもしれな

い・・・」というようなものだった。



 もちろんこんなメールを送ったところで、一市民の声が行

政の方針に影響するわけもない。そんなことは分かってい

る。分かっているが「このまま行けば世の中がメチャクチャ

な事になる」と思っていたので言わずにおれなかった。そし

て、当時の状況ならば一縷の望みはまだ有った。「万に一つ

の奇跡が起こるかもしれない・・・」と。
 

 当然のように奇跡は起きなかった。

 無意味な PCR 検査は実施され、日本も、陰鬱で陰湿な淀み

の中に沈んで行った・・・。


 『コロナパンデミックは、本当か?』という本を昨日買っ

て読んでいる。

 スチャリット・バクティとカリーナ・ライスという、その

道の専門家による共著で、ドイツではコロナ関係の書籍で最

も売れているという。

 その本には、昨年、ドイツで新型コロナに関してどのよう

なことが起きたか、そしてそれがどれほど非科学的で、いい

加減で、愚かで、犯罪的だったかが合理的な根拠に基づいて

述べられている。

 そこに書かれている「ドイツで起きた事」は、登場人物の

名前を置き換えれば、そのまま「日本で起きた事」になるぐ

らい、よく似ている。ドイツの出来事の方が先なので、もし

かしたら、日本の “専門家” や行政がドイツをお手本にしたの

かもしれない。愚か者は、愚か者を真似るのだろう。


 愚か者のお手本がどちらかなどということはさておき、こ

のような本がドイツで売れているのならば、ドイツ国民のコ

ロナに対する意識は大きく変わってきていることだろう。そ

して、それは他のヨーロッパ諸国へも波及することだろう

し、そうなれば日本も無視できなくなることだろう。だっ

て、日本は「欧米がやっていることは進んでいて、見習うべ

きこと」という変な思い込みを持っているのだから。


 そろそろ潮目が変わるのだろう。できるなら、遺伝子組み

換えで作られて、ろくに治験も行われていないような、「コ

ロナワクチン」などという “謎の遺伝子注射” (©大橋眞)

日本に出回る前に変わって欲しいものだ。


 「人は歳をとって病気になって死ぬものでしょ?」

 この一言が言えないが為に、言わせてもらえないが為に、

世界中で無数の人が不幸になり、死ななくてもいい人が死ん

で行く(人工呼吸器をつけることで、かえってコロナ陽性者

が死んでいるそうですよ)。
 

 だれかの名言にこういうのがあったなぁ。


 《 人は小さな罠を恐れて、大きな罠に逃げ込む・・・ 》


2021年1月10日日曜日

どんな死に方をしたら、許してくれるのか?  コロナ㉖



 首都圏対象に緊急事態宣言が出されたが、大阪の吉村知事

の呼びかけで、京都・兵庫も緊急事態宣言の発出を求めてい

る。神戸市民である私としては「やめてくれ」と言いたい。


 これまでにも書いたが、高齢者が呼吸器系の感染症などで

肺炎を起こして亡くなることは、「普通のこと」で「自然な

こと」なのに、それを目を血走らせて「防げ!」と言う。わ

たしたちは、いったいどんな死に方をすれば許してもらえる

のだろう? その内、老衰で死んでも「不幸だ」と言われるよ

うになるのだろう。私の目から見れば、「狂ってる」。そん

な狂ったアタマで生きながらえて、それが何になるのだろ

う?


 わたしたちのアタマは悪い。それは昔からなのでしようが

ないことだが、ここまでエゴがその妄想を肥大させるのは、

もうまぎれもない「狂気」だ。

 昔、へんな新興宗教などを「集狂(しゅうきょう)だ」な

どと字を充てて、ひとりで面白がっていたが、いまや、それ

が世界レベルである。安心安全原理主義が、地球を地獄にす

る。


 どのようなものであれ「原理主義」はすぐに「集狂」を生

む。それは人の妄想だけの世界で、人を幸せから遥かに遠ざ

ける。そのような「集狂」ではなく、本当に人を苦しみから

救う「宗教」は、「受け入れること」を説くものだと私は理

解している。


 コロナ騒動に象徴されるように、世界は拒絶に次ぐ拒絶。

否定の応酬。排除と抑圧。「受け入れること」など忘れたか

のようで、どうにもならないように見える。

 そもそも、「宗教」というものは個人のものなので、「宗

教」が世の中をよくすることはないだろうと思うが、それに

しても、もうすこしどうにかならないかと思う。人情として

はね。


 命にとって、人生はグリコのおまけのようなもの。

 命にとって、世の中もグリコのおまけのようなもの。

 所詮はおまけの話なので、深刻に捉えることもないけれ

ど、どうせなら楽しめるおまけの方がいい。

 死への恐怖と強欲に振り回されて、命の本質は足蹴にされ

る。

 たとえ生きながらえても、命の本質を見失った生に「救

い」は無いだろう。






2021年1月9日土曜日

「救い」とは・・・。



 「ひとつの言葉」


 ふと、そうあたまに浮かんだ。「誰かの心に入り込んでし

まう “ひとつの言葉” が生まれないだろうか?」と。


 《 正しいとは、そういうことにしておけば気が済むという

こと 》なんて言葉は、誰かの心に入り込んでしまう言葉だと

思う。けれど、この言葉は、その人を不安定で心細い場所に

追い込む可能性も大きいだろう。だからそうではなくて、

「誰かの心に “確信のある希望” をもたらす言葉が生まれれば

いいな」などと思ったのだが、そんなことが実現するのだろ

うか?


 自分でも「えらいことを書き始めてしまった・・・」と、

いま思ってはいるが、なにやら可能性は感じている。「この

まま書き進めれば “それ” は出てきそうだと・・・。


 いま、あたまの中で、これまでブログに書いた言葉がスク

ロールしている。「それにふさわしい言葉をこれまでに書い

てはいないか?」。
 

 「そんなもの無い」


 “誰か” が “特定の一人” ならば、それもあるのだろう。け

れど、いま思っている “誰か” は “さまざまな誰か” であっ

て、一人ではない。不特定多数の “誰か” の心に “確信のある

希望” をもたらす言葉・・・。


 《 “生きていること” 。ただそれだけが、

     そのことが、「救い」なのだ 》


 これは一週間ほど前に、急にあたまに浮かんだ言葉です。

 ここで言う “生きていること” というのは、生物として生き

ているという意味ではなく、“存在している” といったニュア

ンスのことです。

 「生」も「死」も、「生成」も「消滅」もひっくるめた、

その移り変わる働き全体としての “存在” 。その “存在してい

ること” がそのまま「救い」なのだと。

 そこでもう完結している。それでもう満ち足りている。

 わたしたちは、すべてのものは、“存在している” ことです

でに救われている。

 “存在していること” で、もうすでに幸福である。

 わたしたちは、それを見失って不要な一歩を踏み出してし

まう。踏み出すように促されてしまう。そして、幸福から彷

徨い出てしまう。


 改めて考えてみるに、“確信のある希望” という言葉はおか

しい。

 “確信” があれば、それはもう “希望” ではない。“いま持っ

ているもの” だと言える。

 “いま持っているもの” 。まちがいなく “いま持っているも

の” 。

 それは、“いま在ること” 。

 これほど「確かなこと」はない。


 “生きていること” 。

 “いま在ること” 。


 永遠の “在ること” のはたらきの中で、いま自分が目覚めて

いて、それを生きている・・・。

 それが「救い」でなくてなんであろう?

 それ以外のことは、すべて「お話し」に過ぎない。


 ひとりひとりが、それぞれの「物語」の中で生きている。

けれど、その「物語」の中に真の幸福は無い。

 幸福は「物語」の外に在る。

 「物語」を閉じて、目を上げれば・・・。その目が、生ま

れて来た時のように、「物語」を忘れて世界を見るならば、

自分はおろか、何もかもが「救われている」。


 幸福とは、この世界が在ること 。

 それがたとえ、どんなにバカバカしく、醜い世界に見えた

としも・・・。


 
  

2021年1月4日月曜日

「空の意識」~ほんとうの安らぎ



 昨日、「人の観念の暴走が行き着く所まで行き着いた」と

いうようなことを書いたけれど、このブログに書いてあるこ

ともひどく観念的で、世の中を非難するようなことが言える

立場ではないかもしれない。ただ、言い逃れをすれば、世の

中の観念は外を向いているのに対し、私の観念は自分の中を

向いている。意識の中はどうなっているのかを知ろうとして

いる。それが「行き着く所まで行き着いた」ならば、観念は

「暴走」ではなく「停止」するはずだと思っている。


 意識の中は、どれだけ探っても空っぽだ。

 「思考」の中は有象無象が渦巻いているけれど、掴まえら

れる確かなものは無い。

 「感情」の中はいつでもさまざまに揺らいでいて、時に爆

発も起きるけれど、そこに何かの実態が有るわけでもない。

 「無意識」の中では、自分自身と自分を取り巻く世界から

のあらゆる圧力が溜まっているけれど、混沌とした精神エネ

ルギーの塊で、形を持たない。

 これら三つの意識を納めている広大な「空の意識」は、文

字通り「空」であって、そこには何もない。


 「空の意識」の中で、「思考」と「感情」と「無意識」と

が一体化して、空想の一人相撲を続けている。その苦しみ、

喜び、興奮、の泣き笑いを、「空の意識」が静かに観てい

る。


 観念が、「思考」から「感情」へ、「感情」から「無意

識」へ、そして「無意識」から「空の意識」へと行き着いた

時、「空の意識」の精神的真空の中で、観念は雲散霧消して

停止する。絶対不変で永遠普遍の「空の意識」に融合する。

 絶対不変。永遠普遍。つまり完全な安定がそこに在る。完

全な安らぎが・・・。


 「空の意識」の中で、精神的にも具体的にも、あらゆるも

のが現われては消え、生まれては滅んでゆく。その繰り返さ

れる創造と破壊の波の中に在りながら、同時にわたしたちは

「空の意識」に包まれている。わたしたちも「空の意識」そ

のものである。


 悲しみの波が来れば泣く。

 喜びの波が来れば笑う。
 

 その泣き笑いを繰り返しながらも、わたしたちの本質は超

然として安らいでいる「空の意識」なのだ。


 わたしたちは皆、本当は安らいでいるのだ。




2021年1月3日日曜日

2021年・虚無の旅

 

 年が明けて2021年。この “2021年” という数字を見てい

てなんとも不思議な気持ちになった。

 というのは、自分が10~20代、いや、40代の頃でも、

 “2021年” なんて数字は、ほとんど SFに出てくるものであ

って、それが現実になるというイメージは無かった。なぜか

しら、昨年の “2020年” にはそういう感じは持たなかったの

だが、“何か” を越えたのだろう。


 そんな感覚を覚える一方で、人間のしていることといった

ら相変わらずだ。

 人間の生み出したものは大きく変貌し、想像でしかなかっ

ことが現実になっているし、想像もしなかったことを目の

たりにしたりもしている。けれど、当の人間そのものは、

も変わらずアタマが悪いまま・・・。残念ながら、「あけ

しておめでとうございます」などとは言う気になれない。

「あけました・・・、ご苦労さんです・・・」そんな気分か

なぁ。


 なぜ「ご苦労さん」なのかと考えてみるに、わたしたちの 

“アタマ” は「合理性」と「感情(情動)」で出来ているけれ

ど、「合理性」が “物” に働きかけてそのパワーを果てしなく

大させているのに対して、「感情」の方は何の進歩も成長

無いからだろう。


 「合理性」の指標は「正・誤」で、「感情」の指標は

「快・不快」だ。

 この二つを用いて、人は物事を判断するのだが、そこに大

きな問題がある。


 「正」→「快」であれば良いけれど、「快」→「正」と判

断するのが、人間の実情であって、人間は「感情優位」なも

のです。

 なので、「合理性」は「快・不快」に引きずられ、非合理

な「感情」の道具となる。それが、人間の身体性の範囲での

ことであれば、「寒い」→「服を着る・暖を取る」といった

ことで問題は無いのだが、観念的な「快・不快」に引きずら

れるとなると、問題を起こす。「ムカつく」→「相手を殴

る・SNSで罵る」といった具合に。


 さらに、先端技術の使われるような、高度に「合理性」で

出来ていること  ロケットの打ち上げのような  でも、

そのスタートが観念的な「快・不快」によるものであれば、

問題を作り出すだけでしかない。なぜなら、観念には実体が

無いので、どれほど具体的な「合理性」を積み上げても、そ

れは宙に浮いた異物にしかならない。それに、身体的な

「快・不快」に対処する事は、時間的にも物理的にも小さな

活動で終わるけれど、観念的な「快・不快」への対処には際

限がない。もともと実体が無いものの「快・不快」なのだか

ら。

 そうして、観念的な「快・不快」に端を発する活動は、ど

んなに「合理的」であろうと、ブレーキをかけなければ、無

限に問題を大きくして行くことになり、ある限界を越えると

破滅する。古代文明がいくつも滅んだように。


 冒頭の話に戻るけど、“2021年” という数字を私が SF 的

に感じるということは、そこに現実味が無いということでも

あるようだ。なにか、観念的なものが身体的なものを完全に

駆逐してしまったようなイメージを “2021年” という数字か

ら受け取ってしまう。「これまでと何かが違う」と私の感覚

が言う。
 

 考えてみるに、去年一年間、「新型コロナ騒動」という観

念の暴走に世界中が引っ掻き回されるのを目の当たりにし続

け、身体性・具体性が人類規模で見過ごされていることを、

嫌というほど感じさせられたのだから、人間のやることに心

底現実味を感じられなくなったのだろう。


 私は「合理性」より「感覚」の側に立ちたい。「観念」で

はなく「在るもの」を拠り所にしたい。なぜなら、わたした

ちは「合理性」から生まれたのではないから。

 気付いた時には自分が在って、この世界が存在していて、

それが何故なのか分からないという寄る辺なさから逃れよう

と、わたしたちは「合理性」にすがる。でも、それはわたし

たちの出来損ないのアタマが後付けででっち上げたものだ。

間に合わせに過ぎない。


 「合理性」のロケットで宇宙という虚無を探索するより、

「感覚」という地面に立って、風や日差しを楽しむ方が気分

が良いのに決まっている。

 決まっているはずだと思うのだけれど・・・。