2021年1月9日土曜日

「救い」とは・・・。



 「ひとつの言葉」


 ふと、そうあたまに浮かんだ。「誰かの心に入り込んでし

まう “ひとつの言葉” が生まれないだろうか?」と。


 《 正しいとは、そういうことにしておけば気が済むという

こと 》なんて言葉は、誰かの心に入り込んでしまう言葉だと

思う。けれど、この言葉は、その人を不安定で心細い場所に

追い込む可能性も大きいだろう。だからそうではなくて、

「誰かの心に “確信のある希望” をもたらす言葉が生まれれば

いいな」などと思ったのだが、そんなことが実現するのだろ

うか?


 自分でも「えらいことを書き始めてしまった・・・」と、

いま思ってはいるが、なにやら可能性は感じている。「この

まま書き進めれば “それ” は出てきそうだと・・・。


 いま、あたまの中で、これまでブログに書いた言葉がスク

ロールしている。「それにふさわしい言葉をこれまでに書い

てはいないか?」。
 

 「そんなもの無い」


 “誰か” が “特定の一人” ならば、それもあるのだろう。け

れど、いま思っている “誰か” は “さまざまな誰か” であっ

て、一人ではない。不特定多数の “誰か” の心に “確信のある

希望” をもたらす言葉・・・。


 《 “生きていること” 。ただそれだけが、

     そのことが、「救い」なのだ 》


 これは一週間ほど前に、急にあたまに浮かんだ言葉です。

 ここで言う “生きていること” というのは、生物として生き

ているという意味ではなく、“存在している” といったニュア

ンスのことです。

 「生」も「死」も、「生成」も「消滅」もひっくるめた、

その移り変わる働き全体としての “存在” 。その “存在してい

ること” がそのまま「救い」なのだと。

 そこでもう完結している。それでもう満ち足りている。

 わたしたちは、すべてのものは、“存在している” ことです

でに救われている。

 “存在していること” で、もうすでに幸福である。

 わたしたちは、それを見失って不要な一歩を踏み出してし

まう。踏み出すように促されてしまう。そして、幸福から彷

徨い出てしまう。


 改めて考えてみるに、“確信のある希望” という言葉はおか

しい。

 “確信” があれば、それはもう “希望” ではない。“いま持っ

ているもの” だと言える。

 “いま持っているもの” 。まちがいなく “いま持っているも

の” 。

 それは、“いま在ること” 。

 これほど「確かなこと」はない。


 “生きていること” 。

 “いま在ること” 。


 永遠の “在ること” のはたらきの中で、いま自分が目覚めて

いて、それを生きている・・・。

 それが「救い」でなくてなんであろう?

 それ以外のことは、すべて「お話し」に過ぎない。


 ひとりひとりが、それぞれの「物語」の中で生きている。

けれど、その「物語」の中に真の幸福は無い。

 幸福は「物語」の外に在る。

 「物語」を閉じて、目を上げれば・・・。その目が、生ま

れて来た時のように、「物語」を忘れて世界を見るならば、

自分はおろか、何もかもが「救われている」。


 幸福とは、この世界が在ること 。

 それがたとえ、どんなにバカバカしく、醜い世界に見えた

としも・・・。


 
  

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