2021年1月10日日曜日

どんな死に方をしたら、許してくれるのか?  コロナ㉖



 首都圏対象に緊急事態宣言が出されたが、大阪の吉村知事

の呼びかけで、京都・兵庫も緊急事態宣言の発出を求めてい

る。神戸市民である私としては「やめてくれ」と言いたい。


 これまでにも書いたが、高齢者が呼吸器系の感染症などで

肺炎を起こして亡くなることは、「普通のこと」で「自然な

こと」なのに、それを目を血走らせて「防げ!」と言う。わ

たしたちは、いったいどんな死に方をすれば許してもらえる

のだろう? その内、老衰で死んでも「不幸だ」と言われるよ

うになるのだろう。私の目から見れば、「狂ってる」。そん

な狂ったアタマで生きながらえて、それが何になるのだろ

う?


 わたしたちのアタマは悪い。それは昔からなのでしようが

ないことだが、ここまでエゴがその妄想を肥大させるのは、

もうまぎれもない「狂気」だ。

 昔、へんな新興宗教などを「集狂(しゅうきょう)だ」な

どと字を充てて、ひとりで面白がっていたが、いまや、それ

が世界レベルである。安心安全原理主義が、地球を地獄にす

る。


 どのようなものであれ「原理主義」はすぐに「集狂」を生

む。それは人の妄想だけの世界で、人を幸せから遥かに遠ざ

ける。そのような「集狂」ではなく、本当に人を苦しみから

救う「宗教」は、「受け入れること」を説くものだと私は理

解している。


 コロナ騒動に象徴されるように、世界は拒絶に次ぐ拒絶。

否定の応酬。排除と抑圧。「受け入れること」など忘れたか

のようで、どうにもならないように見える。

 そもそも、「宗教」というものは個人のものなので、「宗

教」が世の中をよくすることはないだろうと思うが、それに

しても、もうすこしどうにかならないかと思う。人情として

はね。


 命にとって、人生はグリコのおまけのようなもの。

 命にとって、世の中もグリコのおまけのようなもの。

 所詮はおまけの話なので、深刻に捉えることもないけれ

ど、どうせなら楽しめるおまけの方がいい。

 死への恐怖と強欲に振り回されて、命の本質は足蹴にされ

る。

 たとえ生きながらえても、命の本質を見失った生に「救

い」は無いだろう。






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