2021年1月17日日曜日

“神” の迷い

 


 「自分は何の為に生きているんだろうか?」


 そういう思いを持ったことがない人はいない。

 いないと思うが、もしかすればいるかもしれない。いると

すれば、その人はかなり恐ろしい人だろう。私はそういう人

とは関わりたくない。そういう人は “生きている冷酷” とでも

呼ぶことが相応しい人間だろうから。


 「自分は何の為に生きているんだろうか?」

 「生きていて何になるのだろうか?」

 「わたしたちは何処から来て何処へ行くのか?」


 生きているなら、そういう迷いを持つのが当たり前。持た

ない方がおかしい。だって、誰一人答えを知らないのだか

ら。


 誰一人答えを知らないので、しようがなく、人は “神” を登

場させる。

 キリスト教徒は〈神〉が世界を創ったと言う。他のほとん

どの宗教もそう考える。

 日本にも「国産み神話」があるように、あらゆる民族が、

“神” が自分たちと自分たちの生きている世界を創ったという

物語を持っている。そして、「答え」を “神” に棚上げして、

自らの迷いから逃れようとしてきた。


 でも、世界を創った “神” が存在するのなら、私は尋ねてみ

たい。

 「あなた(神)を創ったのは “何” ですか?」


 きっと “神” も迷っていることだろう。

 そして時折り “神” も「“神” の神」に尋ねていることだろ

う。「あなたを創ったのは何ですか?」・・・・・・・・・

・・・   ・・・     ・・   ・     ・

 

 “神” も迷っているのだから、安心して迷えばいいのだろ

う。

 “神” と共に迷うのは幸福な事ではないだろうか?

 迷うことは、“神” と共に「在る」ことではないだろうか?


 わたしたちは、幸福にも、わけも分からず存在している。

 わたしたちは、幸福にも、迷い続ける。


 「自分は何の為に生きているんだろうか?」

 「生きていて何になるのだろうか?」

 「わたしたちは何処から来て何処へ行くのか?」


 それは知り得ないけれど、その「問い」は幸福の中に浮か

んでいる。



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