2019年1月30日水曜日

橋本治は不滅です!


 昨日、橋本治さんが亡くなった。

 橋本さんは、私が大きな影響を受けた一人です。このブロ

グで、面倒なことをこんな文体で書いているのも、橋本さん

と無関係では無いだろう。もちろん、私には橋本さんのよう

な文章力も丈夫な頭も無いけれど、このブログには、そこは

かとなく橋本治的なものが漂っていると思う。

 別に意識して書いているのではなくて、二十代をどっぷり

と橋本治漬けで過ごしたので、その語り口がもう身体に滲み

込んでしまっているのです。


 橋本治さんの著作は膨大過ぎて、とてもじゃないが私なん

ぞには語れない。膨大以前にそのひとつひとつが濃すぎて私

なんかの手に負えない。だから語らない。

 代わりに、昔、糸井重里さんが言っていた “橋本治評” を

頼りに、橋本治さんについて少し言おう。

 糸井さんは橋本治をこう評した。

 「理論作ってベタベタ残してんのは、橋本治だけだよ」


 わたしたちはものを考える。

 そして考えが深まって行くほど、わたしたちは観念的にな

ってしまう。

 観念的になって、観念が独り歩きを始めて、いつのまにか

わたしたちは観念に引き回されて生きるようになる。身体の

一部の機能でしかないはずの「思考」が、身体を支配してし

まう。しかし、橋本治は「ベタベタ」を残す。

 「ベタベタ」とは、“身体性” のことです(言葉がダサい

けど “生理的判断” と言ったらいいのかもしれない)。


 あんなにしつこくものを考える人もいないと思うけれど、

その考えはあくまで身体に立脚している。そこから離れた

ら、どんなに頭脳明晰でも「バカ」だと、橋本治は当然の如

く確信していて、いくら気持ち悪くても、スッキリしなくて

も、「ベタベタ」を拭うことはしなかった。

 「観念的になる」とは、スッキリしたいが為に、実在して

いる「ベタベタ」を無いものと見做すことですが、それは当

然、生きていることの根本的な事実を無視することですか

ら、問題を生み出します。人間の世界の問題は、ほぼすべて

そこから生まれるので、観念的な人間に対して橋本治は言い

続けた。

 「バカじゃねぇの!」と。


 ここまで書けば、私が橋本治さんに影響を受けていること

が丸分りですね。

 このブログのタイトル『アタマが悪い』は、私の中の橋本

治が付けたものでしょう。私の中に橋本治の血が流れている

のは間違いない。濁ったり薄まったりしているでしょうが

ね・・・。


 これ以上書くと、自前の “橋本治評” になってしまってバ

カをさらしそうなので、もう止めます。



 〈弔辞〉

 橋本治さんへ、一旦は涅槃を過ぎたあなたですが、一周回

って今度は涅槃に入られたのですね。あなたの血は多くの人

の中に注がれて、その “身体” を巡っているようです。
 

 どうもありがとう。感謝感激雨あられ。




2019年1月27日日曜日

寒いのに・・・。


 寒い。

 この冬一番の寒気が流れ込んでいるそうだ。

 とはいうものの、神戸で「寒い」というのはなんてことも

ないレベルなのだ。が、やっぱり寒い。


 昔、よくスキーへ行っていたころ、信州や北海道から帰っ

て来ると、神戸の方が寒く感じるということがよくあった。

 「マイナス10℃以下の所で数日過ごして来たのに、6~

8℃程度の神戸の方が寒く感じるのは、いったいどういうわ

けか?」と、よく思ったものだ。「意識のモードが変わる

と、身体のモードも変わるんだろうなぁ」というのが、自分

なりの解釈だった。


 意識のモードは、当然ながら身体に影響する。

 その影響がどの程度まで及ぶかはわからないけれど、もし

かしたら、意識で心臓を止められるかもしれない。あくまで

も「もしかしたら」だけど。


 だけど、死の瞬間まで意識のある人が、息を引きとる時、

「もう、これでいい・・」とあきらめることで、心臓が止ま

るという事は起っているように思う。意識で心臓を止めるわ

けではないけど、止まりかけつつまだ動こうとしている心臓

への、「動け」という指令を止めてしまうというかたち

で・・。


 それとは逆に、「もういい・・・」と思いかけていた人

が、救命措置によって心拍が強まると生きる意欲が蘇ってく

るということもあるだろう。意識と身体は不可分でお互い補

完し合っている。


 意識と身体は不可分で補い合う関係なのだが、身体のモ

ドが自然の領域から外れることはないのに対して、意識の

でも、「思考」はほとんど自然の領域から外れている。そ

自然の領域から外れた「思考」が身体のモードを無視した

動をするので、わたしたちの身体はしょっちゅう困った目

あわされる。要するに「アタマが悪さをする」。


 自然を無視し、自然から外れるとロクなことがない。

 こんな当たり前の事も無いのだけれど、アタマは自然から

離れたがる。自分が主導権を握りたいのだ。自分が世界の中

心だと思いたいのですね。

 でも、世界に中心なんか無い。


 意識と身体は “同時相関相補性” 。

 人と世界も “同時相関相補性” 。

 世界は “同時相関相補性” 。

 世界に中心も主体も無い。

 世界全体が中心で、世界全体が主体なのに、アタマはそれ

が気に入らない。


 まぁ、仕方がないと言えば仕方がないんです。

 アタマが発生する場所は、個体の脳の中で、世界の中の 

“ある一点” とも言える場所ですから、そこからしか世界を

見れない。だから、そこ(自分)が中心だと感じざるを得な

いのも無理はない。でも、その「自分が中心」という視点

が、すべての問題を生み出している事には気付くべきでしょ

う。だって、「自分は世界から独立した存在だ」というの

は、世界からすれば異物ということですから、世界との間に

齟齬が生まれる。


 「身体の声を聞け」っていうことですよ。


 風邪を引いて立っているのも辛いのに仕事に出る・・・。

 立っているのも辛けりゃ、寝るのが当然なんです。身体は

「寝てくれ」と表明してる。それなのに仕事に出るのは、ア

タマのわがままです。アタマが寄り集まって作ってる世の中

の傲慢です。

 このクソ寒い中、女の子がミニスカートで外出する。風邪

を引く。

 身体は呆れてため息をつく。「やってられねぇ・・・。バ

カじゃねぇの・・・」。


 アタマが悪さをする。


 寒さという自然を無視する。

 身体という自然を無視する。

 世界という自然を無視する。


 アタマなんて、せいぜい百年程度で消えてしまう取るに足

りない存在なのに。



 ああ、寒い。

 さっき、身体の声にしたがって、ルームシューズを履い

た。

 楽になった。

 自然の声に従えば間違いはない  アタマが姑息に関与し

て「自然の声」を装っている場合もあるけれど・・・。



 真宗の信者さんの中に、時折〈妙好人〉と呼ばれる人が現

れる。

 お坊さんではなく、在家の人たちですが、念仏の神髄を掴

んで光明を得た人。

 その〈妙好人〉と呼ばれる人たちは、主体が、自分ではな

く阿弥陀様に移った人たちです。自分が主体で、自分が中心

だったのが、世界の方が主体になってしまった人たち。

 自分は受け取る側の存在だと、心底了解のできた人たち。

 自分と世界の間の境界が無くなって、自分と世界に何の齟

齬も無くなって、本当のくつろぎを知った人たち。


 アタマは、高級なソファーを手に入れなければくつろげな

いと思い込んでいる。そして、高級なソファーを手に入れる

為に働き、疲れる。

 本当のくつろぎを知っている人は、くつろぎたければすぐ

その場でゴロンと横になる。いや、働きながらでもくつろい

でいるだろう。


 ・・・ああ、やっぱり寒い。

 なんだって暖房の利いていない部屋でパソコンをいじって

いるのだろう。

 行きがかりにこだわるアタマは無視して、もうこの辺で辞

めにしよう。

 暖かい部屋に移ってコーヒーでも飲んでくつろごう。


 今日はお終い。




 


 
 

2019年1月26日土曜日

大坂なおみはしあわせになれるか?


 「大坂なおみが全豪オープンで優勝した」と、さっきニュ

ース速報が流れた。またしばらく、メディアがもてはやすの

だろう。

 以前のインタビューで聞いたが、彼女は「世界一のテニス

プレイヤー」になりたいそうだ(今回の優勝で世界ランキン

グ一位になったそうだが)。

 そのインタビューを聞いた時に私が思った事といえば、

「世界一にならなければ自己肯定感を持てないなんて、何か

大きな “欠損” をかかえているんだろうなぁ」ということだ

った。


 「生きること」、「しあわせでいること」は、そんな大袈

裟な事ではない。

 「世界一」にならなければしあわせでないのなら、この世

界でしあわせを感じられる人はほんの一握りになってしまう

だろう。

 人はその生い立ちの中で、世の中の吹き込んだストーリー

に囚われてしまい、その中でしか自分を肯定できなくなるの

が普通です。中には、(世の中で)スケールの大きいことを

実現しなければ自己肯定感を持てなくなる人も多い。大坂な

おみもそういう人なんだろうなと思う。

 それは彼女の必然で、仕方がない事だろうけれど、さっき

書いたように「生きること」「しあわせでいること」は、そ

んな大袈裟なことではない。


 「世界一」が「世界で一番」ならばそのポジションは少な

いが、「世界に一つ」ならばそれは人の数だけある。誰でも

自己肯定出来る。

 『世界に一つだけの花』という曲は、そういう自己肯定感

の持ち方を伝えた。そこには「違う」という事を肯定するも

のの見方があって、結構な数の人に心の安定をもたらしただ

ろう。


 けれど、「違う」ということを知る為には、比べなければ

ならない。そして、比べる限り、人はその過程で「違い」だ

けではなく「差」を見てしまうだろう。

 「世界に一つ」という思考は「自分という “個” 」を世界

から分離せざるを得ないので、ひとときの満足をもたらして

も、その自己肯定感は、結局、世界の大きさの前に圧倒され

てしぼんでいっていまう。

 「世界一」などという “妄想” を追いかけるよりはずっと

良いと思うけれど(大坂なおみちゃん、ゴメンネ。君には君

の事情があるだろう)、人は「世界に一つ」という “自己” 

肯定のもう一つ向こうへ進まなければ、本当のしあわせは無

い。


 「世界一」という言葉は、「世界という “ひとつ” 」と読

みたい。

  ”個” というものは、人のアタマの中にしか存在しないも

ので、実際の世界の中では、何ひとつ分離できない。わたし

たちのアタマが「違い」というものを見い出すように出来て

いる為に、世界の動きの中に個々の出来事を見てしまって、

そこに “個” というものが在るように思い込んでしまうけ

ど、世界は「世界という “ひとつ” 」だ。


 世界は動く。動くことによって、そこに生まれる変化が、

何か「違うもの」のように見えるけれど、世界は何ひとつ分

離していない。自分もその中にある。自分は世界である。


 自分が世界であるのならば、それ以上の肯定感など有り得

ない。「絶対肯定」あるいは「最終肯定」と言ってもいい。

そしてその肯定は、手に入れたり辿り着いたりするものでは

なくて、すでに「そうである」ことだ。


 こんなことは妄想だろうか?


 そんなことはないと思う。

 宗教的なものの見方の中だけで「正しい」とされるような

ことではなくて、科学的なものの見方からしても、世界は何

ひとつ分離できないと見ることはできる。

 “個” というものを成立させたい立場であれば(エゴの立

場からすれば)、世界の中に「違い」を見ようとするだろう

し、“個” というものに価値を置かない立場からは、世界が

「分離できないひとつのもの」に見えるだろう。


 どちらの見方が正解かは言えない。

 しかし、「違い」を見るのはアタマの働きで、世界を客観

視できるという前提に立たなければ出来ないけれど、いった

い人が世界を客観視できるだろうか? 自分も世界の中にい

るのに・・。

 自分が世界の中にいることを思えば、客観視など出来ず、

自分も世界の一部であって、自分というものも、その動きの

一つのものでしかないと考える方が自然だろう。


 どちらの見方を採るかは、人それぞれということになるけ

れど、「違い」を見て “個” を成立させたいのはエゴの働き

であって、少なくとも本当のしあわせをもたらすものではな

いというのが、私の立場。


 しあわせでありたいのなら、「世界という “ひとつ” 」の

方に目を向けるべきだろう。

 “個” は必ず損なわれるものだけれど、“世界” そのものが

損なわれることはないのだから、それ以上の「安心」は無い

でしょう。


 大坂なおみという健気に頑張っているお嬢さんには、しあ

せになってもらいたいと思うけれど、それは「世界一」にな

ることではなくて、「自分も世界なんだ」と知って欲しいと

いうこと。

 「世界一」は、たまたま自分が辿っているストーリーだと

いうだけで、ちょっとしたオマケなんだとね。




2019年1月20日日曜日

起った時には、終わってる。


 一昨日の夜、風呂に入ろうとしている時に突然思った。

 「終わったな」と。

 何が「終わった」のかよく分からないのだけれど、なぜだ

か「終わった」と思って、肩の荷が下りた気がした。何が

「終わった」のだろうかと考えているが分からない。

 「悟った」というような事でもなさそうだし(残念なが

ら)、いったい何だろうかと思っているが、何やら肩が軽く

なったのは確かだ。


 ずいぶん前にこのブログに書いた言葉で、《 起った時に

は、終わってる 》というのがある。(『うるさいのは?』

2017/1)


 わたしたちが経験する出来事は、起った時には、終わって

います。

 当然ながら、わたしたちの意識は出来事が起ってからでな

ければ、それを認識できません。出来事が起ってからコンマ

何秒か遅れて認識しています。つまり《起った時には、終わ

ってる》わけですね。

 そして、わたしたちの思考は、起こった事に対して働きま

す。

 未来の事を考えている時でも、それまでに起こった事を踏

まえて、今後どの様にして行けば良いかなどを考えているわ

けなので、未来の事を考えても、結局は起こった事に対する

思考の働きです。

 わたしたちがしていることは、済んだことを「ああだ、こ

うだ」とアタマの中でこねくり回して、その考えをアタマの

外に出して現実の世界もこねくり回すということです。それ

が「人間活動」と呼ばれるものですね。
 

 人間以外の生き物だってそうです。

 ウサギが狐の姿を見つけたら、それに対応する行動を取り

ます。当たり前ですね。

 けれど、ウサギは「去年の九月に狐の野郎が、向こうの谷

で追いかけて来やがったな」なんていうことは考えない(と

思う)。しかし、人間は違う。アタマの中に膨大な過去(記

憶)を蓄積していて、新たな体験をするたびに、それと関連

付けて「ああだ、こうだ」とこねくり回し続けています。そ

れが人間のクセというか、異常な所ですね。


 過去の経験を将来の為に活かすというのは当然の事です

が、本当に活かしてるのか?

 たんに、過去に囚われているだけではないのか?

 過去の愚かさを、形を変えてなぞろうとしているだけでは

ないのか?

 過去の「怖れ」を拭いきれないでいるだけではないのか?


 「?」を付けましたが、ホントは疑問の余地はありません

ね。

 わたしたちは、過去に囚われ、過去の愚かさを繰り返し、

過去を払拭出来ずにもがいています。それがわたしたちの思

考であり、行動です。

 わたしたちの未来は、なんとか過去の穴埋めをしようとい

う、もがきの為に在るようなものです。


 なんと可哀相なわたしたち・・。

 もうすでに終わってしまって何処にも存在していないこと

に生きることを費やしているなんて・・・。


 あなたも私も、どれぐらいの件数の過去の出来事を、今

日、アタマの中でこねくり回したでしょうか?

 来る日も来る日も、過去の事をアタマの中でこねくり回し

ては、「あれや、これや」と何かをして、その結果をまたア

タマの中でこねくり回す・・・。

 本当にそんなことが必要な事柄が、いったいどれくらいあ

るでしょうか?

 落ち着いて考えてみれば、放っておいて良いことの方が圧

倒的に多いのではないでしょうか?


 もう全部終わっているんです。

 もう終わったんです。

 わたしたちのアタマが終わらせようとしないだけなんで

す。

 過去にハマった穴なんて、過去と共に消え去ってもう何処

にも無いのに、アタマはいつまでも穴の中に留まっているん

です。



 ここまで書いて来て、一昨日、私が「終わった」と思った

のは、こんなことだったんじゃないかなと思いました。


 〈過去の穴の一つに私のアタマが関わり続けていて、私に

ロープの片方を穴の外で持たせて、アタマは穴の中にぶら下

がっていた。ところが、何かのはずみか成り行きで、私がそ

のロープを放してしまったんだろう〉と。

 だから、私は「終わった」と思い。肩が軽くなった

と・・・。


 どんなキッカケで、なぜそうなったのかはさっぱり分かり

ませんが、そのようなことなのではないかと思いますね。無

意識に背負い込んでいた何かから解放されたのでしょう。

 普通は、こういう時には何かの気付きがあるもんだと思い

ますがね・・・。



 何にしろ、何かが「終わった」ようです。

 そして、何もかも終わっています。

 ぜんぶ、けりが付いてる。

 アタマなんて、穴の中に置き去りにすればいい。
 

 すべて終わっているというこの事実が、肚の底で感じられ

たら・・・、わたしたちは本当に自由だろうと思うのです

が・・・。




2019年1月19日土曜日

不幸な人もしあわせならば・・・。


 不幸な人もしあわせだったら世の中はどうなるだろう?

 不幸な人が、「わたしは不幸だけれど、それはそれとし

て・・」という感じで、自身の “いま在る” ことをしあわせ

だと思えるのなら、世の中はどうなるだろう?

 世の中の幸・不幸が、人にとって二次的なものだと考えら

れるようになったら、世界はどうなるだろう?

 幸福の追求だとか夢の実現だとか称して、エゴにそそのか

されるままに個人の欲望を満たすことが、単なる “お話” に

過ぎないと誰もが思うようになったら、世界はどうなるだろ

う?


 人が意欲を無くして、世界は停滞するだろうか?

 停滞するだろうね。今よりもずっとずっと。そしてまとも

になるだろうね。

 人は今よりもずっとずっと落ち着いて暮らすだろう。だっ

て、何があってもしあわせなんだから。


 「何かを成さなければ、ある条件を満たさなければしあわ

せではない」と誰もが思い込んで、自分がそうある為にみん

ながお互いに牽制しあう。そんな世界に暮らしていれば、出

塁したランナーの様に、いつも浮き足立って、前のめりで、

神経をとがらせていなければならない。


 わたしたちは、ゲームに参加しなければならないと思い込

まされている。

 気付いたらバットを持たされていて、今さら抜けられない

と思い込む(実際、まず抜けられないけどね)。「勝った。

負けた」と一喜一憂する。それがこの世の中の現実だとして

も、それはゲームです。お遊びです。オマケです。生きるこ

との本質ではない。

 人がお互いに、そのゲームの価値を高く思いたがって、思

い込んで、あたかもそれが生きることそのものの値打ちであ

るかのように振る舞い合う。



 それなりに喜んでいらっしゃる人の気持ちに水を差すの

は、けっして褒められたことではないので、誰もそんなこと

は言いませんが(私だって言いませんが)、オリンピックで

金メダルを獲って喜んでいるアスリートに「それがなんなん

ですか?」と言ったら、殺されるほど恨まれることでしょ

う。それは言わないという暗黙の了解を破る事になりますか

らね。寅さんじゃないですが「それを言っちゃあ、お終い

よ!」ということです。“お話” がぶち壊しです。でも、ほ

んとは「それがなんなんですか?」というのが真実です。


 人は、なんでもなくていいんです。

 人生は、なんでもなくていいんです。

 世の中は、人生は、“お話” です。

 病気や災害でさえ “お話” です(そう思うのはとてもとて

も難しいですけどね)。

 生きることの本質を忘れて 、“お話” に必死になり過ぎる

から、かえって人の苦しみは増大する。



 苦労して苦労して苦労して・・、やっと手に入れた金メダ

ル。

 苦労して苦労して苦労して・・、やっと手に入れた社会的

成功。
 

 喜びよりも、苦労の方が数千倍多いだろうと思いますが、

コスパが悪すぎるのでは?

 そんなことに首を突っ込まずに、のんびりしてたら良かっ

たのでは?


 こういうことを言うと、「苦労して、がんばってこそ、そ

こに人間の成長があるのだ!何もしないで怠けていると、人

間はダメになってしまう!」と言って怒り出す人も多いでし

ょう。でも、その考えがすでに “お話” です。

 なぜなら、そこでの “人間の成長” は、「世の中の評価に

おける成長」だからです。世の中の “お話” です。世の中で

褒めてもらえるということでしかありません。

 (ホントに、「これを言っちゃあ、お終い」だな。悪気は

無いんだけどね)


 世の中で評価される事というのは、「“お話” でしかな

い」ということをよくよく心得ておかないと、本当に「不幸

だなぁ」と言いたくなることが起ります。
 


 若い人は知らないでしょうが、前の東京オリンピックの男

子マラソンで、銅メダルを獲った円谷幸吉という人がいま

す。

 円谷さんはこのことで一躍ヒーローになりましたが、その

数年後に、プレッシャーに押し潰されるかたちで自ら命を絶

ちました。

 世の中が膨らました “お話” から抜け出すことが出来なく

て、自身の命のエネルギーを吸い取られてしまったような事

だったのしょう。


 社会的成功や、誰かの感動のエピソードや、アスリートの

達成感、スターの華やかさ、金持ちの優雅さ・・・。

 そういった良い(とタグ付けされた) “お話” だけではな

くて、ヒトラーの語った事や、大国の掲げる大義名分や、巨

大企業のCEOが「夢」と称する “強欲” のようなものもやは

り “お話” ですが、そのような “お話” の暗い部分とのバラ

ンスを取る為に、世の中は感動話を求めます(とてもバラン

スが取れるとは思えないんですが)。

 それは、人が “お話” のもたらす「暗黒面」を直視してし

まって、 “お話” 自体を「良くないもの」と思わないように

する、エゴの策略です。エゴは “お話” の中でしか存在でき

ませんから、あるあゆる手段で “お話” を守ろうとするので

す。



 私は、悪気があってこんなことを言っているのではありま

せんよ。それが人間の真実だから、それを語っているだけで

す。人としての本当のしあわせは「そこには無い」と思って

いるだけです。


 だってね、さっき書きましたが、金メダルを獲ったアスリ

ートに「それがなんなんですか?」と言ったら、間違いなく

その人は不愉快になって、傷付いて、一生わだかまりを持ち

続けることになるでしょう。そう思うでしょう?

 どこかの誰かの「それがなんなんですか?」のたった一言

で、台無しになってしまうような事は、そもそもその程度の

ことだということですよ。そういうことにしておきたいだけ

ですよ。


 本人だけではなくて、その “お話” に加わって一緒に酔い

たい人たちが、お互いにその “お話” の価値を担保し合う。

 自分のしていること、望んでいること、自分が愛着を持っ

ていることを「価値あることと思い込む」という約束事をみ

んな(関係者)で守る。

 そうやって守っているものが何かというと、結局、エゴの

満足でしかない。


 「エゴを守って何が悪い」という考えもあるのでしょう

が、そういう人はエゴを守る為に犠牲にしているものが、時

として非常に大きなものになることに目が向いていないんで

す。自身が自身に強いている犠牲の大きさにも、周りに及ぼ

す悪影響にも気付けない。エゴに惑わされ、支配され、無用

な活動にエネルギーを費やしていることに気付けない。

 「“苦しみ” は喜びを得る為に必要なことであり、尊いこ

とでもある」という思考のすり替えを、エゴが “お話” の中

に忍ばせるので、「苦しむことは必要だ」と多くの人が思い

込む。そして、そういう風に教育されて人は育つ。けれどそ

れは、そういう “お話” です。

 その “お話” の為に、本質的なしあわせを見失ってしま

う・・・。


 私は、社会の “お話” を100%捨てろとは言いません。言

えません。それは人間にとって「必要悪」であって、避けが

たいものだと思いますから、それに関わったっていい。関わ

らざるを得ない。でもそれは、生きることの本質ではないと

いうことを、いつも気付いていなければいけない。それが無

くったって、変わるのは “気分” だけでしかないということ

を知っていなければいけないと思うんです。


 “お話” を楽しむ分にはいい。

 “お話” を上手に利用して、生活の快適さを少し増やすの

もいい。

 けれど、“お話” が主体になってしまえば、自分の命はど

こかへ行ってしまう・・。

 生きることが、“お話” に乗っ取られてしまう・・・。

 人はエゴの乗り物に成り下がってしまう・・・・。


 エゴに自分を乗っ取られて、成り下がって、さらに下がっ

て行くと、そこには地獄がある。エゴに乗っ取られた当人

は、「自分は上がって行っている」と感じるのですが・・。


 わたしたちが母親のお腹から出て来た時には、“お話” な

んて何も知りません。そのまま “お話” なんて何も知らない

まま数年を生きて行きます。

 ずっとずっと昔なら、その後に教えられる “お話” もそん

なに大袈裟で面倒なものではなかったでしょう。でも、今で

は “お話” はとても念が入って複雑で、その現実との乖離は

バカバカしいと言うしかないほど大きい。


 “お話” は、絵本の中に有ったらそれでいいのです。その

程度のものなのです。

 絵本を現実と思い込んでしまうのが、わたしたち人間で

す。

 絵本の中にあるものは、“絵本の中のしあわせ” です。

 ほんとうのしあわせは、絵本を読んでもらっている、ベッ

ドの中の自分なのです。


 ただそこに居て、命の温かさを感じ、安らいでいる事が本

当のしあわせだと思うのですが、こんな話は、当然ながら世

の中ではすこぶる受けが悪い。こんな話をすると世の中から

憎まれます。

 「アンタ。それを言っちゃあお終いよ(怒)!」



 いいかげんに「お終い」にした方が良いと思うから言って

るんですけどねぇ。




 

2019年1月15日火曜日

『絶対幸福』


 前回、《世界はしあわせで出来ている》と書いた。

 《不幸な人も、しあわせです》などとも書いた。

 「『不幸な人も、しあわせ』なんて、コイツ、日本語が分

かってるのだろうか。それともアタマがおかしいのだろう

か」と思われるかもしれない。確かにアタマはおかしい。

が、アタマがおかしいのは人類共通のことで、私に限ったこ

とではない。それに、日本語には結構慣れているので、わけ

が分かっていないという事でもない。なぜ、《不幸な人も、

しあわせ》なのかということを説明しましょう。


 《不幸な人も、しあわせです》と言われると、大抵の人は

こんな風に考えるでしょう。


 親に虐待されて殺されてしまう子供がしあわせだというの

か?

 学校でいじめられて自殺する中学生がしあわせだというの

か?

 ブラック企業で奴隷のように扱われて、鬱病になってしま

った若者がしあわせだというのか?

 テロリストに公開処刑される人がしあわせだというのか?

 紛争地帯でレイプされ、殺される女性がしあわせだという

のか?

 さまざまな国や地域で、さまざまな理由で差別され迫害さ

れる人々がしあわせだというのか? などなどなど・・・。


 極端な例を挙げましたが、これらの人々は確かに「不幸」

でしょう。とても「不幸」でしょう。誰も、そのような目に

会いたくない。私もそのような立場に立たされたくはない。

 このような極端な例でなくても、もっと日常の狭間にある

ことで「不幸」を感じる人たちはいっぱいいる。

 貧しい。病気。肉親との不仲。犯罪や事故や災害の被害に

遭うなど、「不幸」はわたしたちのすぐそばにある。

 そういった事の当事者になった人は「不幸」です。「不

幸」な人は「不幸」です。でも、《不幸な人も、しあわせで

す》。


 「『不幸な人は、不幸』と言ったとたんに、《不幸な人

も、しあわせです》というのはどういう神経だ?」と思われ

ることでしょうが、このブログを書いている人の言う《しあ

わせ》は、「不幸」と同じ次元で語られる「しあわせ」では

ないようです。



 突然ですが、イエスが十字架に架けられた時に言った有名

な言葉がありますね。


 《父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているの

か自分では分からないのです》という言葉。


 イエスは、十字架に磔にされ、今まさに殺されようとして

いる。

 殺そうとしている側は、「殺すこと」に価値を見い出して

るわけですが、イエスからすれば、「殺す」とか「生かす」

などということは、〈神の御業〉によってなるこの世界の中

にあっては、無意味なことです。その無意味なことに囚わ

れ、我を忘れている愚かな人々の「愚かさ」を《赦してあげ

て下さい》と祈っているわけですね。


 イエスを磔にする側は、「この男を不幸にしてやった!」

とご満悦なのでしょうが、当のイエスは全然「不幸」になっ

ていない。それどころか、殺す側の救いの無さを憐れんで、

神の慈悲を乞うている。この時のイエスは「不幸」でしょう

か?


 誰も、どんな手段でも、イエスという人間を「不幸」にす

ることは出来ない。なぜなら、イエスは神と一つだからで

す。私がしっくりする言葉で言えば、イエスは存在と一つだ

からです。


 イエスの身に降り懸かるどんなことも、死でさえも、イエ

スを損なう事が出来ません(肉体は損なわれるとしても)。

なぜなら、イエスに「降り懸かる事」それ自体も、イエスと

一つだからです。

 人々の目に映るイエスは、世界の “ある一面” に過ぎませ

ん。いったい何者が、石を投げ、槍で突き、世界を壊すこと

が出来るでしょう? 石も槍も、世界の一部です。

 イエスを殺そうとした者たちがした事は、空気に空気を投

げつけるような事だったのです。


 イエスを「不幸」にすることは出来ません。

 イエスは、存在そのものの “ある一面” です。イエスは世

界そのものでもあります。同様に、イエスと同じこの世界に

るわたしたち一人々々も、あらゆる個々の存在も、世界そ

ものであると言っていいのです。

 イエスが、「不幸」とは違う次元に在るのならば、それと

同じく、わたしたちも「不幸」と違う次元に在るのです。つ

まり、「不幸な人」は、いない。と同時に、すべての人が存

在と一つ。

 そのことは、「存在している」という根源の真実は、私の

感覚では『絶対幸福』という言葉で言いたいことなんです。


 砂の一粒どころか、素粒子の一つから銀河集団まで、すべ

ての《存在するもの》は、しあわせです。


 《存在する》=《絶対幸福》なのです。
 



 思いがけずイエスの言葉の解説の様になってしまったので

した(どこかの教会でこの話を使って下さってもいいです

よ)。

 というようなわけで、《不幸な人も、しあわせです》とい

うことをご理解いただけましたでしょうか?


 しあわせだと思えなくても、みんなしあわせなんです。


 どうぞ安心して、挫折するなり、病気になるなり、貧乏に

なるなり、金持ちになるなり、恋に破れるなり、離婚するな

り、生まれるなり、死ぬなり、殺すなりして下さい。

 「して下さい」というより、自分の “生” を生きて下さ

い。



 苦しいでしょうよ。私も生きているのが苦しい。でも、苦

しくても、地獄に落ちても、不幸のどん底だとしか思えなく

ても、命が尽きても・・、みんなしあわせなんです。


 (・・えらいこと書いちゃったなぁ・・・)
 
  

2019年1月13日日曜日

小春日和。世界はしあわせで出来ている。




 今日はよく晴れて、陽射しがとても暖かい。

 玄関先のビオラやチロリアンデージーに何匹ものハナアブ

が来ている。嬉しい。気分が良い。


 長く務めた会社がブラック企業化してしまい、やむなく一

昨年退職し、再就職したが収入は激減。もともとお金には縁

が無い方だが、今はほんとうに余裕が無い。まぁ、生活は出

来るが・・。


 日本人の平均的な考え方からすれば、私は贅沢なことは全

然してこなかった。“中の下” あたりの暮らしぶりだったろ

う。今は “下の上” ぐらいだろうか?

 それで不満はなかったし、根が貧乏性で、「高級」な所へ

行ったりすると変なストレスを感じてしまうので、そういう

シチュエーションはなるべく避けて生きて来た。それに加え

て、仏教や老荘思想に興味を持ったこともあって、“「高

級」であること” を喜ぶ人間を見ると、「幼稚だな」と思

う。ただの負け惜しみかもしれないが。


 二十代の頃から、花や木やコケなどに目が向くようになっ

て、やがてしょっちゅう山へ出かけるようになり、鳥やら虫

やらにも愛着を覚え始めて、自然全般へと興味は拡がった。

 気が付けばいつのまにか、誰も存在さえ気付かないような

道端の草を見て嬉しくなるようになったし、先述のビオラの

ような、自分で植えた花の “美しさの不思議” に喜びを感じ

るし、今日のような暖かな陽射しには、しみじみと感動する

人間になっていた。


 自分は、社会的には決して恵まれた方ではなかっただろう

し(かといって、それほど酷い目に会ったわけでもない)、

それを自力で何とかする能力も根性も持ち合わせていなかっ

た。それなりに辛い思いはあったけれど、そのことに恨みつ

らみは持たなかった。

 「これが自分だからしょうがない」という “諦観” みたい

なものを持ち合わせていられたのは良かったと思う。

 何より、道端の雑草(あまり使いたくない言葉だ)を見て

楽しめるような人間になれたことは、本当に幸運だと思う。

「本当の幸運」だとも思う。

 社会生活の上では、“泣く泣く暮らしている” といった感

じもあるけれど、「自分ほどしあわせな人間もいない」とも

思う。(もしかすると精神疾患だろうか?)


 人間のエゴを除けば、世界は驚きと美しさと温かさで満ち

ている。

 自然の厳しさ・非情さも、驚きとして受け入れることもで

きる(できないこともある)。

 喜ぶべきことを喜べている自分がいることに、本当に感謝

する。

 こういう想いを持ったまま、この先も死ぬまで過ごせるか

どうかは分からない。そう在りたいとは思っても、自分も変

わって行く。


 ずいぶん昔に、こう思うようになった。 


 《 しあわせでない人はこの世にいない

   しあわせでないものがこの世に存在したことはない 》


 ただ、自分のエゴのおしゃべりや、まわりのエゴのバカ騒

ぎに気を取られて気付けないだけなんだとね。
 

 ほんのわずかな時間でもエゴを黙らせることが出来れば、

その瞬間は世界のまるごとを感じられる歓喜の瞬間になる。

 そして気付く。それが世界の本質だと。それが命の本質だ

と。


 エゴはしあわせを感じる事ができません。

 エゴにできるのは「しあわせだ」と思い込む事と、脳内麻

薬でハイになる事を「しあわせだ」と勘違いする事だけで

す。

 しあわせはエゴの外にある。

 “くらべない心” と共にある。

 いつでもどこにでもある。

 世界にはしあわせだけがある。


 私もあなたも、頭のてっぺんから足の爪の先までしあわせ

で出来ている。

 水虫だって、癌細胞だってしあわせで出来ている。

 ゴキブリだって、クジラだってしあわせで出来ている。

 テロリストの身体だって、カラシニコフだってしあわせで

出来ている。

 ウイルスだって、プルトニウムだってしあわせで出来てい

る。

 “不幸な人” だって、しあわせなんだ。不幸を感じるのは

エゴだけだから。


 人は、ずっとずっと勘違いをし続けている。

 行きがかり上しかたがない部分もあるけれど、お付き合い

をしてあげなければいけない事情もあるけれど、本当は不幸

にしている義務はありません。

 世界はしあわせで出来ている。



2019年1月12日土曜日

「わかりたくない」のです



 ブログを始めて、まる二年が経った。



 このブログに書いている話はわかりにくい。

 わかりにくいどころか、「わからない」と言われても “ごも

っともです” と思う。なにせ、言葉で説明しづらいことや、

言葉で説明できないことを説明しようとしているんだから、

わかりにくくて当たり前だ(などと言って自分の文章力の無

さをごまかしているのかもしれない)。まったく独りよがり

で、無意味だと思われたりもするだろう。


 けれども、人が何かを説明されて「わかった」と思っても、

説明した側とされた側のアタマの中のものが同じかどうかは

わからない。怪しいものです。人は聞きたいことだけ聞いて

いるし、わかることしか聞き取れないものだから、「わかっ

た」なんて思うこと自体が、間違いかもしれない。


 それじゃあ、みんな何もわからないで動いているのかとい

えばそうでもない。言葉での約束事の上ではわかり会える。

「1+1=2」というような取り決めの上ではね。でもそこから

少しでも外れてくると、もうわからなくなる。

 考えてみれば、「説明する」ということは、新しく約束事を

作ろうとする行為なんですね。

 さらに言えば、「話す」ということ自体が、新しく約束事を

作ろうとする行為ですね。

 「行為」と言えば聞こえが良いけれど、むしろ「あがき」と言

う方が正解でしょう。エゴのあがきです。


 わたしたちは自分のまわりの環境を自分の都合の良いよう

に整えたい。それは人間だけではありません。他の生物だっ

て自分のまわりの環境を都合の良いように整えようとしま

す。巣を整えたり、寝床を整えたり、細菌ですら分泌物をだ

して自分を守ろうとする。人間も生物として当然そうする。

けれど、人間の場合はそれだけにとどまらない。そこにエゴ

が介入してくる。介入で済めばまだしも、エゴが生物として

の都合を無視してすべてをコントロールしようとする。わた

したちが話して、説明しようとするのは、自分のまわりの環

境を自分の都合の良いように整えたいからです。


 前に、「人がしゃべるのは自分の位置を確認したいから

だ」ということを書きましたが(『人は、なぜ喋る?』

2018/3)、そうやって自分の位置を確認した後、自分の理

屈で周囲を固めて、自分の立っている場所を安定したものに

する為に、自分の立ち方(考え)を周囲に了解させようとし

ます。説明し、納得させようとするわけです。まわりが自分

の考えを了解してくれれば安心ですよね?

 わたしたちが、話し、説明するのは、自分の為の “地盤改

良工事” のようなものです。


 これらは人間本来の働きではなくて、エゴの働きです。

 エゴはわたしたちの不安から生まれ、その明確な存在理由

も持たないので、エゴ自体が不安定なものです。なので、エ

ゴが求めるのは常に “自身の安定” です。その為にはなりふ

り構いません。時として、身体(命)まで投げ打ちます。自

爆テロなどはその典型ですね。


 エゴは、そのままでは安定出来ない存在です。そしてエゴ

は「思考」によって存在していますから、言葉によって自分

を世界に位置付け、その足元を固めたいのです。だから、隙

あらば自分の立場で他人を説得しようとします。

 その話がたとえ世界の平和であろうが、環境問題であろう

が、好きなスポーツのことであろうが違いはありません。人

が自分の考えを話し、誰かに理解されようとか、説得しよう

とするのは(大袈裟な事ではなく、「靴の脱ぎ方」のような

些細なことまで)、エゴが安心したいからです。このブログ

だって例外ではありません。


 話す方は自分の都合で話しているし、聞く方も自分の都合

で聞いているだけなので、わたしたち人間の「話し」という

ものは、ほとんどの場合、理解し合えないままに終わりま

す。

 こんなことを言うと悲しくなってしまうかもしれません

が、わたしたちは人と話をしても「わかったつもりになって

いる」だけでしかありません。


 本当に「わかる」、「わかり合える」という事は、そうそ

う起こることではありません。起ったとしても、それは言葉

で直接「わかる」のではなくて、言葉をきっかけに感覚で

「わかる」のですね。そして、その「わかる」ことはエゴと

は関係のないことです。


 普通、「わかった」という時は、エゴの打算によるもので

す。

 誰も、他人のエゴの都合なんてわかるつもりはありませ

ん。そんなものをわかったら、自分のエゴの立場が制限され

てしまいます。せいぜい、相手のエゴの都合と自分のエゴの

都合の利害関係が一致する時に、「同じだね」という事にす

るだけです。都合が良ければ「手を打つ」だけの話です。

「わかり合った」わけではありません。


 人の話が本当に「わかる」というのは、自分を変えてしま

う出来事です。

 その時までの自分のエゴに、“風穴” が空くことです。

 その “風穴” から、人は本来の自分を一瞥します。

 世界の本当の姿を一瞥します。

 時には(運が良ければ)、その一瞥がその人の生き方を支

配してしまいます。

 「本来の自分」、「本当の世界」を希求することが、生き

ることの中心になってしまうのです。私が、そうです。
 

 私が辿っている道が正しいのかどうかは、私にはわかりま

せん。

 右往左往し、袋小路に迷い込んだり、ドブにハマったりし

ているのは間違いないでしょうが、「方向は間違っていない

だろう」と思っています。もし、それも間違っていたら、人

生の最後に『残念でした!』と書かれた立札を目にして、

「ああ・・・・」と力のないため息をついて終わるだけのこ

とです。


 私の事はともかく、「わかる」ということは、そのように

“身体” というか “心” の働きによるものであって、言葉によ

ってエゴが得られることではありません。

 エゴに可能なことは、どこまでいっても「わかったつも

り」でしかありません。「わからせたつもり」でしかありま

せん。だって、エゴは自分の都合の範囲内のことしかわかり

たくないからです。自分に “風穴” を空けるようなことは受

け入れません。そのようなことは理解できない(理解しな

い)仕組みになっています。

 自分に都合の悪いことを聞かされると、「納得のいく説明

をしろ!」と説明を求めますが、もともと自分は納得する気

はありませんから、何を聞いても「それじゃぁ説明になって

いない!」と突っぱね、「説明できないこと」は「必要ないこ

と」、「間違ったこと」という判断を下して、自分を守りま

す。

 エゴがやっているのはそういうことですが、当のエゴはそ

んなこと考えもせず、自分の立場をわからせようとして、他

のエゴとの間で「わからせ合い」を繰り広げます。

 親子、兄弟、恋人同士、仕事関係、宗教対宗教、国と

国・・・。世界のすべての揉め事はそれによります。

 「どうにかならないものか・・・」と思いますが、どうに

もなりそうにありませんね。


 どうにもならないのに決まっているのに、「このブログを

読んだ人のエゴに、小さな ”風穴” を開けられないものだろ

うか」と思ってこんな事を書いています。


 それなりに落ち着いている人に無用な揺さぶりを掛けるの

は、単に迷惑なだけかもしれませんが、こんな話を何とな

でも「わかってしまう」としたら、それもご縁です。幸か

幸か知りませんが、ご縁を大切にしていただければと思う次

第です。



 (・・・という話ですが、これも自分の足元を固めようと

る、私のエゴの「あがき」でしかないのでしょうか? 笑

ておくしかないですね・・・。ところで、この話わかりま

した?)