2019年1月15日火曜日

『絶対幸福』


 前回、《世界はしあわせで出来ている》と書いた。

 《不幸な人も、しあわせです》などとも書いた。

 「『不幸な人も、しあわせ』なんて、コイツ、日本語が分

かってるのだろうか。それともアタマがおかしいのだろう

か」と思われるかもしれない。確かにアタマはおかしい。

が、アタマがおかしいのは人類共通のことで、私に限ったこ

とではない。それに、日本語には結構慣れているので、わけ

が分かっていないという事でもない。なぜ、《不幸な人も、

しあわせ》なのかということを説明しましょう。


 《不幸な人も、しあわせです》と言われると、大抵の人は

こんな風に考えるでしょう。


 親に虐待されて殺されてしまう子供がしあわせだというの

か?

 学校でいじめられて自殺する中学生がしあわせだというの

か?

 ブラック企業で奴隷のように扱われて、鬱病になってしま

った若者がしあわせだというのか?

 テロリストに公開処刑される人がしあわせだというのか?

 紛争地帯でレイプされ、殺される女性がしあわせだという

のか?

 さまざまな国や地域で、さまざまな理由で差別され迫害さ

れる人々がしあわせだというのか? などなどなど・・・。


 極端な例を挙げましたが、これらの人々は確かに「不幸」

でしょう。とても「不幸」でしょう。誰も、そのような目に

会いたくない。私もそのような立場に立たされたくはない。

 このような極端な例でなくても、もっと日常の狭間にある

ことで「不幸」を感じる人たちはいっぱいいる。

 貧しい。病気。肉親との不仲。犯罪や事故や災害の被害に

遭うなど、「不幸」はわたしたちのすぐそばにある。

 そういった事の当事者になった人は「不幸」です。「不

幸」な人は「不幸」です。でも、《不幸な人も、しあわせで

す》。


 「『不幸な人は、不幸』と言ったとたんに、《不幸な人

も、しあわせです》というのはどういう神経だ?」と思われ

ることでしょうが、このブログを書いている人の言う《しあ

わせ》は、「不幸」と同じ次元で語られる「しあわせ」では

ないようです。



 突然ですが、イエスが十字架に架けられた時に言った有名

な言葉がありますね。


 《父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているの

か自分では分からないのです》という言葉。


 イエスは、十字架に磔にされ、今まさに殺されようとして

いる。

 殺そうとしている側は、「殺すこと」に価値を見い出して

るわけですが、イエスからすれば、「殺す」とか「生かす」

などということは、〈神の御業〉によってなるこの世界の中

にあっては、無意味なことです。その無意味なことに囚わ

れ、我を忘れている愚かな人々の「愚かさ」を《赦してあげ

て下さい》と祈っているわけですね。


 イエスを磔にする側は、「この男を不幸にしてやった!」

とご満悦なのでしょうが、当のイエスは全然「不幸」になっ

ていない。それどころか、殺す側の救いの無さを憐れんで、

神の慈悲を乞うている。この時のイエスは「不幸」でしょう

か?


 誰も、どんな手段でも、イエスという人間を「不幸」にす

ることは出来ない。なぜなら、イエスは神と一つだからで

す。私がしっくりする言葉で言えば、イエスは存在と一つだ

からです。


 イエスの身に降り懸かるどんなことも、死でさえも、イエ

スを損なう事が出来ません(肉体は損なわれるとしても)。

なぜなら、イエスに「降り懸かる事」それ自体も、イエスと

一つだからです。

 人々の目に映るイエスは、世界の “ある一面” に過ぎませ

ん。いったい何者が、石を投げ、槍で突き、世界を壊すこと

が出来るでしょう? 石も槍も、世界の一部です。

 イエスを殺そうとした者たちがした事は、空気に空気を投

げつけるような事だったのです。


 イエスを「不幸」にすることは出来ません。

 イエスは、存在そのものの “ある一面” です。イエスは世

界そのものでもあります。同様に、イエスと同じこの世界に

るわたしたち一人々々も、あらゆる個々の存在も、世界そ

ものであると言っていいのです。

 イエスが、「不幸」とは違う次元に在るのならば、それと

同じく、わたしたちも「不幸」と違う次元に在るのです。つ

まり、「不幸な人」は、いない。と同時に、すべての人が存

在と一つ。

 そのことは、「存在している」という根源の真実は、私の

感覚では『絶対幸福』という言葉で言いたいことなんです。


 砂の一粒どころか、素粒子の一つから銀河集団まで、すべ

ての《存在するもの》は、しあわせです。


 《存在する》=《絶対幸福》なのです。
 



 思いがけずイエスの言葉の解説の様になってしまったので

した(どこかの教会でこの話を使って下さってもいいです

よ)。

 というようなわけで、《不幸な人も、しあわせです》とい

うことをご理解いただけましたでしょうか?


 しあわせだと思えなくても、みんなしあわせなんです。


 どうぞ安心して、挫折するなり、病気になるなり、貧乏に

なるなり、金持ちになるなり、恋に破れるなり、離婚するな

り、生まれるなり、死ぬなり、殺すなりして下さい。

 「して下さい」というより、自分の “生” を生きて下さ

い。



 苦しいでしょうよ。私も生きているのが苦しい。でも、苦

しくても、地獄に落ちても、不幸のどん底だとしか思えなく

ても、命が尽きても・・、みんなしあわせなんです。


 (・・えらいこと書いちゃったなぁ・・・)
 
  

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