2021年11月28日日曜日

複雑は悪



 今年も年末調整の書類を書かなければならない。ああ、嫌

だ・・。

 何が嫌だと言って、“手続き” ほど嫌なものはない。私は 

“手続き” というものが大っ嫌いなのです。

 事あるごとにさまざまな “手続き” をしなければならなく

て、仕方がないので役所に行ったりするけれど、本当に気が

重い・・・。ああ、嫌だ。疲れる・・・。

 たぶん私だけではないだろうと思うのだが、もしかして私

だけ?


 どれほど嫌かというと、むかし仕事を辞めた時に、手続き

なんかが嫌なのでハローワークに行かずに、受け取れるであ

ろう300万円近くを受け取らなかったことがあるぐらい嫌

なのだ(当時は独身だったので・・・、今、そんなことをし

たら・・・、そっちの方が怖い)。


 なぜそんなに “手続き” というものが嫌なのか?


 だって、本来なら不要なことではないですか。

 “手続き” が必要になるのは、約束を破って得をしようとす

る人間がいたり、あいまいな約束で損をするのが嫌な人間が

いるからであって、そういう気のない私のような人間にとっ

ては、先方の誠実さを信じるから「いいようにしてくれれば

いい」のであって、“手続き” など単なるムダで面倒な事でし

かない。ケチな輩がいるせいで、関係のない自分がムダなエ

ネルギーを使わされる。ああ、嫌だ。嗚呼、嫌だ・・・。

 でも、しようがないので、“手続き” に従う・・・。


 こういうことを、なんでもなくこなせる人が大多数なのだ

ろうが(もしかして、みんもな嫌なの?)、私はダメなので

す。


 “手続き” というと、書類を書くことやアカウントの作成の

ようなことを思い浮かべるでしょうが、ことはそれだけにと

どまらないのです。


 地下道などには「自転車は押してご通行下さい」と書いて

あったり、最近ではエスカレーターに「二列で立ち止まって

下さい」「歩かないで下さい」とステッカーが貼られてあっ

たりする。電車に乗ると、「快適な環境作りの為」とか称し

てあれやこれやと指導されるし、挙句の果てがコロナ騒動に

関わる「お願い」と称する “行動の強制” など・・・。それら

も皆、私は “手続き” だと捉える。


 ほんのわずかな不届き者の行為を盾にとって、大多数の人

の誠実さを無視し、常識のない人間として扱う。その姿勢が

嫌だ。


 もともと、そこまで深読みしていたわけではない。

 「なんでこんなに “手続き” が嫌なんだろう」と考えていて

気が付いたのです。

 いわれの無い疑いを掛けられて、必要のない労力を使わさ

れる・・・。あるいは、行政や企業の仕事の煩雑な部分を、

利用者である自分が負担させられる・・・。「おいおい、言

い出しっぺはそっちじゃないのか?」と言いたくなる。疲れ

る・・・。


 行政書士だとか弁護士だとか、専門家でなければできない

ような “手続き” もあって、そういうことを思うと、「なんだ

って人間と言う奴は、こんなに面倒臭くて思いやりに欠ける

生き物なんだ!」と、ふつふつと怒りがわいてくるのです。

 考えてみて下さい。誰もが誠実で思いやりがあって、欲深

くなければ、“手続き” なんかしなくっても、物事はすんなり

と運ぶと思いませんか? 結局のところ、私が “手続き” にう

んざりするのは、バカにつき合わされるのが嫌なのでしょ

う。


 世の中に “手続き” が溢れ、複雑きわまりないことになって

いるのは、誰も彼もがケチ臭くなったことの現れでしょう。

 縄文時代を想像すれば、そこには「大した “手続き” など無

かっただろう」と誰でも思うことでしょう。


 世の中が複雑になったので、“手続き” が複雑になったの

か? 

 “手続き” が複雑になったので、世の中が複雑になったの

か?

 判然とはしないけれど、相互に悪循環を生みだしているの

は間違いなさそうに思う。


 「複雑は悪」

 現代には、そんなキーワードが必要ではないだろうか?


 電車の中で、大勢の学生や社会人が教科書や参考書や書類

を見ている。

 「なんとも余裕の無い世の中になったもんだ」と思いなが

ら、私は少しばかり悲しみを覚える・・・。



 アタマ優先で、アタマでっかちになり過ぎて、それで非人

間的な負担を抱えていることにさえ気付けないほど、わたし

たちは鈍感になってしまっている。そして、身体と心が悲鳴

を上げるのだけど、アタマには身体と心が理解できない。


 「年末調整」という、なんということもない “手続き” は、

私からすれば、現代人の高度にケチ臭いエゴを象徴する事の

一つなのです。






2021年11月25日木曜日

どういうご縁か存じませんが・・・



 このブログが載ってる “Blogger” だけなのか、他のブロ

グでもそうなのかは知らないけど、いま書いているようなひ

とつひとつの記事を「投稿」という。

 このサイトを私が運営しているのではなく、Google の持

つ掲示板に私のスペースがあって、そこに記事を書き込んで

いるのだということが、「投稿」という表現から分かる。 あ

くまで、間借りしているので、家主である Google の気分が

変わって、「Blogger は辞め!」ということになると、いま

まで書いて来た事は消え失せる。少し前に『書いたものは残

る』という話を書いたけれど、当然ながらそれも限りがあ

る。このブログなど、いつ消えるか分からない。諸行無常で

ある。


 そのいつ消えるか分からない「投稿」は、今回で600回

目。

 「継続は力なり」という言葉があるけど、自分のブログの

ことを考えると「継続は病気なり」という気がしないでもな

い。「何かを成した」とか「何かの役に立てた」という感覚

なんか無いですからね。


 でも、自分で「継続は病気なり」と言うのもあんまりなの

で、こういうことにしておきたい。「継続はご縁なり」。

 何の因果か知らないけど、こういうことを始めて、600

回も続けてる。それで何になるのか私は知らない。けれど、

少なくとも私のアタマの整理にはなっているようだ。ブログ

を書き出す前に比べると、かなりアタマの中が片付いたとい

う実感はある。

 なので、たまたまこのブログを読む人のアタマの中も少し

整理されれば嬉しいのだが、ことによるとかえって混乱する

だけかもしれない。まぁ、そういう場合は “もらい事故” に遭

ったと思って頂きたい。それも「ご縁」です。「ご縁」は大

切にして下さいね。


 ブログを書くのも「ご縁」。

 ブログを読むのも「ご縁」。

 それで感覚や考えが変わるのも「ご縁」。

 変わらないのも「ご縁」。


 「ご縁」によって、わたしたちが、何をして、何を感じ、

何を考え、どう変わって行くのか? 実のところ、それは問題

ではない。問題意識を持ったところで、自分を動かして行く

「ご縁」をどうしようもない。ただ、「ご縁」のままに生き

るしかない。


 わたしたちがすべきなのは「ご縁」を大事にすることだ

け。

 自分が生きていること、やがて死ぬことも含めて、自分の

世界の「ご縁」を尊重すること。そうすることで「ご縁」を

味わうことができる。「ご縁」に一喜一憂する人は大勢いる

けれど、「ご縁」を味わう人はなかなか居ない。


 出来事の「事」に目を向けるのではなくて、そのことが

「起こる」という、世界の不可思議な “働き” に目を向ける。

自分自身が、いま在るというのも、その “働き” によるのだ

し。


 「ご縁」に、良いも悪いも無い。「良いご縁」が有るとす

れば、それは、 “自分が「ご縁に良いも悪いも無い」と思え

人である” という「ご縁」だけでしょう。


 このブログがそのような「ご縁」の一かけらにでもなれ

ば、望外のしあわせというものです。



2021年11月23日火曜日

「完全」な「出来損ない」?



 この前「誰もが全知全能だ」と書き、次の日には「世界は

完全だ。誰もが完全だ」と書いたけれど、このブログの書き

手は、これまでに何度となく「人は皆、出来損ないだ」と書

いている。筋が通らないので、落とし前を付けなければと思

う。


 たいそうに書き始めたけれど、そう大したことでもない。

「人は皆、出来損ないだ」というのは、社会的価値をパーフ

ェクトに満たす人間はいない。パーフェクトどころか、その

達成率は、皆かなり低いというだけの話。

 ところが、他人と比べて自身の達成率の高い面がある時に

は、他の面の程度の低さは棚に上げて、他人の出来の悪さを

批判する。そういうことがごく当たり前に横行しているのが

この世の中なので、「皆、出来損ないだよ」と言わなければ

ならなくなる。


 社会的価値をパーフェクトに満たすためには、人は神にな

らなければいけないだろうし、そもそも社会的価値をそんな

に高く値踏みする必要もない。社会は「必要悪」なのだか

ら、そこそこに扱うのが良い。そういう意味でも「皆、出来

損ない」であって問題はないと言いたい。


 いつの時代も、世界中でろくでもないことを沢山起こして

来たことを見れば明らかだけど、わたしたちのつくる社会は

「必要悪」であるだけでなく、「必要悪」としても程度が悪

い。

 社会を無くすことはできないし、無くすわけにもいかない

ので、せめて「必要悪」としての「悪」の部分が減ってもら

いたい。そのためにはその「悪」を生みだしている原因にア

プローチするのが良い。それが互いの「出来損ない性」を認

めること。それを肝に銘じて社会をやって行く。そうすれ

ば、社会はちょっと住みやすくなる。


 しかし、わたしたちは自分が出来損ないであることを認め

ると、自己肯定感が低下して不幸を感じてしまう。それがネ

ックになって、皆、自分が出来損ないであることを受け入れ

ようとしない。受け入れたとしても、「どうせ出来損ないで

すよ・・」と、大抵自虐的になってしまう。それを解決する

ためには、「出来損ない」のまま「完全」になってもらう必

要があるのです。


 社会的に見れば、誰もが「出来損ない」だ。けれど、「生

きている存在」としては、それぞが「完全」だ。その二重性

に目を向けてもらいたい。そして「生きている存在」として

の方が、“生きている主体” なんだと捉え直して欲しい。


 出来損ないのままで「完全」。

 完全なままで「出来損ない」。


 わたしたちがお互いをそのように受け入れることができる

なら、社会の中で「自分を見せつけて認めさせよう」とする

過剰さが減ることだろう。そして、社会が落ちつく。


 そのような人が全然増えなくて、社会が落ち着かなくて

も、“わたしたちは「完全」なんだから、社会の中での「出来

損ないさ」は大したことじゃない” という意識で生きること

は、個人的に大きな意味を持つ。


 これは屁理屈です。けれど真実です。人間はそのような存

在です。


 どうぞ、社会はたしなむ程度に。




 

2021年11月21日日曜日

パーフェクトワールド



 昨日、「誰もが全知全能だ」という話を書いて、そのあと

が付いたことを書きます。

 「不完全」についてです。


 わたしたちは皆、「全知全能」です。つまり「完全」で

す。

 世界も「完全」です。それは言うまでもないことです。人

が「世界は不完全だ」と思うとしたら、それは、世界に自分

の都合を投影して見るからです。自分の都合に合わないから

「不完全」だと思うだけです。

 世界は「完全」です。

 自分も「完全」です。

 どこにも、「不完全」なことなど存在していないのです。

「不完全」が存在しているのは、唯一、わたしたちのアタマ

の中だけです。

 アタマが、区別し、比較し、意味付けをし、評価をしなけ

れば、「不完全」など生まれようが無いのです。

 この世界に「不完全」が存在しているように見えるのな

ら、それはアタマが身勝手な暴走をしているのです。

 どのように異常な世界に見えても、たとえすべての人が受

け入れられないことでも、それは「不完全」ではないので

す。

 本当に、本当に、愚かで酷い事で、すべての人間が受け入

れない事でも、「不完全」な事ではないのです。


 私は、このブログの中で、よく逆説的なことを書きます

が、わたしたちが、“この世界と自分は「完全」である” と受

け入れた時、その時初めて、それまで思っていた「不完全

さ」が、実際に「完全」へと変わり始めるのだと思います。

意識の在り方が、現実の世の中を変えるのです。

 わたしたちの “かたくなさ” 、“こだわり” が解け、それが

んでいた現実の流れが、わたしたちに沿うように流れ始め

る。


 「不完全」はわたしたちのアタマの中にしかありません。

 世界は「完全」です。

 わたしたちひとりひとりも「完全」です。

 「不完全」は妄想に過ぎません。むしろ、その、妄想の

「不完全」が、実際の世の中に「不完全」としか思えない

うな出来事を生んでしまうのです。それはバカバカしい悪

環です。


 とはいえ、私やあなたが、「この世界は完全だ」と心から

思ったとしても、現実世界の「不完全さ」は消えません。大

多数の人々が「この世界は不完全だ」と思っているせいで、

実際にそううしかないような出来事が起き続けるからで

す。

 それでも、私たちは「この世界は完全だ」と思い続けてい

いのです。それが「この世界」ならば、それで「完全」なの

です。私たちには「この世界」しかありません。そこで何が

起ころうと、それは「完全」でないはずがありません。


 どんなに「不完全」に見えても、それは自分の都合です。

 どんなに都合が悪くても、それを「完全だ」と受け入れる

ことで(世の中や、誰かに、無条件に従うということではあ

りませんよ。意識の上でのことです)、世界が裏返しになり

ます。私たちの意識のベクトルが逆向きになります。そし

て、現実の世界との関わりも逆向きに動き始めます(個人の

感想ですが・・・)。

 もしも、そうならなかったとしても、すでに「世界は完

全」だという意識になっているのです。もはや、何の問題も

ありません。


 世界は「完全」です。

 私もあなたも「完全」です。


 そう受け入れ辛いのは確かですけどね。でも、「完全」な

んです。







2021年11月20日土曜日

「全知全能」のあなた



 「昨日、ブログに書こうと思ったことがあったけど何だっ

たかなぁ?」と思いながら、ほぼ一日が過ぎたところで、や

っと思い出した。「全知全能」についてだった。

 ということで、昨日のこともすぐ忘れる人間が「全知全

能」について語ります。


 「全知全能」とは、〈 世界のすべてを知り、できないこと

は何も無い 〉ということだと解釈される。けれど昨日、違う

解釈が浮かんだんです。“違う解釈” と言うよりは、違う意味

付けを思いついたんですが、それは、〈 “知っていること” が

世界のすべて、“できること” は全てできる 〉ということでし

た。

 わたしたちは皆、「全知全能」なんです。


 自分の知らないことは、実質的に “自分の世界” には存在し

ていませんから、わたしたちはそれぞれに「全知」です。

 自分にできることが、実質的に “自分の能力” の全てですか

ら、わたしたちはそれぞれに「全能」です。


 「自分が知っていること」「自分ができること」が自分の

世界の全てです。そうではないですか?

 自分の世界で、わたしたちはそれぞれに「全知全能」で

す。


 「自分の知らないこと」が、別に有るわけではないので

す。「自分の知っていること」だけで、自分の世界は、い

ま、できているのです。まぎれもなく、それが全てなので

す。

 「自分にできないこと」が、別に有るわけではないので

す。「自分のできること」だけで、自分の世界は、いま、成

り立っているのです。世界は、それで全てです。


 「別に何かある」

 「他にもっと良いものがある」

 「もっと他にできることがある」


 わたしたちは誰も、そう思わされ、そう思い込み、今あ

る、自身の「全知全能」性を見失ってしまうのです。


 わたしたちは誰も、自分の知り得る範囲の、自分に出来得

ることで成り立っている、 “自分の世界” の中でしか生きるこ

とはできません。それは明白です。どう考えたってそれしか

ありません。

 ところが誰も彼もが、「自分の知らないことがある」「自

分にできないことがある」と思い、それを得ようとする。で

もそれは、 “自分の世界” に居ながら、他の誰かの世界のこと

ばかり夢想していることではありませんか? それは自分に失

礼です。自分を冒涜しています。


 私は私として「全知全能」です。

 あなたはあなたとして「全知全能」です。


 人の世の中で生きていると、“他に何かある” ような刷り込

みがなされます。そして下手をすれば、自分が「無知無能」

であるかのように思わされるはめになります。それを真に受

けてしまって「自分は無能だ」と思ってしまったとしても、

そう思ってしまうというのが自分の能力です。そう思ってし

まうことも自分の「全能」なんです。安心して「無知無能」

だと思えばいい。誰かの基準で「無知無能」だとしても、そ

のままで自分は「全知全能」なのです。


 「おまえは不完全だ」、「おまえはダメな人間だ」、と社

会がどれほど囁こうとも、自分に対して、謙虚に敬意を持つ

ならば、自分と自分の世界を見下すことはできないはずで

す。自分と自分の世界に無礼はできないはずです。


 私は私で「全知全能」です。

 あなたはあなたで「全知全能」です。


 “自分の世界” を生きるのは、後にも先にも “自分” だけで

す。

 自分の「全知全能」をちゃんと生きなければ、自分の世界

に申し訳が無い。


 何ができようができなかろうが、しあわせと思えようが思

えなかろうが、後にも先にも、それしかない “自分の世界” 。

それが「全て」。「全て」だから、それで完璧。

 どこかの誰かに聞かされた “お話し” も、自分が忘れてしま

えば、“自分の世界” から消えてなくなります。


 「思いっきり下手っくそに生きてる」としか思えないとし

ても、それは自分しか生きられない、空前絶後の “自分の世

界” です。そこに展開しているのは、自分だけの世界です。

 凄くないですか?


 わたしたちは、皆、「全知全能」なんです。






 

2021年11月13日土曜日

自分のアタマに呆れかえる日



 人間のアタマは悪い。アタマは悪さをする。当然のこと

に、私のアタマも悪い。

 「ああ、アタマが悪いなぁ~」と自己嫌悪することは日常

的だし、時にはペチャンコになってしまいそうなほど、自分

のアタマの悪さを突きつけられることもある。

 けれど、なんとかそれに耐える。耐えて生きてみる。

 ただ、それでアタマのパワーを持ち直すという方向にでは

なく、アタマをペチャンコにしたままで生きる道を模索す

る。アタマが悪くて潰れかけているのだから、アタマにパワ

ーを戻したら元の木阿弥だ。

 それはしんどい。けれども、アタマの悪さに苦しむよりは

マシだと感じる。


 アタマにだって良いところはある。けれど、アタマは良く

なりきれない。どうしたって出来損ないであり続ける。にも

かかわらず、アタマは「自分は本質的に正しい」、「自分は

良い」と思いたがる。その思いこそが、アタマの悪さの元凶

なのに・・・


 「自分は何も分かっていない・・・」

 アタマにとって、そう認識することはとても苦しい、恐ろ

しい、重たい・・・。だから、私がそう認識しようとする企

てを、アタマはなんとか跳ね除けよう、すり抜けようとす

る。そのあたりは、アタマは非常に有能だ。あの手この手で

考えをごまかし、すり替える。「肉を切らせて骨を断つ」と

いうような戦法も使う。

 「“自分は何も分かっていない” と気付いている自分は、モ

ノが分かっている」というようなやり口で逃げ延びる。


 これをやられると、ウナギの尻尾を掴まえようとするのと

同じで、するすると逃げられてしまう。《 「正しい」とは、

そういうことにしておけば気が済むということである 》とい

うのの逆バージョンといった効果を発揮する。結局、アタマ

を押さえつけておとなしくさせることはできない。


 なので、最終的には、頭の中でどれだけアタマがわめき散

らそうが口をつぐんでいる。という手段に行き着くことにな

る。座禅したり、ひたすら念仏や真言を唱え続けたりするの

はそういうことだろう。実質的に、アタマにしゃべらせない

為に。


 沢木興道老師は「人が口を開けば、迷いの披露でしかな

い」という言葉を遺されている。こんなブログを書き続けて

いる私には耳が痛いのだけど、その一方で、沢木老師は「口

はしゃべる為にある」とも言う。「どうすりゃいいの?」と

言いたくなるが、どんどん迷って、どんどん自分のアタマの

悪さ加減を表ざたにすればいいのだろう。ただし、そのアタ

マの悪さ加減、迷いの深さに気付いていなければいけないの

だ。そしていつか、そのことに呆れかえって嫌気がさして、

口と心が、ストライキをする時が来るまで・・・。


 自分のアタマの悪さに心底ウンザリした時。道が開ける。

世界が明るくなる。

 目の前でチョロチョロ・バタバタ動き回っていたアタマ

に、「もう付き合ってらんねぇ!」と顔をそむけると、世界

がそのまま見えてくる。


 アタマは自分のテリトリーで勝手に好きなことをしゃべっ

てなさい。私は、ただ黙って世界を見てることにする。
 

 「あ~、しんどかった」と、笑うために。






2021年11月12日金曜日

お話しの外にあるもの



 いまパソコンを使っている机の前の壁には、小さなアンモ

ナイトの化石が飾ってある。十年程前に旅行先の土産物屋で

買った。

 この子は、2~3億年前の海で暮らしていたのだろう。今

は化石となって、その形だけを残している。


 アメリカ人の40%程度は、聖書の内容に反するので進化

論を否定しているというので(裏は取ってませんよ。そのよ

うに聞きました)、彼らにとってこの化石は「化石」などで

はなく、そういう形をした石に過ぎない。アンモナイトとい

う生き物がいたなどということは妄想でしかない。


 そう聞くと日本人は、「アメリカ人は非科学的なバカだ」

と言うだろう。一方、そう言われたアメリカ人は「日本人は

非宗教的なバカだ」と言うだろう。

 どちらが正しいかではない。どちらも「そう信じてる」

「そういうことで納得してる」だけだということに違いはない。

 《 「正しい」とは、そういう事にしておけば気が済むとい

うこと 》だから、それぞれに自分の気が済むことを信じてい

いればいいのだ。ただ、“それが自分の都合に過ぎないことを

知っておく” というたしなみを身に着けてもらわないと、世

の中のゴタゴタは片付かない。迷惑する。


 私はキリスト教徒でもないし、聖書に書かれた物語より

も、太古の昔にこんな生き物がいたというお話しの方が好き

なので、進化論を受け入れる。受け入れるけれど、進化論が

正しいと思っているわけではない。「正しい」からではな

く、「楽しい」から受け入れる。

 この世の成り立ちだとかいうものは、大したことではな

い。虫歯が痛むときに、「人間はどのように生まれたか?」

なんてどうでもいいことだ。聖書の話も、進化論も、いまわ

たしたちが生きている現在には関係ない。下手に関係させた

りすると面倒が起こるだけだ。


 『聖書』も、『種の起源』(進化論)も、それ自体が既に

化石なのだろう。

 アンモナイトの化石のように、見て楽しんだりするぶんに

はいい。けれど、そこにあるお話しを、生きる上での価値観

にモロに組み込ませたりすれば、わたしたちの生き方自体が

硬直化して、化石のようになってしまうだろう。「生きた化

石」はシーラカンスに任せておけばいい。(シーラカンスさ

ん、ごめんなさい🙇)


 宗教も科学も、他のどのような概念も、世界を説明するひ

とつのお話しであって、いま生きていることには関係ない。

 どのようなお話しも、信じなければ機能しないけど、いま

生きているということを信じる必要はない。何も信じなくっ

たって、心臓は動いているし呼吸をしている。


 時々でいいけれど、わたしたちは、信じる必要のないこと

に目を向ける方がいいだろう。

 お話しではなく、そのままの実感のようなものを味わうべ

きだろう。


 呼吸をしている。

 おなかが空く。

 風がほほをなでる。

 陽射しがまぶしい。

 世界がある。

 自分が在る。


 お話しの外には「いま」がある。

 お話しの中には「いま」は無い。

 お話しの中には「命」は無い。

 「命」の中に、お話しは無い。


 わたしたちは、ついお話しの中に生きようとしてしまうけ

れど、それは自分を化石にするようなものなんだろう。


 アンモナイトの化石は美しくて面白いけれど、わたしたち

がそうなるのは、ちょっと気が早い。



2021年11月10日水曜日

才能なんて無い



 今日電車に乗ったら、中高一貫校の広告があった。そこに

はこう書いてある。


 〈 神から与えられた、君の才能を発揮する舞台がここには

ある 〉


 「こんな凡庸で、薄っぺらで、無神経な宣伝文句をよく使

えるなぁ」と思いながら見ていた。この文を書いた人間と、

採用した人間には “才能が無いな” と思う。しかし、才能って

なんだ? 誰かに褒めてもらえる能力のことを言ってるんだろ

うけど、才能以外の能力のことは何だと思っているのだろ

う?誰にも褒めてもらえないような能力は、どのように扱う

べきなのだろう?


 ありきたりで、取るに足りない、意識もされないような普

通の能力。当たり前のこと。

 その当たり前のことの価値や意味を軽んじて、ぞんざいに

扱えば、必ず「神から与えられたもの」をムダにすることに

なる。だって、当たり前のことも「神から与えられたもの」

のはずだから。


 〈 神から与えられた、君の才能を発揮する舞台がここには

ある 〉?


 24時間、365日、いつでも、その時、その場所が、その人

にとっての舞台じゃないのか?

 生きているということが、「神から与えられたもの」が発

揮されているということではないのか?


 「才能」という言葉が不用意に使われることで、人と人と

の関わりと意識の中に何が生み出されるか? そんなこと考え

てみたことも無い人間が学校を経営する・・・。私は、子供

たちの将来を案じてしまう。


 才能を発揮することを促され、求められ、「自分も特別で

あるべきだ」と思わされ、特別ではない誰かや、特別になれ

ない自分を軽んじてしまう人間になってゆく・・・。


 ことさらに「才能を発揮する」ということが意識される社

会は病んでいるのではなかろうか? 「才能」などというもの

は、その時々に、それぞれに、自然に発露してくるようなも

のでいいのだと思うけどね。「才能競争」や「才能ビジネ

ス」をする為のものじゃないだろう。「神から与えられたも

の」ならば、人のアタマでこねくり回してひねり出したりせ

ず、神の意に叶うように使われるべきではないだろうか?


 ある価値を前提にして人を見ると、「特別」というものが

生まれる。そういう前提がなければ、人は単に「別々」だ。

それぞれだ。


 〈 神から与えられたものを、愛おしみ、味わう、“命” とい

う舞台がそれぞれにはある 〉
 

 私なら十代の子にそう言いたい。


 そんなことを言ってたら、社会で勝ち残れず、生きても行

けないかもしれない。でも、人は「才能競争」をする為に生

まれてくるのではない。そう思わされ、そう仕向けられてる

だけだ。

 本当は、気楽に自分を生きる為に生まれてくるんだと思う

けど?

 その結果として生きられなくなったとしても、自分を全う

きるのだから素晴らしいんじゃない? 訳の分かんない競争

命を費やすよりずっとイイでしょうよ。


 才能なんて無い。

 まぁ有ると言えば有るけれど、それは単にオマケだ。


 みんなそれぞれに全能なんだ。

 お互いが、それぞれの全能に敬意を払えば、世の中もちょ

っとはマシになるだろう。

 敬意を払えるはずだよ。だって、それは「神から与えられ

た」ものんだからね。