2021年11月13日土曜日

自分のアタマに呆れかえる日



 人間のアタマは悪い。アタマは悪さをする。当然のこと

に、私のアタマも悪い。

 「ああ、アタマが悪いなぁ~」と自己嫌悪することは日常

的だし、時にはペチャンコになってしまいそうなほど、自分

のアタマの悪さを突きつけられることもある。

 けれど、なんとかそれに耐える。耐えて生きてみる。

 ただ、それでアタマのパワーを持ち直すという方向にでは

なく、アタマをペチャンコにしたままで生きる道を模索す

る。アタマが悪くて潰れかけているのだから、アタマにパワ

ーを戻したら元の木阿弥だ。

 それはしんどい。けれども、アタマの悪さに苦しむよりは

マシだと感じる。


 アタマにだって良いところはある。けれど、アタマは良く

なりきれない。どうしたって出来損ないであり続ける。にも

かかわらず、アタマは「自分は本質的に正しい」、「自分は

良い」と思いたがる。その思いこそが、アタマの悪さの元凶

なのに・・・


 「自分は何も分かっていない・・・」

 アタマにとって、そう認識することはとても苦しい、恐ろ

しい、重たい・・・。だから、私がそう認識しようとする企

てを、アタマはなんとか跳ね除けよう、すり抜けようとす

る。そのあたりは、アタマは非常に有能だ。あの手この手で

考えをごまかし、すり替える。「肉を切らせて骨を断つ」と

いうような戦法も使う。

 「“自分は何も分かっていない” と気付いている自分は、モ

ノが分かっている」というようなやり口で逃げ延びる。


 これをやられると、ウナギの尻尾を掴まえようとするのと

同じで、するすると逃げられてしまう。《 「正しい」とは、

そういうことにしておけば気が済むということである 》とい

うのの逆バージョンといった効果を発揮する。結局、アタマ

を押さえつけておとなしくさせることはできない。


 なので、最終的には、頭の中でどれだけアタマがわめき散

らそうが口をつぐんでいる。という手段に行き着くことにな

る。座禅したり、ひたすら念仏や真言を唱え続けたりするの

はそういうことだろう。実質的に、アタマにしゃべらせない

為に。


 沢木興道老師は「人が口を開けば、迷いの披露でしかな

い」という言葉を遺されている。こんなブログを書き続けて

いる私には耳が痛いのだけど、その一方で、沢木老師は「口

はしゃべる為にある」とも言う。「どうすりゃいいの?」と

言いたくなるが、どんどん迷って、どんどん自分のアタマの

悪さ加減を表ざたにすればいいのだろう。ただし、そのアタ

マの悪さ加減、迷いの深さに気付いていなければいけないの

だ。そしていつか、そのことに呆れかえって嫌気がさして、

口と心が、ストライキをする時が来るまで・・・。


 自分のアタマの悪さに心底ウンザリした時。道が開ける。

世界が明るくなる。

 目の前でチョロチョロ・バタバタ動き回っていたアタマ

に、「もう付き合ってらんねぇ!」と顔をそむけると、世界

がそのまま見えてくる。


 アタマは自分のテリトリーで勝手に好きなことをしゃべっ

てなさい。私は、ただ黙って世界を見てることにする。
 

 「あ~、しんどかった」と、笑うために。






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