2021年11月12日金曜日

お話しの外にあるもの



 いまパソコンを使っている机の前の壁には、小さなアンモ

ナイトの化石が飾ってある。十年程前に旅行先の土産物屋で

買った。

 この子は、2~3億年前の海で暮らしていたのだろう。今

は化石となって、その形だけを残している。


 アメリカ人の40%程度は、聖書の内容に反するので進化

論を否定しているというので(裏は取ってませんよ。そのよ

うに聞きました)、彼らにとってこの化石は「化石」などで

はなく、そういう形をした石に過ぎない。アンモナイトとい

う生き物がいたなどということは妄想でしかない。


 そう聞くと日本人は、「アメリカ人は非科学的なバカだ」

と言うだろう。一方、そう言われたアメリカ人は「日本人は

非宗教的なバカだ」と言うだろう。

 どちらが正しいかではない。どちらも「そう信じてる」

「そういうことで納得してる」だけだということに違いはない。

 《 「正しい」とは、そういう事にしておけば気が済むとい

うこと 》だから、それぞれに自分の気が済むことを信じてい

いればいいのだ。ただ、“それが自分の都合に過ぎないことを

知っておく” というたしなみを身に着けてもらわないと、世

の中のゴタゴタは片付かない。迷惑する。


 私はキリスト教徒でもないし、聖書に書かれた物語より

も、太古の昔にこんな生き物がいたというお話しの方が好き

なので、進化論を受け入れる。受け入れるけれど、進化論が

正しいと思っているわけではない。「正しい」からではな

く、「楽しい」から受け入れる。

 この世の成り立ちだとかいうものは、大したことではな

い。虫歯が痛むときに、「人間はどのように生まれたか?」

なんてどうでもいいことだ。聖書の話も、進化論も、いまわ

たしたちが生きている現在には関係ない。下手に関係させた

りすると面倒が起こるだけだ。


 『聖書』も、『種の起源』(進化論)も、それ自体が既に

化石なのだろう。

 アンモナイトの化石のように、見て楽しんだりするぶんに

はいい。けれど、そこにあるお話しを、生きる上での価値観

にモロに組み込ませたりすれば、わたしたちの生き方自体が

硬直化して、化石のようになってしまうだろう。「生きた化

石」はシーラカンスに任せておけばいい。(シーラカンスさ

ん、ごめんなさい🙇)


 宗教も科学も、他のどのような概念も、世界を説明するひ

とつのお話しであって、いま生きていることには関係ない。

 どのようなお話しも、信じなければ機能しないけど、いま

生きているということを信じる必要はない。何も信じなくっ

たって、心臓は動いているし呼吸をしている。


 時々でいいけれど、わたしたちは、信じる必要のないこと

に目を向ける方がいいだろう。

 お話しではなく、そのままの実感のようなものを味わうべ

きだろう。


 呼吸をしている。

 おなかが空く。

 風がほほをなでる。

 陽射しがまぶしい。

 世界がある。

 自分が在る。


 お話しの外には「いま」がある。

 お話しの中には「いま」は無い。

 お話しの中には「命」は無い。

 「命」の中に、お話しは無い。


 わたしたちは、ついお話しの中に生きようとしてしまうけ

れど、それは自分を化石にするようなものなんだろう。


 アンモナイトの化石は美しくて面白いけれど、わたしたち

がそうなるのは、ちょっと気が早い。



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