いまパソコンを使っている机の前の壁には、小さなアンモ
ナイトの化石が飾ってある。十年程前に旅行先の土産物屋で
買った。
この子は、2~3億年前の海で暮らしていたのだろう。今
は化石となって、その形だけを残している。
アメリカ人の40%程度は、聖書の内容に反するので進化
論を否定しているというので(裏は取ってませんよ。そのよ
うに聞きました)、彼らにとってこの化石は「化石」などで
はなく、そういう形をした石に過ぎない。アンモナイトとい
う生き物がいたなどということは妄想でしかない。
そう聞くと日本人は、「アメリカ人は非科学的なバカだ」
と言うだろう。一方、そう言われたアメリカ人は「日本人は
非宗教的なバカだ」と言うだろう。
どちらが正しいかではない。どちらも「そう信じてる」
「そういうことで納得してる」だけだということに違いはない。
《 「正しい」とは、そういう事にしておけば気が済むとい
うこと 》だから、それぞれに自分の気が済むことを信じてい
いればいいのだ。ただ、“それが自分の都合に過ぎないことを
知っておく” というたしなみを身に着けてもらわないと、世
の中のゴタゴタは片付かない。迷惑する。
私はキリスト教徒でもないし、聖書に書かれた物語より
も、太古の昔にこんな生き物がいたというお話しの方が好き
なので、進化論を受け入れる。受け入れるけれど、進化論が
正しいと思っているわけではない。「正しい」からではな
く、「楽しい」から受け入れる。
この世の成り立ちだとかいうものは、大したことではな
い。虫歯が痛むときに、「人間はどのように生まれたか?」
なんてどうでもいいことだ。聖書の話も、進化論も、いまわ
たしたちが生きている現在には関係ない。下手に関係させた
りすると面倒が起こるだけだ。
『聖書』も、『種の起源』(進化論)も、それ自体が既に
化石なのだろう。
アンモナイトの化石のように、見て楽しんだりするぶんに
はいい。けれど、そこにあるお話しを、生きる上での価値観
にモロに組み込ませたりすれば、わたしたちの生き方自体が
硬直化して、化石のようになってしまうだろう。「生きた化
石」はシーラカンスに任せておけばいい。(シーラカンスさ
ん、ごめんなさい🙇)
宗教も科学も、他のどのような概念も、世界を説明するひ
とつのお話しであって、いま生きていることには関係ない。
どのようなお話しも、信じなければ機能しないけど、いま
生きているということを信じる必要はない。何も信じなくっ
たって、心臓は動いているし呼吸をしている。
時々でいいけれど、わたしたちは、信じる必要のないこと
に目を向ける方がいいだろう。
お話しではなく、そのままの実感のようなものを味わうべ
きだろう。
呼吸をしている。
おなかが空く。
風がほほをなでる。
陽射しがまぶしい。
世界がある。
自分が在る。
お話しの外には「いま」がある。
お話しの中には「いま」は無い。
お話しの中には「命」は無い。
「命」の中に、お話しは無い。
わたしたちは、ついお話しの中に生きようとしてしまうけ
れど、それは自分を化石にするようなものなんだろう。
アンモナイトの化石は美しくて面白いけれど、わたしたち
がそうなるのは、ちょっと気が早い。
0 件のコメント:
コメントを投稿