2017年11月30日木曜日

「ライフサイド」に立って


 「アタマが悪い」と言い続け、“世の中” を基本的には否

定し、〈エゴ〉の仕事は「否定する事」などと書き連ねて来

たのだけれど、「“世の中” を否定しているのは、私の〈エ

ゴ〉に過ぎないんだろうか?」という疑問が湧いてきてしま

いました。


 これはいけません。

 大問題です。

 どんな結論が出るかは分からないけれど、そのままにして

おくわけにはいきません。

 今日は、それを考えてみましょう。


 私が “世の中” を否定するのは、私の〈エゴ〉なのか?


 “世の中” はわたしたち個人の中に入り込み、わたしたち

の考え・行動に決定的な影響を与えていますが、その影響の

内容は、個人の欲圧、価値観の誘導、個人のエネルギーの搾

取であって、個人の本質的な幸福の為にはならない事で、ほ

ぼ占められています。

 特に、現代にあっては、個人の幸福に繋がる様なものが、

“世の中” から提出される事はありません。

  個人からの影響が “世の中” を通して、別の個人に伝わる

ことはありますが(テレビや本やネットや)、それは “世の

中” を通して来たというだけで、個人から個人への影響で

す。“世の中” が個人の為に、何かをすることはありませ

ん。“世の中” に〈情〉は有りませんから。

 “世の中” は、“世の中” を再生産するシステムでしかあり

ません。“世の中” にとって、個人は “世の中” を維持する為

の道具でしかないのです。

 “世の中” は、個人の幸福など眼中にありません。


 何故、私が “世の中” を否定するのか?

 それは、私の〈エゴ〉ではないのか?


 以前のブログで、「エゴサイド」「ライフサイド」という

言葉を使いました。

 「エゴサイド」とは “世の中” 側、「ライフサイド」とは 

”個人・自然” 側ということなんですが、私が “世の中” を否

定するのは「ライフサイド」の側からです。

 わたしたちは、あまりにも「エゴサイド」側に立ち過ぎて

いて、その為に多くの問題と苦しみを生み出しているので、

「『ライフサイド』に戻るべきだ」

「『ライフサイド』から、自分と世界を見なければならな

い」

 と言いたいのです。

 それは、“世の中(エゴ)” の否定という形を取ります

が、実際は「否定」というより、「エゴサイド」から「ライ

フサイド」に立ち位置を移すということです。「エゴサイ

ド」との関係を、制限することです。

 だから、《世の中なんか、たしなむ程度にしておきなさ

い》ということになるわけです。


 「エゴサイド」を否定しきれてしまえばいいのでしょう

が、そうすると当然ながら “世の中” は崩壊します。

 そうなると、社会的な生き物である人間は生きられませ

ん。“世の中”・「エゴサイド」は必要悪です。

 頭の痛い話ですが、“世の中” を受け入れつつ、上手に付

き合う智慧を持つしかないのでしょう。


 “世の中” ・「エゴサイド」の活動原理は「否定」です。

 わたしたちが「エゴサイド」に立って、さまざまな事に対

して「否定」という意識を持つほどに、“世の中”は、〈エ

ゴ〉は、勢いを増して個人・自然という「ライフサイド」を

押しやり、エネルギーを奪います。
 

 個人として、本来あるべき幸福を望むのなら、「否定」す

ることを止める必要があります。

 「否定」しない時、わたしたちは自然に「ライフサイド」

の側にシフトしています。
 

 〈エゴ〉の活動を肯定する事は出来ませんが、〈エゴ〉の

存在そのものは否定できません。実際に在るのですから。

 「〈エゴ〉さえも、その存在自体は肯定できる」

という所まで行ければ、わたしたちは大きな安らぎを手にす

ることが出来るのでしょうが・・・。


 (すこし、「言い訳がましい」というか「言い逃れ」の

  ように聞こえますが、「否定」ではなく、「関係を制

  限する」という事だそうです・・・。後は、知らん顔

  ということで・・・




2017年11月27日月曜日

タイムリミット


 今日、ふと思った事がある。それは昔と今と何が一番違う

かということなんですが、それは何かというと “タイムリミ

ット” ということなんです。

 人間がこの世に生まれてから、時代が進むにつれて、だん

だんと “タイムリミット” の設定が短くなって来たんじゃな

いかと

 特に、産業革命以降は急激に短くなり、この20~30年の

間にはそれがほぼ限界近くにまで短くなっているのでしょ

う。

 要するに、「待てない」ということですね。



 先進国では、人の寿命が大幅に延びて、人生のタイムリミ

ットは長くなっているのに、日々の様々な事柄のタイムリミ

ットはどんどん短くなっている。

 昔なら、一軒の家を建てるのに一・二か月かかっていたの

が、今ではプレカットした材料をクレーンや電動工具を使っ

て、二・三日で建ててしまう。

 北海道から送った荷物が、翌日には九州に届く。(二十年

程前にアメリカにギターを注文したら、5日で届いたのでビ

ックリした事がある)

 日本の一般家庭に電話が普及し始めたのは50年ほどまえ

ですが、今や誰もがスマホを持ち、メールが来たらすぐに返

信しなければならない。(ちなみに、私はスマホはおろかケ

ータイさえ持ったことがありません。どうです、驚いたでし

ょう!・・・)
 

 何から何まで早くなって、何でもかんでも待たなくてよく

なった。

 と言いたいところですが、待たなくてよくなったのではな

くて、やはり「待てなくなった」のではないだろうか?

 どこまでもスピードアップをめざし、結果を性急に求め、

対応を急がされ、あらゆる場面でタイムリミットが細かく限

界まで詰められる。

 「常軌を逸してるなぁ~」などと思う事が、私なんぞは多

いんですが・・・。

 (余談ですが、リニアモーターカーの計画は経営的に破綻

すると思ってます。あんな中途半端なもの、よく本気でやる

よね。行きがかり上、止められないんでしょうね)



 こんなにスピードアップして大丈夫なの?

 こんなに詰め込んで大丈夫なの?

 こんなにキチンとしなくちゃいけないの?



 みんな消耗してるんじゃないのかなぁ。



 昨日、ネットのニュースを見てると、日本電産という会社

の社長が「大学は、企業の即戦力となる人材を生み出す様に

してくれ」という趣旨の発言をしてたけれど、あの人、サイ

コパスでしょうか?

 人間の活動に派生して経済が生まれたのであって、経済の

為に人間が在るわけじゃないんですけどね。物事の本質とい

うものが完全に見えなくなっているようです。完全に、経済

の奴隷、操り人形になっているようですね。気の毒に。


 現代のタイムリミットの短縮は、ほぼ100%、経済原理か

ら進んできたことでしょうが、経済から離れたところでも、

それが習い性になってしまっていて、日本人は待てなくなっ

てしまっている。(でも、行列するのは好きだよなぁ~。)

 それでいいんでしょうか?

 なんだか、大きな弊害を生んでいる様な気がしますが。


 この頃は、「おおらかさ」なんて言葉をほんとに聞かなく

りました。誰も使わない、というより使う場面が無いよう

す。「おおらか」という、人や状況がほとんど存在しなく

ったんでしょう。せいぜい「ゆるい」というぐらいです

ね。

 どう考えても「おおらかな人」が多い方が、世の中は過ご

しやすそうなんですが、みんな忙しくて、予定が詰まってい

て、小さな失敗も許さなくて・・・、嫌な渡世だなぁ。


 私の大好きな言葉があるんです。

 《 世の中に寝るほど楽はなかりけり

           浮世のバカは起きて働く 》

 というんですけど、まぁ昔の言葉としてもかなり辛辣です

が、現代の日本でこれを言うと、本気で怒り出す人がたくさ

ん居そうですね。だって、その「浮世のバカ」さ加減が数層

倍になっていますからね、本人は良いことしているつもりで

しょうから、なおさらギャップが大きい。
 

 起きて働いて、何になるんです?

 しあわせに一生を過ごす為に、そんなに働かなければいけ

ないんでしょうか?

 誰も彼もが、ほんとにいろんなことをして遊んだりしてい

ますが、ほんとに楽しいの?

 「楽しい事になってる」から、楽しいと思うだけなのかも

知れないよ?
 

 牛がゆっくりと草を食むように、オランウータンが静かに

木から木へ動いて行くように、人間も、ゆっくりと活動する

ことが出来るはずだし、そこには深い喜びもあるはずです。

 しかし、現代の日本人の活動を見ていると、アリ塚の中を

覗いている様です。

 日本人が消費しているエネルギーは、生物として生存に必

要なエネルギーの40倍ぐらいだそうですが、本来必要な量

の40倍のエネルギーを使って、クジラの様に過ごすという

のならまだしも、アリになってしまっている。

 バカなんじゃないのかなぁ。





2017年11月22日水曜日

「わたし」か・・。「わたし」ねぇ・・・・?


 わたしたちの身体は、常に変化している。

 分子生物学者の福岡伸一ハカセの著書「生物と無生物のあ

いだ」によると、単に新陳代謝によって細胞が新しくなり、

それに伴って物質が入れ替わるという事だけでなく、生きて

活動している細胞の中で、分子レベルで物質の置換が行われ

ているという。(ややこしいので、詳しくは触れません)

 一見すると、昨日の自分も今日の自分も特に変わっている

様には思えないが、大きく変わっている。それは、分子レベ

ルの話を持ち出すまでもなく、誰もが実感出来る事です。

 髪が伸びる、爪が伸びる、ニキビが出来る、日に焼ける、

さまざまな変化を日々経験する。

 生まれてから死ぬまで、休むことなく変化し続け、一時と

して同じ状態を保つことはない。それならば、わたしたちが

“わたし” だと思っているこの〈わたし〉は何か?

 一時として固定される事の無い存在を “わたし” などと呼

べるものだろうか?

 “わたし” というものは、「大体この様なもの・・」ぐら

いにしか言えないものだろう。


 実のところ、「〈わたし〉というものは、“わたし” を存

在させている〈空間〉の事ではないのか」なんて思ったりも

します。

 この身体でも、心でもなくて、それが形を持ち機能してい

るこの〈空間〉こそが、〈わたし〉なのかも知れない。

 わたしたちは、「いま、ここ」に “在る” のではなく、

「いま、ここ」という〈空間〉が〈わたし〉なのかも知れな

いと。



 川は、地形の溝の事であって、そこに流れている水の事で

はない。水が無くなると「川の水が枯れた」とは言うが、

「川が無くなった」とは言わない。

 では私が死んで、私の身体が「わたしという空間」から消

えたら、私は消えるか?

 〈わたし〉というものが〈空間〉を指すのだとすれば、私

の身体が消えても〈わたし〉は消えない。その存在は知覚出

来なくても、その〈空間〉は間違いなく存続し続けている。



 とは言うものの、身体が消えてしまえば、〈わたし〉とい

う〈空間〉など知覚できないのだから実質的には無いし、そ

の〈空間〉はすぐに他の存在で埋められてしまい、別の存在

の〈空間〉となってしまう。やはり身体が消えると「わたし

という空間」は「わたしだった空間」になってしまう。いわ

ばそれは「生まれ変わり」ということだろう。


 ・・・などと、ここまで書いて来て、自分が何を言おうと

しているのかが分からない。

 何かが頭の中で形作られようとしているのだけれど、まだ

形に成り切らない。「〈わたし〉というものは〈空間〉だ」

というイマジネーションが何処に向かおうとしているのか?

 「輪廻」についてなのか?

 「宇宙」という一つの命についてなのか?

 「わたし」というものは幻想なんだということなのか?あ

るいは、ある出来事でしかないということなのか?


 いくつかのイメージが浮かんでくるけれど、確信を持って

言えるのは、

 《 “わたし” とは、出来事に過ぎない 》

ということ。


 その、出来事に過ぎない事に人間は強い執着を持ち、それ

故に数限りない問題を生み出し、自ら苦悩の中に嵌まり込ん

で行く。


 そんな宿命から逃れようと、“わたし” (自分自身)に対

するこだわりを減らそうと試みる人達もいるけれど、周りの

人間(社会)がそれぞれの “わたし” でもって関わりを持と

うとして来るので、それに影響されて、自分の “わたし” が

固定化されてしまい、なかなか上手くいかない。わたしたち

は、社会によって “自分に対するこだわり” を持たされてし

まう、「世の中なんか、たしなむ程度にしたい」とは思うの

だけども・・・。徹底するのは難しい。

 でも、そう思わないよりはマシだろうとは思うね。




2017年11月10日金曜日

安心・安全原理主義 精神編


 前に「安心・安全原理主義」という話を書きました。

 その時は、食べ物などについての「安心・安全」について

いたけれど、今回は精神面での「安心・安全」について書

てみましょう。



 先日、SNSで自殺志願者らを呼び出して、9人も殺した事

件が明るみに出て、連日報道されていますね。

 日本の自殺者は、長い間年間 3万人以上という状態が続い

ていましたが、ここ数年は少し減少気味で 2.5万人ぐらいの

様です。それでも、日本人の年間死亡者数は 100万人ぐら

いですから、死亡者の2.5%が自殺ということです。それだ

けの人が自ら命を絶つほど、精神的に追い詰められてしまう

状況なわけですが、残りの97.5%の中にも、本当は自殺だ

けれど、自殺として扱われていない場合や、自殺ではないが

精神的ストレスから病気になって死んでしまう人も、当然な

がら居るでしょう。その数は数字にならないので分かりませ

んが、それらを合わせると精神的な問題によって死ぬ人は、

20%ぐらいになるんじゃないでしょうか(私の勝手な推測

です)。



 日本における自殺者の多さは、同調圧力の強さ故だろうと

思います。

 人はさまざまです。平均的なパーソナリティの人は、平均

的な人数に留まります。当然のことながら、そこから外れる

人が一定数存在します。と言うより、平均を基準に取る事

が、そこから外れる人を作りだします。

 また、平均的な人であっても、すべての面で平均的な人は

居ませんから、ある面では基準外になります。

 いつの時代でも、どんな社会にでもあることだとは思いま

すが、今の日本は、「平均的であること」「平均より少しレ

ベルが高いこと」を、非常に強く個人に求める社会だと思い

ます。仕事の上でも、個人の在り方でも、基準から外れるこ

とやミスに対して、恐ろしく厳しい。

 あらゆるものに対して、強い均質化の圧力が掛かってい

る。さらに、競争社会であり、常にあらゆることで比較し合

うので、付加価値を持つ事も強く求められる。



 平均的であれば付加価値は無い。

 付加価値が高ければ平均から外れる。

 平均的なだけでは、付加価値を求める者からプレッシャー

が掛かるし、付加価値が高ければ、平均的な者から嫉まれた

り、要求レベルが上がって、プレッシャーが増える。

 どちらにしても、圧力は掛かる。


 生きている上では、他者からの圧力は必ずあるけれど、現

代はスピードを要求されるので、その圧力が圧縮され、さら

に強くなっているのでしょう。

 圧力をまともに受け止めてしまう者は潰されてしまい、

力を他に転嫁する者は自己中心的になり、圧力を跳ね返そう

とする者は攻撃的になる。

 “弱虫” と “卑怯者” と “人でなし” ということです。

 (こんな言い方ヒド過ぎますか?)

 なんだって、人間はこうなっちゃうんでしょうか?



 平均的であることを望むのは、「安心・安全」を求める為

でしょう。極端な事は、すぐさま問題になりますからね。

 一般道を15km や 90kmというスピードで走る車がいた

ら、危険です。平均的なスピードを求められます。

 平均的でないものは、社会に不安を与えます。

 不安を与えるものは、非難され、排除の対象となります。
 

    “平均” という言葉を “標準” と変えた方がしっくり

するかも知れませんね  


 標準から外れたものは、不安をもたらす危険な存在であ

り、矯正されるべきものである。矯正できないのであれば、

排除されるべき問題である。

 社会の標準から外れた者(法を犯したもの)は、少年院や

刑務所に送られ矯正措置が施される。

 矯正の見込みがまったく立たない者に対しては、「死刑」

という絶対的な “排除” も有り得る。


 法律を犯した者に対しては、その様な措置が取られるのも


仕方がない。しかし、それだけではなく、どんな集団にも

「不文律」が存在して、それは大きな力を持っている。今の

日本にも「不文律」は存在しているが、その中には “文” に

なるどころか、“意識” にも上らない「法律」もある。それ

が、「安心・安全」を執拗に求める、《標準維持法》とでも

呼ぶべき社会の圧力です。


 有名人のプライベートな問題を、極悪非道な行いであるか

の様に叩きのめし、ちょっと変わったところがあると言うだ

けで学校でいじめられ、少しばかり仕事が遅いだけでパワハ

ラを受け、鬱病や自殺に追い込まれる。



 今の日本社会の根底に広く根強く横たわっていて、ありと

あらゆる所で深刻な問題をひきおこしているもの。それは、

「安心・安全」に対する、異常な執着心。

 “標準” から外れることを許さない、恐ろしいほどの監視

と迫害。

 「安心・安全」と “標準” を守ろうとする圧力が、標準以

上の「恐怖と不安」を生んでいると断言していいと思う。

 今、日本で起きている多くの事件や事故や問題を引き起こ

している人間の多くは、その「恐怖と不安」からパニックを

起こした人々だろう。



 今日も到る所で、誰からの弁護も受けることもなく、無意

識のまま《標準維持法》による裁きが誰かに下され、“正し

い人々” や “善意の人々” が、自分の気が済む様に刑を執行

する。

 「裁いているのは自分の方だから、自分は “裁かれる側” 

ではない」

 そう自分に言い聞かせて自分を安心させる為に、ほんの小

さな “違い” や “失敗” を見つけては、他者を裁く。

 「アイツは異常(おか)しい」と。


 何故、それほど安心したい?

 “標準” であることが、それほど「安心・安全」だと言え

るのか?

 「安心・安全」を求める思いの裏には恐怖が隠れている。

その恐怖が強ければ強い程、「安心・安全」を求める思いも

強くなる。いったい何をそんなに怖れている?

 どんな動物も、恐怖を抱くとパニックを起こしたり、攻撃

的になる。「安心・安全」という言葉、特に「安心」という

言葉は、最早「正義」と同義語だ。

 「正義」の名の下に、数え切れぬ抑圧・弾圧が行われ、空

恐ろしい暴力が正当化されて来た様に、「安心」という言葉

を隠れ蓑に、その他大勢が個人や集団を裁き、排除する。


 ナチスはヒトラーに洗脳されたのでは無い。

 オウム真理教信者も浅原彰晃に洗脳されたのでは無い。

 ヒトラーも浅原彰晃も、意識下の恐怖に怯えるその他大勢

の “依り代” となっただけだ。(ヒトラーも浅原もバカだと

いう事は間違いないが)

 「安心安全原理主義」が猖獗を極めるのは、まだまだこれ

からなんだろう。

 「北朝鮮のミサイルが恐い、戦争にならないか心配だ!」

本気で思ってる人の、その「不安」がある一線を越えた

時、その口から「北朝鮮を許すな!北朝鮮を倒せ!」と戦争

する事を求める言葉が飛び出しても、私は驚かない。


 《 安心・安全・普通・標準・平等・義務・理想・愛

    そんな言葉を纏って

          差別や暴力は忍び寄ることがある 》



 (と、こんな事を言って不安を煽るのは、逆効果なのか

  もしれないけどね)



 

2017年11月2日木曜日

感動から逃げるな!


 この頃グッと冷え込んできて、近所の公園のソメイヨシノ

の紅葉も深みを増してきました。

 ソメイヨシノの紅葉は、黄からオレンジ、赤、赤紫と色を

変え、それらが混ざり合うと、ゴブラン織りの様なイメージ

で(私個人の感想です)、毎年その美しい紅葉を楽しみにし

ています。

 そんな、身近にある紅葉ですが、どれだけの人がそれに目

を止めるかというと・・、春に花を見る人の 1 %もいない

んじゃないかと思います。でも、ソメイヨシノの紅葉に目を

止めない人も、紅葉の名所に行ったりすると「綺麗だなぁ」

と声を上げるのでしょうね。


 私の見立てでは、世の中の八割程度の人は、普段は感動し

ない様に、感受性にフタをしている様な気がします。

 むやみに感動してしまわない様に、「感動してよい時間」

や「感動してよい事柄」というものを無意識に設定して、自

分に都合の悪い事や、都合の悪いタイミングの感動をしない

様にしている様です。

 「そんなことがあるのか?」

 と、思われるかも知れません。

 でも、「そんなことがある」のです。
 

 「感動する」というのは、人に精神的な豊かさをもたらす

と誰もが思っているはずです。そして、それは間違いではな

いでしょう。ですが “感動” というのは、“感” が “動く” こ

とですから、大なり小なり「心が揺さぶられる」ことです。

 「心が揺さぶられる」と、自分の価値感が変化してしまっ

たり、壊れたりして、今現在の自分の安定を脅かす可能性が

あります。だから、普段は感動しない様に感受性にフタをし

て、自分を守っているのだと思います。


 みんなが出かけて行って、みんなが感動する事なら、自分

も感動してしまっても、社会的に不適応を起こすリスクが少

ない。だから、人気スポットや話題の所に出かけて、「良か

ったー!」「キレイだったー!」と声を上げ、SNSにアップ

して、共有する。共有すれば安全です。社会からはみ出さな

いですみます。「共有する」という行為は、社会に対するア

ンカーリング(繋ぎ止め)ですものね。


 人は、そうそう感動するものではない様です。

 いえ、感動する事が嫌なのです。

 外界からの働き掛けに揺さぶられ、自身のコントロールを

失う事が怖いのです。

 多くの場合、一見感動している様に見えても、実は自分の

許容範囲の事柄だけを取り込んで、自分に不都合が無い感動

  自分自身と周りに対して  してみせているだけでし

ょう。


 こういう事を思うようになったのは、昔、社員旅行の際

に、行く先々で、ちょっと良い景色を見ると「わーっ!キレ

イ!」「わーーっ!キレイ!」と、やたらに感動するオバサ

ンがいて、その姿を見ている内に「この人、感動を避けてる

んじゃないのかな?」と思ったのがキッカケでした。


 人間って、本当に感動すると、声を失ってしまうもんだと

思うんです。衝撃を受けるんですね。

 その事は裏を返すと、感動の言葉を口にする時には、たい

て感動していないか、言葉にすることで感動の衝撃をまと

に受けない様にしているんだろうと思うわけです。

 なぜなら、衝撃が自分の価値観を変えてしまい、今までと

違う生き方に進ませるという面倒を引き起こすかも知れない

からです。


 だから、ほんの少しのことで「キレイ!」とか「カワイ

イ!」とか「スゴイ!」とか口走る人は、ほんの少しの感動

さえ怖れている可能性があるわけです。それと同時に、そう

いう人は社会的に認知されやすい感動を、「自分も感動する

んだ」と盛んに表明することで、「自分は社会から外れてい

ない」と承認してもらい、社会の中で安定を保とうとしてい

るんでしょう。


 しかし、それは “凡庸” な人間で有り続け、精神的な豊か

さを拒み続ける態度だろうと思います。確かに、表面的な安

定はもたらしてくれるかも知れませんが・・・。


 本物の “感動” というものは、自分(エゴ)の中に無いも

のを外に見つけた時にもたらされる衝撃です。知っているも

のの中には有りません。(改めて発見するという事はありま

すが) 

 “感動” を拒むという事は、自分に新たな物を加えること

を拒み、自分の中の古い物を守り続けるという、成長を拒む

態度です。


 息を呑む様な感動や、見慣れたはずの物の中に新たな発見

をする感動を排除し続ければ、精神は停滞したまま、肉体だ

けが衰えてゆき、勝手に変わってゆく肉体を嘆いたり、恨ん

だりする事になるでしょう。


 《 言葉を蹴散らせない様なものは、感動では無い 》


 「元気をもらった!」とか「勇気をもらった!」とか、

誰でも使う、その時代の常套句で表わされる「感動」って、

お手軽過ぎて信用しませんね。

 あの手のセリフを聴く度に、

 「ホントに感動した事あるのかね?」

 といつも思ってしまうのです






2017年11月1日水曜日

希望と心配


 私は昔から心配性です。

 母親が凄く怖がりで心配性だったので、どうやら私の心配

性は母親譲りの様です。

 そのせいで困ることも多いのですが、深く滲みついた性分

なので、どうにもなりません。このブログを書いているの

も、心配性を何とかする為に、先の事を心配しないよう、自

分に言い聞かせる作業なんでしょう。


 誰だって、先の見通しが立ちにくい時には心配になりま

す。それは普通の神経です。「先の事など、何も心配になら

ない」なんて人はまず居ません。居るとすれば、相当無神経

な困った人か、悟りを開いた人でしょう(私も悟ってしまい

たい)。大抵の人は、ちょっとしたことで寝つきが悪くなっ

たりしてしまう。
 

 もし心配などしなくなれば、それは最高の幸福を手に入れ

たことになるでしょうね。

 「病気になるのではないか?」

 「試験に落ちるのではないか?」

 「会社が潰れるのではないか?」

 「彼氏に振られるのではないか?」

 「子供が不良になるのではないか?」

 「住宅ローンが返せなくなるのではないか?」

 「北朝鮮からミサイルが飛んでくるのではないか?」

 「死んでしまうのではないか?」

 ・・・・・・・・・・。

 心配の種は尽きることが無いけれど、わたしたちの不幸と

いうものは、ほとんど「心配する事」なので、心配しなくな

れば、自動的に幸福になりますね。


 だけど「心配する事」以外にも不幸はありますね。

 「大切な人が死ぬ」といった事は、心配とは無関係に、大

きなショックを与え、人を不幸に引き込んでしまいますが、

それは、自分の世界が壊れて不完全になってしまい、安定感

を失う事によります。それに対して「心配する事」による不

幸は、「自分の世界が壊れるのではないか?」という先取り

の不幸です。しかもその世界は、今の世界ではなくて、「こ

うありたい」と希望する、想定された世界ですから、完全に

妄想です。妄想が壊れる事を怖れているのです。


 「会社が潰れる」というのは、現在の自分の世界が壊れる

という事実ですが、「会社が潰れるのではないか?」という

のは、「会社が存続しているだろう」という想定が崩れるこ

とですから、結果として実際に潰れたとしても、その時まで

は妄想です。先取りの不幸です。実在していない問題を自作

して、自分で苦しんでいるのですから、本当にご苦労さんな

事です。

 心配性の私としては、そのあたりの事は重々承知している

のですが、なかなか心配することを止められません。困った

もんです。「どうせ未来の事を妄想するなら、肯定的に妄想

すればいいのになぁ」と思うんですけど・・・。


 「未来の事を肯定的に妄想する」事を、“希望” と言って

いいと思うんですが、実のところ “希望” は、ほんの少しの

想定の変化で、すぐに “心配” に姿を変えてしまうもので

す。言い換えれば、“心配” を隠すためのベールのようなも

のですね。


 《 希望とは、肯定的に偽装された心配であり

       心配とは、否定で隠された希望である 》


 わたしたちが “希望” を持つ時、そこにはそれが叶わない

場合も想定出来ているはずです。ところが、そこに肯定的な

考えの方が強く出てくるのは、それに対する欲求が強いこと

と、想定する条件が肯定的に見えるからでしょう。

 逆に、わたしたちが “心配” する時、その裏には “希望” 

があります。「こうあって欲しい」という “希望” があるけ

れども、その実現に否定的な条件が目についてしまうので

“心配” になるというわけです。

 “希望” だけが独立して存在することは出来ないし、“心

配” だけが独立して存在することもありません。両者は常に

セットになっています。

 ただ、“希望” は、常に “心配” に先立って存在します 

が、“心配” だけが “希望” より先に生まれることはありませ

ん。

 “希望” を持つ事は、未来を想定する事ですが、わたした

ちが “心配” する為には、まず未来を想定しなければなりま

せん。未来を想定して始めて、“心配” が生まれます。

 ということは、“希望” を持たなければ、“心配”は生まれ

ないという事です。

 私が心配性なのは、私が「あれやこれや」と自分に都合の

良い未来を妄想する “欲の強い人間” だからみたいです。

(情けない事が、表ざたになってしまいました・・・)


 「心配する事」や「心配性」というのは、その傾向が強け

れば強いほど、「自分の未来が肯定的なものでなければなら

ない」という欲求が強く、要するに “傲慢さ” のあらわれな

んですね。


 私は “傲慢な人間” ということになってしまいましたが、

そんな私が、“心配” することで不幸を先取りせず、しあわ

せな時間を多く持ちたいと思ったら、「謙虚になって、自分

勝手な “希望” を持たない様にしなければならない」という

事です。


 《 他人の為の希望を持つのは良いが

   自分の為の希望を持つのは、不幸への道だ 》

 という事の様です。さらに、

 《 幸福とは、希望を持たない事である 》

 という事にもなるのでしょう。

 “希望” が有る様な、無い様な話になりましたが・・・。