2019年12月30日月曜日

きょうの出来事



 昔、日本テレビ系で夜11時頃から『きょうの出来事』と

いうニュース番組をやっていた。最近ふとそれを思い出し

て、「いいタイトルだな」と思い。「『ニュースZERO』な

んてやめて、『きょうの出来事』というタイトルを復活させ

ればいいのに」とか思った(まぁ、どうでもいいんだけ

ど)。


 それが関係しているのかどうかは知らないけど、この前考

え事をしていて、こんな言葉が浮かんだ。


 《 起こらなければならない “事” は無い 》


 わたしたちは、とかく「こうあるべきだ」と思う。

「この状況なら、こうなって当然だろう」とか、「普通、そ

うなって当たり前じゃないか」などと言う。

 過去の出来事に対しても、これから起こるであろうと思う

出来事に対しても「こうあるべきだ」と条件付けをする。

「普通」とか「常識」とか、あるいは「良心」などというも

のも引き合いに出して、出来事の是非を言う。


 けれど、何を引き合いに出そうが、結局のところ物事の是

非を判断する基準は、自分の「希望」だ。「希望」に沿うこ

とであれば納得し、「希望」に沿わなければ「おかしいだ

ろ」と思う。けれど冷静に考えれば、《起こらなければなら

ない “事” は無い》。出来事はすべて、わたしたちの「希

望」とは無関係に、起こるべくして起こる。


 そもそも、出来事が「こうあるべきだ」などと、個人ある

いは社会の「希望」に沿わなければならないと思うことがど

うかしてる。なぜ、たかが一人の人間やちっぽっけな社会の

意向に合わせて “出来事” が起こらなければならないという

のか? 「こうあるべきだ」などと考えることは、“アタマの

悪さ” の根本的な「悪さ」だと言える。


 どんな出来事も、誰かの為に起こるのではない。何かの為

に起こるのでもない。

 私が生まれ、身体が有って、今生きているという “出来

事” も、「私の為」ではない。

 私が色々なことを考えて、さまざまな事をするのも、この

世界の “出来事” の一部でしかないし、それは「何かの為」

でもなく、「起こらなければならない事」でもない。ただ、

起こるべくして起こる事だ。


 わたしたちは、社会によって刷り込まれた価値観の奴隷

で、あらゆる出来事に対して “条件付け” をする。

 ほんとうに些細な事から、世界を揺るがすような出来事ま

で、ありとあらゆることに自分の “条件付け” を投影して、

良いか悪いか決めつけ、一喜一憂する・・・(一喜八憂ぐら

いだろうか?)。わたしたちは誰も、「起こらなければなら

ない事がある」と思っている。でも、それは無い。


 《 起こらなければならない “事” は無い 》という認識

は、エゴにとっては残念な “事” だろう。でも、それは本質

的な意味で人を自由にする。



2019年12月28日土曜日

「まなざし」の先に・・・



 「まなざし」か・・・。


 前回の最後の方に「まなざし」という言葉を使ったのだけ

れど、わたしたちが世界をどのように見るか、何を見ようと

するか、それが個人も世界をも決定付ける。


 私は何を見たいか?

 あなたは何を見たいか?

 わたしたちは、見ようとする方へ進んでゆく。

 「まなざし」が各々の個人の世界を作り、その総和が世界

を作る。

 わたしたちの見ている世界がどのようなものであれ、それ

は人々の「まなざし」の総和だ。


 この世界が醜悪なものなのであるのならば、それはわたし

たちの「まなざし」の総和がそれを見ようとしているから

だ。この世界が美しいものであるのならば、それはわたした

ちの「まなざし」がそれを見ようとしているからだ。

 それは個人のレベルでも同じことで、あなたが見ている 

“あなたの世界” は、あなたという人間の持つさまざまな

「まなざし」の総和だ。それが、あなたが見ようとしている

ものなのだ。


 あなたは何を見たいか?

 私は何を見たいか?

 人は何を見たいのか?

 すべては「まなざし」が生み出してゆく。


 あなたや私の「まなざし」が、この世界に何を付け加えて

ゆくのか、何を取り去るのか・・・。


 わたしたちが見たいものは・・・、何なのか?




2019年12月15日日曜日

中村哲さんから、『四月怪談』へ・・・



 前回、中村哲さんのことを書いたが、私のアタマはもう次

の出来事を探している。

 アタマは考えることが生業で、考えなければ消滅してしま

うので、次から次へと考えるためのネタを探し続けている。

どんなに出来の良いアタマでも(私のことを言っているので

はないよ)、アタマは神経症的なのだ。言い換えれば、思考

は病気だということ。ごく稀な例外はあるでしょうがね。ご

く稀なんですが。


 中村哲さんのような活動をしてきた人のことを、ほんの数

日で「過去のこと」としてしまえるほどに、わたしたちのア

タマは「本気」じゃない。自分の日常に深く根差した(と思

える)事でなければ、社会的にどんなに大きな事柄であって

も、それは単なる「ニュース」として処理される。


 それは当然と言えば当然のことで、世の中の様々なことに

深く関わっていると、各々の日常は停滞してしまう。人には

それぞれ違った暮らしがあり、それぞれの事情があるのだか

ら。とはいえ、中村哲さんのして来た事とそれに関わった

人々のことに思いを馳せることは、現代の私たちにとって

「すべき価値のあること」ではないだろうかと思う。


 生きているとはどういうことか?

 生きて行くことの本質とは何か?

 人と人との関わりはどうあるべきか?

 人にとって、幸せとは何か?

 そういったことは、どのような人にとっても他人事ではな

  それが他人事なら、その人は生きながら死んでいるの

だ。


 一日の多くの時間をスマホの中で過ごしている今の日本人

にとって(このブログのことはひとまず別にしてネ)、中村

さんとアフガンの人々がして来た事が何を意味するのかは、

簡単に流してしまわずに思いをシンクロさせるべきことだろ

うと思う。各々のしあわせと、ちょっとマシな社会を作るた

めにね。


 ニュースなんて、どんなに華々しい事や感動的な事、ある

いは悲惨な出来事であっても、そのほとんどはエゴの興奮や

茶番に過ぎないのだけれど、その中に時々、ほんとうに生き

ている人のことが混ざっていることがある。肝に銘じるべき

ことがある。

 それは単なるヒューマニズムや世俗的な「善」ではなく、

人の心の根底から湧き上がって来る「命の実感」のようなも

の・・・。

 人が、その歴史の古い古い昔から見失い、現代ではそれの

イメージさえ忘れてしまっているようなこと・・・。


 「命の実感」


 そう書いていて、今、急に大島弓子さんの『四月怪談』を

思い出した。


 主人公の女子高生 初子 は事故で死ぬが、まだ成仏できず

にこの世にとどまっていて、浮遊霊の岩井弦之丞と出会う。

弦之丞は初子に「今なら生き返れる」と生き返ることを促す

が、初子は「なんのとりえもない自分になど戻りたくない」

と、このまま死ぬと言う。

 それを聞いた弦之丞は「とりえってなんですか?とりえっ

て、すなわちあなた自身ではありませんか。飛べないことも

不可能のことも冴えないことも、みんなとりえなんじゃあり

ませんか」と泣きながら訴える・・・。

 それでも生き返る気にはならなかった初子だが、自身の葬

式が終わり、遺体が火葬されようとするその時に、取り乱し

泣き叫ぶ母の姿を見、友達の夏山登が手渡そうとしたレンゲ

の花を受け取ろうとして、思わず身体に戻り、生き返

る・・・。


  なにを見ても なにをしても

  奇妙に新鮮に感じるし


  見なれた町なみを見ても うれしい

  コップをもちあげて 水をのんでもうれしい


  ときには

  右足の次に左足をだして こうごにうごかして「歩く」

  という動作にも感動している 

               『四月怪談』より

 生き返った初子は、コップを落として割ってしまっても

「われたわー、われてしまったわー」と面白がっている。



 不毛の土地に水を引くことと、コップを割ってしまうこ

と、右・左と足を出して歩くことは繋がっている。


 「命の実感」を感じられるかどうかは、いまあること、生

きていることへどんなまなざしを向けるかによる。どんなま

なざしで見るかで生き方が決まる。

 「命の実感」は、あたりまえの、ありふれた今に、満ち広

っているのだが・・・。






2019年12月13日金曜日

本気の人



 ご覧の通り、このブログには広告が無い。広告を載せたと

ころで閲覧者が少なすぎて一銭にもならないが、それ以前

に、ブログの内容を鑑みて(“かんがみて” と読みます。別

にバカにしてるんじゃないですよ。もうこの言葉は古すぎる

かもしれないと不安になっただけです)、「金にしてはいけ

ない。金にすると、何かがウソになる」と思ったので、広告

を載せないことにしたのです。


 このブログのある「Blogger」は Google のアプリです

が、Google にとってこのブログは何のメリットも無い。

私はずっとタダ乗りしているわけです。

 もしかすると、広告を載せた方が検索されやすくなったり

するのかもしれないけれど、やっぱり「金にすると、何かが

ウソになる」という思いはぬぐえないので、例え「フォロワ

ーが十万人」ということになっても、広告は載せない  

当にそんな奇跡が起きたら、あっさりお金に走るかも知れま

せんが(¥)。


 やっぱりね、何かものを言うのなら、それなりに「矜持」

というものが必要だろうと思うのです。

 話の内容が穴だらけだったり、つじつまが合わなかった

り、一人よがりで理解不能だったりしても、「心意気は本気

です」ということがあれば、そこには伝わる “何か” がある

だろうと・・・。広告を載せないということも、表現の一つ

なんですよね。


 人が何かをする時、「本気」であるということはもの凄く

重要なことです。いや、それがすべてを決めると言ってもい

いでしょう。この世の中で何かが動く時、それが小さな事で

も、とても大きな事でも、そこには「本気の人」がいる。

 先日、亡くなられた中村哲さんは、まさに「本気の人」だ

ったのです。


 私が中村さんのことを知ったのは十年ほど前だろうか。そ

の活動を知って、「現代の日本人の中で最も立派な人のひと

りだな」と思った。

 国は「国民栄誉賞」なんてしょうもないものはやめて、中

村さんのような人に敬意を表する賞を作るべきじゃなかろう

か。当人に賞金を贈ったりじゃなくて、その志を支援する為

に支援金を出すのもいいだろうと思う。


 中村さんの活動は、まさしく地に足の着いた、観念的では

ないものだ。

 「敵だ」「味方だ」なんてことはどうでもいい。「経済」

なんて浮いた話はどこかで勝手にやってればいい(具体的に

必要な少しのお金は必要だが・・)。

「“人が生きる” ということの本質を見失わないようにす

る」

 それが、中村哲という一人の人間の「矜持」だったのだろ

うと思う。


 私のようなヘナチョコ人間が、中村哲という人間のことを

語るのは畏れ多いし、こういうことを言うのは恥さらしかも

しれないけれど、私の中にも、わずかばかり “中村哲的なも

の” がある。そして、それはほとんどすべての人の中にもあ

る。

 中村さんがあれだけのことを成し遂げられたのは、「自分

と同じものが誰もの中にある」ということを信じて疑わなか

ったからだろう。そして、中村さんを襲撃した者たちの中に

も「それはある」と中村さんは思っているのではないだろう

か。ただ、さまざまないきさつで「それ」が見失われてい

だけなんだと・・・。


 やはり中村さんは残念だろう。怒ってもいるだろう。で

も、それと同時に、中村さんを殺した者たちにこう言いたい

のではないだろうか。

 「銃を捨てて、スコップを持ってくれないか」


 ひとりの類稀なる人間に敬意と哀悼を捧げます。

 中村さんは亡くなったが、中村さんの「本気」は、間違い

なく生き続けてゆく・・・。


 やはり、人は地に足をつけて生きるべきだろう。

 
 話が思いもかけないところへ転んだ。

 私は「個人の業績というものは無い」という考え方の人間

ですが、でもやっぱり、立派な人は立派なんです。

 勝手なことを書いた・・・。



2019年12月8日日曜日

逃げます



 前回の話の中で、「おまけ(世の中)から目をそらせばい

い」と書いたけれど、後で考えてみると「これでは単なる 

“現実逃避” でしかないか」なんて思った。

 それではちょっと悔しいので、これから言い逃れをしよう

と思う次第(これがまた “現実逃避” になりそうだけ

ど・・・)。


 “現実逃避” と言っても、現実はどこまでも現実であって

逃避のしようがない。ある “現実” から逃れても、逃れたそ

の場所にあるのも “現実” ですよね。

 “現実” が苦しいから妄想の世界に入り浸っても、それは

「妄想しているという “現実”」があるだけのこと。 

「学校に行くのが辛すぎる」ので不登校になっても、そこに

は “不登校” という現実がある。

 「学校に行く」という、これまでの “現実” よりはましだ

としても、次の “現実” もあまり受け入れやすいものではな

さそう。結局のところ、やっぱり “現実” に苦しめられるこ

とになる。“現実” って、基本的に「苦しい」ものなんです

よ。お釈迦様が言ってます。「生きることは苦である」と

ね。


 では、なぜ "現実” が苦しいかというと、それが “妄想” 

だからです。


 「“現実” が “妄想” ?」


 一見、ムチャクチャな話のようですが、別に難しい話では

ありません。わたしたちが自分で捏ね上げた “妄想” を “現

実” だと思っているだけのことで、世間一般で言われる “現

実” というものは、わたしたちが「現実感」を付与した “妄

想” のことです。

 その “現実” の中で、人が死んだり、災害が起こったりは

しますが、そうした出来事に対する「重み付け」は、人によ

っても、時と場合によっても違います。それは “現実” とい

うものに “意味的な絶対性” が無いからですが、そんな大げ

さな言い方をする必要もないですね。本当は “現実” には意

味が無い。普通わたしたちが見ていて取り扱う “現実” は、

恣意的で、“妄想” と呼ぶしかないものです。本物の “現実” 

は意味の外にある。


 私が「おまけ(世の中)から目をそらす」と言ったのは、

「妄想を本当だと思うな」ということですね。

 自分がしている「意味付け」も “妄想” なら、まわりの人

間たちがしている「意味付け」も “妄想” です。それに関わ

らずに生きて行くこともできませんが、自分の考えも誰かの

考えも世の中全体の考えも、「それはそうとして」と、一旦

棚上げにしてみたりできることは良いことでしょう。

 “妄想” は “妄想”  ゆえに “現実” との間に齟齬を生みま

す。“現実” を受け止めそこなうと言った方がいいでしょう

か。だから苦しみが生まれます。


 お経だったか、昔のお坊さんの言葉だったか忘れました

が、「莫妄想」という言葉があります。「妄想するな」とい

う意味らしいですが、この言葉は「宝くじがあたった

ら・・・」とか、「彼と結婚出来たら・・・」とか、「○○

のように生まれていたら・・・」といった、いわゆる「妄

想」のことではなくて、「物事を自分の価値観でもって意味

付けするな」、さらに言えば「物事に価値判断を持ち込む

な」ということでしょう。「価値判断」を持ち込むと “現

実” が見えませんからね。


 「価値判断」を持ち込まずに物事を見るとそこに初めて 

“現実” が見える。物事の「ありのまま」「そのまま」が見

える。価値に毒されていない「なんでもない」世界が広がっ

ている。


 自分も「なんでもない」し、世界も「なんでもない」。

 穏やかなんです。


 台風がやってきてもの凄い風が吹いている。

 「大変だ!」と思えば、そこにはもう価値判断が入り込ん

でいる。

 台風がやってきてもの凄い風が吹いていたら、「もの凄い

風が吹いているな」と見るのが「ありのまま」「そのまま」

な見方ですね。


 「あなたはガンです」と言われて、「自分は死ぬんだろう

か」と震えあがったら、それはもう “妄想” に入り込んでい

ます。

 「あなたはガンです」と言われたら、「そうですか。では

どういう風に治療とかしていけばいいでしょうか?」と淡々

とすべきことを探ってゆくのが、「ありのまま」な対処の仕

方ですね。


 世界は、起こるべき必然が起こっているだけです。「なん

でもない」のですが、わたしたちのアタマは、「なんでもな

い」では済ませられないようになっている。


 物事すべてを「なんでもない」と捉えた瞬間、それと対応

関係にある自分も「なんでもない」存在になってしまいま

す。つまり自分がなくなってしまいます。わたしたちのアタ

マはそれが恐ろしいのです。なので、どんなに苦しみに遭っ

ても、「意味付け」することを止められない。


 でも、世界も自分も「なんでもない」と見ても、その「な

んでもない」に気付いている〈意識〉が残っています。自

我・エゴとしての自分は消えますが、その背後に元から存在

している 〈意識〉が立ち現れます。それは常に穏やかなん

です。だって、そこには「価値判断」が有りませんから、物

事に乱されることがありません。

 起こっている物事を「そのまま」に受け止めてゆくことが

できれば、わたしたちは穏やかにいられます。その為には

「世の中から目をそらして」「一旦棚上げにする」といった

スキルが役に立つ(「役に立つ」と言うと、すでに価値判断

が入っているのですがね)。


 と、ここまで「“現実逃避” ではない」という言い逃れを

してきました。“現実逃避” ではなくて、「“現実” と見做し

てしまっている “妄想” を “回避” するのだ」ということで

すね。

 さて、私は逃げきれたでしょうか?


 (『「平常心」のなかで』2019/8  という回でも同じよ

な事を書いているので、よかったらそっちも見てみてくだ

い)

2019年12月1日日曜日

世の中はグリコのおまけのようなもの



 ニュースを見ていると、「世の中は相変わらず “世の中” 

だなぁ」などと思う。相変わらず正気じゃない。


 “世の中” は「たしなむ程度」にしている私だが、それで

も、現在の狂い過ぎの世の中からの影響は大きくて、「あ

あ、もう・・・」などと気が滅入ったりする。

 世の中というものは古代から狂っているものだろうが、現

代の狂い方は、より念が入って、大袈裟で、妄想値が高くな

っているだろう(昔も〈魔女裁判〉なんかが有ってりして、

妄想値はあまり変わらないか・・)。


 世の中の様々な問題を見ていると、私はなんでもかんでも

「アタマが悪い」ということで片付けてしまうが、そう思っ

ているので仕方がない。人間は「アタマが悪い」ままこの先

も生き続け、「アタマが悪い」ままその歴史を閉じるのだろ

うと思う。残念だね。

 世の中はどうにもならないので、「アタマの悪さ」に苦し

められないように一部の個人が自分で対処して、個人で勝手

にしあわせになるしかないのだ。世の中なんかに深入りして

いる暇はない。人生はすぐ終わる。


 今日も朝から家の周りの花や木を見ていると、どんどんと

時間が過ぎて行く。非生産的なこと著しいが、非生産的なほ

ど環境負荷はすくないので、現代においてはそれが大きな社

会貢献だろう。人間が作り出すものはほとんどすべてゴミに

なる。


 《 人生はグリコのおまけのようなもの 》と書いたのは、

このブログを始めて間もない頃だったが、そのように思い始

めたのはもう十年以上も前だろうか。

 ここで言う「グリコのおまけ」を “世の中” のことと取っ

てもらってもいい。《 世の中はグリコのおまけのようなも

の 》です。ちょっと面白がるにはいいが、それが生きるこ

との本義のように思ってしまったら OUT です。〈生〉の外

にはずれてしまう。


 実際の “グリコのおまけ” をコレクションしている人もい

るが、そういうのは関心の無い人から見れば「バカ」です。

けれども、有名な美術品やブランド物やお金を集めている事

と本質的な違いは無い。世の中のことは、全部「おまけ」で

す。


 『グリコのキャラメル』のキャラメルにあたるところのも

のは、わたしたちの人生の本体である〈生〉です。 その

〈生〉を味わうことこそが、「生きる」ということの本質で

あり、目的です。けれども、人は「おまけ」に目を向けるこ

とばかりを強く刷り込まれているので、そのことに気付けな

い。では、どうやれば〈生〉を味わえるのか?


 「おまけ」から目をそらせばいい。それだけのことです。


 わたしたちは、物質的にも心理的にもおびただしい数の

「おまけ」を自分の周りに抱え込んでいます。それは一応そ

のままでもよいから、そこから意識をそらす。徹底的に、

「おまけ」を持たない自分がどんな存在なのかを探ってみ

る。


 たとえ、数秒でもいい。「おまけ」とは無関係の自分の

〈生〉を見ることができれば、それは大きな経験です。甘美

な経験です。なぜなら〈生〉の本質はキャラメル同様に「甘

い」からです。


 わたしたちが人生で「苦さ」や「辛さ」を経験するのは、

世の中がそういうものを含んでいるからであって、わたした

ちが「おまけ」に夢中になるのをやめて、生きることの本質

に返れば、生きることは「甘い」。そしてそれは「生きるこ

と」の本質なので、生きている限り失うことが無い

 「おまけ」の箱から出てきたものが、たとえ化け物であっ

たとしても、それはそれとして、〈生〉の「甘さ」を味わう

とだってできるはずなんです。




2019年11月26日火曜日

人間の価値



 この前書いたように、私はとりあえず人間をやっている

(「演っている」というべきか?)。人間をやって、人間と

してある程度の価値があるところを、他の人間に見せてい

る。そうしないと、社会は許してくれないので。
 

 で、今日の話題は「人間としての価値」について。

 「人間の価値」って何でしょう?

 先に私の答えを書いておきます。「人間の価値」とは、

「人間であること」です。


 「男の値打ちは仕事だ!」とか、「女の価値は、子供を産

んで育てること」とか、「頭が良いこと」とか、「強いこ

と」とか、昔から人はいろんなことを言ってきた。けれど、

それらはすべて社会的な意味合いの価値であって、「人間の

価値」ではない。そういうもの言いは、社会がその “お話

し” の中に人を取り込んで、社会にエネルギーを使わせるた

めのものであって、実は、人には関係が無い。


 さまざまな「価値」を設定して、あらゆる人間に「自分に

は足りない “価値”」を意識させ、劣等感を抱かせ、不安に

させ、その不安を解消しようとする為に注がれる個人のエネ

ルギーを取り込んで、社会は存続し、肥大してゆく・・・。


 社会の中で言われる「人間の価値」って、ただの “お話

し” でしかないのだが、もの心付く前から刷り込まれるの

で、それがただの “お話し” だなんて、みんな気付けない。

 だから「かくかくしかじかで、お前には値打ちが無い」な

どと言われると、自分には生きる値打ちが無いなどと思って

しまう・・・。けれどそういうのは、「その “お話し” の中

では、エキストラでしかない」というだけのことだ。

 「あっ、そうなの?」と、おいとまして終わる話です。


 例えば恋人に別れを切り出されても、「ああ、そう。じゃ

ぁ、サヨナラ」と。

 ホントはその程度の事なんですよ。


 例えばオリンピックに出場して入賞もできなかっても、

「そういうことか」と。

 それで済む話です。


 確かに、その “お話し” の中では「価値」を認められなか

ったのですが、それは “お話し” です。「人間としての自分

の価値」とは関係の無いことです。

 何が出来ようが出来なかろうが、あらゆる “お話し” とは

無関係に、自分は存在している。“お話し” の中で「自分に

は価値が無い」と思わされたとしても、それで自動的に自分

が消え去るわけではない。その「消え去らない自分」の “消

え去らなさ” が「自分の価値」を証明しているのです。


 自分の価値を否定する誰かに対して、社会に対して、こう

うそぶいていい。

 「お前らが何を言おうと、それでわたしを消し去ることは

出来ないだろ? 所詮、それは “お話し” に過ぎない」

 社会から小突かれようと、誰かから無視されようと、

 「そう。で、お次は何だ?」

 そう思っていればいい。だって、今、生きているんだも

の。消え去っていないんだもの。

 あなたや私の「人間であること」の価値を、 “お話し” は

奪うことはできない。


 あなたも私も極悪人も聖者も、その「人間であること」の

価値に違いはない。

 その価値は揺らぐことはない。

 その価値の上に立っていれば安泰です。


 社会的には負け犬になるかもしれない。

 暮らしに困るかもしれない。

 一緒に居て欲しい人が離れて行くかもしれない。

 明日には死んでしまうかもしれない。


 でも、今、この時、揺るぎない価値の上にあなたも私も在

る。

 そのことに気付いていれば、安泰なんです。





2019年11月24日日曜日

とりあえず人間



 今朝、NHKの『日曜美術館』を見ていて心にとまった言

葉があった。

 今日は秋野亥左牟(あきのいさむ1935-2011)という画

家(絵本作家)を取り上げていたのですが、秋野さんの作品

も魅力的だったし、その生き方も面白かった。

 その生き方・暮らしぶりを振り返りながら、奥さんがこう

いうことを仰った。


 「とりあえず人間」


 よく分かる。

 私も、そういう意識を持ちながら日々の暮らしを続けてい

るから。

 私はそれを《世の中をたしなむ》と表現していますが。


 「人間」と書いて、中国語では「じんかん」と読む。日本

語で言う「世間」を表す言葉らしい。

 「とりあえず人間(にんげん)」というのは、「一応、世

間の人をやっている」ということだろう。


 人は世間の中で生きるしかないけれど、世間は人を幸せに

はしない。だから「とりあえず人間」というスタンスでいな

いと不幸になってしまう。「どっぷり」「ガッツリ」人間に

なると、日々は地獄になる。


 毎度書いていることだけど、世間というのは「世間」とい

うお話しであって、そこに実(じつ)は無い。実の無いこと

に深く関わるほど、生きていることの実感は薄れて行く。

 虚しい。満足することが無い。不幸になる。


 世間には本当のしあわせは無い。有るのは “お話しの幸

せ” だけ。

 それは「楽しみ」として関わるには良いが、それを生きる

ことの本質だと思い込んでしまうと、人は生きられない。


 テロだとか、強欲なビジネスだとか、政治だとか、他のさ

まざまな原理主義的なイデオロギーだとか、「世間」という

お話しを真に受けて、「どっぷり」「ガッツリ」人間をやる

連中がとんでもないことをして周りの人を不幸に巻き込んで

行く・・・。

 けれども、そういう人間がいくら「お話し」に入れあげ

て、「世間」を巻き込もうとしても、周りがみんな「とりあ

えず人間」というスタンスの人ばかりだったら、その人間は

“「お話し」を本当だと思い込んでいるおかしい人” という

扱いを受けることになる。どんなにその "入れ込みよう” が

凄くても、しょせん一人では何もできない。

 たとえヒトラーの演説が上手くても、当時のドイツ人がそ

れを「お話し」の一つだと受け止めていれば、ホロコースト

は起きなかっただろう。


 「とりあえず人間」


 そういうスタンスで誰もが生きるなら、世界の争いごとの

九割は無くなることだろう。

 そして、人は今よりずっと、穏やかにしあわせに暮らせる

だろう。


 「お話し」をいったん脇に置いて、「お話し」以前に存在

している「生の生(なまのせい)」に意識を向ければ、そこ

はすべてが足りている完全な世界。そこには “実感” という

「しあわせ」がある。


 と、そんなことを思いながら、こんなことを書いて、とり

あえず今日を生きる。





2019年11月17日日曜日

素直にね



 今、Michel Jones というピアニストの曲を聴きながら、

これを書き始めた。


 Michel Jones は80年代から活動している、いわゆる

「ニューエイジ」系のピアニストですが、その演奏は、素直

で自然で明るい。

 イメージが音楽になるまでの間に、計算やこだわりなどの

夾雑物が無いという気がする。私はすべての音楽ジャンルの

ピアニストの中で一番好きかもしれない。



 と、こういう取っ掛かりで始めて、話がどこへ行くのだろ

うと思ったのだが、さっき「素直」という言葉が出てきたの

で、「素直」について話そう。


 今回、『アナと雪の女王』の続編が公開されるということ

で、マスコミがよく取り上げている(宣伝しているというこ

とですが)。もちろん私は観ない。前回も観ていない。

 前回ブームになった時に、そこら中で「ありのままの~」

というあの曲が流れて辟易としたのをよく憶えている。

 あの甲高い声(とくにオリジナルの方)が耳障りだった

し、「ありのままの~」という歌詞が聞こえてくるたびに、

「“ありのまま” って、ほとんどの場合 “身勝手” ってことで

しょ。バカが勘違いするからやめてほしいなぁ」という思い

が浮かんでしまって嫌だった。

 もちろん私は映画の内容は知らないので、あくまでも上っ

面の情報でそう感じていたのだけど、人というものは、もの

ごとの「自分に都合の良い部分」だけを受け取るものなの

で、あの当時、映画を観た人の中にも「ありのままの~」と

いわれて、「自分の好きなようにするのがイイんだ!」と、

あの歌を “身勝手の免罪符” のように捉えた者もかなりいた

ことだろう。

 「素直」って、ホント、難しいんだ。

 「“素直” って、そんなものあるのか?」というぐらい、

つかみどころのないものです。素直にそう思います。



 コンビニで目にしたケーキが美味しそうだったので、その

まま持ち出して食べる。

 素直ですね。でも、万引きです。


 電車で隣に座ったオバさんが、ベラベラ大声でしゃべって

うるさかったので、「うるせえ!」と言って殴った。

 素直ですね。でも、暴行です。


 隣のクラスの女の子がすごく可愛くてのぼせ上ってしまっ

た。毎日後をつけて、家の前に張り付いて、出てきたところ

を抱き付いた。

 素直ですね。でも、ストーカーです。


 国の将来が心配だ!このままではいけない!なんとかしな

ければ!

 努力と運でカリスマ政治家になり、国のトップになって、

自分が正しいと思う政策を推し進め、新しい法律を作って、

国を害すると思われる人間を次々に投獄したり粛清できるよ

うにした。「これでわたしの思い描く “良い国” にな

る・・・」。

 素直ですね。でも、独裁者です。(良い独裁者というの

も、理屈の上ではあり得るとは思いますが・・・)


 苦しい・・・。もう、生きていたくない・・・。

 自ら命を絶った。

 素直ですね・・・。でも、悲しいことですよ・・・。


 いま挙げたようなことは極端な事ですが、私がただのひね

くれ者なんでしょうか?


 「ありのままの」って、「素直」って、あるいは「自分ら

しく」って、いったい “何” に従ったらそう言えるのでしょ

う?


 周りの人間の言うことに従ったら「素直」なんでしょう

か?

 自分の欲望に従ったら「ありのまま」なんでしょうか?

 自分の思考に従ったら「自分らしい」のでしょうか?

 自分の感情に従ったら「ありのまま」なんでしょうか?

 自分の感覚に従ったら「素直」なんでしょうか?


 わたしたちの中にも外にも、無数の “動かそうとする働

き” が常にあって、わたしたちを突き動かそうとしています

が、「ありのまま」とか「素直」とかいう意識が働くとき

は、実は迷っているときです。迷いがないなら、「ありのま

ま」とか「素直」とか考える前に、もう何かをしているもの

ですからね。「ありのまま」とか「素直」とかの意識が働く

のは、行動の選択に迷っているときなんですね。


 なぜ迷うのかというと、「自分にとって将来有利な選択を

したい」と思うからであって、実は「ありのまま」「素直」

といった意識の後ろには、“打算” が隠れているのです。


 「ありのまま」「素直」などというと、なにか「ピュア」

なイメージがありますが、その実態は “打算” です。

 『アナと雪の女王』が流行った時。あの「ありのままの

~」という歌が聴こえるたびに私が少し不快になったのは、

そのイメージと実態のギャップを感じていたからなんです

ね。


 「ありのまま」や「素直」という意識は、“行動” に係っ

てくるものですが、本当は、“在り方” に対するものです

(“在り方” も “行動” ではありますが)。

 「ありのまま」や「素直」ということが実体化するのは、

自分から動かない時だけですから。


 ですから、死人ほど「ありのまま」なものはありません。

死人に打算はありません。死人は迷いません。人が本当に

「ありのまま」「素直」になる時は死んだときです。


 もし、生きていながら死んだようにいられるのなら、それ

が本当の「ありのまま」であり、「素直」ということでしょ

う。そして、迷いの無い、穏やかな状態でしょう。
 

 どうしたら「生きながら死ねる」か?


 「自分にとって将来有利な選択をしたい」という打算が、

迷いになるわけですから、「自分にとって将来有利な・・」

という思いを無くせばいいわけです。そもそも、何が「自分

にとって将来有利」かどうかなんて、誰も知らないのです。

さらに言えば、「有利」ということ自体が、ある文脈・価値

観の中でしか意味を持ちません。いま、こうして生きてい

て、いずれは必ず死んでゆくわたしたちにとって、「有利」

って何ですか?


 そうしてみると、「自分にとって将来有利な選択をした

い」という思いを無くすのは、そう難しいことでもなさそう

です。

 本当は「知らない」、本当は「分からない」ことを、掴み

に行こうとかそうなろうとかするのは、ほとんど徒労だと分

かります。徒労だと分かっていることに、人はエネルギーを

注げません。

 「分かんないんだから分かんないままでいるしかないな」

 そうやって、迷いをストップさせたら、それが「生きたま

ま死ぬ」ことです。アタマに死んでもらうのです。

 本当に「ありのまま」で「素直」になったら、迷いなんか

無い。選択なんて意味を持たない。


 話を Michael Jones に戻しましょう。

 いま窓の外ではウインドチャイム(風鈴)が鳴っているの

ですが、あれは風まかせです。自ら「こう鳴ろう」とかいう

わけではない。

 Michael Jones の音楽も、自然から受けたイメージが、

彼の中を通って素直に音になって出てきているように感じま

す。

 「ありのまま」って、ウインドチャイムのような “在り

方” なんじゃないでしょうか。