2019年12月1日日曜日

世の中はグリコのおまけのようなもの



 ニュースを見ていると、「世の中は相変わらず “世の中” 

だなぁ」などと思う。相変わらず正気じゃない。


 “世の中” は「たしなむ程度」にしている私だが、それで

も、現在の狂い過ぎの世の中からの影響は大きくて、「あ

あ、もう・・・」などと気が滅入ったりする。

 世の中というものは古代から狂っているものだろうが、現

代の狂い方は、より念が入って、大袈裟で、妄想値が高くな

っているだろう(昔も〈魔女裁判〉なんかが有ってりして、

妄想値はあまり変わらないか・・)。


 世の中の様々な問題を見ていると、私はなんでもかんでも

「アタマが悪い」ということで片付けてしまうが、そう思っ

ているので仕方がない。人間は「アタマが悪い」ままこの先

も生き続け、「アタマが悪い」ままその歴史を閉じるのだろ

うと思う。残念だね。

 世の中はどうにもならないので、「アタマの悪さ」に苦し

められないように一部の個人が自分で対処して、個人で勝手

にしあわせになるしかないのだ。世の中なんかに深入りして

いる暇はない。人生はすぐ終わる。


 今日も朝から家の周りの花や木を見ていると、どんどんと

時間が過ぎて行く。非生産的なこと著しいが、非生産的なほ

ど環境負荷はすくないので、現代においてはそれが大きな社

会貢献だろう。人間が作り出すものはほとんどすべてゴミに

なる。


 《 人生はグリコのおまけのようなもの 》と書いたのは、

このブログを始めて間もない頃だったが、そのように思い始

めたのはもう十年以上も前だろうか。

 ここで言う「グリコのおまけ」を “世の中” のことと取っ

てもらってもいい。《 世の中はグリコのおまけのようなも

の 》です。ちょっと面白がるにはいいが、それが生きるこ

との本義のように思ってしまったら OUT です。〈生〉の外

にはずれてしまう。


 実際の “グリコのおまけ” をコレクションしている人もい

るが、そういうのは関心の無い人から見れば「バカ」です。

けれども、有名な美術品やブランド物やお金を集めている事

と本質的な違いは無い。世の中のことは、全部「おまけ」で

す。


 『グリコのキャラメル』のキャラメルにあたるところのも

のは、わたしたちの人生の本体である〈生〉です。 その

〈生〉を味わうことこそが、「生きる」ということの本質で

あり、目的です。けれども、人は「おまけ」に目を向けるこ

とばかりを強く刷り込まれているので、そのことに気付けな

い。では、どうやれば〈生〉を味わえるのか?


 「おまけ」から目をそらせばいい。それだけのことです。


 わたしたちは、物質的にも心理的にもおびただしい数の

「おまけ」を自分の周りに抱え込んでいます。それは一応そ

のままでもよいから、そこから意識をそらす。徹底的に、

「おまけ」を持たない自分がどんな存在なのかを探ってみ

る。


 たとえ、数秒でもいい。「おまけ」とは無関係の自分の

〈生〉を見ることができれば、それは大きな経験です。甘美

な経験です。なぜなら〈生〉の本質はキャラメル同様に「甘

い」からです。


 わたしたちが人生で「苦さ」や「辛さ」を経験するのは、

世の中がそういうものを含んでいるからであって、わたした

ちが「おまけ」に夢中になるのをやめて、生きることの本質

に返れば、生きることは「甘い」。そしてそれは「生きるこ

と」の本質なので、生きている限り失うことが無い

 「おまけ」の箱から出てきたものが、たとえ化け物であっ

たとしても、それはそれとして、〈生〉の「甘さ」を味わう

とだってできるはずなんです。




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