2021年6月26日土曜日

不健全な安心



 前回のブログを書き終えて、すぐ「健全」という言葉が頭

に浮かんだ。

 マスクなんかしてないで、走り回ってハアハアと息をすれ

ば、ウイルスやら細菌やら粉じんやらダニのフンやら色んな

ものを吸い込むことだろうが、それは「健全」だろう。それ

が「健全」を育むだろう。


 子供がみんなマスクをして密にならずに過ごしてい

る・・・。

 その光景を見て「安心で安全だ」と思う大人は、命の感覚

が狂ってる。

 どう考えたってそんなの「異常」でしょう。健康の為に

「健全」が犠牲になっている。


 子供たちを “異常” な事から守る為に、子供たちに「異常」

な環境を与えて、子供たちの生き方を「異常」にしてしまっ

ている。“異常” なのは、それをしている大人の方だ。


 この世界には “異常” な事が、いくらでも、ひっきりなしに

起こる。それが “普通” なのに、その “普通” を無視するか

ら、本当に「異常」なことになる。

 「異常」なアタマから見れば、あれもこれも “異常” なんだ

ろうが、「異常」なのは自分のアタマの方だなんて思いもし

ない。まったく困ったもんだと思うが、どうしようもない。

 私は「付き合ってらんない」とあきらめてそれでいいが、

子供は可哀想である。


 普通、人が生きていれば何度も病気をするものだ。とても

重い病気をすることもあれば、そのまま死んでしまうことも

あるが、いずれにせよ病気やケガをすることを完全に避ける

ことは、まずできない。病気やケガをしていれば当然「不健

康」ではあるが、生きているということにはそういうことも

織り込まれているものだから、「人生にはそういうこともあ

る」と心得ておくことが「健全」だろう。


 無菌室のような、清潔で「安心安全」な環境で生きること

を求める人を、「不健全だ」と感じるのは、私だけではない

だろう。気持ちが悪い。

 アタマにとって良いことは、得てして気持ちが悪い。い

や、“気持ち” に悪い。そして身体にも悪い。

 すべてが統御され、身体的にも精神的にもまったくリスク

のない、快適そのものの環境で暮らしたら? たぶん、人はお

かしくなってしまうだろう。


 イレギュラーな事。思いがけないハプニング。そういった

ものが刺激として無い、平坦で均質な日々を過ごせば、人は

「健全」ではいられないだろうというのは、たぶん正解だと

思う。「健全」どころか、かえって「健康」さえ失うことだ

ろう。実際、コロナ騒動の中で「安心安全」の為に家に閉じ

こもっていてそれが起きているしね。


 今は「踏切内に人が入った形跡がある」などと言って、

「安全確認」と称してすぐに電車を止めたりするけれど、私

の子供の頃は、野球のボールが線路に入ったりしたら、フェ

ンスを乗り越えて拾いに行ったりしていた。そこに電車が来

ても、運転手は「危ないからどいてろ!」という感じで警笛

を鳴らしはしても、電車は止まらなかったし、そういうこと

で事故が起こる事も滅多に無かった。危なくても、「織り込

み済み」なら大して問題にはならないものだ。


 「リスクなど、織り込みたくはない!」、そう考え、行動

と環境を徹底的にコントロールして「安心安全」にしようと

するけれど、エントロピーの法則により、秩序が生まれれば

その分の無秩序が別の所に発生する。目の前から消し去った

リスクは、姿を変え、違うリスクとなって気付かぬ形で戻っ

て来る。それなら、気付いている分だけ最初のリスクの方が

マシだが、「安心安全原理主義者」はそこまで考えが及ばな

い。


 「不健全な安心」より、「健全な不安」の中に生きる方が

しあわせだろうと言えば、少し奇をてらい過ぎだろうか?







2021年6月24日木曜日

まだ、子供は生きていた



 この前、散歩をしていて久しぶりに良いものを見た。小学

生が十数人(三学年ぐらいの男女混成)、市営住宅と併設の

公園と、その周辺のワンブロックを使って鬼ごっこをしてい

た。

 何ラウンド目かは分からないが、途中でみんなが集まりル

ール変更の相談をしている。「より面白く、よりフェアに」

といった狙いなんだろう。自分たちで遊びを作り、問題があ

れば自分たちで考えて改善し、より良くしようとしてい

る・・・。素晴らしい勉強じゃないか。
 サッカーとか野球とかテニスとか空手とか、そういうこと

も悪くはないんだけど、既成のルールの中で、社会的に了解

された目標や喜びにフォーカスして子供時代を過ごすこと

は、自主性や創造性のような大事な “何か” が自由に発露す

ることを損ねるんじゃないだろうか、という気がする。
 「自分たちの楽しみ喜びは自分たちで創る」。昔は当たり

前だった子供達の遊ぶ姿が見られなくなって久しいけど、将

来にツケが回るんじゃないだろうか。個人々々にも、世の中

にも。


 子供に限らず、「用意された “遊び” を遊び、教えられた

“楽しみ” を楽しみ、認められた “喜び” を喜ぶ」というの

が、今は大人でも普通だろう。子供時代に “遊び” を学ばな

かったせいなのかもしれない。


 「遊ぶ」というのは、禅宗ではとても大事な言葉だそう

だ。「遊戯(ゆげ)」というのだそうだけど、「目的の為で

はなく、それをすること自体が目当ての行い」、「なんとは

なしに、肩の力の抜けた、とらわれのない生き方」、そうい

う意味合いで使われる。

 「生きることが、何かの為の手段であってはならない。そ

ういうのはサイテーだ!」ということです。

 なぜなら、何かの為の手段になっているということは、

「生きること」がその目的より下位であるということだか

ら。それは「生きていること」に対する冒涜だ。


 わたしたちにとって、「生きていること」がまず先にあっ

て、それ以外の事は飾りのようなものです。ところが、わた

したちはすぐに飾りたがる。飾りに目を奪われて、「生きて

いること」が二の次になる。「生きていること」が飾る為の

手段になってしまう。生き損ねる。


 鬼ごっこで走り回って、それで誰かが褒めてくれることは

ない(今回の私のような変わった人間もいるけど)。ただ面

白い。そこがイイ。そこが尊い。

 見物人は無し、それで何かにしようという目的も無し、そ

ういうのを「純粋」と言ったりする。

 自分が動く、まわりが動く、自分の動きでまわりが変わ

る、まわりの動きで自分が変わる、その行ったり来たり、出

たり入ったりが、知らず知らずに自分とまわりを育てて行

く。


 何かの目的の為ではない活動は、人に自然な成長をもたら

すだろう。

 世の中からのご褒美は無いが、そこには苦悩は無い。


 そのこと自体が「楽しみ」。

 そのこと自体が「喜び」。

 そのように生きることは、命に対する最高の敬意を示すこ

とになる。


 鬼ごっこで無心に走り回って、「面白かった!」とハアハ

ア息を吸い込んだら、きっと空気と一緒に「命」を吸い込ん

でいることだろう。その「命」が、子供を、人を育てるだろ

う。しあわせにするだろう。




2021年6月21日月曜日

ズルいじゃないか!



  先週から市内のあちこちの掲示板にこのポスターが見られ

るようになった。





 「またやってる・・・」と思う。

 オオキンケイギクについては、このブログで二回も話題に

しているのでもういいのだが、私は植物が好きなので、こう

いう行為を見せられると、つい「ムッ」としてしまう。繁殖

力の強い外来植物は他にいくらでもあるのだが、何かといえ

ばオオキンケイギクがやり玉に上げられる。人間は自分の事

を棚に上げてこういう事をする。「フェアじゃない」と思

う。「ズルい」と思う。気に入らない。


 別に私はことさらオオキンケイギクに肩入れしているわけ

でもない。キレイだから好きな花ではあるけど、オオキンケ

イギクが日本から消えてなくなっても、それはそれで構わな

い。ただ、この花を目の敵にする人間のズルさと無知が気に

入らなくて、つい引っ掛かりを感じてしまう。

 何がズルくて無知なのかは、以前に書いたものを読んでも

らいたい。(『オオキンケイギクに代わって言わせてもら

う』2019/5、『花の声・虫の声』2021/5 )


 この世界のほとんどの事は、少し深掘りすると、すぐにさ

まざまな事柄と関係する複雑さが見えてきて、「良い」とか

「悪い」などという単純な二者択一などできないことに気付

く。「う~む・・・」と唸って、お手上げ状態の中で「さし

あたり、これが一番マシだろう・・・」という選択をするし

かないことになる。そうならないとしたら、それは、その判

断をする人間がズルいか、無知なのだ。

 上っ面だけの、ごまかしの解決をして、それが「正しい」

かのように振舞う人間を見ると張り倒してやりたくなる(イ

カン。地の凶暴さが出てしまった・・・)。


 社会というものは、根本的に出来損ないなのだから、社会

に表れてくる問題を根本的に解決することはできない。でき

ないのだから、一応の、その場しのぎの解決策を採るしかな

い。それはしようがない。けれど、「これは一応のことで、

根本的な解決ではありません」というエクスキューズが有る

べきだろう。社会と、それを作り動かしている自分たち人間

の出来損ないさ加減を、常に肝に銘じるべきだろう。それを

しないから、人間は歴史上に数々の惨事を刻んできたのだ。


 自身のズルさ、無知さ、無能さを認めたくないのがわたし

たちのアタマで、そのことがわたしたち自身を苦しめるし、

世界に醜悪なものをもたらしもする。

 なので私は言い続けることになる。「アタマが悪い」と。

何の力も無いのに、言わずにいられなくて・・・。






 



2021年6月20日日曜日

「夢」の終わりに



  私は、自分がガンなどの死に至る病になったら、従容とし

て死んで行きたいと思っている。

 うちの奥さんは、私に死んで欲しくはないそうなので、そ

れを思えば従容となどしていられないかもしれないが、自分

自身の死を必死になって避けようとは思っていない。もちろ

ん、酷い痛みなどがあれば苦しむだろうけど、それはしょう

がないことで、私の気持ちとは別だ。


 人智の限りを尽くして、死をひと時の間押しのけることが

できたとしても、そう遠くない将来に必ずやって来るのだか

ら、それが少しばかり早いとしても、大したことではない。

だいたい、こんなブログを書いている人間が、「死ぬのはイ

ヤだ!」とジタバタしていては格好がつかない。

 人の死亡率は 100%。いい歳になって「死ぬのはイヤ

だ!」なんて、子供っぽいことを言っていては、自分を生み

出してくれた “この世” に対して申し訳がないではないか。


 人生は、「長い夢」に例えられることがよくある。実際、

「夢」なんだと思う。

 100歳で死ぬとしても、その死ぬときには、過去の100年

はどこにも無い。

 当人と、関わった人の記憶の中にはあるとしても、そこに

実体は無い。それは夢と変わらない。

 その「夢」はなかなかにドラマティックだったかもしれな

い。凡庸だったかもしれない。惨めだったかもしれない。悲

惨だったかもしれない。けれど、どのようなものであったに

せよ、やはり「夢」だったのだ。そして、死に往こうとして

いるその時にも、いま生きている命はまだある・・・。


 「ああ・・・、・・生きている・・・」

 人生という「夢」を次々に置き去りにしながら、最後の瞬

間までわたしたちは「生きている」。瞬間ごとの「いま生き

ている」を、わたしたちは「生きている」。その瞬間ごとだ

けは「夢」ではない・・・。そして、最期の瞬間を越えた

時、わたしたちは「死」へと還る。「夢」もろとも、わたし

たちは「死」へと溶け去る。いったい、私という「夢」を見

ていたのは “何” だったのか?
 

 海は水を感じることはできないだろう。

 空気は風を感じることはできないだろう。

 生命は命を感じることはできないだろう。

 「それ」そのものは、「それ」を感じることはできない。

 「生きている」を感じて続けて来たのは、「死」なのでは

なかったのだろうか?

 わたしたちは始めっから「死んでいる」のではないだろう

か?・・・・。

 「死」とは、本当は “何” なのだろうか?


 「夢」が終われば、分かる・・・かもしれない。





2021年6月19日土曜日

もう終わりでしょう  コロナ ㉘



  久々にコロナのことを書こうと思う。現在、日本でも一所

懸命ワクチン接種を進めている。先日、私にも市から接種の

案内が来た。けれど私は打たない。

 マスコミが報じる “副反応” (副作用と言えよ)というの

は、どのような薬でも起きうるたぐいのことで、今回のワク

チンに特有のことではない。今回のワクチンに特異な副作用

として、2~3 危惧されていることがあるが、安全性の治験が

行われていない薬なので、実際にどのような副作用が有るの

か無いのかは誰にも分からない。いずれにせよ、この「安全

性の治験が行われていない」ということは、普通あり得ない

ことで、常識的に考えて、こんな薬を使う気にはなれない。

それが普通の感覚のはずだが、みんな普通の感覚を忘れたの

だろうか?


 私は健康で、自分の免疫力にも信頼をもっているので、わ

ざわざ治験も行われていない薬を使う必要を感じない。自分

はハイリスク者ではないし、このウイルスは「感染したら 10

人に 1人は死ぬ」というような恐ろしいものでもないのだか

ら、私にワクチンは不要だと考えている。


 それともう一つ。今回の騒動が始まってもう一年半が経っ

たわけだが、外国ではロックダウンのような厳しい施策がと

られたにも関わらず、感染者は増え続け、酷い国では日本の

数十倍の死者を出したりている。それだけ、このウイルスの

感染は防げないものなので、一年半も経った現在では、世界

中のほとんどの人が、まんべんなく一度は感染し終えている

と考える方が自然だと思っている。感染してもほとんどの人

が無症状だということはもう分かっていることなので、みん

な気付かぬうちに感染していて、もうワクチンを打ったのと

同じ状態になっていることだろう。ワクチンの接種はまった

くの二度手間で、ムダな事なのかもしれないのだ。(遠慮し

て書いてるんだけど)


 ワクチンを打って抗体を作っても、感染して抗体ができた

り免疫記憶が作られたりして、身体にコロナウイルスに対す

る備えができたとしても、次に感染した時に、当人の免疫力

自体が低い状態であれば、結局ウイルスに負けてしまうだろ

う。敵の侵入を素早く察知できることは良いことに違いない

が、兵隊が弱っていては戦えないではないか。


 国内外のニュースを見ていると、どうも「ワクチン自体が

ウイルスと戦ってやっつけてくれる」「ワクチンがウイルス

をはね除けてくれる」というようなイメージをみんなが持っ

ているように見える。一般人も政治家やマスコミも・・・。

 でも、ワクチンを打とうが感染して免疫ができようが、そ

の後も感染はするのであって、結局のところ、ものをいうの

はそれぞれの人の免疫細胞の活性なのだ。


 「ワクチンのおかげで、感染が減り死者も減っている」と

いうストーリーに落ち着かせたいのだろうし、実際そのスト

ーリーに落ち着くことになるのだろう。けれど、実際は、一

周まわって空騒ぎの前に戻るだけなのだろうと私は思ってい

る。そして高齢者は例年のように亡くなり続けるが、コロナ

の疑いはかけられず、医師は一昨年までのように死亡診断書

を書くようになるのではないだろうか・・・。


 私的には、コロナ騒動は一年前に終わっているが、現在で

は、もう本当に終わっているだろう。世界感染終了。


 普通の感覚ならそう思うはずだろうが、私の感覚は普通じ

ゃないのだろうか?


 なににせよ、こんな気持ちの悪い騒ぎはこれ以上ごめん

だ。あとは、ワクチンの副作用の危惧が杞憂に終わるのを祈

るのみ。何年もかかるけど・・・。





2021年6月13日日曜日

グラスゴーに誘われて



 先日、Camera Obscura というイギリスのバンドを知っ

て、ついさっきも聴いていたのだけれども、聴いている最

中、昔『0011 / ナポレオン・ソロ』にイリヤ・クリヤキン

役で出ていたデビッド・マッカラムのことを急に思い出し、

「今、何歳なんだろう? どうしているのだろう?」と思って 

Wikipedia で調べてみた。

 現在87歳で御存命ということなのだが、驚いたのが、デ

ビッド・マッカラムと Camera Obscura というバンド

は、同じグラスゴー出身だったということ。どうやら 

Camera Obscura の曲の雰囲気と、デビッド・マッカラム

のイメージが私の中で繋がったらしい。

 マッカラムがイギリス人だということも知らなかったのだ

が、私の感性が両者の醸し出すものに同じ匂いを嗅ぎ取った

ようだ。けど、なんでそんなことができるのか自分でも分か

らない。不思議だなぁ。


 こういうことは時々起こる。何の予備知識もないのに、あ

ることとあることの繋がりを無意識に感じ取ってしまうの

だ。

 前に《 すべての生命は風土に殉じる 》と書いたことがある

(『時代に殉ずる』2017/5)。Camera Obscura もデビッ

ド・マッカラムも、グラスゴーという土地で育まれた同じ何

かをその本質に持っていて、それが自然と外に出てくるのだ

ろう。しかし、それを感じ取ってしまう私の感性もなかなか

のものではないか。さすが HSP だ!


 以前テレビで、 “四葉のクローバーをすぐに見つける女の

子” が出ていた。

 幼稚園ぐらいの子だったけど、次々に四葉のクローバーを

見つけてしまう。自分でも、もちろん他の人にはさらに意識

できない “四葉のクローバーが有る条件” を感覚的に知ってい

るようだった。


 わたしたちは、言語化できず、意識もできない感覚と、そ

の処理機能をいくつも備えていると考える方が素直だろう(  

霊視なんかは一応措いといて・・・)。そういったものも使

って、世界と対応しながら生きているのに、現代は “アタマ

絶対” でそういうものを無視してしまうから、さまざまな問

題が起こり、人は生き辛さを感じたりする。


 アタマ(思考)は出来損ないだけど、アタマ自身はそれを

認めたくない(まぁ、そりゃそうだろうけど)。それが、人

をゴタゴタに巻き込んでゆき、世界も個人も落ち着くことが

無い。アタマでやりくりしてきたこの世界は、ずっと問題だ

らけなんだから、いいかげんに自分たちのアタマを疑ったら

どうか? 


 「死」に対する度の過ぎた恐れと、むやみやたらな「自己

肯定の欲望」の不毛さ、を認識すれば、人は安らげる。仮に

界のすべての人がそうすれば、世界には本当の平和が訪れ

る・・・。


 まぁ、そんな奇跡は起こらないので、個人レベルで平和に

なっているしかないね。


 「わたし、出来損ないだも~ん!💛」


 そう言って、気分のイイ音楽を聴いたり、昔の娯楽映画を

観たりしてたらそれでいいのだろう。世界のことは世界にま

かせてね。




2021年6月6日日曜日

個人の感想



  この頃は、YouTubu で保守派の動画なんかをよく見るの

だけど、特段、自分が保守派だとも思わない。自分のこれま

でを振り返ると、どちらかといえばリベラル的な考え方だっ

たのではないかと思う。そういう教育を受けて来たしね。

 それが何故、この頃「保守」なのかというと、「リベラ

ル」のいうことがあまりにも観念的かつその時のノリだけに

見えて呆れてしまうから、その反作用で、「保守」の話が面

白いということのようだ。


 基本的に “「リベラル」は目くじら立てていて、「保守」

はそれをおちょくっている“ というのが最近の構図なので、

そのあたりの “遊び心” の有る無しでも、私は「保守」の方が

好みです  というか、そこが大事。

 “目くじら立てている人間” というのは、《「正しい」と

は、そういうことにしておけば気が済むということ》なんて

ことは、カケラも思っていない。「万人が受け入れるべき

〈正しいこと〉が有る」と本気で思っている。こういう人間

はほんとうに始末が悪い。ギチギチ・ガチガチで遊びが無い

から。


 「遊び」というのは、「保留分」ということで、「保留」

というのは「確定しない」ということですけど、いったい、

人のアタマでこの世界の事を考えて「確定」できることがあ

るか? そんなものありません。


 赤いリンゴを見て、「赤い」と言う。

 けれど、私の見ている「赤」と、他の人が見ている「赤」

は違う。
 

 私の目は、左目は少し青みがかって見え、右目は少し赤み

がかって見える。一人の人間の左右の目でさえ違う。また、

人が色を感じる光受容体の種類は赤・緑・黄の三種類だけ

ど、私の左右の目に違いがあるように、その構成比には個人

差があるはずだ。その上に女性の三割程度は、赤の受容体を

二種類持っていて、他の人より色の感受性が細かいのだとい

う。


 そのように、ひとりひとりが見ている色は違う。違うけれ

ど、同じ「赤」ということにして話は進む。それでさしあた

り支障はないので、同じ「赤」ということにしている。


 話がリンゴの色程度の事であればそれでいい。けれど、こ

の世界や人の世の事のように複雑な話になって来た場合、生

理的な情報処理でさえ人それぞれなところへもってきて、そ

れぞれの都合によってさまざまなバイアスの掛った観念でも

のを見る。そんな判断を「確定」しているかのように思われ

たらかなわない。

 サプリメントなんかの CM では、さんざん効能があるかの

ように印象付けておいて、「あくまで個人の感想です」とい

う卑怯な逃げ口上が使われるけど、わたしたちが自分の考え

を述べるときには、「あくまでも個人の感想です」と自覚し

ておくのが、正直で謙虚な態度だろう。


 遊びのない考えで他人を圧して来る人間ほど迷惑なものは

ない。迷惑どころか害になることも少なくはない。「正義の

人」は必ず残忍だ。「正義の人」は恐ろしい。


 「正義」は人のアタマの中に生まれるが、それがアタマの

外へ出て来たら、世界にとっては異物でしかない。もともと

世界に存在しているものではないのだから。


 アタマの産物である「正義」は、人と人とのアタマの違い

を調整して、人と人とを良い関係にする働きを期待されるも

のであるべきだろうけど、実際には人と人との間に決定的な

壁を作る。そんなこと、歴史が徹底的に証明していると思う

が、いまだに「正義」の需要は多い・・・。困ったもんだ。


 保守でもリベラルでも、どんな宗教や教説でもいいけど、

それらはすべて「一応」のものだと分かっている人と話がし

たいものだ。

 「どちらにせよ、わたしたち出来損ないだから💛」

 そう言って笑って見せてくれる人と。


 

2021年6月1日火曜日

自意識の効用~アタマに出来る良い事~



 コロナ騒動をながめている内に、この頃思うようになった

こと。

 いつから「死」は “悪” になったのだろう。


 「死」が避けるべきことであるのは、人類がまだ言葉を持

つ以前から、生物の本能として感じていただろう。

 「死」が恐れるべきこと、忌むべきことであるのは、人類

が言葉(思考)を持った時からだろう。「死」への恐れが言

葉を生み、言葉が「死」への恐れを生み、同時に「自分」と

いうものを生んだのだろう。


 そして人はずっと「死」から逃れようとして来ただろう。

「死」は “恐いこと” であり続けて来ただろう。けれど、

「死」は “悪” ではなかっただろうと思う。なぜなら、絶対に

避けようが無いことを “悪” としてしまえば、「生」は絶望へ

の道程となってしまい、闇に覆われてしまうだろうから、そ

うしない為に、意識の片隅では「死」を受け入れていたはず

だ。

 ところが、いまはどうだ? 「死」自体が “悪” のように語

られる。多くの人がそのように考えているように見受けられ

るが、それは狂気だろう。


 人のなかに自意識が生まれ、言葉が生まれ、思考が生ま

れ、それ以来「死」は恐れ忌み嫌われてきた。「死」はエゴ

の終焉だから。

 けれども、人はもうそろそろ「死」を捉え直すべき時に来

ているのではないのだろうか?

 「命」の姿の一面として、「生」の流れの続きとして。

 ここまで極端に、「死」が  “悪” と見做されるまでになっ

てきたのは、大きな転換の前兆かもしれない。


 「死」が日常となり、「死」が恐れるべきことではなくな

ったとしたら、人はどうなるだろうか?

 恐れの根源である「死」を恐れなくなった時、あらゆる 

“恐れ” がその力を失うだろう。すべての “恐れ” が姿を消す

だろう。そして、人は皆、本当に安らぐだろう。強欲さも、

その存在意義をなくして消え失せることだろう。


 どの人も必ず死ぬ。

 どの人のエゴも終わりを迎え、消えてしまう。

 どうせ終わりを迎えるのならば、生きている今、エゴを終

わらせてしまえばどうだろう?

 「死」の恐れは、エゴの終焉への恐れなのだから、エゴを

終わらせてしまえば、「死」の恐れも消える。そして、すべ

ての “恐れ” が消え、人は安らぐ。


 人類は、エゴを生かすためにエネルギーを注ぎ続けて来た

けれど、その営為は限界に達しようとしている。だから、も

ういいかげんに悟っていいだろう。「エゴを生かし続けるこ

とはできないのだ」と・・・。


 アタマを切り替える時が来ているのではないか?


 限りなく悪さを繰り返してきたアタマが、たった一つ出来

る本当に良い事。


 自身の終わりを受け入れること。


 それは、人を本当の意味でしあわせにする。そして、アタ

マもそこに立ち会うことができるのだから、やってみる価値

はある。そうアタマに教えてやる時が来ているように思うの

だが・・・。