2023年10月22日日曜日

マイペース



 先日、職場で「あの人はマイペースだから」と言っている

のを耳にした。まぁ、よく聞く言葉で、普通、ペースののん

びりした人を揶揄するような使い方をされるのはお馴染みの

ことですけど、実はそれはおかしな話で、「マイペース」=

「自分のペース」なんだから、せっかちな人は「せかせかし

てる」のがマイペースで、標準的なペースの人はそれがマイ

ペースです。なのに「のんびりしている」人だけが「マイペ

ースだ」と笑われたり批判されたりする。

 なぜそうなのかというと、いまの世の中が「スピードアッ

プ」と「効率」を強く「価値あること」と見做しているから

ですね。つまり、世の中は「せっかち」であったり「要領が

良かったり」する人間に合わせた価値観で動いていて、それ

を無批判に認める世の中になっているわけです。けれど、そ

れは本当に良いことなのか?価値あることなのか?

 せっかちな人に対して「あの人はマイペースだから困った

もんだ。周りに “せかせか” した気分が伝染してみんなが迷惑

する」という非難がなされても良いのではないか?


 のんびりした人が「のんびり」というマイペースで生き

て、せっかちな人が「せかせか」というマイペースで生きる

ことの両方ともが受け入れられるべきではないのか?なぜそ

うならないか?それは世の中というものが、人々がエゴの満

足・利益を求めるにことに先導される形で動かざるを得ない

から。


 電車に乗る時のことを考えてみると分かりやすいけれど、

ドアが開いて、のんびりした人とせっかちな人が同時に乗り

込もうとした時、席が一つしか空いていなければ当然せっか

ちな人が座ることになる。早い者勝ちだから。

 それに象徴されるように、世の中はすべて早い者勝ち。

 特許を先に出したら、利益はその人のもの。研究論文を一

日早く出せば、その成果はその人のもの。ネットで売られて

いる品物やライブのチケットの最後のひとつは、先にポチっ

た人のもの・・・。あらゆることがそのようになっているの

で、世の中はせっかち優位になってしまい、せっかちな者が

富や強い立場を得るので、さらにせっかち優位な傾向が強ま

ってゆくことになる。そして、いまやそれは人間の限界さえ

越えようとしている。人間のせっかちでは間に合わず、コン

ピューターやロボットが導入されて、せっかちな者さえ居場

所を失っている。居場所を確保できている人間もいっぱいい

っぱいで、この傾向は今後さらに強まるだろう。のんびりし

た人を「あの人はマイペースだから」とバカにしている場合

ではなくなっていると思うけど?


 私は「のんびりした人」を「にんげんペース」だと呼びた

い。せかせかするのは獣や津波に追われるような時だけでい

い。現代人はみんな狂ってるんですよ。JR 福知山線の事故な

んて、世の中の「せかせか」に狂わされてしまった運転士に

よって起きてしまったんだから。

 みんなが狂ってるから「狂ってる」と思わないけれど、事

態はさまざまに深刻でしょう。鬱病だとかパワハラだとかい

じめだとかの原因にも、「せかせか」は大きく関与している

はず。


 そりゃあね、電車が時刻通りに来て、素早く目的地に行け

たりするのは有難いことです。けれど、新幹線で早く目的地

に着いて、早く着いた分、目的地でのんびりなんてしないで

しょ?「早く着いたから」とさらに目的を増やして、「せか

せか」としたがるのが現代人です。それって、狂ってません

か?スピードと効率の代償に失っているものに目を向けた方

がいい。わたしたちはまともな命のペースを見失っている。

 のんびりした人を「マイペースだ」と笑う人たちのペース

は「目的ペース」です。目的に乗っ取られて生きているので

す。他人を笑うヒマがあったら、自分の生き方を心配した方

がいい。自分を生きるのか?目的を生きるのか?


 せっかちでもいい。そういう性分の人はいて当然です。

「せっかち」という、その人なりのマイペースでいい。けれ

ど、それは本当に自分のペースなのか?世の中に誘導され

て、本来の自分のペースを見失ってはいないのか?


 他人の「マイペース」を笑う人は、十中八九、自分を見失

い、人間やこの世界の本質を見失っているでしょう。自然

は、“時計” というものを生み出さなかったのですからね。





 

2023年10月9日月曜日

「守る」とはどういうことか?



 今日、駅のホームで電車を待ちながら、足元の点字ブロッ

クを見ていてふと思った。「 “守る” ってなんだろう?」。


 わたしたちは常に何かを守ろうとしていると言っても過言

ではない。

 自分の命を守る。自分の心を守る。自分の大切なものを守

る。社会を守る。国を守る。環境を守る。地球を守る・・。

けれども、そもそも「守る」とはどういうことか?


 「守る」とは、「損なわせない」「害を加えさせない」と

いうことだと思うけれど、これでは単に言い換えただけで説

明になっていない。どうも「守る」という言葉はつかみどこ

ろがないと、いま考えてみて気がついている。 


 しばらく考えてみてたどり着いたのは、「守る」とは「存

続させること」という答えだった。わたしたちが守ろうとす

るのは、すでに有るものについてだから。

 「存続させる」ということは、基本的に「変化させない」

ということだろう。もちろん、自分の気に入らないことは気

に入るように変えたいので、「守る」のは気に入っているこ

とに限られる。けれど、なぜ「守ろう」とするのだろうか? 

「守る」ことにどんな意義があるのか?


 この世は「諸行無常」だ。「守る」ことが「存続させる」

ことならば、それは徒労に終わる。「守る」ことはこの世の

原則に逆らうことになるから、絶対に成し得ない。わたした

ちが何かを「守った!」と思うのは、わずかな時間のごく表

面的な印象を見ているに過ぎない。わたしたちに守れるもの

は無い。それでもわたしたちは常に何かを守ろうとし続け

る。それは「変わること」「無くなること」を恐れているか

らにほかならない。


 わたしたちが恐れているのは、セルフイメージとその活動

の場であるセルフワールドが変容したり崩壊したりしてしま

うこと。願わくば、セルフイメージとセルフワールドを絶対

のものにしたいのだろうが、それはいずれ必ず挫折する。そ

もそも「守ろう」とすること自体、それが損なわれるさだめ

にあることを意味している。チタンでできた物にさび止めを

塗るヒマ人はいない。


 何かを「守ろう」とすること自体はよい。ただし、それは

程度の差こそあれ、ある年月の間のことだけで終わるさだめ

にあると認識しておかなければ、願望の世界で絶望を先延ば

しするという自己欺瞞の中で生きるということになってしま

う。そしてそれは、自分の願望によって変質してしまった

(見誤った)世界で生きることを意味するし、それゆえにさ

まざまな困りごとを生みだすだろう。


 何かを「守ろう」とすることは、現実を自分の妄想で読み

替えようとすること。ただでさえ捉えづらい真実をさらに捉

えづらくしてしまうこと。「守る」どころか、そのこと自体

の価値や意味を歪めてしまう。


 本当に何かを守りたいのなら、「見守る」ことだろう。

 そのものが、そのものとして在り続け、また変わり続ける

様子を受け止めて行くことだろう。

 「守ろう」とすることは、自分が主体の行為。

 「見守ろう」とすることは、そのもの(こと)の方が主体

の在り方。


 変わりゆくもの、損なわれてゆくもの、滅びてゆくものを

受け止めてゆく。

 それは敬意に満ちたことではないだろうか?






2023年10月3日火曜日

信じる者に救いは無い



 タイトルがケンカ売ってますが、今回は宗教や信仰の話で

す。

 かなり注意しないとディスってしまいそうなので気を付け

て進めようと思いますが、この一文がすでにディスる為の前

振りのような気がします・・・。どうなるのかなぁ。


 前に「神は信じるものではない」というようなことを書い

たことがあります。「神を信じるとか信じないとかなんて、

何様だよ」という思いがあるのでね。

 神は人が信じる信じないなんてことを凌駕している存在な

はずでしょう? 人よりはるかに高次な存在で、神が人も生み

出したのだから。であるならば「信仰ってなんなのさ?」っ

て思うわけですよ。「信じる」って、もしかすると凄く鼻持

ちならない事なんじゃないかって感じるのです。
 

 「信じる」って、合理的な根拠も無く認めるってことでし

ょう? それは、思考停止して、間違ってる可能性を棚上げに

するってことじゃないですか? そういう理解が通るのなら

ば、「信じる」というのは、おおっぴらに他人に言えるよう

な事ではないですよね。中途半端であさはかなんだから(や

っぱりディスってる)。それに加えて「信じる」気持ちに

は、見返りを期待する思いが含まれている。「信じてるんだ

から、しあわせになれるだろう」と。そうであるからこそ、

災難に見舞われたりしたら「神も仏もないものか・・」なん

て口にする人がでてくるわけです。いや、神や仏はアンタの

為に存在するんじゃないよ。


 「神」って、こちらがひれ伏すようなものなんじゃないで

すか?

 「神を信じる」というその裏には、「信じてあげるから、

こっちを気分良くさせなさい」という傲慢が潜んでいるので

は?。


 ことは「神」や宗教だけの話では済みません。

 人を信じる、国を信じる、科学を信じる、新聞・テレビ・

ネットを信じる、自分を信じる・・・。あらゆる「信じる」

は思考停止と打算を伴っている。

 「信じる」という、打算的で無責任な行為を良しとする人

間を、普通は誰も救いません。そういう人間は、別の打算的

な人間に利用されるのが関の山です。「信仰」の証しとして

壺を買わされたりなんていうのは典型的ですが、人・国・科

学・マスコミ・ネット・経済などあらゆるところで、「信じ

る」の中に有る打算を逆手に取られて食い物にされてしまい

ます。信じる者に救いは無い。そして、信じる者を食いもの

にする方にも救いは無い。そういう人間は当然ながら打算の

塊のような人間です。彼らは、金だとか名誉だとか権力だと

かを信じていますが、その部分をさらに狡猾で打算的な人間

に利用されます。そして、そのような人間も、最終的には社

会のシステムやムードに利用されることになるので、「打算

の入れ子構造」になっています( “継ぎ接ぎ狂ったマトリョ

シカ” とはこのようなことだろうか?)。どの段階でも「信

じる」ことの先に待っているのは、しあわせではありませ

ん。


 取っ掛かりとして、何かを信じてもいいのですが、信じる

ことを越えなければいけません。「当然のことだから信じる

必要もない」というところまで辿りつかなければなりませ

ん。「信じる」という作為の向こう側まで突き抜けなければ

なりません。「なんだ、信じたりする必要も無かったんだ

な」と。


 あなたも私もいま生きている。それは信じる必要のないこ

とです。

 こんな面倒臭いブログを読んでいるあなたは十中八九日本

人だと思いますが、あなたは自分を日本人だと信じる必要は

ありません。日本人なんだから。

 信じる必要の無いことは、揺らぐことの無いことです。も

うすでに「そう」なんだから。

 逆に、信じることは確定していないことです。確かではな

いが故に信じる必要が生まれてしまう。信じることは、自分

を不確かな所へ立たせることです。

 救いは、信じる必要の無いところに在る。


 いま自分は生きている。

 いま世界は在る。

 それは信じる必要が無い。最も確かなことです。

 「最も確かなこと」が、いま自分にあり、いま自分の周り

にあるのなら、それは救いではなないでしょうか?


 信じる者に救いは無い。

 信じない者にも救いは無い。

 信じることも、信じないことも必要ではないところに救い

はある。

 それはなんの変哲もない、ただ生きているわたしたちの

日々としてある。

 特別な何かを信じ、それを価値あることと思いたがる心の

陰になっていて気がつかないだけで・・・。





2023年10月2日月曜日

かろやかな絵空事



 前回、「金メダル?CEO? 1億ドル? それ食べれるの?」

という文を書いた時、『未来少年コナン』のジムシーの口癖

を思い出した。

 ジムシーは自分の知らない事について聞かされると「そ

れ、食えるのか?」と訊く。すごく健全だ。宮崎駿監督の

「人間のやってることって、絵空事ばかりだろ」という思い

が込められている。まさしく「絵空事」を生業にしている宮

崎さんの自虐的な想いや、自身への戒めもこもっているのだ

ろう。


 大珠慧海(だいじゅえかい)という禅僧の有名な言葉に

「腹が減ったら食べ、疲れたら寝る(飢え来れば食い 困来

れば即ち眠る)」というのがあります。「おのずから起こる

ことに従ってゆく。それだけだ」ってことだろうし、「それ

だけ」の事を大事に扱うということ。他の事に目配せして

「いま、ここ、これ」を見失わない。“「食って、寝る」

(「出して」とかもあるけど)以外の事は絵空事なんだか

ら、それに振り回されるな” ということでしょうね。

 そういうことを言わなければならないということは、人が

すぐに絵空事に振り回されてしまうことを物語っているわけ

ですが、絵空事抜きで人が生きて行けるとも思えません。

大なり小なり、誰でも絵空事を描くでしょう。「食って、寝

る」だけというわけにもいきません。「食うのなら美味しい

方が良い」と思えば、もうそれは絵空事が入って来ています

しね。


 人はナマコやミミズではありません。人には絵空事を描く

能力と業があります。ならばそれは使うべきものだし、使わ

ざるを得ない。ただ、使い方が酷いんですね。もっと、かろ

やかに上品に絵空事を楽しめないものか? 小さな子が手にす

る綿菓子や、幼い少女の口元から生み出されるシャボン玉み

たいに、かろやかで儚くて何も傷付けないような絵空事

を・・・。


 絵空事はしょせん絵空事です。ひと時の幻です。それなの

にわたしたちのエゴはその絵空事に自分を投影し、絵空事で

自分を飾り、絵空事で自分が特別な価値がある存在であるか

のように見せかけようとする。その為に絵空事が大袈裟で、

重たく、醜悪なものになってしまう。どんなに価値あるもの

に見せようとしても、絵空事は絵空事。生きていることその

ものとは関係ない。


 「食えるのか?」

 食っていけなけりゃ、絵空事どころの話じゃない。食える

ようになっているからこそ絵空事の生まれる余地がある。絵

空事を描ける立場にいる人間は、すぐにそれを忘れる。

 「食える」という、生き物としてのベースが与えられてい

るなら、それだけでも、まずは満足なはず。それに加えて絵

空事を描くことができる余裕まで与えられているなのら、も

っと上品にしてもらいたいし、その方がしあわせなはず。


 「衣食足りて礼節を知る」

 礼節とは社会の中での振る舞いではなくて、自分が衣食に

恵まれていることを知り、世界に対して礼を返すことだろ

う。神様の前で巫女さんが踊りを捧げるように。


 「食えたのか?じゃぁ、上品な踊りや歌でも楽しませてく

れ」

 神様はそんなことを思って、人間に絵空事を描く力を持た

せたのかもしれない。計算は狂ったのかもしれないけ

ど・・・。




2023年10月1日日曜日

困るかもしれないけどね



 さて、責任感も義務感も無く、前回の話を続けます。それ

でも前回の続きを書こうというのですから、私も人としての

たしなみは無くしていないようです。


 前回は、「しなければならないこと」を先送りにして放っ

たらかしにしていると、現実的に困ったことになるというと

ころで話が終わってしまったわけです。ご褒美がもらえなく

なるだろうと。

 そのご褒美が、最低限の「衣・食・住」に関わるものなら

ば、確かに困ります。

 「いつ死んでもいいし、ホームレスになったって気にしな

い」という人ならそれでも困らないでしょうが、そういう極

端な人はまずいませんし、以外にも、このブログはそういう

極端な人ではなくて、普通の人に読んでもらう前提で書かれ

ています。なので最低限の「衣・食・住」を軽んじたりはし

ません。ですが、わたしたちが望むことの多くは、最低限の

「衣・食・住」とは直接関係のない、アタマの創作する「ご

褒美」ですから、たいてい困らないのです。「困る!」と思

うのはアタマだけです。わたしたちの身体、そして命からす

れば、「??」という感じです。

 「金メダル? CEO ? 1億ドル ? それ食べれるの?」、命

はそう思っているはずです。いや、そんなこと意識もしない

というのが本当でしょう。


 生きる上で本当に困ることについては、考えて対処しなく

てはなりません。さしあたり、命は「生きよう」とするのが

当然ですから。けれども、そういう局面になるのは、本当に

ギリギリの切羽詰まった時でしかありません。前回書いたよ

うに、そういう時には人は先送りなんてしません。先送りに

していられるような案件ではないから「どうしよう?」なん

て考えることなどなく行動に移し、行動しながら考えるでし

ょう。そういう時は、「考え」は「行動」をサポートするよ

うな立場です。

 一方、「やらなければいけない」という時は、「考え」が

「行動」をサポートするのではなく、「考え」が「行動」を

支配しようとしているわけです。随分な違いですね。

 そして現代のわたしたちは、その行動(生活・人生)の大

部分を「考え」に支配されています。それでいいのでしょう

か? 「考え」と「行動」は協同する方が良さそうに思います

が・・・。


 「金メダル、CEO、1億ドル。さまざまな栄誉や享

楽・・・・」

 そのような食べられない物、血肉にならないものを手に入

れようと、多くの人が必死です。血肉にならないどころか、

それを手に入れようとして人生がメチャクチャになったり、

命を落とすこともザラです。他人を死に至らしめることもあ

ります。基本的なことを取り違えているように私の目には映

ります。


 「しなければならないこと」は本当に「しなければならな

い」のか?

 「やりたいこと」が本当に「やりたい」のか?


 「してしまうこと」が本当に「やりたいこと」に近いんじ

ゃないのか?

 「してしまったこと」が、本当に「しなければならなかっ

たこと」ではなかっただろうか?


 「してしまうこと」「してしまったこと」には、嘘が無い

のでは? 

 そこには「生きること」に直接繋がっている「自分」が現

れているのでは? 


 「しなければならない」という思いは、直接的・間接的な

社会からの要請によって生まれます。それを完全に無視すれ

ば困る事になる。けれど、それにまともに付き合っていると

自分の命が宙に浮く。場合によっては、自分に関わる人の命

も宙に浮く。ビッグモーターの事件がそれをよく表してい

る。


 社会に全振りすれば自分が消える。自分に全振りすれば社

会から消される。

 そこは上手くバランスをとらなければしようがないけれ

ど、やはり自分が優先でしょう?

 社会は「お話し」に過ぎないし、人と人との関わりの数だ

け社会はある。けれど、自分は命としてここに在るし、この

自分しかない。

 気の進まない社会からの要請は先送りして、場合によって

はうやむやにしてしまった方が身の為だし、遠回しには社会

の為にもなるでしょう。

 そんな風に先送りしている自分を面白がれるのならば、そ

れは人生のスキルとしては高いのではないでしょうか?