2023年10月1日日曜日

困るかもしれないけどね



 さて、責任感も義務感も無く、前回の話を続けます。それ

でも前回の続きを書こうというのですから、私も人としての

たしなみは無くしていないようです。


 前回は、「しなければならないこと」を先送りにして放っ

たらかしにしていると、現実的に困ったことになるというと

ころで話が終わってしまったわけです。ご褒美がもらえなく

なるだろうと。

 そのご褒美が、最低限の「衣・食・住」に関わるものなら

ば、確かに困ります。

 「いつ死んでもいいし、ホームレスになったって気にしな

い」という人ならそれでも困らないでしょうが、そういう極

端な人はまずいませんし、以外にも、このブログはそういう

極端な人ではなくて、普通の人に読んでもらう前提で書かれ

ています。なので最低限の「衣・食・住」を軽んじたりはし

ません。ですが、わたしたちが望むことの多くは、最低限の

「衣・食・住」とは直接関係のない、アタマの創作する「ご

褒美」ですから、たいてい困らないのです。「困る!」と思

うのはアタマだけです。わたしたちの身体、そして命からす

れば、「??」という感じです。

 「金メダル? CEO ? 1億ドル ? それ食べれるの?」、命

はそう思っているはずです。いや、そんなこと意識もしない

というのが本当でしょう。


 生きる上で本当に困ることについては、考えて対処しなく

てはなりません。さしあたり、命は「生きよう」とするのが

当然ですから。けれども、そういう局面になるのは、本当に

ギリギリの切羽詰まった時でしかありません。前回書いたよ

うに、そういう時には人は先送りなんてしません。先送りに

していられるような案件ではないから「どうしよう?」なん

て考えることなどなく行動に移し、行動しながら考えるでし

ょう。そういう時は、「考え」は「行動」をサポートするよ

うな立場です。

 一方、「やらなければいけない」という時は、「考え」が

「行動」をサポートするのではなく、「考え」が「行動」を

支配しようとしているわけです。随分な違いですね。

 そして現代のわたしたちは、その行動(生活・人生)の大

部分を「考え」に支配されています。それでいいのでしょう

か? 「考え」と「行動」は協同する方が良さそうに思います

が・・・。


 「金メダル、CEO、1億ドル。さまざまな栄誉や享

楽・・・・」

 そのような食べられない物、血肉にならないものを手に入

れようと、多くの人が必死です。血肉にならないどころか、

それを手に入れようとして人生がメチャクチャになったり、

命を落とすこともザラです。他人を死に至らしめることもあ

ります。基本的なことを取り違えているように私の目には映

ります。


 「しなければならないこと」は本当に「しなければならな

い」のか?

 「やりたいこと」が本当に「やりたい」のか?


 「してしまうこと」が本当に「やりたいこと」に近いんじ

ゃないのか?

 「してしまったこと」が、本当に「しなければならなかっ

たこと」ではなかっただろうか?


 「してしまうこと」「してしまったこと」には、嘘が無い

のでは? 

 そこには「生きること」に直接繋がっている「自分」が現

れているのでは? 


 「しなければならない」という思いは、直接的・間接的な

社会からの要請によって生まれます。それを完全に無視すれ

ば困る事になる。けれど、それにまともに付き合っていると

自分の命が宙に浮く。場合によっては、自分に関わる人の命

も宙に浮く。ビッグモーターの事件がそれをよく表してい

る。


 社会に全振りすれば自分が消える。自分に全振りすれば社

会から消される。

 そこは上手くバランスをとらなければしようがないけれ

ど、やはり自分が優先でしょう?

 社会は「お話し」に過ぎないし、人と人との関わりの数だ

け社会はある。けれど、自分は命としてここに在るし、この

自分しかない。

 気の進まない社会からの要請は先送りして、場合によって

はうやむやにしてしまった方が身の為だし、遠回しには社会

の為にもなるでしょう。

 そんな風に先送りしている自分を面白がれるのならば、そ

れは人生のスキルとしては高いのではないでしょうか?




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