2021年9月18日土曜日

パンドラの箱に残されたもの



 もう何千年も前にパンドラの箱を開けてしまって、わたし

たち人間は苦しみ続けている。


  パンドラの箱からあらゆる禍が飛び出した後、最後に出て

来たのは「希望」だったという。それでなぐさめのつもりな

のだろうが、ことによると「希望」こそが最悪の禍だったか

もしれない。


 あらゆる禍がこの世界に生まれて、人々を怖れさせ、苦し

めても、それが続くなら、それが当たり前になってしまう。

普通になってしまう。そうなれば、それはもう怖れや苦しみ

としての力を失う。「望みはしないけれど、そういうもの

だ」と感じることだろう。でも、そこに「希望」があるとど

うだろう? 「これは避けられるのではないだろうか」と思

う。そして避けられないと「なぜこんな目に遭うのか?」と

思うだろう。「希望」は曲者だ。「希望」が禍を生むとまで

は言わないが、「希望」は禍を生き延びさせてしまう。


 最近では、日本人は震度3~4ぐらいの地震に遭っても、

「よく揺れたね、ちょっと怖かったね」ぐらいの感覚だけ

ど、これが地震の無い国の人ならば顔面蒼白になるぐらい怯

えることだろう。その違いは、日本人が地震に対して「望み

はしないけど、そういうものだ」という感覚を持ってしまっ

ているからだ。「それぐらいは、日本に暮らしてたらあるよ

ね」と思っている。

 普通の範疇のことだから、「そんなこと無くなって欲し

い」などという「希望」は持たないので、震度3~4の揺れ

が禍になることは無く、すぐに単なる経験の一つとして過ぎ

て行ってしまう。禍の禍々しさは、受け取る人間の意識次第

で大きく変わる。それを拒めば拒むほど、その禍々しさは増



 「希望」は、 “今” や “ここ” を否定させ、“今” でも “こ

こ” でもない “何処か” へ人を誘い出す働きを強く持ってい

る。しかし、人にとって “今” と “ここ” 以外に現実は無

い。“今” と “ここ” 以外のものは、すべて観念の中にしかな

いのだが、人は「希望」に突き動かされ、自ら観念の中に入

り込み、苦しむ。
 

 生きていることは苦しい。その苦しみから逃れたいが為に

最後の望みとして手に取った「希望」だが、それを投げ捨て

てこそ、人は禍から自由になれるのだろう。そういう意味

では、わたしたちにはまだ〈希望〉はあるようだ。


 「パンドラの箱」とは、私やあなたの意識のことに他なら

ない。それを開けたのは私やあなたではないのだが、そこか

ら出たものは、私やあなたの意識の中で散らばったままにな

っている。

 それを惜しむことなく、「希望」もろとも投げ捨ててしま

えば、そこには空の「パンドラの箱」が残る。その箱の中

は、もはや、何ひとつ禍の残っていない、無限の広がりだ。


 ゼウスは人をからかったのだろう。

 「お前たちに、このなぞなぞが解けるかな」と。



2021年9月12日日曜日

責任は無い



  少し前、「無責任」の話を書いたので、その続きのような

ものを。


 「大きな責任を持つ人は、無責任である」という話だった

んですが、「責任」というものは、あくまでも社会の中に存

在するものであって、そもそものことを言えば、誰も何の責

任も持っていない。「責任」というものは存在しない。


 「責任」というものは、

 〈 期待される “ある事柄” があって、その実現を担う人間

「上手くやらなきゃただじゃ置かねぇぞ」と釘を刺す 〉

 というような考えを表す言葉と言っていいでしょう。


 上手くやって褒められることもあるでしょうが、本質的に

は社会からの圧力として機能するものですね。「ヤな言葉だ

な」と、私などは思います。「義務」と兄弟のような関係

の、“社会圧力コンビ” という感じがしますね。


 なぜそのような「ヤな言葉」が存在するかと言えば、社会

は社会の為に存在しているからですね。

 個人は社会の道具に過ぎないので、道具(機械)が上手く

動いてくれるように、「責任」や「義務」といった、枠やレ

ールがあると、効率が良いわけです。ですから「責任」は個

人の外にあるものなんですね。でも、わたしたちには強い刷

り込みがなされているので、自分に「責任」があると思って

います。でも、誰も「責任」など持っていない。


 そうは言っても、何かあれば責任を取るように責められま

すから、つい自分に「責任」があると思ってしまいます。

が、「責任」は自分ではなく、自分の役柄に掛かっているの

です。

 「責任」は “社会の自分” に有るのであって、自分の本質と

は関係ない。誰も、何の責任も持っていません。わたしたち

は皆、「無責任」なのです。言葉を代えれば「自由」という

ことですね。何にも縛られていません。それがわたしたちの

本質です。
 

 社会に生きざるを得ない以上「責任」からは逃れられませ

んが、「それは自分の本質とは別の話だ」という意識を持ち

ながら生きることは、わたしたちに余裕を与えます。その意

識がさらに深まれば、可能性も大きくなります。ただし、そ

れは社会の中での可能性というより、命としての可能性と呼

ぶべきでしょうが・・・。


 本来はどこまでも自由であるわたしたちですが、「責任」

「義務」といった思考によって、小さく成型されてしま

い、それを “自分” だと思っている。

 社会の端末機となっているアタマにとっては、それが当然

ですが、幸か不幸か、わたしたちの本質は、大抵、それを容

認しない。それは不安や苦しみや、怒り、悲しみとなって表

に出てくる。


 「そうじゃないだろう!」


 わたしたちの本質はそう叫ぶ。



 「責任」の「責」は、もちろん「責め」ですが、生きてい

るということそれ自体に対して、誰一人として「責め」を負

う理由など有りません。しかし、誰かの「責任」を追及し

て、「死ね!」ぐらいの言葉はしょっちゅう使われます。そ

の命、存在自体までが「責め」の対象になります。


 やり過ぎですね。狂っています。ほとんどの人が社会のス

トーリーに没入して狂っているんですね。

 狂った人が、社会を狂わすのではなく、社会が人を狂わせ

てるのです。

 誰でも、時折り社会が狂ってるように思えることがあるで

しょうが、それは社会が狂っているということが、分かりや

すく表面化しているに過ぎません。誰かのせいでそうなって

いるのではなく、それが社会の本質なのです。


 そのように、社会が狂っていると分かったとしても、いま

さら社会を根底からリセットすることは不可能です。何千年

も前に、パンドラの箱は開いてしまっています。

 わたしたちに出来ることは、「責任」や「義務」といった

社会からの圧力は、社会の側の都合に過ぎないと理解して、

自分の存在自体を否定するような意識を持たないことです

ね。


 社会に対してはもちろん。誰にも、自分に対しても、何の

「責任」もありません。

 その完全な自由、くつろぎを原点にして、わたしたちは生

きるべきなのだと思います。

 まぁ、世の中には付き合わざるを得ないのですがね。