2023年1月29日日曜日

太陽の化身



 昨日も風花が舞う寒い一日だったけど、陽射しは暖かかっ

た。

 背中に陽を浴びながら、「ああ、太陽のエネルギーで生か

されてるんだなぁ」と、あらためて思いつつ、玄関まわりの

花の手入れをしていた。


 地球の生物のほぼすべてが、太陽のエネルギーによって生

かされている。それがなければ、地球の生物相は恐ろしく貧

弱なままだったろうし、もしかしたら生物は生まれなかった

かもしれない。こういうことを考えていると、『ひまわり』

という山崎ハコの昔の唄を思い出す。

 『ひまわり』の中で山崎ハコは唄う。


   あなた(太陽)の光の粒が 

   作ったわたしなのよ・・・


 わたしたちは太陽の光の粒で作られた。それは科学的にも

筋の通った話だし、「お天道様が見てござる」などという日

本人からしたら、精神的にも納得できるような話だ。


 生物だけではなく、太陽の光がなければ大気の循環もほぼ

無くなるどころか、地球上はマイナス100度以下に冷え

て、大気の成分の多くも液化したり固体化したりして、大気

自体の組成も変わり、薄くなってしまうことだろうし、物質

の循環さえもかなり抑えられてしまうことだろう。まさに

「お天道様」によって生かされ動かされていると言えるし、

太陽の光の粒のエネルギーでわたしたちは作られた。

 そう考えると、わたしたちは太陽の一部が地球上にこうい

う形で現れたもので、ちょっとカッコよく言えば、太陽の化

身だね。


 天照大御神、大日如来、太陽神ラーなど、太陽が命の起源

だという考え(信仰)は世界中にあるだろう。

 太陽が照らなければ作物が育たない。冬なら凍え死んでし

まう。たとえ、日照りが続いて飢饉が起きたとしても、陽が

照らないことの害の方が遥かに酷いといえるだろうからね。

科学的な思考がされるずっと以前から、感覚的、経験的に、

人は生命の根源は太陽だと理解していたし、それはごくごく

素直で真っ当なことだ。


 太陽が無ければ生きて行けない。普通はそう考える。私も

普段そう考えている。けれど、昨日の陽射しの暖かさを感じ

ながら私が思ったのは、生きている私を太陽が助けているの

ではなくて、太陽が私を作り、動かしているというイメージ

だった。


 自分が生きているんじゃなくて、太陽のエネルギーが、こ

こで〈自分〉  と、私が感じている  というものをして

いるんだと思った。〈自分〉というものは太陽の行っている

事業の一つの現れであり、さらには、太陽を生み出した宇宙

(この世界)の事業の一つの現れなのだと感じた。


 この〈自分〉がその事業の何を担っているのかは知らない

し、知る必要もないのかもしれないけれど、自分が自力で生

まれて来たのではないことは疑いようが無いので、自分が生

まれてきたことの事情なり理由は、太陽(この世界)の方に

有るはずだ。

 だったら、その事情なり理由なりを知る為に、この命を使

うか?


 いや、それはムダだろう。どう考えても、感覚的にも、そ

れは知り得ないだろう。


 なので、そんなことは〈自分〉を生みだした太陽に任せて

いればいい。太陽に責任を丸投げすればいい。

 「ご自由にどうぞ。どうせ、あなたが作って、あなたが動

かしているわたしですから。わたしはそれを体験しながら、

味合わせてもらいます。ただ、楽しいにこしたことはないで

すから、できたらそんな感じが良いですけどね😉」なんて

ね。


 「陽射しが暖かいなぁ」と感じただけで、こんなことまで

考えるなんて病気かもしれない。けれど、自分がいまそんな

自分であることを、私はありがたいと思っている。

 うん、ありがたい。






2023年1月25日水曜日

不要不急の人生



 今日は天気予報通りの雪。電車も動かず、職場に電話をす

ると「今日は休んでくれ」ということで、「じゃぁブログで

も書こうか」とパソコンを開いてはみたものの、さて・・。


 家の前の道路はカーブした坂道で、なおかつ建物の北西で

陽が当たらないために、昨夜からガチガチに凍り付いてい

て、車が沢山立ち往生している。午後に陽が当たり始めるま

で、立ち往生は続くだろうな。こんな日にノーマルタイヤで

車を乗る気が知れない。

 毎年、大雪が降ると、北陸などで車の立ち往生のニュース

があるけど、そういう可能性のある所へ出かけなければなら

ないのなら、私だったら冬用の寝袋を積んで行く。化繊の中

綿のものなら2万円出せば雪山登山に使えるものが買える。

エンジンを切ってヒーター無しでも、寝袋の中でぬくぬくし

ていられる。ガソリン代やガソリン切れ、命の危険のことな

どを考えると高い買い物ではないだろうに、ほとんどのドラ

イバーはそういうことを考えないみたい。不思議だ。


 「人はみんな死ぬんだから、もっと素直に死を受けいれる

べきなんだ」みたいなことをしょっちゅう書いているから、

このブログで「命を守る」みたいなことを書くのは場違いな

ようにも見える(・・・なんなんだこのブログは・・)。け

れど、そこには私なりに理由がある。

 「人はみんな死ぬんだから、もっと素直に死をうけいれる

べきなんだ」と考えているのは本当だけど、人の愚かさのせ

いで死ぬのはバカバカしいとしか思わない。そういうのはア

タマが悪い。


 昔から、街を走り回る車を見て「用事も無いの何してるん

だ」と、ちょくちょくつぶやくのだけど、その時に内の奥さ

んと一緒だったりすると、「用事があるのよ」と言われる。

けれど、一昨年の春に、私の考えの正しさが証明されてしま

った。

 コロナ禍で「不要不急の外出は控えてください」という政

府からのお願いが出たとき、車の数が激減した。半分以下に

なったんじゃないかと思う。その状況を見て「それ見ろ。用

事なんか無かったじゃないか!」と私は笑っていた。


 大雪の予報の中、車で出かける。ホントにそんな必要があ

るのか?

 たとえそれが仕事だとしても、いまのこの国の仕事の中

で、重要緊急で絶対必要なものがどれだけあるか? 食べ物や

燃料なんかの配送は最低限必要だろうけれど、アマゾンで

文された娯楽の為の商品を運んだり、九州の焼酎を東京の酒

屋に運んだりするのに急ぐ必要はない。不要不急でしょう。

ましてや、人に会いに行くとか遊びに行くなんて、またの機

会にすればいい。「大雪で立ち往生というのを経験してみた

い」というのなら、それはそれでいいかもしれないけれど。


 大雪だとか台風だとかでなくても、車で出かけることに限

らなくても、いまの日本でわたしたちがやっていることのほ

とんどは不要不急です。それを重要緊急であるかのように思

い込まされ、自分でも思い込み、エネルギーをいっぱい使っ

て右往左往して、何か大したこととか良いこととかしたつも

りになっている。

 現代に暮らしていれば、それはしかたがないことではある

けれど、せめて「本当は不要不急なんだけど・・」と知って

いるぐらいのたしなみが欲しい。そういうたしなみが無いか

ら、車で立ち往生して何時間も嫌な思いをしたり、ヘタをす

れば命を落とす。そんなの、アタマが悪いんですよ。


 世は、おしなべて不要不急。そもそも、人生というものが

不要不急で、それを分かっていないことを「アタマが悪い」

と言ってもいいでしょう。


 「人生は不要不急」なんて言われると、なんだか虚しいか

もしれない。いやいや、人生が不要不急なら、そんな気楽な

ことはないんじゃないですか?

 「まっ、詰まるところ不要不急だから」と、温かい寝袋に

入ってぬくぬくしてるような人生がしあわせだと思います

よ。


 と言いながら、私はあとで晩御飯の食材を買いに行かなけ

ればいけない。寒いのに・・・。




2023年1月22日日曜日

寒波到来



 次の水曜日あたりに強烈な寒波が来るらしい。神戸でも-

5C° ぐらいにまでなるとか。

 育てている花の一部が枯れるかもしれないのが少し心配だ

けど、まぁしようがない。冬は寒くなるものだ。


 植物は、寒波が来るといったって動いて逃げるわけにはい

かない。ダウンジャケットを着るわけにもいかない。ただ、

自身のあるがままに、その場所に在る。

 生きられるのなら生きて行く。生きられなければそれま

で。植物がそれで文句を言うのを聞いたことがない。


 人間と植物の決定的な違いは、植物はウロチョロしないこ

と、そして文句を言わないこと。その姿(在り方)にこれま

で何度考えさせられてきたことか。植物は私の師匠である。


 いうまでもなく、植物は地球の生命の基本です。ごくごく

一部の例外を除いて、まず植物が無ければ他の生物は存在で

きない。地球は「植物ありき」の惑星です。なので植物を師

匠と仰ぐのは決して変な事ではないでしょう。


 ウロチョロしない。文句を言わない。その姿から考えてみ

ると、人は、ウロチョロしたり、ウロチョロさせられたりす

るから、文句を言いたくなるんじゃないか?

 いまここで(動物だからその場からまったく動かないとい

うわけにはいかないけど)、いまここを尊ばずに、「他にい

いことないか?」と動き回ってしまうことで、かえって文句

が出て来るんじゃないのか?


 もちろん、危険や不快さに耐えられずに動くのは自然なこ

とだし、社会という出来の悪いストーリーの中では逃げ出す

方が当然という場面はいくらでもある。人間のバカさ加減に

付き合ってられなくなったりするのは健全です。けれども、

植物の姿から教えられるのは、動くことは人(動物)の業で

あるということ。「動かないことの方が本来的なのでは」と

いうこと。

 とはいえ、そんなこといったって動く存在であるわたした

ちは動かずにいられない。ならば人として、動かないような

在り方とはどういうものか?


 それは自ら動かないようにすることではないか?


 自ら動くときには、そこには目的意識がある。なんらかの

計算がある。何かを得ようとしている。つまりアタマが強く

関与している。なので、思惑が外れれば文句が出る。

 だから、思惑を持たずに動く。いや、動かされて行くに任

せる。


 どうせわけが分かって生きているんじゃないし、自由意志

なんて「自分でそうしているつもり」なだけで、動かされて

いるというのが本当だし、それならアタマであれこれ計算せ

ずに、動かされて行く自分を見ている方が良い。


 「はぁ~。こういうことが起きるんだ」「自分はこんな風

に動くんだ」と、出来事と自分を見ていれば、少なくとも意

識の中心は動いていない。右往左往させられることはない。

 何百年もその場所で立ち続けている木だって、風が吹けば

枝を揺らすし、冬になれば葉を落とす。けれど、幹と根はそ

こにあり続けたことで大きくなった。

 木の幹と根が動かないように、人の根本にある意識も動か

ないのだけれど、表面の意識が右往左往するものだからそこ

に気付けなくなっている。


 寒波が来て、熱波が来て、大きな木も枯れるかもしれな

い。

 ウザい奴や強欲な奴が来て、わたしたちの心を傷めつける

かもしれない。もしかしたら命を奪われるかもしれない。で

も、それがさだめならしかたがない。

 けれど、木の根が大地に根付いているように、わたしたち

の意識の根本はこの世界と繋がっている。


 植物は黙って生かされ、黙って死なされてゆく。それは、

表面上の出来事だと知っているかのよう。たとえ百年、千年

生きようと、自分たちは大地の一部として、少しの間このよ

うな姿を現しているだけなんだと・・・。


 不安に怯え、揺れ動いて右往左往する意識を世界にあずけ

てしまえば、道端の草や深山の老木と変わらず、わたしたち

も落ち着いていられるのではないか?


 天気予報を知った私のアタマは、動かされるままにこんな

話を綴ったのでした。



2023年1月15日日曜日

「思考する余白」



 毎週、Eテレ の『日曜美術館』を観る。今回はアンディ・

ウォーホルを取り上げていた。

 ウォーホルの代表的な作品はもちろん知っているし、嫌い

でもないけれど、「いまごろ、ウォーホルなの?」と思いな

がら観た。

 観てみると、私の知らない面が沢山あって面白かったけ

ど、ウォーホルの作品や人物よりも、司会の小野正嗣さんが

ウォーホルの作品を見て言った言葉の方が印象に残った。


 それは、昔の交通事故現場を報道した新聞写真をシルクス

クリーンで加工した作品を見たときだったけど、小野さんは

「(遺体も写っている見たくないような写真だけど)作品に

することで、思考する(ための)余白が生まれる」と言っ

た。


 なるほど、そうだ。ものを考える為には余白が必要だ。コ

ンピュータのワーキングメモリみたいなものが要る。

 自分でものを考えられない人や、自分でものを考えようと

しない人は、思考の余白が無いんだな。


 アタマの中が、情報や感情や既製の思考パターンでいっぱ

いになっていて、自分で考える余地が無いのだろう。

 そのような人は、自分の中にこれまでにないものが入って

来ても、処理する為のスペースが無いので、パニックを起こ

したり、そういうものが入って来ないようにとにかく拒絶す

るしかない。これまでやって来た思考パターンに無理やり押

し込んでおかしな対応をしたり、受け入れ難くて激高したり

することになる。それは人間関係や社会にさまざまな問題を

起こす。


 なぜ「思考する余白」が持てないのか?

 それは、その人が「常識」というものをどう捉えているの

かと関係が有るだろうと思う。

 世の中の常識、あるいは自分の常識の外に、その常識に収

まらないことが存在していることを認めていないのだろう。

その人のアタマからは、今の自分の思考の外にあるものが切

り捨てられている。その切り捨てられた部分が「余白」だろ

う。


 誰にでも、それぞれの価値観や思考パターンがあって、そ

れが自分のアイデンティティを強く支えるものであれば、そ

こから外れたことを考えるのはほぼ不可能だから、そういう

部分に関しては「思考する余白」を持つことはできない。私

もできない。

 ただ、社会の常識や、これまでの自分の常識にあまりに強

く支配されていると、状況が変化しなければスゴく楽だけ

ど、少しイレギュラーなことがあっただけで平静を失うこと

になる。そして、常識の外にある価値を受け取ることもでき

ない。


 常識の外、余白でこそ、精神が持っている能力が充分に使

われるだろう。そこでこそ、生きるのに本当に必要な思考が

形作られるだろう。(お金になるアイデアなんかも生まれる

だろうね)


 老子が、器は空(から)になっていなければ使えないと言

ったが、アタマにも空の部分が必要だ。



2023年1月14日土曜日

スピリチュアルなのだ



 このブログを始めて六年。いつのまにやらスピリチュアル

系になってしまったけど、このブログを読んでも、運気が上

がったり 、波動が高まったり、ハイヤーセルフと繋がったり

はしない(だろう)。


 このブログの中では、「運気」に上がるも下がるも良いも

悪いも無い。「波動」が高かろうが低かろうがどちらにせよ 

“〈命〉の波” なので、有り難く受け取る。「ハイヤーセル

フ」と繋がろうとしなくても、元からその中に在るのだから

安心してくつろげばいい(「セルフ」なんて余計なものを抱

えるから、「繋がっていない」と感じるんだよ)。

 なんとも張り合いがない系のスピリチュアルなのだ。


 《 起こった時には終わってる 》

 そういう認識で生きていれば、上下も、高低も、良いも悪

いも無い。考えてもしようがない。起こって来ることを受け

取るばかり。


 誰でも、気がついた時には生きていて、それぞれに「自分

が生きている」が起こり続けているのだけれど、「自分が生

きている」が起きているこの世界や、「生きていると気付い

ている」その意識は、どこにどのようにあるのだろう? それ

は何だろう?

 何だか分からないけれど、何かがあるように思えるので、

人は一応それに呼び名を付けた。それが「霊性(スピリチュ

アリティ)」。


 この「霊性」の中に人間的な目的を投影すると、「運気」

や「波動」や「ハイヤーセルフ」というようなものが見え

る。けれど、そんなものは無いだろう。「霊性」は人が引き

寄せたり、利用したり、そこに登り着いたりできるものでは

ないし、そんな必要もない。「霊性」は人の目的の為にある

のではなく、「霊性の目的」のために人があると受け取るべ

きなのではなかろうか? そして、その「霊性の目的」に身を

委ねる方が、人としてもしあわせであるのではないだろう

か?


 私は、別にそういう信念があるわけじゃない。しあわせだ

とか生きる意味だとかの、さまざまなことの妥当性を考え

て、そうではないものを捨てていった末に、残ったものがそ

れだったから、そう思うよりほかに無くなってしまったとい

うことだ。

 信じているのではなく、あらゆるものが信じるに値しなく

なったので、「信じる」ということが信じられなくなって

「信じる・信じない」を越えて認めざるを得ないものが残る

ことになった。それを表すいくつもの言葉の中の一つが「霊

性」だった。


 わたしたちひとりひとりは、わずかの間ではあるけれど、

「霊性」によって、「霊性」の中に現わされている存在だ。

 自分がその働きに逆らっているように思うことも、従って

いるように思うことも、それさえも「霊性」の働きだろう。

なので安心して右往左往してればいい。


 スピリチュアルというのは、信じるものではない。

 本当にスピリチュアルなものを感じてしまったら、疑う余

地が無い。

 それは、起こり続けて来て、いまこのときもに “自分” や 

“世界” が起こっているのだから。


 「霊性」とは何か?


 それが知りたければ、自分の手のひらでいいから、それを

ただ見つめてみればいい。きっと “何か” を感じ取れるだろう

と思う。(私の妄想でしかないかもしれないけどね。頭のお

かしい人は常にいるから・・😂)






2023年1月13日金曜日

自画自賛のすすめ


 昨日書いた話は、「元気とは何か?」「元気が出るとはど

ういうことか?」ということを書きつつ、最終的には、読ん

だ人の「元気」が出るという仕掛けになっている・・・、と

本人は思っている。


 そんな自画自賛をして自己満足をしてるのは、みっともな

い感じがするけれど、本当はそれでいいのだと思う。みんな

自画自賛して自己満足してればいいのだと・・・。

 自画自賛しよう。自分を敬い、自分を楽しもう。


 もちろん、他人にひけらかすようにだとか、他人に押し付

けるように自画自賛するのは下品で愚かだ。鼻持ちならな

い。それでは自自賛になって、自我他賛を求める事になっ

てしまう。そうではなく、他人とは関係のない自画自賛。自

分の中で完結する自画自賛をすべきなんだ。人知れず、自分

を讃えることは良いことだ。


 3分後に自分以外の全人類が死滅したとして、それに伴っ

て自分も死ぬだろうか? いや、さしあたりは生きているだろ

う。わたしたちひとりひとりの命は、他の命と直結していな

い。それは、本質的には自分と他の人とは関係がないという

ことだ。わたしたちひとりひとりの世界はそれぞれ完結して

いる、というのが本当だ。けれど、社会がなければ生きられ

ないせいで、自分と他人を関連付けて考える癖がついてい

る。

 誰もが社会と関係を持ちながら生きているのだけれど、そ

れは物理的に命を繋ぐための表面上のことであって、本質的

には関係がない。最愛の人が死んだからといって、自動的に

自分も死ぬわけではない。ひとりひとりはそれぞれの世界に

生きている。


 それぞれ別の世界でそれぞれの命を生きているのだから、

「誰かに褒められたい」とか「誰かに認められたい」という

のは、そもそもおかしい。

 テニスの試合中に見事なダンスをしてみせても、周りの人

間は唖然とするだけだろうし、見事なリターンを決めても、

テニスなど知らない人が見たら「???」となるだけのこ

と。他人の評価というものは、社会の「お話し」の中で有効

なものであって、わたしたちひとりひとりが生きる上では、

本当は必要ないことだ。


 自分が満足し、自分が喜ぶことができればそれでいいの

だ。

 自分以外の誰もあずかり知らないところで、自分自身の生

きていることや、自分が楽しみ喜ぶさまに満足している方

が、世の中の評価に関わるよりもずっと上品で実りがあると

思う。


 自画自賛しよう。

 宇宙の始まりから終わりまで、この自分は、これっきりで

二度と登場しない。自画自賛することを憚る必要などどこに

も無い。

 誰かや何かとの比較にこだわらず、〈絶対の自分〉が、生

きて、する事を、見守って楽しめばいい。自画自賛すればい

い。

 すべての人間がそれぞれに自画自賛するならば、誰一人と

して不満を持たない世界になる。誰一人として不満を持たな

い世界なら、そこには争いもないだろう。

 もちろんそんな理想郷は無い。無いからこそ、自分の中を

理想郷にするべきなんだ。他人のことは他人にまかせるしか

ないのだから。


 本当に自画自賛できれば、自分から誰かへの余計なおせっ

かいも、誰かから自分へのつまらない干渉も、眼中に無くな

る。

 「ああ、生きてる。(自分が)なんかやってる」。そうい

う、すこやかな楽しさ、喜びに包まれる。


 みんな〈自分〉として生まれてくる。

 自画自賛しよう。

 それを〈自分〉は喜ぶ。

 そして、たぶん、この〈自分〉を生みだした、この世界も

喜ぶだろう。





 

2023年1月12日木曜日

元気とは何か?



 “最近「気」に関係する言葉が気になっている” というわけ

でもないのだけど、タイトルにあるように、今回も「気」の

話を書くことになった。「元気」とは何か?


 二十年ほど前からだろうか? 「元気をもらった!」とか

「勇気をもらった!」とかいう言葉を聞くようになった。ス

ポーツや音楽のライブを見たファンなんかがよく言うのでお

馴染みだけど、あれ、私は気に入らない。いや、私の「気」

には入(はい)らない、というべきか。始めてあの言葉を聞

た時から違和感を感じている。ずっと「なんじゃそりゃ

ぁ?」という感覚で聞いていた。「元気をもらった!」とい

う言葉に対応するフィーリングが、私の中には無いから。


 ところが、三日ほど前にテレビを見ていて、何かのイベン

ト会場から出て来た女の子が、インタビューに答えて「元気

をもらいました!」と言っているのを見て気が付いた。「あ

っ! “テンションが上がった” という意味で使っているんだ

な」と。

 「それなら “興奮した” とか “感激した” とか言えばいいん

だ。みんなが使っているからって、自分のフィーリングにそ

ぐわない言葉を無神経に使ってると、アタマと心が繋がらな

くなるぞ!」。そんなことも思った。


 他人から「元気」をもらうことはできない。「元気」は出

てくるものだ。「元々」持っているものだから「元気」とい

うのだ。わたしたちのデフォルトの「気」だから「元気」な

のだ。誰かから刺激を受けて「元気が出る」ことはある。け

れど「元気をもらう」ことはできない。ヒゲダンの曲を聴か

せて死人が生き返ったりしない。そのように、「元気」はも

らえない。


 「元気」という言葉は、普通「活力」というような意味合

いで使われているんだと思う。それが常識なので、そこにま

でイチャモンを付ける気はない。それはそれで、これまで通

りで結構。だから、「テンションが上がった」ということを

「元気が出た」と言っていい。けれど「元気をもらった」

は、やはり違うのだ。

 もっと自分のフィーリングを、心の動きを大切にしてもら

いたいと思う。自分の心を雑に扱ってはいけない。


 自分の心を、既製品の量産型の言葉で表してそれでいいこ

とにしていてはいけない。

 安物の精度の悪い工具でネジを回していると、ネジのアタ

マをなめて回せなくなってしまうように、言葉と心がフィッ

トしなくなって、自分の心が意識できなくなるだろう。安っ

ぽい言葉を使うことは、存外恐ろしいことなのだ。



 さて、「元気」とは何か?ということだけど、先に書いた

ように「元の気」だ。本来備わっているものだ。違う言葉で

言えば〈命〉だと言っていいだろう。だから、ヒゲダンの曲

を聴かせても死人は生き返らない。(別にヒゲダンに文句が

あるわけじゃないよ。若い子に人気が有るから譬えに出して

いるだけです 🙂)


 「元気が出る」というのは、「命の働きが表に出て来てい

る」という状態でしょう。だから「活力」というイメージに

繋がるのだろうけど、私は少し違う感じがしている。「元気

が出る」というのは、もっと静的なものではないだろうかと

思う。

 「アクティブに!」「エネルギッシュに!」というのでは

なくて、トンボがすうーっと飛んで行くように、春の日差し

の中で菜の花が咲いているように、スズメがチュンチュン鳴

いているように、古い神社の祠が静かに建っているように、

そのものが、滞りなくあるべき姿を現しているという、「は

れやか」で「おだやか」で「かろやか」な状態のように思

う。


 普段、わたしたちの本来あるべき姿は、世の中の価値観に

邪魔されて表に出て来なくなっている。精神的にも身体的に

も、求められる事と求める事に遮られて隠されてしまってい

る。大抵の人はそのことに気付かない。そういうもんだと思

っているので・・・。

 けれど、出口を塞がれたようなその状態に息苦しさを感じ

てはいるので、なぜそうなっているかは深く考えないけれ

ど、息がしたくて、スポーツイベントやライブに出かけたり

して「元気をもらおう」とする。「元気」はもらえないのだ

けど、そこで受け取る刺激によって、自分のあるべき姿を隠

している世の中の価値観の一部が押しのけられ、ひと時その

姿が表に現れる。「元気」が出てくる。


 「元気」はいつでも自分の中にある。生きているのだか

ら。

 誰かからもらえるものでもないし、もらう必要も無い。自

分の中を覗き込めばそこにある。元々ある。

 世の中が教える “元気” や、世の中が認める “元気” や、ど

こかの誰かからそう思わされた “元気” とは質の違う「元気」

がそこにある。それは〈命〉そのもののことだし、もう一つ

別の言葉で言うならば、〈自分〉のことだ。「元気が出る」

とは、〈自分〉を認めることだ。いま生きている自分を慈し

み、敬意を払うことだ。


 たとえ死に至る病に侵されていても、その自分を慈しんで

やれば、その自分を曇りのない目で見れば、そこには「元

気」があるだろう。


 「元気」とは、静かに息づいている〈命〉のことだろうと

思う




 

2023年1月8日日曜日

お気楽に



 昨日『気の向くままに』という話を書いた。


 「自分のやることなんか、私の知ったこっちゃね~よ」と

いう、究極に無責任で、究極にお気楽な立場だといえる。


 そう「気楽」なのだ。「気の向くまま」に、「気に運ばれ

るまま」を受け入れられたら、「気が楽」なのだ。自分とい

うものとして現れているこの「気」が「楽しむ」のだ・・・

ろうと思う・・・。


 「自分のやることなんか、知ったこっちゃない」

 自分(アタマ)という小さな「気」の現れから、それを現

わしている大きな「気」の働きに意識の中心を移すことがで

きれば「気楽」になる。ゆったりする。


 昨日書いた話などは、本当に気の向くままに、口から出ま

かせだった。

 「ブログを始めて、明後日でもう丸6年になる・・・」と

書き始めて、その後は勝手に「気」にまつわる言葉遊びが始

まっていて、書いていて自分で面白かった。画面に表れて来

る文章を見ながら、「へぇ~、そうなんだ」という感じで進

んで行って、いつも以上に、自分が書いているのではなく

て、「自分を通して出て来ている」という感じが強かった。


 “自分” という、人の世との関わりでできているものに拘泥

しなければ、世の中からの影響も小さくなって、気楽にな

る。大きな「気」の働きの、大きな「気分」に繋がることが

できる。



 世の中というものは、「どうしたら得になるか」「どうし

たら損をしないか」「どうしたら自分を守り、保ち続けてゆ

けるか」と、80億ものエゴが葛藤し、牽制し合っている場

だ。そんなところに「気楽」な「気分」なんて存在しようが

ない。ときどき世の中のエアポケットのような部分に入った

時にそんな感覚を味わうことができるだけ。世の中では

「気」が狂っている。

 「どうしたら得になるか」「どうしたら損をしないか」

「どうしたら自分を守り、保ち続けてゆけるか」という人の

アタマの働きが、「気を狂わせている」。そこから離れてや

れば、本来の「気」の在り様である、「楽」に繋がる。


 “自分” とも、世の中とも関わるしかないけれど、その「狂

気」に捕らわれないように、たしなむ程度にして、気楽にい

たいと、あらためて思う。



 さて、これでこのブログも丸6年を締めくくった。これか

らも気の向くままに続けて行こうと思う。まぁ、気の向くま

まに、気の済むようにだから、いつまで続くのかも分からな

い。「気分」しだいなので、私の知ったことではない。

 ああ、気楽だ🧡