2023年1月14日土曜日

スピリチュアルなのだ



 このブログを始めて六年。いつのまにやらスピリチュアル

系になってしまったけど、このブログを読んでも、運気が上

がったり 、波動が高まったり、ハイヤーセルフと繋がったり

はしない(だろう)。


 このブログの中では、「運気」に上がるも下がるも良いも

悪いも無い。「波動」が高かろうが低かろうがどちらにせよ 

“〈命〉の波” なので、有り難く受け取る。「ハイヤーセル

フ」と繋がろうとしなくても、元からその中に在るのだから

安心してくつろげばいい(「セルフ」なんて余計なものを抱

えるから、「繋がっていない」と感じるんだよ)。

 なんとも張り合いがない系のスピリチュアルなのだ。


 《 起こった時には終わってる 》

 そういう認識で生きていれば、上下も、高低も、良いも悪

いも無い。考えてもしようがない。起こって来ることを受け

取るばかり。


 誰でも、気がついた時には生きていて、それぞれに「自分

が生きている」が起こり続けているのだけれど、「自分が生

きている」が起きているこの世界や、「生きていると気付い

ている」その意識は、どこにどのようにあるのだろう? それ

は何だろう?

 何だか分からないけれど、何かがあるように思えるので、

人は一応それに呼び名を付けた。それが「霊性(スピリチュ

アリティ)」。


 この「霊性」の中に人間的な目的を投影すると、「運気」

や「波動」や「ハイヤーセルフ」というようなものが見え

る。けれど、そんなものは無いだろう。「霊性」は人が引き

寄せたり、利用したり、そこに登り着いたりできるものでは

ないし、そんな必要もない。「霊性」は人の目的の為にある

のではなく、「霊性の目的」のために人があると受け取るべ

きなのではなかろうか? そして、その「霊性の目的」に身を

委ねる方が、人としてもしあわせであるのではないだろう

か?


 私は、別にそういう信念があるわけじゃない。しあわせだ

とか生きる意味だとかの、さまざまなことの妥当性を考え

て、そうではないものを捨てていった末に、残ったものがそ

れだったから、そう思うよりほかに無くなってしまったとい

うことだ。

 信じているのではなく、あらゆるものが信じるに値しなく

なったので、「信じる」ということが信じられなくなって

「信じる・信じない」を越えて認めざるを得ないものが残る

ことになった。それを表すいくつもの言葉の中の一つが「霊

性」だった。


 わたしたちひとりひとりは、わずかの間ではあるけれど、

「霊性」によって、「霊性」の中に現わされている存在だ。

 自分がその働きに逆らっているように思うことも、従って

いるように思うことも、それさえも「霊性」の働きだろう。

なので安心して右往左往してればいい。


 スピリチュアルというのは、信じるものではない。

 本当にスピリチュアルなものを感じてしまったら、疑う余

地が無い。

 それは、起こり続けて来て、いまこのときもに “自分” や 

“世界” が起こっているのだから。


 「霊性」とは何か?


 それが知りたければ、自分の手のひらでいいから、それを

ただ見つめてみればいい。きっと “何か” を感じ取れるだろう

と思う。(私の妄想でしかないかもしれないけどね。頭のお

かしい人は常にいるから・・😂)






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