2023年1月1日日曜日

歳を取る。何を取る?



 年が明けた・・・世の中ではそういうことになっている。

 などと元日からひねくれたことを言っている人間も困った

もんだけど、別にいちゃもんを付けるつもりはない。そこま

でメンドウな人間ではない・・かな。


 正月気分は好きだ。世の中がいつもこんな感じならいいな

と思う。とはいうものの、特別な感慨がないのも本当だ。

 ただ「縁あって、また一年生き延びたな」と思い、「やれ

やれ」という気持ちと、恐縮する気持ちが一緒になっている

ような感覚がある。


 歳を取ると、年が明けることはカウントダウンのように感

じる。人生が減って行くのだ。

 これが二十歳の頃なら、年が明けることは新たな一年が積

み足されるように感じていた。何かがプラスされると・・。

 その感覚の境目がどこ(何歳ぐらい)にあるのかは分から

ないけれど、たぶん誰もがそういう感覚を持つだろう。


 こういう話をすると、その「境目」が人生のピークで、後

半は下り坂のようなイメージを持たれることだろうけど、こ

とはそう単純でもなさそうに思う。前に『新鮮に老いる』

(2020/4)という話を書いたことがあるように、上手に

歳を取ることで、内面的な豊かさは増してゆく。


 歳を取れば、肉体的、時間的には人生が減ってゆく。私自

身、活動量が減り、行動範囲が狭くなったという自覚があ

る。あまり出歩かないし、おしゃれもしない。好奇心も減っ

たし、女性にモテるということも無くなった。「ああ、もう

すぐ “蛍の光” が流れて来そうだな・・」みたいな感覚になっ

てる。けれども、その一方で内面的には広がりや軽やかさを

感じている。


 間違いなく、肉体的、時間的には人生は減ってゆくけれ

ど、私はそのことにことさら抵抗しようとは思わない。どん

なに抵抗しても、少しばかりの間、自己満足が得られるだけ

だろう。だから止められないのに抵抗してもムダだ。そんな

ことに時間とエネルギーを割くのはもったいない。なので、

私はできるだけ内面の豊かさの方にエネルギーを振り向け

る。


 「名実、共に・・」という表現がある。普通は社会的な立

場について使われる。この表現を個人の在り方を表すのに使

うなら、「表面(名)」と「内面(実)」と言ってよいだろ

うけれど、肉体と時間の残りという「名」が減ってゆくこと

は誰も防げない。だから、私は「実」の方を取る。


 池田清彦さんが「生物学的には人間の寿命は38歳」とテ

レビで言っていたけど、80歳以上まで生きるようになった

人間が、人生の後半で「名(表面)」にこだわり続けるのは

滑稽だろう。むしろ、本来の寿命の倍も命を与えられたのな

ら、減退してゆくしかない「名(表面)」から「実(内

面)」へとシフトする方が、人間の命の在り方に敵うのでは

ないだろうか?


 「名実、共に・・・」は人生の前半で十分。

 後半は「名」は程々にして、「実」に意識を向ける。

 「名」から離れることで「名」の重みから解放され、

「実」は軽く広くなってゆく。


 肉体は絶体に滅びる。意識も滅びるのかもしれないけれ

ど、それが絶体かどうかは誰も知らない(知っているという

人もいるが、私にはそれを鵜呑みにすることはできない)。

 人間が肉体と意識を与えられ、さらに、本来の寿命以上に

永く生かされるようになったのは、肉体が滅びてしまうこと

を知り、意識へとシフトすることを求められているからでは

ないだろうかと思ったりもする。


 今日も沢山の人が初詣をし、神様に自分の人生の形を整え

てもらうよう手を合わせただろうけれど、神社の社には鏡が

鎮座している。

 神様に形は無い。だから鏡なのであって、そこに映される

自分にも形は無い(幻影である)。

 それは、“実は、形のないものが「真(の)実」なのだ” と

うことを知らせているのかもしれない。


 明日は私も初詣に行こう。形の無い神様と形の無い自分が

形が無いゆえにひとつだと、手を合わせて確かめ、喜ぶため

に。




 

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