2022年12月30日金曜日

自分を生きる



 “人人みな(それぞれみな)「自己」を生きねばならない”


 この沢木興道老師の言葉(『禅に聞け』より)がふと頭に

浮かんで書き始めた。

 それは当たり前の話で、「自己」を生きねばならないし、

「自己」を生きるよりしようがない。誰かに代わってもらう

ことも、誰かの人生と取り替えることもできない。けれど、

大抵は自分を気に入らない。「この自分(この人生)どうに

かならないのか?」なんて思ってるのだが、誰かに代わって

もらえば自分は消えてしまうことになる。誰かの人生と取り

替えても、“誰か” が “自分” になって、“自分” が “誰か” に

なるだけ。


 「こんな自分は(こんな人生は)嫌だ!」と言ったところ

で、自分が自分を生きるよりしようがない。

 「この自分が(この人生が)好きだ!」と思っても、さて

それがいつまで続くのか?

 「嫌だ!」「好きだ!」という比較・評価を持って自分

(人生)を見ているのなら、早晩「好きだ!」とは言ってら

れない羽目になるだろう。何かの基準を置いて自分(人生)

を天秤に掛けている限り、たえず揺れ続ける。人は落ち着く

ことはない。


 そうは言っても、この世の中で生きている限り比較せずに

は生きられない。世の中は自分の為に有るのではないから、

上がったり下がったりを繰り返す。その度バランスをとろう

と反対側へと移ろうと苦労することになる。けれど、それは

天秤棒の上にいる(そこに意識を置いている)せいなので、

意識を支柱(支点)に置けば、天秤がどれだけ揺れようが関

係なくなる。

 ただ、「揺れようが関係ない」ことになるけれど、天秤棒

の重みは支えなければならない。病気になったり暮らしに苦

労したり、この世の中で生きている具体的な重さは消せな

い。それは「生きている」ということだから死ぬ他に逃れる

道は無い。けれど、不動の一点で落ち着いていられる。どち

らが良いかは好みの問題かもしれないけれど、どちらを選ぶ

か、どちらに回るかはさだめとしか言いようがない。


 揺さぶられ続けるにせよ、重みを引き受けるにせよ、それ

が自分ならそれを生きるよりしようがない。けれど、「しよ

うがないから、この “自分” (この人生)を引き受ける」と肚

を決めたとき、意識は自動的に支点へと移る。それは、「生

きる」ということの本質がそこにあるという証拠だろう。


 わたしたちはみな「自己」を生きねばならない。「自己」

を生きるしかしようがない。

 自分を生きられるのは自分だけ、この宇宙で二度とない 

“自分” 。誰かに代わってもらうのはもったいない。

 どれだけの長さを生きようが、世の中の評価でゴミ扱いさ

れようが、他には無い “自分” 。二度と無い “自分” 。絶体

の “自分” 。

 世の中という天秤棒の上でうろちょろしないで、その下で

この世界を受け止める。


 二度と無い “自分” 。

 絶体の “自分” 。

 それは空前絶後の出来事なのであって、慈しむに値する。

 そして慈しむことで、本当に、生きるに値する “自分” にな

る。それが本当に「自己」を生きるということだろう。


 自分を生きる



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