2022年12月27日火曜日

なぜめぐりあうのかを、わたしたちはなにも知らない



 〈 なぜめぐりあうのかを わたしたちはなにも知らない                           

  いつめぐりあうのかを わたしたちはいつも知らない 〉


 中島みゆきの『糸』の歌詞ですけどね。近年、この曲をモ

チーフにした映画が作られたこともあって、名曲として広く

知られるようになったようです。私も、最近、福原希己江さ

んという歌い手が You Tube でカバーしているのを聴いて感

激し、あらためてよく聴いているんですけど、良い曲です。


 〈 なぜめぐりあうのかを わたしたちはなにも知らない 〉
 

 「めぐりあう」と言ったときに、普通わたしたちは、重要

な、印象的な「めぐりあい」を考える。そういう「めぐりあ

い」がわたしたちの運命・人生を変えて行くというようなイ

メージを持っているからです。

 けれども、「めぐりあい」という言葉の意味からすれば、

わたしたちは毎瞬々々、人だけではなく、ありとあらゆるも

のにめぐりあいながら生きているわけです。そして、それら

の「めぐりあい」に動かされて行くことが「生きている」と

いうことだと言えます。「めぐりあい」を通過して行くこと

が人生だともいえるでしょう。そして『糸』に歌われるよう

に、それらの「めぐりあい」が、なぜ自分にもたらされるの

かを、わたしたちはいつも知らない。知りようがないし、望

ましい「めぐりあい」も、望まない「めぐりあい」も、わた

したちには選べない。どうしようもなくめぐりあってしま

う。


 なぜわたしたちには “望ましい「めぐりあい」” と “望まな

い「めぐりあい」” があるのでしょう? それは、毎瞬ごとの

無数の「めぐりあい」の中から、わたしたちの自意識が、自

分を成り立たせているストーリーに関わるものを選り取って

しまうからです。


 ストーリーを持つ(作る)ためには、どうしてもその土台

となる世界観が要ります。その為、自意識は自分の依って立

つストーリーを維持しようと、無数の「めぐりあい」の中か

ら都合の良いものを取り込もうとするのです。けれども、あ

る世界観を持つと、そこにはほぼ必ず反対の概念が生じてし

まいます。望ましいものを求める意識は、それを選び取る過

程で望まないものを無視することができません。何かを望む

ことは、不可避的に望まないものを生みだします。それゆ

え、わたしたちは望まないものにめぐりあわなければしよう

がなくなるのです。


 先に書いたように、わたしたちは毎瞬々々無数のことにめ

ぐりあい、そのめぐりあいに動かされ、今を生きています。

そう説明されれば、「そうだな」と思われるのではないでし

ょうか?


 食べ物にめぐりあったり、病原体にめぐりあったり、さま

ざまな「めぐりあい」を経ながら、今たまたま、生かそうと

する「めぐりあい」が優勢なので生きているよう思える。

けれど「めぐりあい」がわたしたちを生かしているのではあ

りません。

 〈 わたし 〉が「めぐりあう」のではなくて、さまざまなこ

とがめぐりあった結果が、いまここに在る〈 わたし 〉なので

す。


 ある時、一つずつの精子と卵子がめぐりあい、私やあなた

が生まれた。その後も私やあなたを生かし続けるめぐりあい

によって、にめぐりあっている。いや、あなたという

「めぐりあい」の姿が継続している。


 そこには、私やあなたの持つストーリーは関係ない。わた

したちは「なぜ」なのかを知らない。知りようがない。むし

ろ、知り得ないそのことを知ろうとすることが苦しみを生

む。(知ろうとしてしまうことも、そういう「めぐりあい」

のゆえではありますが)


 いつ、誰と、何と、なぜ、めぐりあうのか?

 それは知り得ないし、知る必要も無い。

 ただ、無数の「めぐりあい」の発露としての、“いま在る自

分” を無心に受け取ってゆくならば、そこには “「めぐりあ

い」の恩寵” とでも言うような安らぎがある。私はそう感じ

ています。それは、さまざまなめぐりあいの果てになのです

が・・・。






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