いつめぐりあうのかを わたしたちはいつも知らない 〉
中島みゆきの『糸』の歌詞ですけどね。近年、この曲をモ
チーフにした映画が作られたこともあって、名曲として広く
知られるようになったようです。私も、最近、福原希己江さ
んという歌い手が You Tube でカバーしているのを聴いて感
激し、あらためてよく聴いているんですけど、良い曲です。
〈 なぜめぐりあうのかを わたしたちはなにも知らない 〉
「めぐりあう」と言ったときに、普通わたしたちは、重要
な、印象的な「めぐりあい」を考える。そういう「めぐりあ
い」がわたしたちの運命・人生を変えて行くというようなイ
メージを持っているからです。
けれども、「めぐりあい」という言葉の意味からすれば、
わたしたちは毎瞬々々、人だけではなく、ありとあらゆるも
のにめぐりあいながら生きているわけです。そして、それら
の「めぐりあい」に動かされて行くことが「生きている」と
いうことだと言えます。「めぐりあい」を通過して行くこと
が人生だともいえるでしょう。そして『糸』に歌われるよう
に、それらの「めぐりあい」が、なぜ自分にもたらされるの
かを、わたしたちはいつも知らない。知りようがないし、望
ましい「めぐりあい」も、望まない「めぐりあい」も、わた
したちには選べない。どうしようもなくめぐりあってしま
う。
なぜわたしたちには “望ましい「めぐりあい」” と “望まな
い「めぐりあい」” があるのでしょう? それは、毎瞬ごとの
無数の「めぐりあい」の中から、わたしたちの自意識が、自
分を成り立たせているストーリーに関わるものを選り取って
しまうからです。
ストーリーを持つ(作る)ためには、どうしてもその土台
となる世界観が要ります。その為、自意識は自分の依って立
つストーリーを維持しようと、無数の「めぐりあい」の中か
ら都合の良いものを取り込もうとするのです。けれども、あ
る世界観を持つと、そこにはほぼ必ず反対の概念が生じてし
まいます。望ましいものを求める意識は、それを選び取る過
程で望まないものを無視することができません。何かを望む
ことは、不可避的に望まないものを生みだします。それゆ
え、わたしたちは望まないものにめぐりあわなければしよう
がなくなるのです。
先に書いたように、わたしたちは毎瞬々々無数のことにめ
ぐりあい、そのめぐりあいに動かされ、今を生きています。
そう説明されれば、「そうだな」と思われるのではないでし
ょうか?
食べ物にめぐりあったり、病原体にめぐりあったり、さま
ざまな「めぐりあい」を経ながら、今たまたま、生かそうと
する「めぐりあい」が優勢なので生きているよう思える。
けれど「めぐりあい」がわたしたちを生かしているのではあ
りません。
〈 わたし 〉が「めぐりあう」のではなくて、さまざまなこ
とがめぐりあった結果が、いまここに在る〈 わたし 〉なので
す。
ある時、一つずつの精子と卵子がめぐりあい、私やあなた
が生まれた。その後も私やあなたを生かし続けるめぐりあい
によって、今にめぐりあっている。いや、私やあなたという
「めぐりあい」の姿が継続している。
そこには、私やあなたの持つストーリーは関係ない。わた
したちは「なぜ」なのかを知らない。知りようがない。むし
ろ、知り得ないそのことを知ろうとすることが苦しみを生
む。(知ろうとしてしまうことも、そういう「めぐりあい」
のゆえではありますが)
いつ、誰と、何と、なぜ、めぐりあうのか?
それは知り得ないし、知る必要も無い。
ただ、無数の「めぐりあい」の発露としての、“いま在る自
分” を無心に受け取ってゆくならば、そこには “「めぐりあ
い」の恩寵” とでも言うような安らぎがある。私はそう感じ
ています。それは、さまざまなめぐりあいの果てになのです
が・・・。
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