2023年11月26日日曜日

やり過ごす



 この前『必然だから』という話を書いた時、最後の方で 

“「必然」をやり過ごす” と書いたけれど、「やり過ごす」と

いうのはかなり重要なキーワードだなと思う。


 和尚(ラジニーシ)の本にある逸話で、昔、ある王が、賢

者に自分を見失わない為の言葉を与えてくれと頼み、その言

葉を指輪に仕込んでいたそうだ。そして絶体絶命のピンチに

陥った時、初めてその指輪を開いてその言葉を見た。そこに

はこう書かれていた。

 「これもまた過ぎ去る」

 王はその言葉に安らいで、運命に身を任せることにしたと

ころ、状況は良い方に転じて命拾いをしたという。その後

も、王は自分を見失いそうになる時はその指輪を開き、その

言葉を見て安らぎを覚えるようになった。


 「これもまた過ぎ去る」


 すべては過ぎ去って行く。

 好ましい運命も、苛酷な運命も過ぎ去って行く。

 この生命も過ぎ去る。

 自分の死も過ぎ去る。


 すべては過ぎ去るものなのに、わたしたちは自らそれに関

わることで、それに押し込まれたり、それに引きずられたり

して苦しんでいる。

 すべては過ぎ去る。

 わたしたちが「自分」だと思っている、このエゴも過ぎ去

る。

 過ぎ去るものなら、それは眺めているべきものではないだ

ろうか。


 やり過ごす。


 どのような出来事も、その時々のお話しでしかない。けれ

ど、関わらざるを得ないことも当然ある。腹が減ったら食べ

なければしようがない。自分がガンになったとしたら関わら

ざるを得ない。けれど、そういったことでも、“自分が関わっ

ているという状況” という出来事自体が過ぎ去る。自分その

ものも過ぎ去る。

 無視するというのではなく、出来事を見守ってやり過ごす

のならば、わたしたちの意識はその影響を受けない。乱され

ない。


 江戸時代の有名な禅僧である白隠は、ある時近くに住む娘

を孕ませたという嫌疑をかけられた。

 激怒して怒鳴り込んで来た娘の両親に対して、白隠は何の

弁明もせず「ほう、そうか」とだけ言った。実は娘は他の男

と関係を持っていて、その男を守ろうとして嘘をついていた

のだが、白隠はただ黙って成り行きを受け入れていた。

 白隠の態度を見て良心の呵責に耐えられなくなった娘が両

親に本当のことを話すと、両親は慌てて白隠の所を訪れて謝

罪した。すると白隠は「ほう、そうか」とだけ言った。


 この白隠の話は作り話のような気もするが、別に作り話で

もいい。そこに語られていることがわたしたちのヒントにな

るならそれでいい。

 白隠は自分の運命を眺めている。

 なぜ関わりながら眺めていられるか?

 〈自分〉という命の本質は、出来事とは違う次元を生きて

いると感じているからだろう。


 今年の暑い夏が過ぎ、なにやらハッキリしない秋も過ぎ、

冬がやって来る。

 わたしの前を、季節は何十回も過ぎ去って行った。見守る

意識でやり過ごすならば、それらは美しく懐かしい記憶とし

て思い起こされる。

 過去に関わってしまった事でも、それを意識の上で改めて

やり過ごすならば、過去の記憶のトゲは抜かれる。すべては

過ぎ去って、もうここには無いのだから。


 「いま」も過ぎ去る。

 「未来」も過ぎ去る。

 わたしたちの思考や感情も過ぎ去る。

 ただ〈自分〉の意識だけがここにとどまっている。

 〈自分〉はいつも、出来事の外で安らいでいる。




2023年11月19日日曜日

みんな予言者 🤪



 その昔、『ノストラダムスの大予言』という本がベストセ

ラーになった。私も読んだ。いまでも、予言とか終末論みた

いなのはもてはやされる。私も、そういう話を面白半分には

見る。けれど、「未来に何が起ころうが知ったこっちゃな

い」というのが、いまの私の本音です。 


 人間はこの世界のパーツの一つですよ。そんな存在である

人間が、「人間に何が起こるか?」と考えることが、そもそ

も思い上がり。何が起きてもいじゃん。どうせ、いつか必ず

みんな死ぬんだし。


 なげやりですか?


 でも「来年、何が起きるか?」と考える時、その人は来年

も当然のように自分が生きていると思っているわけですが、

いったい何を根拠にそう思うのでしょう?「あなたは来年ま

で生きている」という予言でも聞いたのでしょうか?


 未来を知ろうが知るまいが、放っておいたら未来はやって

来る。どうにかしようとしても、どうにかしようとすること

も取り込んだ上で、どうにかしようとしたことを取り込んだ

未来がやって来る。わたしたちが「知っている未来」が来る

ことはない。


 企業が「未来を作る」とかいう CM を流したりす

る・・・。ああいうのを見ると私は笑ってしまうんだけど、

同時に不快感もある。「その、アンタらがいじくった “未来”

に責任は持つのかよ?」などと思ってしまうので・・・。


 「 “未来” とは何か」なんて考えてみたことも無く、凡庸な

ノリで “未来” なんてことを口にする。そういうのを見ると

「未来は暗いなぁ・・・」と感じてしまう。


 『未来は無い』(2017/3)。このブログではそういうこと

も書いた。もう6年以上前のことですが、その頃はまだ誰一

人このブログを見た人はいなかった。その時にいまのような

状況はまったく想像もしていなかった。

 いまのような自分の状況も、まわりの状況も、コロナ騒動

も物価の上昇も外国の戦争も・・・。


 未来は無い。無いものを誰も知りようがない。無いものに

気を使うのは暇人(ひまじん)のすること。

 未来は無い。無いものを誰も知りようがない。無いものに

は気を使わないのは閑人(ひまじん)のすること。「ひまじ

ん」でいるなら、「閑人」でいるほうが楽しいだろう。


 予言を気にするというのは、自分と世の中がどう関わるこ

とになるかが気になるということで、世の中にとらわれ過ぎ

てるわけです。けれど、前もってそれを知ることができたと

して、自分の力で世の中を変えることができますか? 本当に

未来を知ることができたところで、どうしようもない。どう

にかできるなんて思うのなら、かなり妄想癖が進んでいるで

しょう。先に書いたように「どうにかしようとしたことを取

り込んだ未来がやって来る」だけです。


 この前『ゴジラ -1.0』を観て来たことを書きましたが、あ

の後ふと思ったのが、「ゴジラを倒そうとせずに放っておい

たらどうなるのか?」ということ。

 これまでの映画で、ゴジラは何度も日本に上陸しては街を

破壊し、そして海へと戻る。

 人々は対策を練り、ゴジラを倒そうとする。『シン・ゴジ

ラ』ではそのせいでゴジラを怒らせ、かえって壊滅的な被害

を受けたけれど、放っておいたらゴジラはどうするのだろ

う?

 何度も何度も上陸しては、街を破壊するのだろうか?

 もしかしたら、もうやって来なくなるかもしれない。上陸

してそのまま日本海へ抜けて行くかもしれない。日本アルプ

スあたりにお気に入りの場所を見つけて、そこで静かに暮ら

すかもしれない。誰もどうなるかしらない。けれど、映画の

中では「またやって来て破壊の限りを尽くすだろう」と想定

して、必ず戦いに持ち込む。それはなぜか? わたしたちが、

戦うことが好きだからでしょうねぇ。

 未来を守りたいというのは表面上の意識で、本当は、戦う

ことでエゴが自身の存在の手ごたえを得たいのではないのだ

ろうかと思う。

 確定していない未来に、確定しているかのようなストーリ

ーを投影して危機感を覚え、「戦わなくては、わたしたちの

未来は無い」と思うけれど、それは表向きの理由なのでは?


 「わたしたちの未来」とは、「わたしたちが夢見る未来」

「わたしたちが作ってゆく未来」ということでしょうけど、

「わたしたちが夢見ない、作らない未来」というものを想像

してみてもいいんじゃないだろうか?


 未来に自分たちの希望を描き、それを実現させようと未来

に手を出す。いまあるものを変えようとする。それはもしか

したら未来を汚しているのかもしれない。思いもかけない面

白い未来が来る可能性を潰しているのかもしれない。なにせ

未来は誰もしらない。

 ところが、「未来が分かる」という人が現れて予言をした

りする。

 予言がなされるというのは「未来が確定している」という

ことです。確定しているのなら、それは必ず起こる。必ず起

こる事を事前に聞かされたところで、「だからどうしろ

と?」ということになる。必ず起こっちゃうんでしょ? 仮

に、その時が来るまでの努力で予言が覆るのなら、それは予

言が間違っていたということになる。予言は役立たずでご都

合主義です。


 予言とはそういうものですが、実は誰も彼もがしょっちゅ

う自分の未来を予言して、良い予言ならその予言の内容が現

実になるようにとか、悪い予言ならそれを回避するようにと

かしています。普通は「予想」とか「想定」とかいいますけ

ど、実のところ、それは予言ですよね。凄いですね。みんな

未来を見通す力を持っているのですよ・・・。


 『未来は無い』という話を書いた私ですが、仮に未来が有

るとして、未来はやって来るものでしょうか? 違うでしょう

ね。未来はここから生まれるものだと思います。ここから展

開して行くものだと思います。

 本当の未来はどこかからやって来るお話しではない。

 世界やわたしたち自身を変えようとする働きから生まれる

ものです。

 わたしたちひとりひとりは、自分の中に自分の未来を抱え

ている。それはわたしたち(エゴ)の自由にはなりませんけ

ど、自分から生まれて来る未来を受け止め続けるのは、結構

ドラマチックで楽しいことではないでしょうか?








2023年11月18日土曜日

日本人が英語が苦手な理由



 日本人は、なぜ英語が苦手か?

 それは、虫の音が「声」に聞こえるから・・・。


 『チコちゃんに叱られる』みたいになったけど、最近、日

本人がなぜ英語が苦手なのか、なぜ虫の声に情緒を感じたり

するのか分かったように思ったので、その話です。


 日本人は中学・高校と英語をたっぷり学ぶのに、ほとんど

英語が話せないし読めない。

 それは日本の英語教育の問題もあるのだろう。「聞いて話

す」よりも、「読んで書く」ことに重点を置くところが問題

なのだろうと思う。なにせ教育・学習のことを「読み書きそ

ろばん」と言っていた国だ。「漢字かな混じり文」という世

界でも他にない言語を習得するには「読んで書く」ことはと

ても重要で、「聞いて話す」ことなんか、勝手に身に付くよ

うに思って来たのだろう。けれど、何十年も英語教育をして

きたにも関わらず、いまだに日本人は英語を「聞いて話す」

ことはできない。その理由が最近分かった気がした。それ

は、日本人が〈 オノマトペ 〉や〈 聞きなし 〉を多用するこ

とにあるだろうと。


 〈 オノマトペ 〉とは、雨が「ザーザー」とか、風が「ビ

ービュー」とかいうやつですね。

 〈 聞きなし 〉は、ホトトギスが「特許許可局」とか、ウグ

イスが「ほー法華経」とか鳴くやつです。

 〈 オノマトペ 〉はマンガなどには欠かせないもので、誰

でもお馴染みですが、〈 聞きなし 〉はあまり一般的でもない

なぁ。けど『タモリ倶楽部』の人気コーナーだった『空耳ア

ー』なんて〈 聞きなし 〉で遊ぶという企画だったから、日

人なら〈 聞きなし 〉してしまう癖みたいなものは持ってい

だろうと思う。

 で、〈 オノマトペ 〉と〈 聞きなし 〉が、なぜ「虫の声」

と「英語が苦手」につながるかという話ですが、日本人は

「漢字かな混じり文」を使っていて、漢字にはフリガナをふ

る。この〈 フリガナ 〉が問題なんですね。


 〈 フリガナ 〉というのは音を文字で表すためのものです

が、これは〈 オノマトペ 〉と密接に結びついているのでしょ

う。

 日本に漢字が入って来る以前から、日本人は雨が「ザーザ

ー」というように、音に音声を当てていたのだろうと思う。

そして漢字が入って来た時に、外国語である漢字を読みやす

くするために、もともとあった〈 オノマトペ 〉や〈 聞きな

し 〉の文化を利用して、漢字を簡略化して、音声記号として

の仮名を作り出したのでしょう。


 で、なぜ英語が苦手なのかという話ですけど、わたしたち

日本人は、音を聞くと無意識にその音に〈 カナ 〉を当ててし

まうようです。そして、聞こえている日本語ではない音

「文字化(日本語化)」してしまう。“dog” には「ドッグ」

と、“cat” には「キャット」と。それによってヒアリングが

狂ってしまう。

 そのままに音を認識できないので、英語が正しく聞き取れ

ない。正しく聞き取れていないので正しく発音できないし、

発音する時にも〈 カナ 〉をふった状態で発音してしまう。い

わゆる「カタカナ英語」が発生する。

 日本以外の国の人は、英語を音で聞いて、その音をそのま

ま取り込み、自分でもそのまま声にするのでしょう。けれ

ど、日本人の場合はその間に「カナをふる」という余計な作

業が入ってしまう。その労力は英語の習得に、かなり余計な

エネルギーを使わせることでしょう(英語だけに限ったこと

でもないでしょうが)。それが、日本人が英語を苦手にして

いる理由だろうと思われます。


 そして、虫の音を「虫の声」として聞くのはなぜかという

と、日本人はあらゆる音を言語化(文字化)してしまうよう

です。台所の冷蔵庫のモーターが「ブーン・・」といってい

たり・・・。

 さすがにモーターの音を「声」と聞くことはあまりないで

しょうが(「あまり」ですけどね)、虫の音などは、同じ生

き物ですから、やすやすと「言語化」してしまうのでしょ

う。なので、虫の音が「虫の声」になってしまう。


 日本人はあらゆる音を「声」として捉えてしまう。すべて

の物が「語る」のです。“八百万の神” や “つくも神” という

考えとも繋がる。

 たぶん縄文時代から、日本人は〈 オノマトペ 〉を使ってい

たでしょう。そして、この世界のすべてを「生きている」と

捉えていたことでしょう。“生き物” だけが「生きている」ん

じゃないと。


 なぜ日本人がそのような世界観を持ったのかは知る由もな

いけれど、いまだにそれが受け継がれているのは驚愕です

ね。


 パソコンのキーを叩くと「カチャカチャ」という。パソコ

ンも生きている。

 パソコンがなければ、このブログなんて書いていられな

い。

 ある意味、生きているパソコンと、生きている私が一緒に

なって、このブログが生まれて来る(他の要素ももちろんあ

るのだけど)。あらゆるものが関わり合うことで、あらゆる

出来事が生まれて来るのがこの世界。


 日本人は、世界のあらゆる「声」を聞くことができるよう

です。ありがたいことだと私は思う。

 その「声」を、アタマの横やり無しに受け取るならば、わ

たしたちは世界に対して、もっとマシな理解ができるのかも

しれません。

 ただ、世界の真の姿を理解するには、「声」も邪魔でしょ

うけどね。



2023年11月12日日曜日

必然だから



 しばらくブログを書く取っ掛かりがなかった。どうも10

月ぐらいにそういう傾向がある。なぜだかは分からないけ

ど。

 そういう傾向があるということが見えてくるぐらいに、も

う長いことブログを続けて来たということでもあるけれど、

先日、このブログのアクセス数が5000回を越えた。単に

アクセスがあっただけで、その度にちゃんと読んでもらって

いるのかどうかは分からないけど、こんなインターネットの

辺境にあるブログに5000アクセスというのは、約七年と

いう期間とはいえ、けっこう奇跡なんじゃないだろうか?


 「口から出まかせを書いている」ということは、これまで

に何度もお断りをしているけれど、口先だけで書いているわ

けではないというあたりが、この奇跡を呼んでいるのかもし

れない。

 やはりこれまでにも書いたように、なんでこんなブログを

書いているのかは自分でも分からない。なりゆきでこうして

いるだけで、自分の意志でもないし、なんになるのかも知ら

ない。こうしているのが必然で、5000アクセスも必然

で、アクセスした人がどう思い、何らかの意識の変化がある

のかも知らないし、読んだ人に何がもたらされるかはその人

の必然で、それが良いか悪いかも分からない。必然に良いも

悪いも無い。


 今日は『ゴジラ -1.0 』を観て来た。久しぶりにとても面白

い映画を観たと思った。

 戦争という災厄。ゴジラという災厄。その必然に動かされ

てゆく登場人物たち。

 物語だから、そこには幸・不幸、良い悪いがあるけれど、

必然に良い悪いは無い。

 戦争で死ぬ必然・・。ゴジラに踏みつぶされる必然・・。

生き残る必然・・・。ゴジラに「良い悪い」という考えは無

い。ゴジラも自分(?)がなぜ破壊しているのかは知らな

い。それがゴジラの必然であるというだけ。

 人の目からすれば、忌むべきものと迎えいれるべきものが

あるけれど、必然に良い悪いは無い。起きてしまうことは肯

定するしかない。


 ここでいう「肯定する」というのは、「良いこととする」

という意味じゃない。ただ「受けて行く」というような意味

合いです。

 起きた事を否定しても意味が無い。イヤだと感じる事をポ

ジティブに捉えようとしても無理がある。評価しても、その

評価は自分の都合が反映されるだけなので、真実の「善悪」

でも「幸・不幸」でもない。

 『ゴジラ』の登場人物のように、ゴジラのように、わたし

たちも必然に動かされているというのが真実で、いまの必然

に動かされて次の必然を生きて行くのだから、評価すること

にとらわれずに、ただ必然のままに生きて行く・・・。「必

然のままに生きて行く」とは思えないとしても、それも必然

なのでしようがない。それはそれで生きて行く・・・。


 必然に対して、ただ「受けて行く」という想いを持てるの

なら、そう想えるという必然はとてもラッキーだ。奇跡だ。

その想いはアタマの語る評価をやり過ごす。物語を物語のま

まにしておいてくれる。自分の本当の命は物語の外に在ると

知らせてくれる。


 ゴジラに踏みつぶされそうになったけれど、私は無事に映

画館から出て来た。けれど、現実の物語が、本当に私を踏み

つぶす日が来るかもしれない。それが私の必然なら、起こる

べくして起こるのならしようがない。私はそれを「受け

る」。そういう態度が、本当に生きることのように思う。


 私はゴジラと戦ったり、戦争に巻き込まれたりもしていな

い。ただこんなブログを書きつつ、世の中の片隅で暮らして

いるだけなんだけど、それが私の必然。必然ならそれを「受

ける」。その態度は、私に安らぎをもたらしてくれる。

 必然に良い悪いは無い。幸・不幸も無い。

 ただ、必然を「受けて」、必然を「やり過ごす」ならば、

そこには安らぎがある。世界の本質は安らぎだから。

 ゴジラが暴れまくっても、宇宙を破壊することはできない

ように、現実のどんな物語も、わたしたちの命を壊すことは

できない。


 ・・・・こんな口から出まかせを語るブログを読んでいる

というあなたの必然は、「安らぎ」からのお招きかもしれな

い。なにせ、約七年で5000アクセスしかないインターネ

ットの辺境を訪れているという奇跡を、あなたは経験してい

るんですからね 😌