2023年11月19日日曜日

みんな予言者 🤪



 その昔、『ノストラダムスの大予言』という本がベストセ

ラーになった。私も読んだ。いまでも、予言とか終末論みた

いなのはもてはやされる。私も、そういう話を面白半分には

見る。けれど、「未来に何が起ころうが知ったこっちゃな

い」というのが、いまの私の本音です。 


 人間はこの世界のパーツの一つですよ。そんな存在である

人間が、「人間に何が起こるか?」と考えることが、そもそ

も思い上がり。何が起きてもいじゃん。どうせ、いつか必ず

みんな死ぬんだし。


 なげやりですか?


 でも「来年、何が起きるか?」と考える時、その人は来年

も当然のように自分が生きていると思っているわけですが、

いったい何を根拠にそう思うのでしょう?「あなたは来年ま

で生きている」という予言でも聞いたのでしょうか?


 未来を知ろうが知るまいが、放っておいたら未来はやって

来る。どうにかしようとしても、どうにかしようとすること

も取り込んだ上で、どうにかしようとしたことを取り込んだ

未来がやって来る。わたしたちが「知っている未来」が来る

ことはない。


 企業が「未来を作る」とかいう CM を流したりす

る・・・。ああいうのを見ると私は笑ってしまうんだけど、

同時に不快感もある。「その、アンタらがいじくった “未来”

に責任は持つのかよ?」などと思ってしまうので・・・。


 「 “未来” とは何か」なんて考えてみたことも無く、凡庸な

ノリで “未来” なんてことを口にする。そういうのを見ると

「未来は暗いなぁ・・・」と感じてしまう。


 『未来は無い』(2017/3)。このブログではそういうこと

も書いた。もう6年以上前のことですが、その頃はまだ誰一

人このブログを見た人はいなかった。その時にいまのような

状況はまったく想像もしていなかった。

 いまのような自分の状況も、まわりの状況も、コロナ騒動

も物価の上昇も外国の戦争も・・・。


 未来は無い。無いものを誰も知りようがない。無いものに

気を使うのは暇人(ひまじん)のすること。

 未来は無い。無いものを誰も知りようがない。無いものに

は気を使わないのは閑人(ひまじん)のすること。「ひまじ

ん」でいるなら、「閑人」でいるほうが楽しいだろう。


 予言を気にするというのは、自分と世の中がどう関わるこ

とになるかが気になるということで、世の中にとらわれ過ぎ

てるわけです。けれど、前もってそれを知ることができたと

して、自分の力で世の中を変えることができますか? 本当に

未来を知ることができたところで、どうしようもない。どう

にかできるなんて思うのなら、かなり妄想癖が進んでいるで

しょう。先に書いたように「どうにかしようとしたことを取

り込んだ未来がやって来る」だけです。


 この前『ゴジラ -1.0』を観て来たことを書きましたが、あ

の後ふと思ったのが、「ゴジラを倒そうとせずに放っておい

たらどうなるのか?」ということ。

 これまでの映画で、ゴジラは何度も日本に上陸しては街を

破壊し、そして海へと戻る。

 人々は対策を練り、ゴジラを倒そうとする。『シン・ゴジ

ラ』ではそのせいでゴジラを怒らせ、かえって壊滅的な被害

を受けたけれど、放っておいたらゴジラはどうするのだろ

う?

 何度も何度も上陸しては、街を破壊するのだろうか?

 もしかしたら、もうやって来なくなるかもしれない。上陸

してそのまま日本海へ抜けて行くかもしれない。日本アルプ

スあたりにお気に入りの場所を見つけて、そこで静かに暮ら

すかもしれない。誰もどうなるかしらない。けれど、映画の

中では「またやって来て破壊の限りを尽くすだろう」と想定

して、必ず戦いに持ち込む。それはなぜか? わたしたちが、

戦うことが好きだからでしょうねぇ。

 未来を守りたいというのは表面上の意識で、本当は、戦う

ことでエゴが自身の存在の手ごたえを得たいのではないのだ

ろうかと思う。

 確定していない未来に、確定しているかのようなストーリ

ーを投影して危機感を覚え、「戦わなくては、わたしたちの

未来は無い」と思うけれど、それは表向きの理由なのでは?


 「わたしたちの未来」とは、「わたしたちが夢見る未来」

「わたしたちが作ってゆく未来」ということでしょうけど、

「わたしたちが夢見ない、作らない未来」というものを想像

してみてもいいんじゃないだろうか?


 未来に自分たちの希望を描き、それを実現させようと未来

に手を出す。いまあるものを変えようとする。それはもしか

したら未来を汚しているのかもしれない。思いもかけない面

白い未来が来る可能性を潰しているのかもしれない。なにせ

未来は誰もしらない。

 ところが、「未来が分かる」という人が現れて予言をした

りする。

 予言がなされるというのは「未来が確定している」という

ことです。確定しているのなら、それは必ず起こる。必ず起

こる事を事前に聞かされたところで、「だからどうしろ

と?」ということになる。必ず起こっちゃうんでしょ? 仮

に、その時が来るまでの努力で予言が覆るのなら、それは予

言が間違っていたということになる。予言は役立たずでご都

合主義です。


 予言とはそういうものですが、実は誰も彼もがしょっちゅ

う自分の未来を予言して、良い予言ならその予言の内容が現

実になるようにとか、悪い予言ならそれを回避するようにと

かしています。普通は「予想」とか「想定」とかいいますけ

ど、実のところ、それは予言ですよね。凄いですね。みんな

未来を見通す力を持っているのですよ・・・。


 『未来は無い』という話を書いた私ですが、仮に未来が有

るとして、未来はやって来るものでしょうか? 違うでしょう

ね。未来はここから生まれるものだと思います。ここから展

開して行くものだと思います。

 本当の未来はどこかからやって来るお話しではない。

 世界やわたしたち自身を変えようとする働きから生まれる

ものです。

 わたしたちひとりひとりは、自分の中に自分の未来を抱え

ている。それはわたしたち(エゴ)の自由にはなりませんけ

ど、自分から生まれて来る未来を受け止め続けるのは、結構

ドラマチックで楽しいことではないでしょうか?








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