2023年8月13日日曜日

暑いけどねぇ・・



 暑いなぁ・・・。神戸では、このニ三日がたぶんこの夏の

暑さのピークだろう。去年のフンガ・トンガ=フンガ・ハア

パイの噴火の影響もあるだろうな。


 自分は環境問題に意識が高い方なので(さいわい “意識高

い系” ではない)、You Tube でもそういう関係の動画をよ

く見る。なので「おすすめ」にもそういうのが出てくる。そ

の中にはエネルギー問題を扱ったものも多くて、「再生可能

エネルギー」だとか「脱炭素」だとかの動画もよく見る。も

ちろん“「再生可能エネルギー」や「脱炭素」のバカバカしさ

を発信しているものを見る” ということだけど。


 そしてこの頃は「EV 終焉」みたいな動画が増えてきた。

「脱炭素」の象徴のような EV だけど、欧米・中国などで EV

自体の自動車としての問題点が具体的に明らかになってき

て、売り上げが落ちてきたり、ヨーロッパで “完全 EV 化” を

先送りする国がでてきたり、フォルクスワーゲンやフォード

などのメーカーが EV 生産を縮小するなどの事態になってい

るらしい。

 そういニュースを受けて、動画では「日本の自動車メーカ

ーが正しかった!」とか「トヨタひとり勝ち!」とか持ち上

げる。

 実現不可能で多くの弊害がある EV シフトが終わるのなら

良いことだけど、「トヨタが勝った!」とナイーブに喜んで

いるのなら、それも浅はかな話だと、環境意識の高い私は思

う。


 気象というもののシステムは複雑で、長いスパンでの変

化の理由もよく分からないものなので、「CO2のせいで温暖

化する」と言い切ることに自分は懐疑的だけど、人が資源・

エネルギーを無節操に使い続けていることで環境に大きな影

響を与えていることは疑いようがないから、この大量消費の

世界を見直す方が人間の将来の為だろうと思っている。それ

は、少なくとも今の若い人やこれから生まれてくる子供に対

する礼儀ではなかろうか?


 例えば、いまよりずっとモノが少ない昭和30年代の日本

だって、人はしあわせに生きていた。今の省エネ技術などが

あれば、ずっと少ない資源とエネルギーで同じしあわせが得

られるはずだ。ところが社会は、省エネ・効率化の技術を使

って、自分たちの住む世界を隙間なく物と活動で埋め尽く

し、それを果てしなく広げる方向へ進んで来た。それがアタ

マの好みだから。


 アタマは隙間(空間)を嫌がる。その習性は「経済」とい

うものを生んでしまった。


 その昔、物の交換の為に人は「お金」を発明し、それが貯

めておけるものだと気付いた。それは具体的に積み重ね、敷

き詰めてゆくことができるものであるだけではなく、意識の

中で、意識の隙間を埋める効果もあって、それはアタマの安

心感につながった。けれども、アタマの中の隙間は無限なの

で、「お金」がいくら有っても足りない・・・。

 「いくら有っても足りないのだから、もうあきらめよう」

とアタマが判断すれば良かったが、アタマはそうは思わな

い。アタマは事実を見ないものだから・・・。その結果「お

金」をより多く集めるあがきが始まり、それはやがて「経

済」という大きなシステムになった。「経済」というのは、

アタマの「隙間を埋め尽くそう」という果てしない不毛なゲ

ームで、ただそれだけでしかないのだが、隙間(空間)を嫌

うアタマは、それを辞めることができない。

 「経済」の中毒となった人間は、やがて化石燃料やさまざ

まな資源を使うことを覚え、科学テクノロジーを身に付け、

その不毛なゲームを加速度的にスピードアップさせ、ステー

ジを広げてきた。そして地球のあらゆる場所を蹂躙し、攪乱

して来た。いまそれを「環境問題」と呼んでいる。
 

 テクノロジーを、“経済システムの奴隷になって「お金」に

引っ張り回されるための道具” にしているなんて愚かなことだ

ろうが、多くの人はそんなことは思わないらしい。そんな面

倒で生産性のないことを考えるのは、私のような与太者だけ

だ。

 私はそれを理解しているので、世の中で面と向かってそん

なことは言わない。なので、こんな人気  「ひとけ」です

よ。「にんき」と読んでも同じだろうけど (笑)   のないブ

ログでブツブツ言っている。環境意識が高いけれど “意識高い

系” にはならないのは、そういう理由だろう。


 私は “意識高い系” が嫌いだ。彼らは人と世界に対する見方

が表面的で、偏っていて独善的。「自分は、この世界を悪く

する側ではない」と思う為の免罪符として、エコやヒューマ

ニズムを尊重する立場に立っているような振る舞いをする。

それは “持てる者” の驕りでしかない。東南アジアのスラムに

住む人や、インドでトイレも無い生活をしている人が、“意識

高い系” になるわけがない。そういう境遇の人は、とにかくな

んとか生きなければならないんだから。

 自分たちが環境を大きく攪乱する側にいて文明をもてあそ

びながら、そんな余裕なんかまったくない人たちを前にした

時、“意識高い系” は何と言うのだろう?

  エアコンの効いた部屋でパソコンをさわっている私には、

その人たちに何も言えない。

 「お先に失礼してます。あなたたちの分は無いと思いま

す。すみません・・・」

 そんな風に謝るのが精一杯だ。ホント、申し訳ない・・。


 とはいえ、“持たざる者” 側の人たちが、“持てる者” が「持

っているが故に失っているもの」を持っている可能性はあ

る。“持てる者” には見えなくなっているものを見てとれる面

もあるだろう。持っていればしあわせという単純な話でもな

い。


 ”持てる者” “持たざる者” どちらであれ、この「経済」

「文明」に迷わされて「持つ」「持たない」に意識が向いて

いる限り、しあわせは無い。「持つこと」は負担を生むし、

「持たないこと」は焦りを生んでしまう。

 その「持つ」「持たない」のはざまをすり抜けて、“そもそ

も「持つこと」などできない”と気付けないかぎり、環境問題

にハッキリした見通しはないだろう。


 世の中では物質的な面をコントロールすることで環境問題

をどうにかしようとするけれど(政治的・経済的な小芝居に

しか見えないけど)、本当に環境問題をどうにかしたいな

ら、われわれ人間の、幸福に対する概念や死生観を見直さな

ければ、ほとんど何も変わらないだろう。

 わたしたちの問題は、いつだってわたしたちのアタマが生

み出している。けれど、人はそのことから目を背け続けてい

る。私には明るい未来なんて描けないね。

 私個人にはそれでもいいけれど、これからの人たちはやは

り気の毒だ・・・。

 なので、世界をどうするかより、自分の内的な平和に気付

いてもらえたらなぁと思う。そういう人がある程度の割合に

なれば、世界も具体的に変わるだろうから。

 もちろん世界が変わる可能性はほとんど無いけれど、そう

だとしても、個人としての幸福と平和に至ることはできるか

ら、損は無い。


 〈心頭滅却すれば火もまた涼し〉


 暑くても、涼しくいられるしね。




2023年8月6日日曜日

恐縮すると



 前回の終わりに「みんな恐縮すればいいのになぁ」と書い

たけれど、恐れ縮こまれば、エゴが出しゃばっているスペー

スがその分空くから、それだけ自分の世界は広くなるわけで

すよ。世界が広くなれば当然圧迫感が減って、気分にゆとり

が出る。


 「怯えて、恐れ縮こまる」のなら、そこに余裕なんて有る

はずもないけど、「畏敬の思いから恐れ縮こまる」のは違

う。畏敬の対象であるこの世界が、より広く自分を取り囲む

ことになる。自分の世界を満たす。それが「満足」を生む。


 恐縮すると、満足するから余裕ができる。余裕ができるか

ら満足する。そういう満足のスパイラルに入ることができ

る。それはしあわせなことでしょう。


 わたしたちは世界の事を大して分かっていない。分かって

いるつもりのことでも、それは自分たちが肯定できるストー

リーを採用して、ひととき落ち着きを得ているということに

過ぎない。

 本当は世界の事を分かっていないと気付けば、恐縮するし

かないでしょう。分かっていないのに生きていられるのだか

ら、その事実に恐縮する他はないはず。


 「恐れ」という感情には、危機感から生まれるものと、自

分が守られているような意識から生まれる「畏れ(深い感

謝)」との二つがあるけれど、その二つは別のものではな

い。危機感から生まれる「恐れ」に深く入って行くと、その

「恐れ」は不可思議な感謝の思い「畏れ」へと変わってゆ

く。なぜなら、自分が危機にさらされているにも関わらず

「生きている」からです。


 「危機の中にこそ、より深い満足がある」そう言ってもい

いのかもしれません。

 危機は、いま自分が生きていることを強く実感させてくれ

る要素になり得る。


 わたしたちはいつ死ぬか分からない。

 突然、脳卒中を起こして死ぬかもしれない。次の瞬間、大

地震が起きて死ぬかもしれない。道を歩いていて自動車が突

っ込んできたり、異常者にいきなり刺されるかもしれない。     

 無意識であっても、生きている意識は、常に危機感の中に

あるけれど、上手にその危機を捉えれば、それは「生きてい

る」という満足に繋がる。


 「いつ死んでもおかしくないのに、いま、自分は生きてい

る!」


 「満足」というものを世の中のお話しの中に探すから、わ

たしたちは〈満足する能力〉を欠いてしまうけれど、「生き

ているという不思議」を知ると、満足するしかない。恐縮す

るしかない。そして「危機」というものは無いのだと気付

く。それは、「生きているという不思議」を理解できないア

タマが、無知ゆえに慌てふためいてるだけなのだと。


 「死ぬという不思議」についても何も知っていないのだか

ら、「危機感」というものはアタマの右往左往でしかない。

 「危機」は常に未来に有る。いまここには「危機」は無

い。受け止めるべき事実が有るだけ。どのような “いま” であ

っても、それが “いま” ならそれを受け止めるだけ。心を開い

て受け止めるのなら、それは「危機」にはならない。いま、

それを受け止める命が有るわけだから。少なくとも、自分と

いう意識が有って、 いま、守られているのだから。






2023年8月5日土曜日

“役得” で恐縮です



 今から三年以上前に書いた『生きる価値など無いあなた

へ』(2020/4)というのは、このブログの中でも珠玉の名作

だと思っている(自分で言う?)。なにせ、自分で読み返し

て感動を覚える。自分で書いたなどとは到底思えない。たま

たま自分を通り道にしてこの世に出て来た話だと、それこそ

本気で思っている。
 

 「私」などというものは無いのだ。これ(私)は、この世

界のエナジーの一つの表出口であって、「私個人」という実

体が有るわけじゃない。ひとつの方便として、いまこの形を

とって何かをしているのであって、それが何になるのか自分

にはわからないし、責任も持てない。責任を持てないのだか

ら、自分の功績なども無い。「私個人」というものには何の

価値も無い。

 日々の暮らしや、このブログを書くことなど、自分がして

いることを面白がったり不思議がったりして眺めているけれ

ど、面白がれる自分で在らせてもらえることが有り難い。


 世の中には、さほど大きな問題をかかえているわけでもな

いのに文句ばっかり言っている人間が大勢いるけど、そうい

う人がそのようで在るのはたまたまそういう必然なだけだ。

そういう面白くない生き方をしなければならないのは損で気

の毒な役回りだと思う。私がそういう人間であったとしても

なんの不思議も無いのに、今現在はそうなっていないのがと

ても不思議だ。

 なぜ、生活が楽だったりもしないのに、あまり文句も言わ

ずに結構人生を楽しめていたり、こんなブログを書くような

人間になっているのか? 「役得だなぁ」と思う。このブログ

は、その “役得感” をおすそ分けする為にあるのだろう。上手

くいっているかどうかは知らないけれど・・・。


 実のところは、世の中にはそんな “役得” な人の方がはるか

に多いのに、なぜだか〈満足をする能力〉を持たされていな

いのでそれに気付けない人だらけ。世界というものは意地が

悪いなぁと思うが、そこにはわたしたちの知り得ない理由が

あるのかもしれない。考えてもムダなので、それは考えない

けど・・・。


 “役得” というのは、普通には「得な役回り」ということだ

けど、「役を得た」と読むこともできて、「役がある」とい

うこと自体が「得」だと考えたって罪にはならない。

 「役がある」。すなわち「いま生きている」。それが

「得」なら、もう文句は無いことになる。


 明石家さんまは「生きてるだけで丸儲け」と言う。いいセ

リフだと思うし、さんまは “役得感” を強く感じているのだろ

う。ただ、私の思いとは少し違うのかもしれない。


 生きていても、何も「儲け」は無い。同時に何の「損」も

無い。

 「生きている」ことは、「損」も「儲け」も超越してい

る。そんな下世話なこととは関係なく、「生きている」は、

在る。この不可思議を味わえるのなら、それ以上に素晴らし

いことはない。


 私は、私という「役」を得て、いまこうしている。

 あなたは、あなたという「役」を得て、いまそこでそうし

ている。

 他の誰でもない私やあなたも、私やあなたではない他の誰

かも、それぞれに世の中のお話しや損得には関係のない “役

得” を味わうことができるのは、その人だけ。

 私はそのことに恐縮して「う~む・・・・」と沈黙してし

まう。沈黙してしまうと、そこに静かな喜びがあることに気

付く。

 「役得だなぁ」と思う。恐縮する。

 みんな恐縮すればいいのになぁ。