2023年8月5日土曜日

“役得” で恐縮です



 今から三年以上前に書いた『生きる価値など無いあなた

へ』(2020/4)というのは、このブログの中でも珠玉の名作

だと思っている(自分で言う?)。なにせ、自分で読み返し

て感動を覚える。自分で書いたなどとは到底思えない。たま

たま自分を通り道にしてこの世に出て来た話だと、それこそ

本気で思っている。
 

 「私」などというものは無いのだ。これ(私)は、この世

界のエナジーの一つの表出口であって、「私個人」という実

体が有るわけじゃない。ひとつの方便として、いまこの形を

とって何かをしているのであって、それが何になるのか自分

にはわからないし、責任も持てない。責任を持てないのだか

ら、自分の功績なども無い。「私個人」というものには何の

価値も無い。

 日々の暮らしや、このブログを書くことなど、自分がして

いることを面白がったり不思議がったりして眺めているけれ

ど、面白がれる自分で在らせてもらえることが有り難い。


 世の中には、さほど大きな問題をかかえているわけでもな

いのに文句ばっかり言っている人間が大勢いるけど、そうい

う人がそのようで在るのはたまたまそういう必然なだけだ。

そういう面白くない生き方をしなければならないのは損で気

の毒な役回りだと思う。私がそういう人間であったとしても

なんの不思議も無いのに、今現在はそうなっていないのがと

ても不思議だ。

 なぜ、生活が楽だったりもしないのに、あまり文句も言わ

ずに結構人生を楽しめていたり、こんなブログを書くような

人間になっているのか? 「役得だなぁ」と思う。このブログ

は、その “役得感” をおすそ分けする為にあるのだろう。上手

くいっているかどうかは知らないけれど・・・。


 実のところは、世の中にはそんな “役得” な人の方がはるか

に多いのに、なぜだか〈満足をする能力〉を持たされていな

いのでそれに気付けない人だらけ。世界というものは意地が

悪いなぁと思うが、そこにはわたしたちの知り得ない理由が

あるのかもしれない。考えてもムダなので、それは考えない

けど・・・。


 “役得” というのは、普通には「得な役回り」ということだ

けど、「役を得た」と読むこともできて、「役がある」とい

うこと自体が「得」だと考えたって罪にはならない。

 「役がある」。すなわち「いま生きている」。それが

「得」なら、もう文句は無いことになる。


 明石家さんまは「生きてるだけで丸儲け」と言う。いいセ

リフだと思うし、さんまは “役得感” を強く感じているのだろ

う。ただ、私の思いとは少し違うのかもしれない。


 生きていても、何も「儲け」は無い。同時に何の「損」も

無い。

 「生きている」ことは、「損」も「儲け」も超越してい

る。そんな下世話なこととは関係なく、「生きている」は、

在る。この不可思議を味わえるのなら、それ以上に素晴らし

いことはない。


 私は、私という「役」を得て、いまこうしている。

 あなたは、あなたという「役」を得て、いまそこでそうし

ている。

 他の誰でもない私やあなたも、私やあなたではない他の誰

かも、それぞれに世の中のお話しや損得には関係のない “役

得” を味わうことができるのは、その人だけ。

 私はそのことに恐縮して「う~む・・・・」と沈黙してし

まう。沈黙してしまうと、そこに静かな喜びがあることに気

付く。

 「役得だなぁ」と思う。恐縮する。

 みんな恐縮すればいいのになぁ。




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