2022年2月26日土曜日

命の側からのお誘い



 前回、『3mm の春』というのを書いたのがちょうど一週

間前。その後冷え込みが続いたのでオオイヌノフグリの花は

咲かなかったけど、やっと昨日咲いた。これから本格的に春

へと向かうだろう。


 私は、自然との関わりを一切持てなければ、確実に精神を

病んでしまうだろうと思う。私にとって、自然と関わってい

るのは、文字通り「自然」な事なのです(もしかしたら、

「このブログを読む限り、既に病んでるよ」と思われるかも

しれないけど、社会生活ができないわけではないので、病ん

でいないことにしておいてもらおう)。

 一方、現代の都会では一切自然と関わらずに暮らすことも

できて、そのような人も多いのだろうけど、私からすれば、

そういう状況で平気な精神の方が病んでいて、幸福から最も

遠い生き方だろうとも思う。


 人と人と、アタマとアタマの作り上げたお話しの中に身も

心もドップリと入り込んで、約束事の幸福を追い求めて比べ

合い、競い合う。興奮と失望が繰り返す日々に、エゴイステ

ィックかつマゾヒスティックな満足を覚えながら生きる。

現が大袈裟かもしれないが、大なり小なりその構図は当て

まるだろう。それは薬物中毒に似ている。いや、同じだろ

う。興奮と失望の落差から、脳内に快感物質が放出されるの

だから・・・。

 薬物中毒者にとっての幸福とは何か? それは人としての幸

福だろうか?


 自然は人の「お話し」とは関係が無い。その証拠に、災害

や病気は無情に人の命と生活を奪い去る。人など眼中に無

い。意識もされていない。その意味では冷たい。けれど、そ

のことが尊い。有り難い。

 こちらに構わないでくれる。ことさら関わって来ようとは

せず、そのままかたわらに在ってくれる。こちら側からの働

きかけを拒まず、なされるがままにされている。こちらを評

価しないし、戦いを望んでも来ない。要するに、誰でもが受

け入れられている。安心できる。

 たとえ、自然の強さに打ち負かされ、命を失うことになっ

ても、人間に追い詰められたり、殺されるのとはわけが違

う。自然は無心だから。


 人のように自分の利害から人を殺すのではないので、その

分だけは命を奪われる悔しさは無いだろうし、本当に自然と

の繋がりを持っていれば、自然から命を奪われることに何の

悔しさも無いだろう。あらためてひとつになるだけのことだ

から。

 なので、自然と関わっていると人の苦しみの根源である

「死への恐れ」が薄れ、心に安らぎが訪れる。


 空を見上げるとき、海辺で潮風に吹かれるとき、川のせせ

らぎや鳥のさえずりを聞くとき、森を眺め花に目を奪われる

とき、今日も動いてくれる自分のからだに感謝を持って触れ

るとき・・・。わたしたちは、その間「死への恐れ」から解

放される。「死への恐れ」はアタマが作り出す「お話し」の

中にしかないから。


 オオイヌノフグリの小さな空色の花は、命の側で咲いてい

る。

 春はことさらに、世界が命で満たされていることを強く示

す。

 「ここには死は無い」と。

 「そのアタマの世界から、ちょっと出ておいで」と。
 

 春が来る。


   撮るのが少し遅くて、ちょっとしおれかけているけど




2022年2月20日日曜日

3mm の春


 今日は冷たい風が吹いて、けっこう寒い。北日本ではこれ

から明日にかけて低気圧が発達して、大荒れになるという。

山陰地方でも雪が強まるらしい。「春はまだまだ」という雰

囲気だけど、この低気圧が過ぎれば、かなり春めいて来るん

じゃないかと思う。というのは、今朝、我が家の玄関先のオ

オイヌノフグリが3mm 程の花のつぼみを付けているのを見

つけて、「ああ、春が来る」と思ったから。というわけで、

今回のタイトルは『3mm の春』。


 何に目を向けるかで世界はまったく違って見える。どう捉

えるかで違うものに見える。

 違って見えるというより、実際に世界が違ってしまう。世

界は自分次第で変わる。だって、それぞれが見ているのは、

自分の視点からの、自分だけの世界なんだから。


 以前、韓国の女性が整形依存症のような状態になり、お金

がないので自分で顔に油などを注射したりして、バケモノの

ような風貌になってしまったのをテレビで見たが、あの女性

は鏡を見ても自分の顔がそうなっているにの気が付かない。

キレイになっているように見えている。あれは、わたしたち

の意識がその気になれば、いかに現実を見ずにいられるか、

いかに世界を自分の意識で作り変えて捉えているかを象徴し

ている。自分の世界は、少なくとも意識の中では自分が作っ

ている。


 なので、冷たい風の中、私の中では今朝『3mm の春』が

生まれ、心の中には春の気配が広がっている。気持ちがい

い。

 自然の良いところは、「わたしを “こう” 見なさい」と求め

て来たりしないところ。どう見るかはこちらに任されてい

る。けれど人間相手だとそうはいかない。


 「わたしを “こう” 見なさい」、「この出来事は “このよう

に” 受け止めなさい」などと求めて来て、花から率直に季節

を見て取るようなゆとりなど持っていられない。不要なエネ

ルギーを使わせられてしまう。


 今日も、テレビでは「暴風雪が強まります。不要不急の外

出は控えて下さい」と、視聴者にご指導して下さるのだろ

う。「さすがは、たかがテレビ様」などと私なんぞはイヤミ

を言ってしまうが、世の中は真面目な人が多いので「そう

だ、そうだ・・・」なんて思うんだろうなぁ。まぁ、用事が

無ければ、そもそもそんな天気で外に出たりしないだろうけ

ど。


 世界には78億人がそれぞれに意味付けした世界が有っ

て、それぞれが少しづつ関係し合い、複雑怪奇な様相を成し

ていて誰の手にも負えない( 中には「自分はコントロール出

来ている」などと思い込めている人もいるだろうけど )。付

き合うと疲れる。身体を壊したり、精神に異常をきたしたり

することもある。


 意味付けをせずに世界を見れば、世界は一つしかない。複

雑ではなく、何も求めても来ない、ひとりひとりに、すべて

ゆだねられた世界が在る。

 今日、私は、私の世界を「春」にした。



 真ん中のブルーが「3mm の春」
 私には、これでも十分に「春」なのです。 





2022年2月19日土曜日

迷い続けて、そのままに



 この世には、悟った人というものがいるようです。

 私も悟りたいと思って来た。いまも少し思っているけれ

ど、悟っても悟らなくても大した違いはないと最近は思って

いる。まぁ、悟った方が気楽で面白いだろうとは思う。その

一方で、世の中はつまらないものになり果てるだろうから、

プラスマイナス・ゼロじゃなかろうかという気もする。


 悟ろうが悟るまいが、生きて死ぬだけで、そこには何の違

いも無いだろう。

 人としての生活にジタバタすることにも違いは無い。気持

ちがゆったりしてるか、右往左往してるかの違いがあるだ

け。まぁそれは大きな違いかもしれないが、それだけのこと

だと言えなくもない。


 悟る縁にある人は悟るし、悟る縁に無い人は悟らない。そ

れは当人が選べることではないので、どちらであれ、それが

その人としての在り方なのでしようがないし、それでいい。

いいとしか言いようがない。だって「そう在る」ことを否定

した所で何にもならない。「“そう在ること” を否定するとい

う在り方」になるだけの話だから、永遠のいたちごっこで疲

れるだけのことだろう。

 とはいえ、悟った方が生きている喜びは深いだろうから、

私の好みとしてはそっちの方がいい。そういう縁にあればい

いなと思う。


 「悟っても悟らなくても大した違いはないから、人それぞ

れどっちでもいいし、どうにかできるものでもない」という

明らめは、 “悟り” なんだろうか?


 こういう話を始めると、行ったり来たりの堂々巡りで、た

だのムダ話のようになってしまうが、そもそも生きてること

はそういうことだとも言える。

 養老孟司先生が「現代人は効率第一。それならさっさとお

墓に入るのが一番効率がいいけどね」と言う。人生は非効率

でムダなものだというのが本当のところだから、「寄り道み

たいな気持ちで生きればいいんじゃないか?」とも仰る。そ

ういう達観があると、肩の力が抜けて気分が良くなることだ

ろう。


 私たちは煩悩というものを持って生きているけれど、その

悩は私たちの命が受け入れているからこそ存在する。命が

け入れているのだから、文句を言ったり無くしたりする必

もないのかもしれない。

 煩悩は有っても無くても、まぁ構わない・・・。

 そんな自由無礙な気持ちがいいように思う。


 一休さんが言ってるね。「釈迦という いたずら者が世に

出でて 多くの人を惑わすかな」。

 でもまぁ、惑わされるのもご縁なので、その迷いの道草を

笑ってしまえるのなら有難いね。いまのところ有難いです。



2022年2月12日土曜日

ベッドの中で・・・



 ちょうど三年ほど前に書いた『不幸な人もしあわせなら

ば・・・』 という話を読み返していて、その最後のほうで、

「絵本を現実と思い込んでしまうのが、わたしたち人間で

す。絵本の中にあるものは、“絵本の中のしあわせ” です。ほ

んとうのしあわせは、絵本を読んでもらっている、ベッドの

中の自分なのです」と書いているのを見た。

 「おお、良い文章だなぁ」と自分で思って、喜んでいる。

そして、その自分に自分で呆れている。どうしようもないな

ぁ。


 けれど、いまこうやって書いていても、良い文だと思う。

 絵本、つまり「世の中」や、その中の自分の「人生」が面

白いのは良いことだ。けれど、本当に素晴らしいことは、自

分が暖かなベッドの中にいるということだ。 

 母親や父親だとかに庇護されて絵本を読んでもらっている

にせよ、自分で読んでいるにせよ、そこは暖かなベッドの

中。その安らぎこそ尊い。そして、その暖かなベッドとは何

か?


 自分を取り巻く「お話し」がどのようなものであれ、「お

話し」とは無関係に存在している自分がいる。「お話し」の

せいで狂いそうになってしまうこともある。実際に狂ってし

まうこともある。けれど、たとえアタマが狂おうと心臓は動

き続ける。「お話し」とは関係なく、生きている自分がい

る。「お話し」とは関係なく、死んで行く自分がいる。その

関係が無いところが尊い。そして、それこそが〈命〉と呼ば

れるべきものだと思う。その〈命〉を存在させているのは何

か?


 浄土宗ではそれを「阿弥陀」と言う。華厳宗では「毘盧遮

那」と言い、真言宗では「大日如来」と言う。老荘では「道

(タオ)」と言い表す。だいたいそのように捉えておいて間

違いはないだろうと思う。

 それぞれに呼び方は違っても、その伝えたいところは同じ

で、暖かなベッドのようにわたしたちを包んでいるのだけ

ど、人はそのことを意識できず、絵本の中のお話しに憑りつ

かれて、喜んだり悲しんだりを繰り返す。悪夢を見てうなさ

れたりしているようなこともしょっちゅうでしょう。でも、

の悪夢は眠っている時に見る悪夢とは違う。眠りの中で見

る悪夢は、自分から覚めることはできない。自然に目が覚め

ることでしか抜け出せない。けれど、目覚めていながら見て

いる悪夢は自分の思考が作っているので、上手にやれば脱け

出すことが出来る。そして、自分が暖かなベッドの中にいる

という気付きに立ち返って、その暖かさ心地よさを味わうこ

とができる。


  火の車 だれも作り手無かれども 

             己が作りて 己が乗り行く

 そんな歌もある。


 「いやいや、他人の作った火の車に乗せられてしまうこと

も多いよ」と思われるかもしれないですね。そう、それはそ

うです。自分のせいじゃない苦労をしなければならないこと

はよくあることですね。確かに、物理的、具体的な苦労はそ

うなんですが、それによる内面的な苦しみを作るのは、やは

りわたしたちのアタマなのです。アタマが苦しみを生まなけ

れば、苦労は実際的、身体的な苦労で済んでしまうのです。

 例えば、食べ過ぎておなかの具合が悪いとなれば「あ~、

しばらく辛抱だな」と思うだけでしょうが、同じようにおな

かの具合が悪くても、原因がはっきりしなければ、「なんだ

これ?大丈夫か?・・・」と怖くなる。なかなか「一日様子

を見よう」などとはならない。アタマが妄想して先走るので

すね。

 アタマが不安になろうと意に介さずにいようと、身体の調

子には(基本的に)関係ない。それなら、意に介さない方が

楽でしょう。


 「なんにせよ、いま生きてるよなぁ」


 そんな達観が有れば、世の中や自分の身の上に何が起ころ

うとも、意識はベッドの上で安楽なのです。


 「そんな、お気楽な気持ちでいられないよ」

 そういう思いが浮かぶかもしれませんが、生きていれば必

ず苦労するのです。世の中にも自分の身の上にも、ご遠慮し

たい事が尽きないのです。そして、最期には死が待ってい

る・・・。

 だったら、「なんにせよ、いまいきてるなぁ」という達観

を持って、心を安らかにしていられる方が、自分に親切なの

ではないでしょうか?


 走り回っている時でも、頭を抱えて嘆いている時でも、今

まさに死のうとしている時でも、わたしたちの「生」は、安

楽な〈命〉というベッドの上です。喜びも苦しみも、〈命〉

に支えられている。そこに意識が向けば、すべてを許すこと

ができる。

 「ああ、なんにせよ、いま生きてるなぁ」


 実際、いま生きてるでしょ?


 それは、言葉にならないほどしみじみとした感慨へと、

たしたちを深く導くものではないでしょうか。






2022年2月6日日曜日

なりたい自分になろうとする人たち



 アマゾンで「何か面白い本はないかな」と探していたら、

タイトルにの中に「なりたい自分になる・・・」などと書か

れている本があった。

 この頃結構耳にしたりする言葉ですね。「なりたい自分に

なる」って。私は「プッ」て笑ってしまうんですけど。


 昔、岸田秀さんの本を読んでいて「自分の性格を変えたい

という人がいるけど、“自分の性格を変えたい” という性格は

変えたくないんですかね」という一文があったけど、「なり

たい自分になる」なんて聞くと、それを思い出す。「なりた

い自分」ではない「今の自分」は、何なんですか? 自分に失

礼ですよね。

 みんな誰でも自分が一番大事で、他人のことは二の次なの

に、せめて自分が自分を認めてあげなくてどうするんです

か? などと思う。


 「なりたい自分」って、本当に自分が望んでる自分なんで

しょうか? 

 その望みは、自分の本質から出て来ているものなのでしょ

うか?

 私にはちょっと信じられないなぁ。

 他人との比較の中で、“社会的な価値を持つ自分” というも

のを外付けしようとしているだけなのでは?


 「今の自分」は、“今、そうなっている自分” ですが、「な

りたい自分」より「そうなっている自分」を大切にした方

が、人生は “ふくよか” なものになる気がする。一方、「なり

たい自分になりたい」なんていうのは、“欲深か” な気がす

る。

 ダメだとまでは言わないけど、迂闊にその線で進めて行く

と、自分の本質からどんどん離れて、命が宙に浮いてしまい

そうに思う。「なりたい自分」は「自分」か?


 私はアウトドア派なので昔はよく焚火をしたけど、焚火っ

て、紙屑とかの焚きつけに火を点けて、その上に適切に薪を

載せていれば自然と燃えていって、イイ焚火になるんですよ

ね。「なりたい自分になる」って、薪の上に着火剤を付けて

バーナーであぶって強引に火を点けるような感じがする。下

の方に燃えさしが残るような気がする。自然の摂理を無視し

て、何か取り違えてるんじゃないのかって・・・。


 「なりたい自分」って、社会から刷り込まれたイメージに

多分に依っているのだろうと思う。なぜなら、本当に自分が

望んでることは、「なりたい」とか「やりたい」とか思う前

にもうやってしまっているものだと思うから。オタクみたい

にね。

 止むにやまれずやってしまう。止むにやまれずなってしま

う自分が、まだ本当の自分に近いように思うんですよ。

 社会でひとかどのことを成した人って、良い悪いは別にし

て、「そうしてしまった」「そうなってしまった」人だと思

うんですよね。その人の努力とか手柄ではなくて、自ずとそ

うなった。「そういう自分」になったんだと思う。


 この前、ビッグボス新庄が言ってた。

 「努力したことはない。そうなりたいと思ったことに必要

な事を、自然にしてきただけ」

 やっぱりな。そうだと思ってた。


 新庄は「ああいう」人間で、「ああいう必然」の人だけ

ど、普通の人が普通になんでもない人のままでいる必然とい

う方が多数派なんですよ。普通にも達しないという必然の人

も結構いるんですよ。「そういう自分」が「そういう必然」

なんだから、世の中の基準を持ち込む前に、「そういう自

分」に敬意を払うべきだと思うんですよね。その敬意と自分

を愛おしむ気持ちが、自分を「思いがけなく愛せる自分」に

導いて行く元になると思うんですよね。どのように「思いが

けない」かは、それぞれですけど・・・。なにせ「思いがけ

ない」んですからね。


 「“思いがけなく愛せる自分” になりたい」


 そういう発想って、ちょっと素敵じゃない?