2022年2月12日土曜日

ベッドの中で・・・



 ちょうど三年ほど前に書いた『不幸な人もしあわせなら

ば・・・』 という話を読み返していて、その最後のほうで、

「絵本を現実と思い込んでしまうのが、わたしたち人間で

す。絵本の中にあるものは、“絵本の中のしあわせ” です。ほ

んとうのしあわせは、絵本を読んでもらっている、ベッドの

中の自分なのです」と書いているのを見た。

 「おお、良い文章だなぁ」と自分で思って、喜んでいる。

そして、その自分に自分で呆れている。どうしようもないな

ぁ。


 けれど、いまこうやって書いていても、良い文だと思う。

 絵本、つまり「世の中」や、その中の自分の「人生」が面

白いのは良いことだ。けれど、本当に素晴らしいことは、自

分が暖かなベッドの中にいるということだ。 

 母親や父親だとかに庇護されて絵本を読んでもらっている

にせよ、自分で読んでいるにせよ、そこは暖かなベッドの

中。その安らぎこそ尊い。そして、その暖かなベッドとは何

か?


 自分を取り巻く「お話し」がどのようなものであれ、「お

話し」とは無関係に存在している自分がいる。「お話し」の

せいで狂いそうになってしまうこともある。実際に狂ってし

まうこともある。けれど、たとえアタマが狂おうと心臓は動

き続ける。「お話し」とは関係なく、生きている自分がい

る。「お話し」とは関係なく、死んで行く自分がいる。その

関係が無いところが尊い。そして、それこそが〈命〉と呼ば

れるべきものだと思う。その〈命〉を存在させているのは何

か?


 浄土宗ではそれを「阿弥陀」と言う。華厳宗では「毘盧遮

那」と言い、真言宗では「大日如来」と言う。老荘では「道

(タオ)」と言い表す。だいたいそのように捉えておいて間

違いはないだろうと思う。

 それぞれに呼び方は違っても、その伝えたいところは同じ

で、暖かなベッドのようにわたしたちを包んでいるのだけ

ど、人はそのことを意識できず、絵本の中のお話しに憑りつ

かれて、喜んだり悲しんだりを繰り返す。悪夢を見てうなさ

れたりしているようなこともしょっちゅうでしょう。でも、

の悪夢は眠っている時に見る悪夢とは違う。眠りの中で見

る悪夢は、自分から覚めることはできない。自然に目が覚め

ることでしか抜け出せない。けれど、目覚めていながら見て

いる悪夢は自分の思考が作っているので、上手にやれば脱け

出すことが出来る。そして、自分が暖かなベッドの中にいる

という気付きに立ち返って、その暖かさ心地よさを味わうこ

とができる。


  火の車 だれも作り手無かれども 

             己が作りて 己が乗り行く

 そんな歌もある。


 「いやいや、他人の作った火の車に乗せられてしまうこと

も多いよ」と思われるかもしれないですね。そう、それはそ

うです。自分のせいじゃない苦労をしなければならないこと

はよくあることですね。確かに、物理的、具体的な苦労はそ

うなんですが、それによる内面的な苦しみを作るのは、やは

りわたしたちのアタマなのです。アタマが苦しみを生まなけ

れば、苦労は実際的、身体的な苦労で済んでしまうのです。

 例えば、食べ過ぎておなかの具合が悪いとなれば「あ~、

しばらく辛抱だな」と思うだけでしょうが、同じようにおな

かの具合が悪くても、原因がはっきりしなければ、「なんだ

これ?大丈夫か?・・・」と怖くなる。なかなか「一日様子

を見よう」などとはならない。アタマが妄想して先走るので

すね。

 アタマが不安になろうと意に介さずにいようと、身体の調

子には(基本的に)関係ない。それなら、意に介さない方が

楽でしょう。


 「なんにせよ、いま生きてるよなぁ」


 そんな達観が有れば、世の中や自分の身の上に何が起ころ

うとも、意識はベッドの上で安楽なのです。


 「そんな、お気楽な気持ちでいられないよ」

 そういう思いが浮かぶかもしれませんが、生きていれば必

ず苦労するのです。世の中にも自分の身の上にも、ご遠慮し

たい事が尽きないのです。そして、最期には死が待ってい

る・・・。

 だったら、「なんにせよ、いまいきてるなぁ」という達観

を持って、心を安らかにしていられる方が、自分に親切なの

ではないでしょうか?


 走り回っている時でも、頭を抱えて嘆いている時でも、今

まさに死のうとしている時でも、わたしたちの「生」は、安

楽な〈命〉というベッドの上です。喜びも苦しみも、〈命〉

に支えられている。そこに意識が向けば、すべてを許すこと

ができる。

 「ああ、なんにせよ、いま生きてるなぁ」


 実際、いま生きてるでしょ?


 それは、言葉にならないほどしみじみとした感慨へと、

たしたちを深く導くものではないでしょうか。






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