2022年12月30日金曜日

自分を生きる



 “人人みな(それぞれみな)「自己」を生きねばならない”


 この沢木興道老師の言葉(『禅に聞け』より)がふと頭に

浮かんで書き始めた。

 それは当たり前の話で、「自己」を生きねばならないし、

「自己」を生きるよりしようがない。誰かに代わってもらう

ことも、誰かの人生と取り替えることもできない。けれど、

大抵は自分を気に入らない。「この自分(この人生)どうに

かならないのか?」なんて思ってるのだが、誰かに代わって

もらえば自分は消えてしまうことになる。誰かの人生と取り

替えても、“誰か” が “自分” になって、“自分” が “誰か” に

なるだけ。


 「こんな自分は(こんな人生は)嫌だ!」と言ったところ

で、自分が自分を生きるよりしようがない。

 「この自分が(この人生が)好きだ!」と思っても、さて

それがいつまで続くのか?

 「嫌だ!」「好きだ!」という比較・評価を持って自分

(人生)を見ているのなら、早晩「好きだ!」とは言ってら

れない羽目になるだろう。何かの基準を置いて自分(人生)

を天秤に掛けている限り、たえず揺れ続ける。人は落ち着く

ことはない。


 そうは言っても、この世の中で生きている限り比較せずに

は生きられない。世の中は自分の為に有るのではないから、

上がったり下がったりを繰り返す。その度バランスをとろう

と反対側へと移ろうと苦労することになる。けれど、それは

天秤棒の上にいる(そこに意識を置いている)せいなので、

意識を支柱(支点)に置けば、天秤がどれだけ揺れようが関

係なくなる。

 ただ、「揺れようが関係ない」ことになるけれど、天秤棒

の重みは支えなければならない。病気になったり暮らしに苦

労したり、この世の中で生きている具体的な重さは消せな

い。それは「生きている」ということだから死ぬ他に逃れる

道は無い。けれど、不動の一点で落ち着いていられる。どち

らが良いかは好みの問題かもしれないけれど、どちらを選ぶ

か、どちらに回るかはさだめとしか言いようがない。


 揺さぶられ続けるにせよ、重みを引き受けるにせよ、それ

が自分ならそれを生きるよりしようがない。けれど、「しよ

うがないから、この “自分” (この人生)を引き受ける」と肚

を決めたとき、意識は自動的に支点へと移る。それは、「生

きる」ということの本質がそこにあるという証拠だろう。


 わたしたちはみな「自己」を生きねばならない。「自己」

を生きるしかしようがない。

 自分を生きられるのは自分だけ、この宇宙で二度とない 

“自分” 。誰かに代わってもらうのはもったいない。

 どれだけの長さを生きようが、世の中の評価でゴミ扱いさ

れようが、他には無い “自分” 。二度と無い “自分” 。絶体

の “自分” 。

 世の中という天秤棒の上でうろちょろしないで、その下で

この世界を受け止める。


 二度と無い “自分” 。

 絶体の “自分” 。

 それは空前絶後の出来事なのであって、慈しむに値する。

 そして慈しむことで、本当に、生きるに値する “自分” にな

る。それが本当に「自己」を生きるということだろう。


 自分を生きる



2022年12月27日火曜日

なぜめぐりあうのかを、わたしたちはなにも知らない



 〈 なぜめぐりあうのかを わたしたちはなにも知らない                           

  いつめぐりあうのかを わたしたちはいつも知らない 〉


 中島みゆきの『糸』の歌詞ですけどね。近年、この曲をモ

チーフにした映画が作られたこともあって、名曲として広く

知られるようになったようです。私も、最近、福原希己江さ

んという歌い手が You Tube でカバーしているのを聴いて感

激し、あらためてよく聴いているんですけど、良い曲です。


 〈 なぜめぐりあうのかを わたしたちはなにも知らない 〉
 

 「めぐりあう」と言ったときに、普通わたしたちは、重要

な、印象的な「めぐりあい」を考える。そういう「めぐりあ

い」がわたしたちの運命・人生を変えて行くというようなイ

メージを持っているからです。

 けれども、「めぐりあい」という言葉の意味からすれば、

わたしたちは毎瞬々々、人だけではなく、ありとあらゆるも

のにめぐりあいながら生きているわけです。そして、それら

の「めぐりあい」に動かされて行くことが「生きている」と

いうことだと言えます。「めぐりあい」を通過して行くこと

が人生だともいえるでしょう。そして『糸』に歌われるよう

に、それらの「めぐりあい」が、なぜ自分にもたらされるの

かを、わたしたちはいつも知らない。知りようがないし、望

ましい「めぐりあい」も、望まない「めぐりあい」も、わた

したちには選べない。どうしようもなくめぐりあってしま

う。


 なぜわたしたちには “望ましい「めぐりあい」” と “望まな

い「めぐりあい」” があるのでしょう? それは、毎瞬ごとの

無数の「めぐりあい」の中から、わたしたちの自意識が、自

分を成り立たせているストーリーに関わるものを選り取って

しまうからです。


 ストーリーを持つ(作る)ためには、どうしてもその土台

となる世界観が要ります。その為、自意識は自分の依って立

つストーリーを維持しようと、無数の「めぐりあい」の中か

ら都合の良いものを取り込もうとするのです。けれども、あ

る世界観を持つと、そこにはほぼ必ず反対の概念が生じてし

まいます。望ましいものを求める意識は、それを選び取る過

程で望まないものを無視することができません。何かを望む

ことは、不可避的に望まないものを生みだします。それゆ

え、わたしたちは望まないものにめぐりあわなければしよう

がなくなるのです。


 先に書いたように、わたしたちは毎瞬々々無数のことにめ

ぐりあい、そのめぐりあいに動かされ、今を生きています。

そう説明されれば、「そうだな」と思われるのではないでし

ょうか?


 食べ物にめぐりあったり、病原体にめぐりあったり、さま

ざまな「めぐりあい」を経ながら、今たまたま、生かそうと

する「めぐりあい」が優勢なので生きているよう思える。

けれど「めぐりあい」がわたしたちを生かしているのではあ

りません。

 〈 わたし 〉が「めぐりあう」のではなくて、さまざまなこ

とがめぐりあった結果が、いまここに在る〈 わたし 〉なので

す。


 ある時、一つずつの精子と卵子がめぐりあい、私やあなた

が生まれた。その後も私やあなたを生かし続けるめぐりあい

によって、にめぐりあっている。いや、あなたという

「めぐりあい」の姿が継続している。


 そこには、私やあなたの持つストーリーは関係ない。わた

したちは「なぜ」なのかを知らない。知りようがない。むし

ろ、知り得ないそのことを知ろうとすることが苦しみを生

む。(知ろうとしてしまうことも、そういう「めぐりあい」

のゆえではありますが)


 いつ、誰と、何と、なぜ、めぐりあうのか?

 それは知り得ないし、知る必要も無い。

 ただ、無数の「めぐりあい」の発露としての、“いま在る自

分” を無心に受け取ってゆくならば、そこには “「めぐりあ

い」の恩寵” とでも言うような安らぎがある。私はそう感じ

ています。それは、さまざまなめぐりあいの果てになのです

が・・・。






2022年12月22日木曜日

管理中毒者たちへ



 一昨日、ニュースを見てアタマに来たんですよね。何のニ

ュースかというと、「自転車のヘルメット着用義務化」とい

うやつなんですけど、自転車は私の日常の交通手段で、それ

に乗るのにいちいちヘルメットをかぶれなんて・・・、寝耳

に水です。何の前触れも無しにいきなり「決定です」

と・・・。

 管理中毒の安心安全原理主義者が、私たちには相談も

く、知らない所で勝手にこんなことを決めて押し付けて来

る。アタマに来る。


 「2017~2021年の自転車の死亡事故が2145件で、そ

内の約6割の1237人が頭部に致命傷を負っていた。致

死率はヘルメット着用者が0.26%で、非着用者が0.59%で約

2.2倍」なんだとか。

 五年間で1237人だから、年間247人が頭部に致命傷

を負って、その内の170人が非着用者ということらしい。


 “ヘルメットをかぶらずに自転車に乗ることで、年間170

人もの人が命を失っているなんてあってはならないことだ。

 毎年、65歳以上の高齢者の方が「転倒・転落・墜落」に

よって8000人ぐらい亡くなっていて、その内のほぼ半数

が住宅内での事故であり、そのうちの74%が同一平面上(平

らな所)での転倒だけど、そのような高齢者に対して「寝て

いる時以外は自宅でもヘルメットを着用することを義務化す

る」なんてことなんかより、自転車で年間170人もの人が

くなることを防ぐ方がよっぽど大事だな・・・” 


 などという意味合いのイヤミを言いながら、ニュースを見

ていたのでした。(ブログを書くにあたって、数字を詳しく

確認しました)


 安心安全を旗印に、生きることの気安さをどんどん奪い取

ってゆく連中。さっき書いたように、高齢者に家の中でのヘ

ルメット着用も義務付けるべきだろう。そういうことがお好

きで、そんなにが大事ならね。


 命というものは、生物的な生存のことではない。わたした

ちが日々生きて活動しているそのことではないか。それをが

んじがらめに縛って硬直化させることは、命のふくよかさを

消し去ることだろう。アタマでっかちの管理中毒者にはそれ

が分からない。


 コロナのさまざまな対応といい、今回のニュースといい、

つい「自分が死ぬことの何が悪い!?」と大声を出したくな

ってしまう。ヘルメットをしないことで、他人を死に至らし

めるというのではないのだら・・・。ホントに呆れかえ

るし、腹立たしい。


 ただただ単純に生存し続けたい人間はそうすればいい。好

きにすればいいのだ。ただ、それを押し付けないでくれ。私

は生存し続けたいのではない。生きているうちに生きたい

だ!


 「安心安全原理主義」という言葉がバズってくれて、誰も

が知る概念になってくれればと、心底思う。


 「こいつらと関わってると命が痩せてしまう・・・」

 憮然としながら、私はため息をついているのだった。



 

 

2022年12月16日金曜日

マインドコントロール



 いまだに旧・統一教会(と表記するのが公式のようなの

で)関係のニュースが多いので、それに伴ってマインドコン

トロールという言葉もしばしば耳にするのですが、もともと

はマインドコントロールという言葉が気に入らない。一つ

は、「マインドコントロールと説得・折伏・教育に違いはあ

るのか?」という思いがあること。二つ目には、マインドコ

ントロールされる側が、それを求めているだろうと思うこ

と。三つ目には、マインドコントロールされていない人間は

いないと思うこと。もう一つは少し話がズレるのだけれど、

マインドコントロールは布教の為に行われることが多いけれ

ど、「布教と営業に違いはあるのか?」ということ。営業活

動というものも、大なり小なりマインドコントロールだろう

から、「マインドコントロールがいけないというのなら、あ

らゆる営業活動についても問題にすべきなんじゃない?」な

どと思っています。

 わたしたちの人生は常に不完全です。わたしたちは満足す

るという能力を欠いているので、常に何かが欠けているとい

う意識で生きている。そこを埋めるものとして宗教はよく使

われるわけですが、それ以外にも、社会的に認められたさま

ざまな能力(頭の良さ、運動能力、芸術的才能、金を稼ぐ能

力など・・・)を高めることで、不完全さを補おうとしま

す。そういったものに価値があり、人生をささえるものにな

り得るという考えは、社会から刷り込まれたものですから、

それを信じて疑おうとしないのは、マインドコントロールさ

れているということです。ただ、それが社会に認められてい

る事だから、「マインドコントロールされてる!」と非難さ

れないというだけの話です。


 人間が生きてゆくことの本質からすれば、数億円もするタ

ワーマンションの最上階の部屋を買うことと、壺に数千万円

の金を出すことには違いはありません。それらのマインドコ

ントロールの外に在る人から見れば、「そんなのしあわせと

関係ないでしょう。アタマおかしいんじゃないの?」という

感じです。ただ、そう言う人が、何千本というボールペンの

コレクションを大切にしていて、それに人生の時間の多くを

掛けていたりするかもしれません。そんな極端な事ではなく

ても、大なり小なり、みんな同じような事をしています。似

たもの同士なのです。

 けれど、大抵の人はそういうことに気付かない。「アイツ

はおかしい」と思っています。自分もマインドコントロール

されているとは思わないのです。


 人はすぐに「アイツはおかしい」と言いますが、「自分も

おかしい」のです。「みんなおかしい」のです。たまたまそ

の時代、その場所で認められている側に立っている場合に、

安心して調子に乗っているに過ぎません。

 どんなに飾っても、何かのお墨付きをもらっても、飾ろう

としたり、お墨付きをもらおうとすること自体が、その事に

本当の価値が無いことを示しています。


 人の弱みに付け込んで金を盗ろうなんてロクなもんじゃあ

りませんが、常識、正当と考えられている事の中でも、同じ

ような事がいっぱいあります。マインドコントロールされて

いるので、みんな気付かないだけです。


 「マインド」というものは、コントロールしたがり、コン

トロールされたがるものなのです。

 「マインド」主体で生きる限り、マインドコントロールの

中にあるのですよ。

 まあ、それでしあわせなら別にいいんですけどね。ところ

変われば品変わる。人それぞれですから。

 ただ、「みんなおかしい」のですから、人のことをとやか

く言う前に、自分のことを振り返るというたしなみが欲しい

ところです。そいういうたしなみが無い人間が「マインドコ

ントロール」を問題にするものですから、私は「マインドコ

ントロール」という言葉が気に入らないのですよ。




2022年12月11日日曜日

完全無防備



 人は大抵、自分を守ろうと懸命です。

 他者に対して防衛線を張り、牽制し、圧力をかけ、自分に

害を及ぼしにくいところへ誘導したり、「自分は敵ではな

い」と思ってもらおうとアピールしたりして、それでも自分

を守り切れなさそうに思えたら攻撃に出る。自分でそんなこ

とをしていると意識している人は少ないだろうけど、ほとん

ど例外はない。

 そうやって自分が安全になったりしあわせになったりする

のならいいけれど、かえって問題を引き起こして苦しくなる

のが普通です。でも、みんなそれに気付かない。


 バーノン・ハワードという人が、人間のそういう悪癖に対

して、こんな言葉を遺しています。


 人は、自分はいま自分をどうしてよいか分からないと知る

勇気と正直さをもつとき、奇跡は起こる。(中略)あなたに

はもう戦う力がない。疲れ果て打ちひしがれている。あなた

は恐怖に震えながら、人間的な鎧を脱ぎ、殺されるのを待っ

てそこに立ちつくしている。

 だが奇跡はそのとき起こるのだ。(中略)あなたはもう生

きようともがくことはしなくてよい、あなたは生自身をして

その生きるに委せる。(中略)あなたはいま幸福である。そ

して何ものもそれを奪い去ることができないと、あなたは知

っている。

               『スーパーマインド』から


 覚めている人はいついかなるときも守られている。その守

られ方は眠っている人の考えているような守られ方とは異な

る。それは完全無防備という守られ方である。

            『なぜあなた我慢するのか』から

                (共に、日本教文社刊)


 わたしたちが自分を守ろうとすることを完全にやめたと

き、わたしたちを脅かすものは一切無くなる。

 わたしたちが守ろうとしている自分というのは、セルフイ

メージのことであって、そこに実体は無い。守ろうとする意

識が、かえってセルフイメージを強固にし、それを脅かすも

のに対する恐れも強くしてしまう。その為、さらに自分を守

ろうとする意識が働く。けれども、守ることをやめたらどう

か? セルフイメージの周りに張り巡らせていた守りの壁を取

り除いたらどうなるか? 

 人は、そこに何も無いことを知る。

 何も無いのだから、壊されたり、奪われたりする心配は無

い。完全な安らぎがあり、この安らぎを脅かすものは存在し

ない。そういう意味で完全に守られている。


 その守られ方は、単に他者の圧迫や攻撃からだけではな

い。セルフイメージが脅かされることへの不安も自分を苦し

めるのだから、自分自身が生むネガティブ感情からも守られ

ることになる。


 昔こんな話を聞いたことがある。

 エレベーターの点検の為にエレベーターの箱の上に作業員

がいたのだが、何かの不手際でエレベーターが動き始めた。

エレベーターは上昇し続け、最上階の天井が迫って来た。潰

されてしまうと思った作業員は天井に手を付き、なんとか全

身の力で空間を保とうとしたのだが、結局首の骨が折れて死

んでしまった・・・。事故後の調査で、エレベーターと天井

の間には横になれるだけの十分な隙間があり、作業員が伏せ

ていれば、ケガもせずに済む状況だったそうだ。

 この話は実話と聞いたが、もしかしたら作り話かもしれな

い。けれど、この話は人が自分を守ろうとしてかえって自分

を失うことを、象徴的に表しているだろう。


 わたしたちを取り巻く世界も、人も、わたしたちが思うよ

うに制御できるわけではない。それどころか、わたしたち自

身が世界の一部として世界に動かされている。それに抵抗す

ることは、かえってわたしたち自身を消耗させ、命のエネル

ギーを奪う。そもそもわたしたちが守ろうとするのは、セル

フイメージという架空のものであって、そんなものの為に命

のエネルギーを浪費するのは割が合わないだろう。


 生活をしていれば、強欲で無神経な人間や、冷酷なエゴイ

ストや、怯えて冷静さを失くした人間が、実際的な圧力なり

攻撃を仕掛けてくることもある。そういう時には、自分のセ

ルフイメージを守ろうと防御態勢をとったり、反撃したりす

るのではなくて、賢く身をかわせばいいのだ。

そのときに、守らないでいることは、わたしたちの賢明さが

表に出てくることを邪魔しないでいてくれるだろう。


 完全無防備。

 自分を守ることを完全にやめたとき。

 完全に明け渡したとき。

 幸福も不幸も無条件で放棄したとき。

 わたしたちを苦しめるものは、何も無い。



2022年11月20日日曜日

レトロの、今



 久しぶりにナット・キング・コールを聴きながら、これを

書き始めた。以前『ナット・キング・コールと不寛容社会』

(2017/7)という話を書いたけど、今日はそういう話じゃな

くて「レトロ」について書こうかなと思っている。

(さっき、NHKの『COOL JAPAN』で「レトロ」の話題を

観たからだけど・・)


 「レトロ」というのは【回顧的(懐古的)】とか【郷愁を

誘う】とかいうことらしいけど、最近の「レトロ」は、素直

に「こういうの見たことなくて新鮮。カワイイ!カッコイ

イ!」ということで、率直に「イイ!」ということのよう

だ。

 世界のいわゆる先進国では文化が行き詰まって、もう新し

いものが生み出せなくなっていると私は考えている。つまり

前に進めない。ならば、昔のものが再認識され、若い世代が

それを「新鮮」と感じても不思議は無い。なので、以前の

「レトロ」とはだいぶ違うだろう。


 以前の「レトロ」は、やはり「懐かしい」というものだっ

ただろうけれど、それは「これから先には未来がある」から

こそ「懐かしい」のであって、「もう済んだものの中にもイ

ものが有った」ということだろう。

 それに対して、現代の若い世代にとっての「レトロ」は違

う。もう新しいものは生まれないので、「知らない昔に戻る

しか手が無い」ということなのだろう。

 たぶん、この十数年の間に、1950年代から2000年

頃までの文化をループして、近・現代の文化は終わりを告げ

るのだろう。さよなら、20世紀・・・・。


 さて、新しいものが生み出せなくなって、そのリサイク

ル、リユースも終わって、人は何をするのだろうか? 文化と

いう「装飾」が価値を保てなくなったら、「装飾」ではない

ものに目を向けるしかないだろうと思う。


 もう30年以上前に見た本に、「“情報化社会” の次には 

“精神性の社会” (だったと思う)になる」という話が書いて

あったけど、どうやらそれは正解だったように思える。

 具体的にでも、情報としてでも、もう “外からのもの” に価

値を見いだす時代は終わろうとしているように思う。 人は一

万年以上の時間をかけて、ようやく “内的幸福” に辿り着こう

としているのではないだろうか? そうであってほしいけど。


 文化というものは、上手に付き合えば楽しいものだ。新し

くてもレトロでも、それが「飾りである」「お話しである」

と認識した上で人生に取り入れるのなら問題は無い。けれど

も、人の生の本質や自然への畏怖を覆い隠してしまうようで

あるならば、文化は束縛であり、さらには呪縛となって、人

を牢獄へと引き込む。

 最近の「レトロ」が、“ある時代の文化” を再認識するだけ

でなく、“文化” というもの自体を再確認するものになればい

いなと思う。つまり「なんだってイイんだ!」という自由さ

を知るということに・・・。


 “文化” って、要するに形式のことだろうけど、形式ができ

と、どうしても「正・誤」が生まれてしまう。さらに、そ

「正・誤」が、その人の「正・誤」の評価にまでなってし

う。そのことが、古来から人を苦しめて来た。


 昔の文化が「新しい」ものになり、外国の文化が美しかっ

たりカッコ良かったりするのならば、それは “文化” というも

に「正・誤」など無いからだろう。そして、「正・誤」が

いのは、もともと実体が無いからだ。


 もうそろそろいいのではないか?

 人は、“文化” から一歩退き、命の側に立って “文化” を味

わい楽しむ存在になれるはずなのだ。

 「レトロ」が新しいのは、その時が近付いているからなの

か、それとも単に行き場を無くしているだけなのか?


 私にわかるわけはないが、若い人の為に「人が文化を越え

る時が近付いているんだ」と思っておこう。









2022年11月14日月曜日

かたじけなさになみだこぼるる



 どういうご縁か知る由もないけれど、なぜかこんなブログを

書き続けている。それが何になるのかならないのか知らな

い。知ったところでどうにもならないし、知る必要も無いと

思うけれど、ただ〈なにごとのおはしますかはしらねども 

かたじけなさになみだこぼるる〉という西行の歌を思い出し

たりする。


 今日は、カーペンターズのカレンの美しい歌声をずっと聴

いているけれど、40年以上も前の歌をこういう風に今も聴

いて心揺さぶられる。・・・かたじけなさになみだこぼる

る。


 きれいな空を見上げる。輝くように開いているキンセンカ

の花を見る。久しぶりに降った雨の湿り気を感じる。雨の音

を聴く・・・。かたじけなさになみだこぼるる・・・。い

や、本当に、なみだがこぼれてくる。


 自分は決して良い人間ではない。取るに足りない存在だ。

それでも、こんなに美しく温かな思いを受け取れる。自分の

どこにそんな値打ちがあるだろうか・・・? なにごとのおは

しますかはしらねども かたじけなさになみだこぼる

る・・・。


 それこそ思い上がりかもしれないけれど、私が持つこの思

いと、西行が抱いた思いは同じものだろう。そうに違いな

い。


 なぜ生まれてきたのか知らない。

 なぜ生きているのかも知らない。

 いつ死んで、どうなるのかも知らない。

 何も知らないが、自分が生きているこの世界、この時代の

中で、自分のような者が、美しさ温かさ清々しさ和やかさを

感じられる。「なんてありがたい事か」と思う。かたじけな

さになみだこぼるる・・・。


 さまざまな不安や苦しみ、気苦労が有る。けれど、それら

を凌ぐ喜びが有る。それらが問題にならない心の場所が与え

られている。それは私だけではなく、すべての人に与えられ

ているだろう。けれども、どうやら生きているうちにそれに

気付ける人は少ないようなのだ。だからこそ、「なぜ、自分

のようなものがそう思える?」。そのことに対して、かたじ

けなさになみだこぼるる・・・。そして、その「かたじけな

さ」や「なみだこぼるる」ことが、さらにかたじなくてなみ

だこぼるる・・・。


 本当に、いま、私はかたじけなくて泣いている。


 生きている。

 苦しみも喜びも、神々しさもくだらなさも受け取りなが

ら、それを受け取れることができるこの〈自分〉というもの

に驚いている。

 「これはいったい何なのだろうか?・・・」


 ただ、かたじけなさになみだこぼるる・・・。






2022年11月13日日曜日

知性とは



 今日は “知性” というものを私なりに定義し直してみたいと

思う。 


 “知性” というと、理性(合理性・倫理性)と同じものとい

うような考えが普通なんだろう。けれど、随分賢いのに “知

性” を持ち合わせていないような人間もいる。じゃぁ “知性” 

とは何か?

 字のごとく「知る性質」だろう。

 「知る」こと、つまり「受け取る」こと。受容性こそが 

“知性” だろうと考える。


 わたしたちの中には〈自意識〉と〈無意識〉があると誰で

も考えているだろうけど、私は〈「無」の意識〉というもの

もあると考えている。


 〈自意識〉は、考えをあっちへやったりこっちへやったり

組み立てたりバラしたりという思考の運動で、常に動いてい

る。

 〈無意識〉は思考に運動させるさまざまな衝動とエネルギ

ーが混沌として集まっている場で、外界や自意識からの刺激

に反応して、自意識にエネルギーと方向を与える働きをす

る、本能が支配するブラックボックスのようなものだろう。

 どちらも能動的で、「働きかける存在」だといえる。それ

に対して “知性” は働きかけないものだと思う。動かず、どこ

までも「受け取るもの」であると・・。


 〈自意識 (思考)〉 には理性があって知性が無い。

 〈無意識〉には理性も知性も無く、ただ衝動と反応だけが

ある。

 〈「無」の意識〉には理性も無く衝動も反応も無く、それ

は “知性” そのもので、〈自意識〉と〈無意識〉と、さらに世

界からもたらされるすべてを受け止め、包み込んで拡がって

いる  例えるなら、〈自意識〉が地球だとすれば〈無意

識〉はそれを動かす太陽で、〈「無」の意識〉は宇宙空間だ

と言えばいいかもしれない。


 ただただ受け入れる。

 より好みをせず受け入れる。

 より好みをする理由が無い。

 受け入れないことができない。

 なぜなら、自分の知覚に届くものであれば、「起きた事」

「もたらされた事」からは逃れることはできない。受け止め

ざるを得ない。拒んでも、もうその時は自分は知ってしまっ

ている。それならば受け入れるしかない。だから受け入れ

る。ただただ受け入れる。


 より好みをしない。

 拒まない。

 評価しない。

 それが自分に届いた以上、とにかく受け入れる。

 そして、そのままにしておく。


 〈無意識〉と〈自意識〉がそれをどのように扱おうと、そ

れもそのままにしておく。〈自意識〉と〈無意識〉の働き

も、やはりそれだから、ただ、それらを知っておく・・・。

それが “知性” の働きだろうし、それは四六時中、寝ている間

もそうあるはずだ。けれど、普段、〈自意識〉と〈無意識〉

の喧騒に邪魔されて、わたしたちはそのことに気付けずにい

る。もったいない話だと思う。


 わたしたちの日常では、“知性” はほとんど無視されてい

る。

 〈自意識〉は自分自身と外界に働きかけて、それらを意の

ままにしようとしているだけで、「受け入れる」のは意に叶

ことだけだし、〈無意識〉はただ自分を押し出すだけで、

「受け入れる」ということが何かさえ知りはしない。


 “知性” とは、命の働きの本質だろう。

 世界も、世界を受けとめる窓口である ”自分” も含めて、た

だ受け入れる。そして、それを味わうことが「生きている」

ということなのだろう。


 〈「無」の意識〉へ退いて、世界を受け入れ、味わ

う・・・。

 その時、私たちは世界そのものであるだろう。いや、世界

よりも広い “在ること” だろう。

 ただ ”知性” が働いていること。それが真に「生きる」と言

ることだろう。

 わたしたち(自分)の中に “知性” は無い。




 
 

2022年11月6日日曜日

「文句は無い」と・・・



 『大智禅師偈頌(げじゅ)』というものがあって、大智祖

継(だいちそけい)という、今から700年ぐらい前の熊本

出身の禅僧が残した偈頌(漢詩)なんですが、禅のテキスト

の一つとして受け継がれています。

 この偈頌について、私は余語翠巌老師の本でしか知りませ

んが、禅、仏教について、味わい深く鋭い言葉が多く記され

ています。その中で、今日は特に取り上げたい言葉があるの

でそれについて書こうと思いますが、それは余語老師の本の

タイトルにもなっていて、この偈頌の中心となっているよう

な、こういう言葉です。


  果滿三祇道始成 

  (果、三祇に満ちて、道始めより成ず
              
    ~か、さんぎにみちて、みちはじめよりじょうず)


 「三祇」というのは「無限の時間」という意味だそうで、

「果」は、いまこの世界のことで、「道」は絶対の幸福だと

捉えていいでしょう。

 ということで、〈 無限の過去から未来まで、始めから終わ

りまで、この世界のすべては幸福である 〉と言っているのだ

と私は受け取っています。


 何もかも、すべてはその時あるがままで完全です。だっ

て、そのようにあるこの世界にケチを付けてもどうにもなら

ない。そうなっているんだから、そうなっているんだと受け

取る以外にしようがない。ケチを付けてもつまらんだけで

す。落ち着いて考えてみればそうとしか言えない。


 そりゃぁね、刃物を持った奴が、刺そうと追いかけて来た

りしたら逃げなきゃならないけれど、それはそれということ

で、ケチを付けてもしようがない。「そういうことが起きて

いる」とだけ受け止めて、それに合わせて動くだけのこと

で、そこに評価を差し挟まない。具体的に困ったら困ったま

まで完全なのです。


 ケチを付けなければ完全です。殺されそうなままで幸福で

す。逃げ延びても幸福です。逃げ損ねて殺されても幸福で

す。起きてしまうことは起こるべくして起こるので、それは

それで、「そうなんだ」と受け取ってしまえば文句の出る幕

は無い。文句の出る幕が無ければ、文句は無いわけで・・。

だから幸福です。


 ケチを付けることもあります。でも、ケチを付けたら、

「ケチを付ける」という事が起きていると受け取って、“ケチ

を付けている自分” にケチを付けなければいいわけです

し、“ケチを付けている自分” にケチを付けてしまっても、

〈 “ケチを付けている自分” にケチを付けてしまっている自

分 〉にケチを付ける必要もないわけです。だって「道始めよ

り成ず」なんですから、そのままで完全なんです。要する

に、世界に対して自分が与える評価なんて、世界に関係ない

わけですね。
 

 文句を付けて、自分で勝手に不機嫌になっているだけのこ

とだというのが、わたしたちの苦悩であり不幸であるわけで

す。極端に言えば、「あ、そう」と受け止められないことな

か存在しないと言えるんですよね。


 「そんなこと出来ないよ」と言われるかもしれませんが、

「あ、そう」と受け止められないことがあれば、“受け止めら

れない” ということが起きているというだけのことなので、

それはそれでいいわけです。


 上手に生きても、下手くそに生きても、悟っても悟らなく

ても、何がどうだろうと幸福なんです。「果、三祇に満ち

て、道始めより成ず」なんですから・・・。文句を言ったと

ころで、そんな文句、虚空に消えて行くだけのことです。


 この世界がロクでもないと感じても、自分がどうしようも

ない出来損ないだと思えても、心配する必要はないのです。

大智禅師はそれを教えたいのだと思います。