2022年11月6日日曜日

「文句は無い」と・・・



 『大智禅師偈頌(げじゅ)』というものがあって、大智祖

継(だいちそけい)という、今から700年ぐらい前の熊本

出身の禅僧が残した偈頌(漢詩)なんですが、禅のテキスト

の一つとして受け継がれています。

 この偈頌について、私は余語翠巌老師の本でしか知りませ

んが、禅、仏教について、味わい深く鋭い言葉が多く記され

ています。その中で、今日は特に取り上げたい言葉があるの

でそれについて書こうと思いますが、それは余語老師の本の

タイトルにもなっていて、この偈頌の中心となっているよう

な、こういう言葉です。


  果滿三祇道始成 

  (果、三祇に満ちて、道始めより成ず
              
    ~か、さんぎにみちて、みちはじめよりじょうず)


 「三祇」というのは「無限の時間」という意味だそうで、

「果」は、いまこの世界のことで、「道」は絶対の幸福だと

捉えていいでしょう。

 ということで、〈 無限の過去から未来まで、始めから終わ

りまで、この世界のすべては幸福である 〉と言っているのだ

と私は受け取っています。


 何もかも、すべてはその時あるがままで完全です。だっ

て、そのようにあるこの世界にケチを付けてもどうにもなら

ない。そうなっているんだから、そうなっているんだと受け

取る以外にしようがない。ケチを付けてもつまらんだけで

す。落ち着いて考えてみればそうとしか言えない。


 そりゃぁね、刃物を持った奴が、刺そうと追いかけて来た

りしたら逃げなきゃならないけれど、それはそれということ

で、ケチを付けてもしようがない。「そういうことが起きて

いる」とだけ受け止めて、それに合わせて動くだけのこと

で、そこに評価を差し挟まない。具体的に困ったら困ったま

まで完全なのです。


 ケチを付けなければ完全です。殺されそうなままで幸福で

す。逃げ延びても幸福です。逃げ損ねて殺されても幸福で

す。起きてしまうことは起こるべくして起こるので、それは

それで、「そうなんだ」と受け取ってしまえば文句の出る幕

は無い。文句の出る幕が無ければ、文句は無いわけで・・。

だから幸福です。


 ケチを付けることもあります。でも、ケチを付けたら、

「ケチを付ける」という事が起きていると受け取って、“ケチ

を付けている自分” にケチを付けなければいいわけです

し、“ケチを付けている自分” にケチを付けてしまっても、

〈 “ケチを付けている自分” にケチを付けてしまっている自

分 〉にケチを付ける必要もないわけです。だって「道始めよ

り成ず」なんですから、そのままで完全なんです。要する

に、世界に対して自分が与える評価なんて、世界に関係ない

わけですね。
 

 文句を付けて、自分で勝手に不機嫌になっているだけのこ

とだというのが、わたしたちの苦悩であり不幸であるわけで

す。極端に言えば、「あ、そう」と受け止められないことな

か存在しないと言えるんですよね。


 「そんなこと出来ないよ」と言われるかもしれませんが、

「あ、そう」と受け止められないことがあれば、“受け止めら

れない” ということが起きているというだけのことなので、

それはそれでいいわけです。


 上手に生きても、下手くそに生きても、悟っても悟らなく

ても、何がどうだろうと幸福なんです。「果、三祇に満ち

て、道始めより成ず」なんですから・・・。文句を言ったと

ころで、そんな文句、虚空に消えて行くだけのことです。


 この世界がロクでもないと感じても、自分がどうしようも

ない出来損ないだと思えても、心配する必要はないのです。

大智禅師はそれを教えたいのだと思います。



 

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