『大智禅師偈頌(げじゅ)』というものがあって、大智祖
継(だいちそけい)という、今から700年ぐらい前の熊本
出身の禅僧が残した偈頌(漢詩)なんですが、禅のテキスト
の一つとして受け継がれています。
この偈頌について、私は余語翠巌老師の本でしか知りませ
んが、禅、仏教について、味わい深く鋭い言葉が多く記され
ています。その中で、今日は特に取り上げたい言葉があるの
でそれについて書こうと思いますが、それは余語老師の本の
タイトルにもなっていて、この偈頌の中心となっているよう
な、こういう言葉です。
果滿三祇道始成
(果、三祇に満ちて、道始めより成ず
~か、さんぎにみちて、みちはじめよりじょうず)
「三祇」というのは「無限の時間」という意味だそうで、
「果」は、いまこの世界のことで、「道」は絶対の幸福だと
捉えていいでしょう。
ということで、〈 無限の過去から未来まで、始めから終わ
りまで、この世界のすべては幸福である 〉と言っているのだ
と私は受け取っています。
何もかも、すべてはその時あるがままで完全です。だっ
て、そのようにあるこの世界にケチを付けてもどうにもなら
ない。そうなっているんだから、そうなっているんだと受け
取る以外にしようがない。ケチを付けてもつまらんだけで
す。落ち着いて考えてみればそうとしか言えない。
そりゃぁね、刃物を持った奴が、刺そうと追いかけて来た
りしたら逃げなきゃならないけれど、それはそれということ
で、ケチを付けてもしようがない。「そういうことが起きて
いる」とだけ受け止めて、それに合わせて動くだけのこと
で、そこに評価を差し挟まない。具体的に困ったら困ったま
まで完全なのです。
ケチを付けなければ完全です。殺されそうなままで幸福で
す。逃げ延びても幸福です。逃げ損ねて殺されても幸福で
す。起きてしまうことは起こるべくして起こるので、それは
それで、「そうなんだ」と受け取ってしまえば文句の出る幕
は無い。文句の出る幕が無ければ、文句は無いわけで・・。
だから幸福です。
ケチを付けることもあります。でも、ケチを付けたら、
「ケチを付ける」という事が起きていると受け取って、“ケチ
を付けている自分” にケチを付けなければいいわけです
し、“ケチを付けている自分” にケチを付けてしまっても、
〈 “ケチを付けている自分” にケチを付けてしまっている自
分 〉にケチを付ける必要もないわけです。だって「道始めよ
り成ず」なんですから、そのままで完全なんです。要する
に、世界に対して自分が与える評価なんて、世界に関係ない
わけですね。
文句を付けて、自分で勝手に不機嫌になっているだけのこ
とだというのが、わたしたちの苦悩であり不幸であるわけで
す。極端に言えば、「あ、そう」と受け止められないことな
んか存在しないと言えるんですよね。
「そんなこと出来ないよ」と言われるかもしれませんが、
「あ、そう」と受け止められないことがあれば、“受け止めら
れない” ということが起きているというだけのことなので、
それはそれでいいわけです。
上手に生きても、下手くそに生きても、悟っても悟らなく
ても、何がどうだろうと幸福なんです。「果、三祇に満ち
て、道始めより成ず」なんですから・・・。文句を言ったと
ころで、そんな文句、虚空に消えて行くだけのことです。
この世界がロクでもないと感じても、自分がどうしようも
ない出来損ないだと思えても、心配する必要はないのです。
大智禅師はそれを教えたいのだと思います。
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