2022年11月13日日曜日

知性とは



 今日は “知性” というものを私なりに定義し直してみたいと

思う。 


 “知性” というと、理性(合理性・倫理性)と同じものとい

うような考えが普通なんだろう。けれど、随分賢いのに “知

性” を持ち合わせていないような人間もいる。じゃぁ “知性” 

とは何か?

 字のごとく「知る性質」だろう。

 「知る」こと、つまり「受け取る」こと。受容性こそが 

“知性” だろうと考える。


 わたしたちの中には〈自意識〉と〈無意識〉があると誰で

も考えているだろうけど、私は〈「無」の意識〉というもの

もあると考えている。


 〈自意識〉は、考えをあっちへやったりこっちへやったり

組み立てたりバラしたりという思考の運動で、常に動いてい

る。

 〈無意識〉は思考に運動させるさまざまな衝動とエネルギ

ーが混沌として集まっている場で、外界や自意識からの刺激

に反応して、自意識にエネルギーと方向を与える働きをす

る、本能が支配するブラックボックスのようなものだろう。

 どちらも能動的で、「働きかける存在」だといえる。それ

に対して “知性” は働きかけないものだと思う。動かず、どこ

までも「受け取るもの」であると・・。


 〈自意識 (思考)〉 には理性があって知性が無い。

 〈無意識〉には理性も知性も無く、ただ衝動と反応だけが

ある。

 〈「無」の意識〉には理性も無く衝動も反応も無く、それ

は “知性” そのもので、〈自意識〉と〈無意識〉と、さらに世

界からもたらされるすべてを受け止め、包み込んで拡がって

いる  例えるなら、〈自意識〉が地球だとすれば〈無意

識〉はそれを動かす太陽で、〈「無」の意識〉は宇宙空間だ

と言えばいいかもしれない。


 ただただ受け入れる。

 より好みをせず受け入れる。

 より好みをする理由が無い。

 受け入れないことができない。

 なぜなら、自分の知覚に届くものであれば、「起きた事」

「もたらされた事」からは逃れることはできない。受け止め

ざるを得ない。拒んでも、もうその時は自分は知ってしまっ

ている。それならば受け入れるしかない。だから受け入れ

る。ただただ受け入れる。


 より好みをしない。

 拒まない。

 評価しない。

 それが自分に届いた以上、とにかく受け入れる。

 そして、そのままにしておく。


 〈無意識〉と〈自意識〉がそれをどのように扱おうと、そ

れもそのままにしておく。〈自意識〉と〈無意識〉の働き

も、やはりそれだから、ただ、それらを知っておく・・・。

それが “知性” の働きだろうし、それは四六時中、寝ている間

もそうあるはずだ。けれど、普段、〈自意識〉と〈無意識〉

の喧騒に邪魔されて、わたしたちはそのことに気付けずにい

る。もったいない話だと思う。


 わたしたちの日常では、“知性” はほとんど無視されてい

る。

 〈自意識〉は自分自身と外界に働きかけて、それらを意の

ままにしようとしているだけで、「受け入れる」のは意に叶

ことだけだし、〈無意識〉はただ自分を押し出すだけで、

「受け入れる」ということが何かさえ知りはしない。


 “知性” とは、命の働きの本質だろう。

 世界も、世界を受けとめる窓口である ”自分” も含めて、た

だ受け入れる。そして、それを味わうことが「生きている」

ということなのだろう。


 〈「無」の意識〉へ退いて、世界を受け入れ、味わ

う・・・。

 その時、私たちは世界そのものであるだろう。いや、世界

よりも広い “在ること” だろう。

 ただ ”知性” が働いていること。それが真に「生きる」と言

ることだろう。

 わたしたち(自分)の中に “知性” は無い。




 
 

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