2018年2月28日水曜日

一緒に、逃げない?


 この三日間、面倒なことを考え過ぎて疲れてしまった。

 もうあんな事は止めようかなと思う。

 読む方だって面倒臭くて、分けわかんなくて、面白くはな

さそうだし。

 考えたことを書いたのではなくて、考える過程をそのまま

書いた様なもんだから、本来ひと様に見せるようなものでは

ないし・・・。



 じゃぁ、なんでそんなものを書くかというと、このブログ

が “正解を載せる” というようなものではないからですね。



 私の書くことは、「生きること」や「世界」などという、

はなはだ面倒な問題に対する私なりの解答であって、クイ

ズのように “決まった答え” があるわけじゃない。そもそも 

“決まった答えが有る問題” を扱っていない。

 人によって解釈が違い、納得する答えも違う問題ばかりを

扱っている。私の答えを見て「なんだ、このバカ。」と思わ

れる確率だって高い。

 それでも書いて、考えを詰めて行く様子まで見せて、何を

したいかというと、“読む人の考え” を揺さぶりたいんで

す。

 「教えられた正しさ」や、経験によって知った「正解」

や、世の中の「常識」といった、一般に “普通”、“当たり

前” とされてる考えを揺さぶりたい。


 「こんなのだってアリじゃない?」

 「こっちが正解かも知れないよ?」



 そんな風な投げかけをして、“読む人の考え”   つまり

エゴをぐらつかせたいんです。



 クイズの答えや、数学の答えのような「約束事」には、言

葉に出来るような「正解」というものがあるけれど、〈生き

ること〉にはハッキリとした「正解」など無い。

 にもかかわらず、「常識だ」などと言って、その場しのぎ

や、ご都合主義の答えを振り回す人間ばっかりなので、イヤ

になるんです。それに、そういう人は自分の持ってる “答

え” に確信が無いものだから、心の底では不安を感じて苦し

んでる。それを「救ってあげよう」という思いやりの気持ち

でもあります。(おお、上から目線だね。) 
 

 その為には、揺さぶらなければいけない。

 アタマに詰まった 、“がらくたの思考” の価値を揺さぶら

なければならない。「これでもまだ、それが正解だと言えま

すか?」と。
 
 だから、私の書くことが「正解」かどうかなんて、あまり

関係ない。「正解」ならそれにこしたことはないですが、揺

さぶることが出来たら、それでいいわけです。
  

 けれど、そんなことは、ただ単に迷惑かも知れない。

 「寝た子を起こす」だけかも知れない。

 でも、このブログに出会ってしまったのが “運のつき” 。

 上手に「良い縁」にして貰うしかないでしょう。

 それに、私の書いてる事が、独りよがりの妄想なら、そも

そも人の考えを揺さぶる力などないでしょうし・・。



 誠に思い上がった言い方で恐縮ですが、私は〈自分〉と

〈あなた〉を救いたいわけです。“自身のエゴ” と “世の中” 

という「エゴの母体」が作りだす、〈地獄〉からね。

 「一緒に、逃げない?と。




2018年2月27日火曜日

〈今〉とは、何か?


 前々回、前回をまだ引きずっています。

 昨日は、マジで〈知恵熱〉が出た。けれども、ある程度は

決着を付けたい。(私なりにですが・・)



 「わたしたちには〈今〉しかないのに、何故、“考える時

間” が必要な〈思考〉が可能なのか?」



 脳の機能を考えると、「可能かな?」みたいに思ったりも

するのです。

 あるひとかたまりの思考をしている時は、「スケートリン

クに次々とスケーターが出て来て、グルグルと動き回り、練

習が済んだらみんな出て行く」といった感じに、はじめに脳

に入った順に “入力” を動かし続けておけば、次々と入って

来る “入力” と関連付けながら、ひとつの思考を続けられ

る。どの “入力” も思考が終るまでは〈過去〉にせず、〈思

考〉を続けられると。



 けれども、やはり〈今〉は一瞬です。

 「一瞬」とは、もはや時間ではありません。

 無限に小さい、「ある場」とでも呼ぶしかないものです。

 スケーターを滑らせておく“間” は無いように思います。



  〈今〉とは、何か?

 脳が〈時間〉を見て聴いてしまうに、「この瞬間」だ

けを〈現実〉と捉えてしまうことによって生まれる概念でし

ょう。本当は〈今〉として区切られる瞬間は、無いのではな

いか。

 やはり「時間は存在しない」という前提に立った方がよさ

そうだと思う。



 わたしたちの脳が〈時間〉を見なければ、世界はどんな風

に見えるか? 残念ながら、それはわたしたちの〈思考〉で

は捉えることが出来ない。

 〈思考〉する為には〈時間〉が必要なので、〈時間〉を排

除した途端に〈思考〉は止まる。

 止まるが、止まるのは〈思考〉であって、〈意識〉が無く

なるわけではないので、“〈思考〉の無い〈意識〉” によっ

て世界を見ることは出来るだろう。それはどんな世界か。

 〈時間〉を排除すると、同時に「距離」の概念・感覚もな

くなるので、〈全世界〉と〈全時間〉を自身の内に感じる事

になる。世界と自分がひとつになる。  



 いつの回だったか、私自身がそんな体験をしたことを、書

きました。「ある時、突然思考が止まり、世界との一体感を

持った」と。

 あれは、いわば “脳がフリーズしたような状態” でした

が、事情がどうあれ、「わたしたちは世界と一体になる感覚

を持ち得る」のは、自分の体験上断言できます。そして、そ

れが良い事かどうかと言えば、私の実感としては「良いこ

と」でした。「また経験したい」「ずっとあの状態でいた

い」と思いますから。それこそ、あれを「ニルバーナ」と呼

ぶのでしょう。

 あの時のような「思考停止」状態は、長く続けば生活に支

障をきたしますから、「ニルバーナ」と言っても、釈迦のよ

うな人たちの在り方とは違うでしょう。



 あのような人たちは、その状態を自在に ON/OFFできる

とか、生活に支障の出ない “深さ” に、コントロールできる

のだろうと思います。

 どちらにせよ、できるだけ〈意識〉から〈時間〉の観念を

排除するように〈思考〉をコントロールすることが、幸福で

あるために必要だとされて来たのでしょう。だから精神的な

豊かさを求めた人たちは、「いま、ここ」を強調する。



 私も、「いま、ここ」に在ることが大事だと書いて来まし

た。

 けれど、今回の話を書いている内に、〈過去〉と〈未来〉

を忘れて〈今〉に在ろうとすることは、実は〈今〉に没入す

ることで、〈過去〉と〈未来〉もろとも〈時間〉そのものを

消し去ろうという目論見だと感じてきました。

 そして、〈過去〉〈未来〉ともども、〈今〉さえも存在し

ないのだと・・・。



 〈今〉とは、アタマが作り上げた、〈過去〉と〈未来〉の

間で、綱渡りをする為の “綱” なのでしょう。人はその上で

いつもグラグラしている。



 降りてしまったほうが良いのでしょう。

 そのためには、『いま、ここ』よりも、『〈今〉は、ど

こ?』という感覚の方が強力かも知れません。

 実は〈今〉さえも、幻想なんだと。

 だから、歴史に名を遺す禅僧などが、何も言わず “指を一

本立てるだけ” とか、訊かれても “何も答えない” という振

る舞いをしたのでしょう。「今」とか「ここ」と答えること

さえ余計だと・・・。



 (もちろん、日常生活をこんな意識でやったら、破綻しか

ねませんし、人に話したら「頭」を疑われます。私は各々の

「アタマ」を疑って欲しいんですけどね・・)


 《 未来は無い、過去は無い、今も無い 》


 それでいいんじゃないでしょうか?





2018年2月26日月曜日

記憶の不思議 Ⅱ


 前回の続きです。



 わたしたちには〈今〉しかないわけですが、ひとつ前の 

〈今〉は何処に行ったのでしょう? あるいは “昨日” は、

“去年” は何処にいったのでしょう?


 昨日、わたしは “昨日” を経験しました。

 昨日、「昨日の私」がいました。

 けど “昨日” という、何か実体があるわけでありません

ね。“昨日” と呼ばれる時間の範囲の中に存在した、出来

  物・事のすべて  を “昨日” と呼んでいるんわけで

す。



 わたしたちは、経験したことを〈過去〉と呼んでいます。

 これから経験するであろうことを〈未来〉と呼びます。

 でも〈今〉しか存在しないのなら、〈過去〉は存在しなか

ったのと同じではないですか? 

 いえ、〈過去〉なんてそもそも無いんじゃないですか? 

今〉しか存在していないんですから。

 〈過去〉なんてものが「存在している」とするのは、おか

しなことです。

 ところがわたしたちは、「昨日はああだった、こうだっ

た」と〈過去〉を語りますから、わたしたちのアタマの中に

は〈過去〉が存在しています。けれど、現実には〈過去〉は

もうすでに無い。では、アタマの中にはなぜ〈過去〉が存在

するのでしょうか?



 わたしたちのアタマが作ってるんでしょうね。〈過去〉

を。



 とはいうものの、あなたの部屋やスマホのように、ほぼ昨

日と同じ状態で存在し続けているものがほとんどだし、「自

転車の乗り方」のように、〈過去〉に経験し習得した能力な

どは、わたしたちの中に残っているので、〈過去〉は〈今〉

に持ち越されているように見えます。それらは「アタマが作

っている」のではないから、〈過去〉が無くなり切っていな

いということではないのか?

 つまり、〈過去〉はもう無くなっているけれど、「過去の

状態」は変化して引き継がれているということにならない

か? 

 ですが、「変化して引き継がれてる」というのもおかしな

話で、「変化」したら「引き継がれた」ことにはなりません

よね。「違うもの」ですから。やはり「過去の状態」は存在

していないということになりますね。

 やはり〈過去〉はアタマの中にしか存在しない。いや、

過去〉とみなされるものが、アタマの中に存在していると

言うべきでしょうか。


 と、ここまで来たところで、冒頭に書いた “ひとつ前の

〈今〉” という言葉なんですが、“ひとつ前の〈今〉” と

〈今〉というのは、区切ることは出来ませんよね?

 例えば、鉄の塊の中心の分子と、そのとなりの分子は原子

や電子のレベルでは区切ることが出来るでしょう。でも、

〈今〉と “ひとつ前の〈今〉” の間には、区切りが無い。

 このように区切りが付けられないものは、たぶん〈空間〉

と、わたしたちひとりひとりの中に拡がっている〈意識〉だ

けでしょう。


 わたしたちは〈時間〉という尺度を持ち出して、〈意識〉

の中で〈空間〉と “物の変化” を区切りますが、それは、わ

たしたちのアタマが “世界” を捉える時の「性質」なのであ

って、本当は〈意識〉と〈空間〉と “物の変化” は区切るこ

とが出来ない。アタマが、その「性質上」仕方なく、〈時

間〉を使って〈過去〉〈今〉〈未来〉という区切りを付ける

んだと思います。


 「わたしたちには〈今〉しかない」と言いましたし、誰で

も「今しかない」と思っているでしょうが、“ひとつ前の

〈今〉” と ”そのひとつ前の〈今〉” と “そのもう一つ前の

〈今〉” を区切ることは出来ません。永遠に続く〈過去〉の

何処も区切ることは出来ません。

 さらに、“次の〈今〉” と “その次の〈今〉” を区切ること

も出来ません。永遠に続く〈未来〉も、何処を区切ることも

出来ません。


 わたしたちはのアタマは、その「性質上」 、“世界” の中

時間〉を見てしまい、〈過去〉〈今〉〈未来〉を感じざ

るを得ないけれど、本当は〈今〉という瞬間に、すべての

〈過去〉とすべての〈未来〉が重層的に存在しているのでは

ないでしょうか。

 けれど、その「すべての時間」の一瞬(一点)しか知覚で

きないわたしたちのアタマにとっては、〈今〉しか存在しな

いことになっている。それが〈時間〉の真実かも知れない。

 それなら、わたしたちが、過ぎ去ったはずの〈過去〉を使

って、「記憶」したり、「考え」たり出来ることを説明でき

ます。(説明できてるの?)


 分かりにく過ぎると思うので、整理します。


 ・世界の始まりから終わりまで、実際には、すべての時間

  が「この瞬間」に重層的に存在している。

 ・そのすべての時間を、わたしたちのアタマは〈過去〉

  〈今〉〈未来〉に分けてしまうが、それはアタマの性質

    認識機能の特性・限界  である。

 ・無いはずの〈過去〉を使って、「記憶」「思考」が可能

  なのは、実際には〈過去〉と〈未来〉が、〈今〉と重層

  的に存在しているからである。


 (と、書いてはみたものの、自分でも信用しきれない。

  だって、やっぱりアタマで考えてるんだもの)


 疲れました・・・。今日はこれで終わります・・。




    東福寺の庭でも見て、頭を休めて下さい。




2018年2月25日日曜日

記憶の不思議


 時間と記憶について、どう考えても不思議な事があるんで

すが、今までその件に関して誰かが述べているのを、見た事

も聞いたことも無くて、ずっと「誰も、何とも思ってないの

かなぁ?」と思っています。


 それはですね、現実というのは「今」しか存在していませ

んよね? 今、この瞬間しか現実はない。

 そこでですよ、例えば時計の秒針がひとつ進んで、「カチ

ッ」と音を立てたとします。(デジタルの液晶時計しか知ら

ないなんて言わないでね)

 「カチッ」の「カ」が鳴った時、「チッ」はまだ鳴ってい

ません。「チ」が鳴った時、その前の「カ」はもう現実には

存在していませんし、「ッ」の方もまだ存在していません。

そして「ッ」が鳴る時には、「カチ」はもう過去になってい

て、存在していません。「カ」と「チ」と「ッ」は、それぞ

れ別の瞬間  それぞれの「今」  に存在しています。

 そして、それを捉える私やあなたの脳も、その時々にそれ

ぞれを捉え、次の音を捉えた時には、もう前の音を捉えた脳

は存在していません。

 「カ」を捉えた脳。

 「チ」を捉えた脳。

 「ッ」を捉えた脳。

 それぞれが別の時間に存在しています。

 それぞれにとっては、お互いは現実として存在していない

はずなんです。現実は「今」しかないのですから。

 なのに、存在しないお互いを繋げて「カチッ」というひと

かたまりの音として認識できる・・・。何故、脳は無いもの

を繋げられるのでしょう? 脳の中には、「時間」が存在し

ていないとしか考えようがありません。不思議です・・・。
 

 この世のすべてが変化し続けていることは確かです。

 この世には、今、この瞬間しか存在していないことも確か

です。過去は、一瞬前の “過去の脳” と共に、過ぎ去って存

在していない。それなのにわたしたちの脳は、何故、ものの

“動き” を捉えたり、考えたり、“記憶” を持ったり引き出し

たりできるのでしょうか?

 それを考えると、さっきも言ったように “脳の中には「時

間」が存在していない” か、“〈意識〉は「時間」の外に存

在している” かの、どちらかだとしか思えないんです。


 どちらにしても、そのことに想いを致すと、“時間と空間

を越えた「何か」” というものが、わたしたちの〈意識〉に

関わっていることを意識せざるを得ません。

 「道-タオ」や「仏」や「神」や「存在」や「無」など、

さまざまな言葉で表されて来たものを・・・。



 以前、「変化は存在するが、時間は存在しない」というこ

とを書きました。(『〈永遠の生命〉を差し上げます』)

 「時間」は、変化を認識する為に、わたしたちの脳が必要

に迫られて生み出すものだと。

 それはまだいいとして、わたしたちには「この瞬間」しか

ないはずなのに、何故「過去の瞬間」と繋ぎ合わせ

て、考え、識することが出来るのでしょう?

  考えるのにも「時間」が要ります。考えている内に、

「考え」はどんどん過去に消えて行っているのに、なぜ考え

られるのでしょうか?

 やはり、〈意識〉は「時間」の外に在るのでしょう。



 「涅槃」などと呼ばれたりする状態は、わたしたちの思考

が止まった時に、〈意識〉本来の持つ「永遠性」(または

「無時間性」)が表に出てくることを指すのかも知れませ

ん。


 《 この瞬間は、すべての時間を含んでいる 》


 そう言って良いように思います。


 こんな話に付き合うと、眠れなくなるかも知れませんね。

 誠に申し訳ない。

 (続きがありますが、長くなってしまうので、それは次

  回に)



2018年2月23日金曜日

この役、無理です!


 突然思い出したので、忘れないうちに書いておこう。

 何のことかというとですね。一昨年、私の母親が九十歳で

亡くなりまして、その時の葬儀屋さんと火葬場の職員のこと

なんです。



 本人の兄弟とか、本人を知っている親戚・友達なんかはみ

んなすでに死んでいるので、私たち家族だけで直葬(葬式無

しで火葬すること)にしたんですけど、葬儀場の待合室から

出棺する時の、葬儀場の担当者や、火葬場の担当者の話し方

が、すごく芝居がかっていたんです。

 “マニュアル通り” っていう事もあるんでしょうが、それ

にしても異常に芝居がかっている。ほとんど大衆演劇のセリ

フです。

 「これはなんだろう?」って思ったのです。



 火葬が終り。お骨を膝に、クルマで家へ帰る道すがら、そ

のことを考えていて「はは~ん」と思った。

 「毎日毎日、死に接していると、そこに自分を持ち込んで

しまうと精神的に持たないんだな」と。



 うちの母親のように九十歳とかだと、こちらも淡々として

いて、取り乱したり、ふさぎ込んだりなんてことはないけれ

ど、あの人たちが日々接する「故人」の中には、相当数の若

い人が含まれているわけで、その中には、赤の他人でも遣り

切れないようなケースも多々あるでしょう。取り乱したり、

泣き崩れたりする家族もいるでしょう。そういう日々の仕事

の中に、自分を持ち込んでしまうと、とてもじゃないが身が

持たないんでしょうね。

 だから、その仕事の、その役柄を演じて、自分の感情が巻

き込まれない様にしているのでしょう。

 そう思って、「ああ、毎日ごくろうさんです」とクルマの

中で、ひとりで彼らの労をねぎらっていた。



 彼らの仕事の場合は極端だけど、人はそれぞれ、それぞれ

の役割を演じているわけですね。

 “マニュアルには見えにくいマニュアル”   または台本

  に沿って、日々「働いたり」、「暮らしたり」という役

をこなしている。

 当人達には自覚がないだろうけど、その相当の部分が演技

です。演技という表現に抵抗を感じられるなら、思い込みで

す。



 「母親というのはこういうもの」

 「中学生というのはこういうもの」

 「会社員というのはこういうもの」

 「オバサンというのはこういうもの」

 「男は、女は、こういうもの」

 人それぞれに役作りをして、世の中という舞台に立ってい

る。(役作りに失敗する者もいて、まわりから「浮いてる」

とか「ダメ人間」とか言われたりする)



 しかし、その中にはかなり無理している人たちが結構いる

わけです。自分の役を演じることは仕方ない。けれども、無

理が過ぎると苦しさに耐えられなくなってくる。まわりも、

合わせにくくなってくる。


 LGBTの人たちのように、あからさまに無理をしている

人以外にも、分かりにくい部分で無理をしている人がたくさ

んいるはずです。

 そういう無理をしている人たちに、「支援を」とか言うの

ではなくて、そもそも「無理なものは無理」と言える世の中

であればいいのにと思います。



 「元気な子供!」みたいな古典的イメージが、いまだには

びこっていて、学校の運動会や体育祭で、もともと運動が苦

手な子が運動をさせられる  組体操の事故が物議をかもし

たりする

 運動なんか、最低限の体力作りの為に、体育の授業をする

だけでいいのであって、運動会なんぞは、出たい者だけでや

ればいい。運動が苦手な子には、苦痛でしかない。(私は、

運動神経はいいほうですが)



 「私はそれが苦手です。だからやめておきます。以上」


 なぜ、それではいけないのか?

 なぜ、みんな一緒にしようとするのか?



 『個性の尊重』などという御題目を唱える気はない。

 ただ、本当に向いていない事を、無理矢理やらせること

が、その人の為になるのか? 世の中の為になるのか?

 個人には苦しく、世の中にとってはムダなエネルギーの投

資でしかないだろう。何もいいことが無い。



 以前も書いたけれど、戦後、教育現場に立った人たちも、

子育てをした親も、太平洋戦争中に軍隊経験をした人たち

で、軍隊式の教育方  とイジメ方  を、学校や職場に持

ち込んでしまったのだろうと思う。(私の小学生時代を考え

ると、そうとしか思えない)

 それが代々受け継がれて、いまだに教育現場でも職場でも

家庭でも、《成せば成る、成さねばならぬ何事も。成らぬは

人の成さぬなりけり》式の「指導」とやらが行われてる。



 「社会の役に立つ人間を作る」

 百歩譲ってそれでもいい。

 でもそれならば、当人の適正にあった方向へ導いてあげる

方が、当人にも社会にも良いだろうことは誰でも分かる。

 「無理な事でも一緒にやらせる」事は、教育でも指導でも

なくて、指導する側の “支配欲” を満足させてるだけだろう

としか思えないね。



 そうやって、子供の頃から “自分に適性がなくても無理を

する” ようにしこまれた人たちが、さまざまな所で無理をし

ているし、無理をさせている。

 「この役、出来ません」

 そう言えない。言わせてもらえない。



 葬儀場の職員も火葬場の係員も、すごく無理してる。自分

を “別の所に置いて来なければならない” ほどに・・。

 けれど、彼らはまだそれが許される。「当然だよね」と。

 「仕事柄仕方がないよ」と。

 むしろ、一般的な仕事や立場にある人で、“無理をしてい

る人” の方が大変かも知れない。「それであたりまえでし

ょ」と言われてしまうから・・・。



 なんでみんな無理してる?

 なんでみんな無理させる?

 誰の為? 何の為? 

 誰がしあわせになる?



 みんなで背伸びして、みんなで疲れて、誰が喜んでるの?

 「この役、無理です!」

 そこから、もう一回やり直したいね・・・。


 人が “それ” を出来ないことを許したい。

 自分が “これ” を出来ないことを許して欲しいから・・。






 


2018年2月22日木曜日

二人の エックハルト のこと


 この間、マイスター・エックハルト(13~14世紀のキリ

スト教の神学者。死後、異端とされ、表舞台から姿を消した

が、わずかに残された教説は、“真にキリストの教えを説く

ものとして受け継がれている” ようです)のことをググって

いたら、エックハルト・トールという人のことを知った。

 ドイツ生まれで、カナダ在住。現在70歳で、90年代から

著作や講演を行い、欧米ではよく知られたスピリチュアルテ

ィーチャーというということらしい。


 なんとなく興味を持って、You Tube にある講演の動画を

観たのだけど、「・・オレのと一緒だ。」そう思った。

(観た動画についてだけですが)



 いくつかの動画を観てみたけれど、言っていることは、私

が考え、感じていることとと本当に一緒で、何の異論も違和

感も無い。

 「オレ、ブログ辞めようかなぁ」とほんのちょっと思うく

らいに、“一緒” 。(最後に動画を貼っときます)



 もちろん表現は少し違うし、向こうの方がずっと落ち着い

ていらっしゃるので、その「語るところ」がしっかりと

〈肚〉に入っているのでしょう。(私はまだまだ〈アタマ〉

と格闘中・・。格闘してはいけないんだけどね・・)



 トール氏の話に、何の文句も無い。


 要するに、「今 ここ」ということ。

 要するに、「エゴに力を与えるな」ということ。

 要するに、「本当の自分・命を解放してやる」というこ

と。

 人の最大にして、唯一の障害は「自分という〈エゴ〉」で

あると・・・。

 私がトール氏に直接会って、「要するに〈アタマ〉が悪い

んですよね。」と訊いたとしたら、ニッコリ笑ってくれる事

でしょう。



 私のブログを読んで、「なんとなく面白いけど、何言って

るかよくわからんなぁ」という感想をお持ちの方は、トール

氏の動画をご覧ください。ずっと分かりやすいと思いますか

ら。




 そして、トール氏のことを知るきっかけとなった、マイス

ター・エックハルトについて。

 『エックハルト説教集』(田島照久編訳 岩波文庫)とい

う本を買って読み始めたばかりなんですが、言ってる事は仏

教・老荘思想と同じ。そりゃぁ、キリスト教会から “異端” 

にされると思う


 キリスト教会は、キリストの教えを、自分たちの〈エゴ〉

を強化する為に 、“自分” たちに都合のイイ様に解釈してる

から、キリストの教えの神髄を “モロ” に語るエックハルト

は、敵でしかなかったでしょう。「自分を捨てなさい」って

言ってるんだから・・。


 読んでいると、キリスト教特有の言葉に馴染み難い感じが

あるけれど、仏教用語に置き換えながら読んだりすると、す

ごく納得がいったりします。(「有」という言葉を「仏性」

と読み替えてみたり・・)



 二人のエックハルトの言葉にあるのは、「人が真に幸福で

ある為には、『いかにして〈エゴ〉を沈黙させるか』という

ことに掛かっている」ということですね。

 どんな宗教であれ、哲学であれ、科学や他の学問であれ、

「人とは」「世界とは」「幸福とは」といった、根源的な問

題を突き詰めて行くと、結局同じ所に行きついてしまう。



 素粒子を研究していたら、仏教みたいな話になった。

 キリスト教を突き詰めたら、浄土真宗の教えと一緒になっ

ちゃった。

 お経を読んでたら、同じ意味のことをイエスが言ってい

た。

 そんな風に、人間が頭で考え、身体で感じて、「人」と

「世界」と「生」の真理を得ようとすると、同じ所に辿り着

くのは当然と言えば当然ですよね。



 エックハルトを異端としたキリスト教会のように、「こっ

ちが正しい」、「おまえはおかしい」という、幼稚な世界か

らいいかげん人類は抜け出せないものか・・・。

 抜け出せないよねぇ。〈エゴ〉はズル賢いから。

 私自身も抜け出し切れないから、分かったようなことを言

うのはおこがましいんだけどね・・・。




大杉 漣さん 逝く


 俳優の大杉 漣さんが亡くなったそうだ、特別にフアンだ

というわけではないが、好きな俳優さんのひとりだったの

で、少し残念に思う。
 

 あしたのことは 誰も知らない
 生きているかどうか それもわからない
 愛は 夢か まぼろしだけど  信じればあるさ

 君と僕の手をむすぶとき 遠い空に
 見えるものがある あそこまでは行ってみよう


 今 あるものが それがすべてだ
 過去や未来の 夢を忘れよう
 道は 遠い山道だけど 一歩一歩登れ

 愛が僕たちを 押し上げてくれるだろう
 鷲が空を舞う 風も甘い 山の上へ


 泣いているひまは無い 命は 今だけ
 

 愛が僕たちを 押し上げてくれるだろう
 鷲が空を舞う 風も甘い 山の上へ



 1982年に郷ひろみがリリースした『愛の神話』という

ルバムの中で、映画『愛と春の旅だち』のテーマ 

“Up where we belong” をカバーした時の、日本語詞

(なかにし礼 訳)です。

 原曲の詞を知らないので、それに沿った訳になっているの

か分かりませんが、好きで、昔からよく聴いている歌です。

 大杉 漣さんの訃報を書いていたら、ふと、思い出しまし

た。


 良い歌詞だと思います。

 「あしたのことは誰も知らない」

 「今 あるものが それがすべてだ」

 「泣いているひまは無い 命は 今だけ」


 “明日、生きているかどうか分からない”

 そんな想いに強く囚われた時に、「好きな事をしよう」

と、それまで以上に、社会の中の自分にエネルギーを使う人

がいます。

 “明日、生きているかどうか分からない” のに、社会のパ

ーツとしての自分に集中するなんて、私には考えられないこ

とです。


 私なら、より一層自分に親しみたい。

 より深く自分を味わいたい。

 自分を通して、社会の外にある世界を感じたい。

 何かとの関係性の中の「自分」ではない、元々の〈絶対の

自分〉でいる時間を、出来るだけ持ちたいと思う。

 現に、毎日そう思って生きている。(いつでもそう出来る

わけではないけれど・・・)


 「今 あるものが それがすべてだ」


 私にとって  あなたにとって  「今 あるもの」とは

何か?

 この部屋にあるもの?

 銀行や郵便局にある貯金?

 家族や友人?

 仕事?

 いや、自分が住んでるこの街も「今 あるもの」だ。

 生まれ育ったこの国も、私にとって「今 あるもの」だ。

 地球や太陽系や宇宙全部も、私にとっての「今 あるも

の」だ。

 誇大妄想?

 いいや、事実です。

 もちろん「所有」ではなく、“共に在る” 。

 「共在」しているのです。

 「今 あるものが それがすべて」というより、

 「今 すべてが ある」。


 いつでも、いつでも。

 その瞬間、その瞬間。

 「今 すべてが ある」

 今、この時、欠けているものは、なにもない。


 実際、「すべてがある」でしょ?

 見えなかったり、手が届かなかったりするけれど、今、自

分がいる宇宙の端から端まで、すべて何ひとつ欠けていな

い。

 大杉 漣という、ひとつのパーソナリティが失われた。

 でも、それは「何かが欠けた」のではない。“ある存在” 

の「存在のし方が変わった」だけだ。


 大杉 漣さんの訃報について書き始めたのに、話はそれを

飛び越えてしまって、大杉さんの死が “話のキッカケ” でし

かないような形になってしまった。はなはだ申し訳ない。

 大杉さんの人となりが好きだった。

 深刻にならずに、ものの本質を見極めようとする真摯さ

を、その姿から感じていた。 

 もう少し、見ていたかったと思う。


 大杉さんの冥福を祈ったりはしない。あの世に地獄は無

い。(「冥福を祈る」なんて、つまんない言葉だ)

 ただ、「楽しませて貰いました。ありがとう。」

                      さよなら。




2018年2月21日水曜日

〈怒り〉が〈嘘〉を生む


 人は、なぜ嘘をつくのか?

 どんな正直者であろうとも、嘘をつかずに暮らして行くこ

とは出来ないだろう。


 「嘘」「ごまかし」「すり替え」「隠し事」など、これら

をまとめて〈嘘〉としておきますが、わたしたちは毎日の人

との付き合いの中の、いろんな場面で、いろんな形で〈嘘〉

をつきながら暮らしています。それも、人に対してだけでな

く、自分自身に対しても〈嘘〉をつきながら。



 日常の場面でわたしたちがつく〈嘘〉は、本人もほとんど

意識しない程度の小さなものですし、誰かを傷付けるような

ものではありません。むしろ、人を傷付けたりして、「人と

の関係を悪くしたくない」という意識が働いて〈嘘〉をつき

ます。つまり、本当の事を言うと問題が起きると判断した時

に、ごまかしたり、隠したり、嘘をついたりするんですね。



 こんなことは、誰でも分かっていることだと思います。

 「この状況で本当のことを言ったら、大変なことになる」

 そんな想いで、嘘を言ったり、ごまかしたりすることは、

誰でも経験するし、意識していることだと思いますからね。


 「関係を壊したくないから〈嘘〉をつく」

 そう考えて、“自分が嘘をつくこと” に正当性を持たせよ

うとする人は多いでしょうね。実際、人が〈嘘〉をつく心理

はそうだと思います。

 ただ、「関係を壊したくない」というよりは、「自分を守

る為」という方が、より本質に近いでしょう。

 本当のことを言うと、人から「非難」「嘲笑」「攻撃」な

どを受けそうだと思う時、それを避ける為に〈嘘〉をつく。

 もっとザックリ言えば、「ホントのことを言ったら怒られ

る」と思って〈嘘〉をつく。

 人が〈嘘〉をつくのは、怒られたくないからです。


 わたしたちは嘘をついて、それがばれると怒られますね。

 そのことから、一見〈嘘〉が先にあって、その結果として

「怒られる」という順序に見えますが、実は逆です。

 それぞれのシチュエーションでは、〈嘘〉→ばれる→「怒

られる」という事ですが、そもそも人が〈嘘〉をつくことを

覚えるのは、「怒られる」という経験が先にあるからです。


 “自分が、ある行為をして、その事を怒られた”

 そういう経験を繰り返すうちに、どの様な状況だと「怒ら

れる」のかということを、人は覚えて行きます。

 そして、その経験を元に “自分が怒られそうな状況” だと

判断した時に、「怒られる」のを回避しようとして、〈嘘〉

をつく。そうして、“嘘をつくことによって、人を怒らせる

ことを回避する” という手管を身に付けてゆく。

 「自分の行為を怒られた」という経験が、 “嘘をつくこ

と” を、人に覚えさせます。〈怒り〉が〈嘘〉を生むので

す。

 そして、〈嘘〉がまた〈怒り〉を生み、〈怒り〉がさらに

〈嘘〉をつくことを助長させるという悪循環が生じます。

 その結果、わたしたちの人間関係の中には、大小さまざま

な〈嘘〉が埋め込まれています。


 〈怒り〉が〈嘘〉を生みます。

 もし、〈嘘〉を無くしたいのであれば、先に〈怒り〉を無

くさなければなりません。

 人を批判し、嘲笑し、責任を追及するようなことをやめ

て、お互いが「ホントのことを言っても、自分が否定される

ことは無い」という安心感を持つ事が出来なければ、人が

〈嘘〉つくことは止められないでしょう。

 けれども、〈怒り〉を無くすことは、〈嘘〉を無くす以上

に難しい。

 人は「怒る」ものです。人は、“自分” と “自分の世界” を

否定されたり、不安定にされると〈怒り〉を覚えます。その

根は深い・・・。



 〈嘘〉と〈怒り〉はセットになっています。

 どちらかがあれば、ちょっとした事で、すぐにもう一方も

生まれます。〈嘘〉も〈怒り〉も非難され、否定されること

ですが、セットになっていますから〈嘘〉も〈怒り〉も同

です。「どちらが先でどちらが後か」などと非難しあうの

は、単なる駆け引きに過ぎません。不毛ですし、本当に問題

にしなければならないのは、〈嘘〉と〈怒り〉を生み出すさ

らなる原因である、〈否定〉です。


 人は、「否定」されて怒り、「否定」されたくなくて

〈嘘〉をつく。〈嘘〉と〈怒り〉といったネガティブなこと

の根本には、「自分を否定されたくない」という、人の悲し

い切望があります。

 加えて、〈否定〉が生み出すものは、〈嘘〉と〈怒り〉だ

けではなく、あらゆるネガティブなものが、〈否定〉から生

まれて来ます・・・。

 「悲しみ」「淋しさ」「挫折」「敗北」「後悔」「妬み」

といった感情。

 「ケンカ」「差別」「嘲笑」「無視」「テロ」といった行

動。

 〈否定〉が “諸悪の根源” と言っても過言ではないでしょ

う。

 人が何か  誰か  を「否定する」たびに、その反応

としてネガティブなものが、この世に生まれて来ます。

 この世から、いつまでたっても “ロクでもないこと” がな

くならないのは、わたしたちの〈エゴ〉が、「否定するこ

と」が大好きだからです・・・・。



成功すべきことは?


 《〈成功〉とは、「ヒマつぶしの正当化」》などと、相変

わらずの憎まれ口を叩いている私ですが、なにも「ケンカを

売ろう」とか、「成功者を妬んでる」とかいうわけではあり

ません。(正直なところ、そう言い切れる自信はないけれ

ど・・・)

 「成功することが、そんなに大事なの?」

 と思っているだけなんです。


 「目標を持つ」

 「成功する」

 だからどうなの? (いかん! さらにケンカを売ってしま

っている・・) 
 

 いろんな人が、いろんな目標を持ち、成功したり失敗した

りしているけれど、それらの事はそれぞれの人の都合であっ

たり、好き好きによるもので、あくまで個人的な事です。

 目標の中には、会社や国といった集団が持つものもありま

すが、それらもその集団の個人的な好みと都合によるもので

す。

 そのような “個人的” なものは、個人の中で完結すればい

い話なんですが、どうしても他者に示したいんですよね、

「私は成功しました!」って。

 そして、他者からの賞賛や承認を得たい・・・。そうでし

ょ?


 例えば、“金メダルを獲っても、マスコミの取材は無い

し、地元の人も会社の同僚も無関心で、家族に言っても

「あ。そう・・・」と聞き流される” のだとしたら・・・。

一体誰が “金メダル” を目指すでしょう? 

 オリンピックなんか誰も興味が無くて、世界の何処かで関

係者だけが集まって、ひっそりと開催されてる・・。そんな

状況で、誰の賞賛も無くても「私は金メダルが欲しい!」と

いう人は、まず居ないでしょうね。

 毎年、日本中で市民マラソンが開催されるけれど、自分の

可能性を確かめたいのならば、別に市民マラソンに参加しな

くったって、休日に一人で 42.195km 走れば確かめられ

る。けれどもそんな人は、めったに居ない。

 みんな、誰かに確認してもらい、誉めてもらえて、初めて

納得するんです。


 自分だけでは、納得出来ないんです。なぜなら、そもそも

「それをする理由」など無いことを、自分で分かっているか

らです  意識下で。だから、他人の賞賛や承認が欲しい

 そして、他人の賞賛・承認が貰えたとしても、自分で「そ

れをする理由」など無いことを知っていますから、すぐに不

安が戻って来てしまいます。

 だから “「目標を掲げ、成功を目指す」人” は、終ること

なく「目標を掲げ、成功を目指し続ける」のです。死ぬま

で・・。


 これは、言わば【目標・成功依存症】という病気です。

「自分に落ち着いて居られない」という、〔不安神経症〕の

一種でしょう。恐ろしいことに、罹患率は人類の90%以上

だと思われます。生活に余裕がある社会では99%以上にな

るでしょう。WHOは何をしているのでしょう?



 「目標を掲げ、それを達成した!」という時は、いわば病

気の発作がピークに達している時です。興奮して、泣いた

り震えたりしています。〈成功に至るストーリー〉を知らな

い人が見たら、「この人、大丈夫?」って、心配するはずで

すよ? 一緒になって喜んでいていいのでしょうか?


 ・・・ちょっとイジワルが過ぎましたね。

 でもね、わたしたちにとって本当の〈成功〉は、「自分が

何をしたか?」ではなくて、「自分が、自分をする」ことだ

と思うんです。

 さっき書いた、 “一人で 42.195km 走る” というよう

な、「自分で納得出来ればそれでいい」という事は、それに

近いと思います。「自分で自分に納得する」のですから。

 でも、それでさえ ”本当は必要ない事” ですから、やはり

不安からの行動です。


 必要な事をしてしまったら、〈静かに座って、ニッコリ笑

ってる〉、〈ゴロンと横になって、寝てしまう〉。

 そういう人が、アタマに冒されていない、健全な人間だろ

うと思います。

 目標や目的を持ちたがり、それを成功させて達成感を得た

いという人には  ほぼ人類全員ですが  安静〉が必要

なんです。


 「自分が自分であり、自分として存在している」というこ

とは、生きている限り、誰でもいつでも自分で確認できるこ

とです。

 《「自分が存在しているという事」こそが〈自分の価値〉

であり、それは誰の承認も必要としません 》

 そして、

 《 人が本当に〈目標〉とし、〈成功〉しなければならな

いのは、「自分が在ることを自分で確かめ、自分に親しみ、

自分に落ち着くこと」です 》

 (毎度おなじみですが)それ以外の事は〈オマケ〉でしか

ありません。 
 

 子供が遊んでるのを眺めるのは、つまらないことでもあり

ませんが、いつまでも付き合ってはいられませんね。

 大人なら、なおさらね。