2018年2月3日土曜日

ドライブしますか?


 自分のブログを読み返してみる。

 自分で読んでも、「やっとこさ理解できる」というような

話がいくつもある。困ったもんだ。

 文章力なり、構成力なりが足りないのは間違いなさそうだ

けれど、それだけでもないだろう。

 そもそも、「意識とは?」とか「時間は存在するか?」と

か、「自己とは?」とかいったギリギリの命題に首を突っ込

んで、ただで済むわけがない。

 哲学や宗教学、心理学に脳科学に宇宙物理学というような

所で扱われる根本命題を、「分かり易く」説明できる人はい

ない。

 仮に、易しい言葉で説明できたとしても、「易しく」なっ

た分、恐ろしくクドイ話になるだろう。

 だから、「何言ってんのか分かんねえよ!」と思われたと

しても、私の責任は半分です。(そういう事にして下さい)



 “理詰め” で分かるように語れる事ではない命題に、『は

しご車』のはしごをギリギリまで伸ばすように、ギリギリま

で言葉を繋いで辿り着こうとする・・。いつ折れて墜落する

かも知れない・・。(折れてる話もいくつもある)

 最後は受け手側から、ジャンプしてもらうしかない。

 言葉では、最後まで届かない。

 
 口から出まかせを言い続けているけれど、理屈以上に大事

なのは、「話」の持つムードやリズムといった、“ドライブ

感” だと思う。

 私の感じているイメージに巻き込んで、そのイメージが持

つ、温度や空気の流れの様なものを感じてもらえれば、「何

か」が伝わるんじゃないかと・・。(そんな能力あるのか

よ?)



 〈しあわせ〉だとか。

 〈生きること〉だとか。

 〈真実〉だとか。

 〈存在〉だとか。



 一筋縄では行かないことに、身の程知らずにあたまを突っ

込んで・・・・アタマが悪いね。


 SMAPの『俺たちに明日はある』が好きなんです。



 《不器用すぎるハンドルで 突っ込んで行くのさ・・》 


 心意気を買って下さい。

 時々、助手席で景色を楽しんでもらえたらと・・。



 まぁ、そんなカッコイイもんであるわけないけれど、助手

席から、砂漠の向こうに何かが見えるかも知れません。わた

したちを取り巻く砂漠の向こうに・・・。「愛」とか、「安

らぎ」とか、「至福」とか・・・。(さすがに、恥ずかしく

なって来た・・)



 「砂漠に取り囲まれてなんかいないよ」

 そう思う人もいるでしょうが、そういう人はアホらしくて

こんなブログなんか見ません。

 「砂漠がどうのこうのって、コイツあたまオカシイね」と

嘲笑われて終りですし、そういう人の方が多数派なのは分か

っています。

 でも、そういう人が見ている緑は、私からすれば蜃気楼で

す。

 蜃気楼というのが言い過ぎならば、一時のものです。必ず

過ぎ去るものです。しばし、目を楽しませたりは出来ますか

ら、楽しめばいい。けれどいつまでもは続かないので、また

次の「何か」を求めなければならない。死ぬまで、その繰り

返し。


 私はそれでは納得できない。本当のオアシスに辿り着きた

い。

 欲張りなのでしょうか?

 いいえ、単に “人として本来あるべき生き方” をしたいだ

けのことです。

 一時の快楽や興奮を追い回すのではなく、しみじみと「生

きてるのは嬉しいなぁ」と思える日々を送りたい。

 気に入らないことも無くならないだろう。困ることも起こ

るだろう。けれど、それを越えて、あるいはそれ以前に、

“気に入らないことを受け止めている自分” が居る。“困った

ことを受け止めている自分” が在る。出来事とは別に〈自

分〉が在る。その〈自分〉に親しみたい。その〈自分〉に落

ち着いていたい。出来事に目を奪われて、〈自分〉を失いた

くない。


 スピードを出せば出すほど、視野はせまくなります。

 生きることも同じでしょう。

 目的地だけを見据えて、スピードを上げると、まわりは見

えない。そこには何もないように思う。何かあるように感じ

ても、見ている余裕は無い。

 止まってみれば、そこがオアシスかもしれない。

 花が咲いているかもしれない。

 小鳥がさえずっているかもしれない。

 止まってみなければ分からない。


 止まって何が分かるか?

 《自分のオアシスは自分の中にある》と気付く・・・。

 
 “ドライブ感” なんて言いながら、実のところ、私が誘っ

ているのは「スピードダウン」ですね。

 「ちょっと止まって、景色でも眺めない?」と。


 ドライブしますか?



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