2018年2月1日木曜日

ホットサンドの「空前絶後」


 今朝、ホットサンドを食べながら、その食パンとの「ご

縁」を考えていた。

 時々、食事をしながら、今食べている物との「ご縁」を考

えます。考えて、いつも気が遠くなりそうになる。



 例えば、今朝の「食パン」。



 まず、麦を作った人がいる。小麦とライ麦。

 それぞれ、どこの国の人だろう?

 その人たちに、麦の育て方を教えた人がいる。

 その土地を受け継いできた人たちがいる。

 そこで使われている農機具を作った人たちがいる。

 収穫した麦を運んだ人たちがいる。

 その麦を製粉した人たちがいる。

 製粉した粉を袋に詰めた人がいる。

 その工場で使われている機械や資材を作った人達がいる。

 それらの機械の部品を作った人たちがいる。

 部品を作る機械を作った人たちがいる・・・。

 麦の粉を、日本に運んだ人たちがいる。

 麦の粉をパン工場に運んだ人たちがいる。

 パン作りに必要な機具を作った人たちがいる。

 パン作りに必要な他の原料を作った人たちがいる。

 パンを作る人たちがいる。

 パンの作り方を考えた人たちがいる。

 パンの作り方を教えた人がいる。

 パンを包装した人がいる。

 パンを運んだ人がいる。

 パンを店頭に並べた人がいる。

 パンを売った人がいる。

 パンを買って来た妻がいる。

 ホットサンドにした妻がいる。

 ホットサンドメーカーを作った人がいる。

 ・・・・・・・・。



 なんという「ご縁」。

 思わず、手を合わせずにはいられない。

 食パン一枚で、これ!
 

 チーズ、レタス、ハム、マヨネーズ、マスタード、バタ

ー・・・。それらも、無数の関わりを経てここにある。

 はるかなる過去からの、無数の人々や自然との関わりの末

に、初めて今、ひとつのホットサンドが私の目の前にある。

 「空前絶後」。

 「当たり前」だけど、「驚異的」。

 生きてる事って・・。

 今、この世界が在ることって・・。

 なんということか・・・。


 そうして、目の前にある食べ物との「ご縁」を考えている

と、ごく自然に自分の身近な人との「ご縁」、そして自分自

身が、今、ここに在ることの「ご縁」に想いが及ぶ・・・。

 今、自分がここに在ることは、当然のことと言っても間違

ってはいないだろう。しかし、それは同時に「空前絶後」の

ことでもある。何もかもが「空前絶後」。何もかもが、無限

に関わり合う「縁」によって存在している。


 今、自分がここに在って、「美味しい」とか「嬉しい」と

か「楽しい」とか、ほんのひと時でも喜びを持てるのなら、

束の間でも、〈自分〉が在ることに幸せを感じられるのな

ら、そのことに途方もない感謝を覚えていいほど、“今、在

ること” は、奇跡。


 宇宙の悠久の時間の中で、何か一つの動きが違っていただ

けで、今の自分はいなかったかも知れない。そもそも、この

自分は存在しなかったかも知れない。

 それが、今、存在していて、笑おうと思えば笑う事が出来

る。たとえそれが、“やせ我慢” や “カラ元気” であったとし

ても。


 「空前絶後」のホットサンドを目の前にして、「空前絶

後」の、今の自分がいる・・・。

 笑っていい・・。笑うべきだ。笑わずにいられようか? 


 それが何であれ、〈存在しているもの〉は「存在している

こと」だけを理由に、笑っていい・・。

 「存在していること」は、どの様な比較も超越している。

 誰の承認も必要ない。
 

 明日、今夜、一時間後、一分後、次の瞬間、耐え切れない

様な苦悩が襲って来るかも知れない。けれど今、笑おうと思

えば笑える。

 笑えばいい。笑っていい。誰も止められない。

 “笑う権利” がある。

 いや、“笑う義務” があるのかも知れない。

 わたしたちは、「泣く為」に生み出されて来たのではない

だろうから。
 

 わたしたちを、「泣く為」に生み出すほど、〈宇宙〉は意

地悪なものなのだろうか?

 そんなことはあるまい。

 わたしたちは、「笑う為」に生み出されてきたのだろう。

 ただ、愚かな先人たちによって、“比較する事” と “深刻

さ” を植え付けられ、「泣くこと」が習い性となってしまっ

た。そして、地球の上で、人間ばかりが泣いている。

 『今、在ることの奇跡』に目をやらずに・・・。

 《自分という “奇跡” 》として、今、ここに在るのに。




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