2018年8月27日月曜日

わたしたちは人間か?


 二・三日前、アマゾンの奥地で今まで知られていなかった

部族があらたに発見されたというニュースがあり、ドローン

から撮った映像が公開されていた。

 病気を持ち込んでしまう危険があるため、直接には彼らと

の接触はしないとのことだったので、彼らは自分たちの生活

圏の外に様々な人間が生きていて、文明化された世の中に暮

らしている事など想像もできないはずだし、ドローンを見上

げてもそれが機械であることも分からない。機械というもの

の概念すら無い。その様な彼らが、わたしたちと同じ時間を

生きている・・・。

 そして思った。

 地球温暖化は、現代のわたしたちにとって大きなテーマの

一つだけれど、人間の活動のせいで地球が温暖化していると

いうのが本当だとしても、彼らにとっては、大量のエネルギ

ーを消費しながら暮らしているわたしたちは存在してない。

 当然ながら、温暖化が自分たちと同種の人間によるものだ

なんて発想すら無い。

 たとえ、「最近、暑くなったな」とか、「以前はたくさん

生えていた木が、この頃少なくなったな」といったことを彼

らが感じていたとしても、それは彼らにとっては自然現象で

しかない・・・。

 そのことを考えた時、温暖化が “人為” によるものかどう

かなんて騒いで、「ああだ、こうだ」と言っている “文明

人” のバカさ加減が、際立って見えてくる。



 彼らにとっては真相がどうであれ、温暖化は自然現象で

す。

 自分たちの知らない、外の世界の働きによって環境が変わ

るのですから、それは自然な成り行きであり、運命です。



 一方で、当のわたしたちは、「自分たちの活動のせい

で・・・」などとグダグダと言い訳を続けながら、今までの

暮らしぶりを改めようとはしない。

 ちょっとばかり環境負荷を減らすことをやって、それを免

罪符にして自分を正当化しようとするのが関の山。
 

 自分たちの能力が、温暖化を招いているのなら、自分たち

の能力でそれを止める事も出来そうなものですが、出来な

い・・・。

 そもそも、「自分たちが温暖化を進めて来た・・・」とい

う考え自体が、人間の傲慢なのでは?
 

 自然の成り行きとして文明を築き、それが世界規模にな

り、止める事も出来ずにその文明に引きずられて行ってしま

っている・・・。それだけの事ではないだろうか。

 地球温暖化が人間の活動によるものだとしても、人間はた

だそういう方向に動かされてそうしてしまっているだけで、

やはり自然の成り行きなのだと思う。



 ビーバーが自分の巣の為にダムを作ると、まわりが水没し

てしまうけれど、当のビーバーは自分の業(ごう)に従っ

て、止むに止まれずそうしているだけだし、そのとばっちり

を受ける生き物にとっても、それは自然現象です。

 人間のしていることも、その類のことだとも言えます。


 太古の昔、海の中でシアノバクテリアが自分勝手に大繁殖

したせいで、地球上には有害な酸素が大量に発生してしまっ

た。それは当時の地球では、とてつもない環境破壊だったは

ず。人間もシアノバクテリアのような存在かもしれない。

 すべての生物が、大なり小なりそのような存在なのかもし

れない。

 そして人間以外の生き物は、その役割をただ淡々とはたし

ているのかもしれない。



 人間のせいで地球が温暖化して、その為に異常気象  

は『不都合気象』と呼びますが  が頻発したとしても、ち

っぽけで愚かなわたしたち人間は、それを自分の業として引

き受けるしかないでしょう。だいたい、「台風が強力化す

る」とか「干ばつが増える」だとか言うけど、結局人間の都

合しか考えていないし、「ホッキョクグマが滅びる」とかい

う類の話も(その可能性がどれ程かはさておき)、温暖化論

者と、それを政治利用しようとする人間のプロパガンダでし

ょう。今この時にも、人間のせいで滅んでいっている生物種

があるはずなのに、なぜことさらホッキョクグマなのか? 

シンボルとして?



 人間が愚かであることは、私は人間として悲しい(もちろ

私もその「愚かな人間」のひとりです)。けれどたぶん、

その愚かさは宿命付けられている。


 その宿命が「神の方針だ」とまでは言わないけれど、人為

を超えた流れであるのは確かでしょう。

 だって人間は、地球に合わせた生き方が出来ない。あるが

ままを受け止めながら生きることも出来ない。

 そのくせ、その暮らしは地球環境のちょっとした自然な変

化で、簡単に滅びてしまう程度のものです。特に、今の文明

なんて、たかだか二百年程度の歴史しかないものです。簡単

に潰れてしまう。(アマゾンの彼らは、もう何千年も「持続

可能な社会」を生きて来たのに・・・、どちらが人として優

れているのでしょう?)



 自分たちを主役と考える〈自己イメージ〉を払拭しないか

ぎり、人為による温暖化は止められないだろうと思うけれ

ど、「自分たちを主役と考える」こと自体が、自分たちの意

思ではないので、自分たちではどうにもならないでしょう

ね。



 それにしても、アマゾンの彼らの存在を考える時、「やっ

ぱり、れぞれの人間がそれぞれに閉ざされた世界に生きて

るだけなんだなぁ」と思う。“縄文” と “AIに夢と怖れを

感じる代” が同時に存在しているんだからね。



 わたしたちは、わたしたちの世界の夢を見ているだけなん

でしょうよ。それが「悪夢」かどうかは、見る人の度量次第

でしょうがね。



 そして、わたしたちの世界の外から、わたしたちを見て

「何か」を思ってる存在があるかも知れませんよ。

 アマゾンの彼らにとって、ドローンが何かも分からないよ

うに、わたしたちにとって外の世界の存在は理解不能ですか

らね。論理的に考えて・・・。(「宇宙人がどうのこう

の・・」、なんて話じゃないですよ)


 彼らの姿を見て、その暮らしぶりを想像して、大抵の人は

「自分たちが進んでいる」というように考える事だろう。け

ど、事はそういう単純な話ではない。彼らは「遅れている」

のではなくて、違う世界・違う時代に生きているのだと考え

るべきだろうと思う。

 わたしたち現代人は、地球環境から乖離してしまっている

といえる。

 わたしたちは、もはや宇宙人のようなものだ。

 彼らより「進んでいる」のではなく、彼らも含めた “地

球” から、「外れてしまっている」と見た方が適切なのだろ

う。
 
 わたしたちが彼らの暮らしを覗き見たように、彼らが東京

の暮らしを覗き見たら・・・。とても、人間が生きているよ

うには思えないだろうね。


 もしもこの文明が、あと三千年続いたら・・。

 その時には、彼らに対していっぱしの口を利く資格がある

かもしれない。

 三千年後も残ってる可能性が高いのは、彼らの暮らしの方

だろうけどね  「わたしたちが邪魔をしなければ・・」だ

けど。




2018年8月19日日曜日

友達はいない。~『悲しい日々』上田正樹 


 上田正樹のソロデビューアルバム『上田正樹』。

 1977年の発売だと思いますから、かれこれ40年前の作品

で、もちろんレコードです。これ、名盤なんですね。

 その一曲目の『悲しい日々』という曲を聴いて、当時二十

歳ぐらいだった私は衝撃を受けました。

 こんな歌詞です・・・



 人波の中にいると はやく帰りたいと思い

 冷え切った部屋に帰れば 街が恋しくなる

 一人ぼっち部屋に居ると 淋しさに狂いだしそうになり

 友達と笑い合えば 

 やっぱり一人ぼっちなんだと思い知らされる



 みんな淋しさを隠そうと 引きつった笑顔みせている

 笑い合えば笑い合うほど オレ達は離れて行く

 そんな気がする




 コンクリートの空の下 オレの太陽はどこにある

 コンクリートの空の下 キミの太陽はどこにある

 キミを愛せもしないオレが キミに愛されたいと思い

 愛し合ってもいないオレ達が 

 からだを寄せ合い夜を過ごすことがある



 みんな淋しさを隠そうと 引きつった笑顔見せている

 笑い合えば笑い合うほど オレ達は離れて行く

 そんな気がする


 昨日も風は吹いていた 今日も風は吹いている

 明日も風は吹くだろう でも日に日に

 冷たくなっていくんだ



 みんな淋しさを隠そうと 引きつった笑顔見せている

 笑い合えば笑い合うほど オレ達は離れて行く

 そんな気がする

 離れて行く

 そんな気がする


            (詞・曲 金森幸介)



 当時、こんなことをストレートに歌ってくれる人はいなか

ったし(今もいないけどね)、まさに自分が感じていたこと

だったので、ビックリして、感激してしまったのです。



 みんながみんなこの歌詞の様ではないし、仲良く楽しく友

達と過ごしている(つもり)だろう。けれど、少し内省的で

あれば、「人は、ひとりで生まれて、ひとりで死んでゆく」

ということに思い至る。その孤独や虚しさ淋しさは、普通一

般に考える “友達” で解消できるものではない。でも、しか

たがないので、一時しのぎで淋しさを紛らわせているのだ。

だけど、自分をごまかしきれない人はたくさん居て、そうい

う人達にこの歌は突き刺さる。

 
 私はもう四十年もこの曲を聴き、口ずさんで来たけれど、

今もってまったく古くなっていない。それは人が生きること

の本質を突いているからだろうと思う。



 誰かと繋がる為にスマホを手放せない子たちが、ついうっ

かりYou Tubeでこの曲を聴いてしまったらどんな気持ちに

なるだろう。(ぜひ、「うっかり」してもらいたいと思う

が)

 誰かと繋がる前に、まず自分自身と繋がることを考えなけ

れば、友達なんて絵空事で、表面上耳ざわりの良い “お話”

でしかない。それどころか、ひとつ間違えば苦しみの種にな

る。


 自分のこともよく分からないのに、他人のことが分かる

か?

 分からないものと分からないもの同士が、ほんの少しの共

通項で関わり合って、親友だとか、ともすれば “真友” だと

か言う。その言葉の意味することもよく分からず、自分たち

イメージを美化したいために・・・。


 “友達” という概念ほど大雑把なものもない。よく分から

ない概念です。

 それこそ「幼稚園のお友達」から、「そいつの為に全財産

や命も投げ出せる」という繋がりまで、“友達” という言葉

で呼ぶ。

 そんな風によく分からない言葉なので、私はあまり使わな

い。自分に友達がいるとも思わない。だって、誰を友達と呼

んでいいのかが分からないんだから。


 “友達” という言葉がなくったって人と付き合えるし、そ

の方が変なイメージの縛りがなくていいのかもしれない。


 「仲良くできるから、付き合ってる」

 それでいいのだと思う。


 “友達” だとか、“彼氏(彼女)” だとか、自分や相手をあ

るカテゴリーにはめ込まなければ付き合いにくいなんて、ほ

んとに良い人付き合いではないんだろう。

 仲良く出来る人と仲良くしていればいいだけのことでしょ

う。自然にね。


 お互いの間の共通項という舞台で慣れ合う “友達” じゃな

く、深い意味での “友達” という関係を持てるのは、社会の

中の「お話」を脇にどけて、ともかくにも「生きてる」生身

の人間同士を認め合うことができるときでしょう。


 なんにせよ、人は本質的に「ひとり」です。

 その「ひとり」であることを踏まえた上で、「ひとり」と

「ひとり」として人同士がかかわってゆく・・・。

 そんな間柄なら “友達” と呼んでみたい。(ハードルを上

げ過ぎかな)


 みんな淋しさをかくそうと

 引きつった笑顔見せている


 淋しさをごまかそうとするのではなく、自分の淋しさを認

めて、その “淋しい自分” と親しむ。自分と友達になってや

る。それが、本当に淋しさを解消する手立てだと思う。


 ちょっと周りを見渡せば、「引きつった笑顔」を見せてい

る人がいっぱい居るのが分かる。

 みんな淋しくない振りをしているだけだし、振りをしてい

るうちに「淋しくない」と自己暗示にかかっているだけで

す。


 人は「ひとり」を生きる。

 いや、人は「自分」を生きる。

 「自分」という唯一無二のものに親しんで、慈しんでやれ

ば、淋しさの出てくる余地は無い。

 他人と良い付き合いが出来るのは、それからの話でしょ

う。




2018年8月16日木曜日

専門家は役に立つか?~「経済学者は役立たず」~


 世の中では、あっちでもこっちでもさまざまな議論が行わ

れている。

 政治・経済・環境・エネルギー・差別・医療・教育・福

祉・防災・農業・etc...。

 そうやってあらゆることが議論されるけれど、その結論が

出ることはない。

 「太陽が昇れば朝が来るというのは正しいか?」といった

自明のことでなければ結論は出ない。(そもそも、そんなこ

とは議論の対象にならないが)

 なぜなら、《正しいとは、そういうことにしておけば気が

済む》ということだから、片方が意見を改めたとしても、そ

れはもう一方の意見が正しかったということではなく、単に

片方の気が変わっただけのことで、その場ではその意見が通

ったという話です。



 人間の考える事の正当性を、完全に保証する事は原理的に

不可能なので、反対する者はどんなに分が悪かろうが、「そ

れではまだ完全な証明にはならない!」と言って、反対する

のです。そして、それに対する対抗手段は有りません。「完

全な証明」など誰にも出来ないのですから。

 なので、議論には「正しい結論」はありません。



 議論に決着(結論ではない)がつくのは、議論していた者

が仲良くなっちゃった時と、一方が経済力・腕力(武力)・

賛同者の頭数などの、なんらかの力で相手を圧倒した時で、

議論そのもので決着がつくことはありません。

 同じ対象を見ていながらもともと意見が違うのですから、

片方がもう一方の視点から対象を見る様になったのなら、そ

れは、一方がもう一方の側に立ち位置を変えたということ

で、仲良くなっちゃったということです。決して、「結論が

出た」のではなく、「決着がついた」ということです。だっ

て、人間には〈正しいこと〉は知り得ないですから。



 わたしたちは言葉を使ってものを考え、議論しますが、言

葉というものは、まず物事を分ける事によって成立します。

 その「分けること」は恣意的なことですから、言葉を使っ

た瞬間に、その人やその人の属する文化の恣意性が入り込み

ます。なので、言葉によってどのような「正しさ」を導き出

しても、それは『絶対客観的正しさ』  真理というもので

しょうか  では有り得ません。人は〈正しいこと〉を知り

得ないのです。



 結局、どんな議論がなされても、その意見の正当性ではな

くて、なんらかの力で相手を圧倒した方が主導権を取るか、

相手を懐柔して抱き込んだら終わるだけですね。



 「戦争は政治手法の一つ」という言い方もされますけど、

議論が “殺し合い” で決着することもままあるわけです。

 「逆らいようが無い・・・」と思わせたら勝ちということ

ですね。議論して正しい答えが出るなんて、幻想ですね。

 いいとこ「話が進展する」というぐらいで、それが正しい

方へ向かっているなんて思っていたら大間違いです。自分の

気が済むことが「正しいこと」ではありません。



 「議論」なんて、気に入らないから黙っていられないだけ

で、自分の気にいることを正しいことにしたくて、右往左往

しているだけのことです。

 議論しちゃってること自体が、何かおかしなとこへはまり

込んでるってことですよ。(あきらかにバカなことを言っ

て、それを実行しようとしている者は止めなくちゃいけない

でしょうが、「あきらかにバカなこと」を明らかにするのも

なかなか問題の多いことです。気が付いたら自分がバカなこ

とを言っているかも知れません)


 そのように、あっちでもこっちでも議論が繰り広げられて

いるわけですが、そういったさまざまな議論では、ほぼ必ず

専門家の意見が参考にされたり主題にされたりする。もちろ

ん、専門家同士も議論する。けれど、議論の場では専門家の

意見は役に立たない。

 すでに書いた様に、議論を決着させるのは議論そのもので

は無い。“論” を戦わせている様に見えるけれど、それぞれ

の “論” は旗のようなものであって、“論” が戦っているので

はなくて、“論” を守る為に戦っているのですね。その “論” 

を守る為に、「専門家の意見」や「論文」や「データ」とい

った武器を使うのですが、情けないことにそれらの武器は 

“言葉” や “数字” でしかない。どんなに打ち合ったところ

で、相手の旗を倒す実質的な効果は無い。

 議論の場に専門家を引っ張り出すのは、不毛です。(そも

そも、議論自体がほとんど不毛ですが・・・)


 専門家が役に立つのは、議論が決着した後のことです。

 主導権を取った側の意見を担保する専門家が役に立つこと

になります。

 が、先に述べたように、人は正しいことを知り得ません。

 専門家の意見というものも、良くて「さしあたり上手いこ

と行く」というもので、その意見を取り入れたり従ったりす

ることが、ずっと良い結果をもたらすことはありません。な

ぜなら、その対象となることに完璧に対応出来る事はありま

せんし、もし出来たとしても、状況は必ず変わるからです。

 考えに考え、戦いに勝って(悪どいことやズルいこともし

ながら)、やっと主導権を手に入れて、出来る事は結局「間

に合わせ」なのです。


 人は正しいことを知り得ませんから、「間に合わせ」しか

出来ません。それ以上の事が出来るのなら〈神〉です。


 私は何も「人間の考える事はどうせ “間に合わせ” に過ぎ

ないのだから、な~んも考えず、な~んもするな」と言いた

い訳ではありません。

 議論というものはそういうものだし、出来る事は「間に合

わせ」だから、そのことを常に分かっておかなければならな

いだろうと・・・。


 結論というものは無いのだと。

 だからわたしたちは、常にニュートラルな意識で事に当た

らなければならないだろうと思います。

 例え自分が主導権を握っても、それは絶対正しいというわ

けではないし、正しいことが出来るということでもない。

 みんな思い違いをするけれどね。


 そう、「専門家は役に立つか?」。

 役に立ちます。カンナや金槌のような道具としてね。

 でも、中には何の役にも立たない専門家もありますね。経

済学者なんて何してるんだろう? 哲学者もほとんど役立た

ずだけれど、経済学者は実社会に対する影響力が物凄いの

に、あんな役立たずは無い。

 経済が人間にとって良いものになった事があるか? 

 経済学者が悪影響を与えることがあっても、経済の安定に

資したことはないのだろうと思う。強欲な連中が経済学者の

言うことを利用して私腹を肥やすだけで、却って経済格差が

拡がったりするだけ・・・。
 

 経済学者はもう黙りなさい。

 あなた達は、核物質並みに問題の多い存在です。

 「使えないヤツ」とうやつです。


 「そんな言い草はないだろう!」

 そう経済学者が思うのであれば、わたしたち人類が “経済

の支配” から抜け出せる道を示してほしいものだ。(“経済”

というのは、経済というシステムそのもののことです『リア

ルマトリックス』(2017/3) の回をご覧ください)


 世界中の経済学者が共同で声明を出し、人類が “経済” に

支配されてしまっている事を示し、その支配から自分たちを

解放する手立てを提示してみせてほしい。

 もしもそれが出来るなら、人類がより良い将来をつかむ布

石ともなるだろう。

 経済学者に出来る事はそれだけしかないと思うね。




2018年8月13日月曜日

「自己劇化」の果てに。


 前回のブログで、ボクシング連盟の山根氏のことを、「自

己劇化の激しい人間」と評したのだけど、〈自己劇化〉とい

う言葉はおそらく辞書には無い。



 この言葉は随分昔に、たぶん糸井重里さんか橋本治さんが

使ったものです(記憶が曖昧で確証がない)。

 当時、この言葉についての説明は無かったのですが、【自

分の生き方・人生をストーリーとして捉え、ドラマの様に考

えている】ということだと受け止めました。

 確か、矢沢永吉を評して「自己劇化の激しい男」と言った

のだったと思う(やはり記憶が曖昧で確証が無い)。



 人が社会で生きてゆく為には、ストーリーが必要です。

 それまでのいきさつや、これからの展開というものを思い

描かなければ、社会適応出来ませんし、生きている事が茫漠

として、不安や虚無感に囚われてしまうことになります。



 社会的成功や、家族などの人間関係の有り方や、民族意

識・国家意識、宗教など、人によってそれぞれの “重み付

け” は違いますが、あらゆることで自分の関わり方をストー

リー化します。

 もちろん、ほとんど本能的・生理的というような関わりし

か持たない事や、なんの関心も持たない事柄は人それぞれに

ありますが、当人が意識しているかどうかに関わらず、その

人にとって重要ないくつかのストーリーを持っているのが普

通の人間です。



 そうして生きてゆく中で、特に自分のストーリーを強固に

持って、それに合わせて生きようとする人を「自己劇化の激

しい人」と言います。そして、そのような人は、往々にして

“俗物” です。または、“変な人” や “危ない人” だったりし

ます。どちらにせよ、「アタマでっかち」なんですね。自分

の思考に強い現実感を持っていて、それを実現  現実化

  させて、その中に生きることが「生きる」ということだ

と信じて疑わない・・・。



 そういう人が居たって構わないんですが、ストーリーとい

うものは、当然ながら社会との関わり方のことですから、そ

れらの人は自分が主役のストーリーを社会の中に持ち込ん

で、それを具現化しようと躍起になります。世界は自分を中

心に回っているような錯覚をするんですね。

 それがどんな人かと言えば、要するに “はた迷惑な人” な

んですが、その人のストーリーに親和性を持っている人は、

そこに寄って行ってしまいます。

 結果、そのストーリーは現実の社会の中で肥大してゆき、

一般的な社会のストーリーとは乖離した動きをして、問題を

起こすことになります。

 それはヒトラーとナチスに象徴されるような現象ですが、

大なり小なり常に世界中で起きていて、それ故に、人間の世

界は平和になりません。



 なにも、自己劇化の激しい人間がみんなヒトラーのような

わけではありませんが、現実の社会に則した形で自分のスト

ーリーを持っていても、当人の目的は「自分のストーリーの

具現化」ですから、誰かにしわ寄せが行って困っていたりす

る事は、問題にしません。だから “はた迷惑” なんです。



 人間が迷惑していなくても、森が迷惑していたり、魚や虫

が迷惑していたりもするわけです。それは、巡り巡って人間

を困らせることになったりするんですけど。



 わたしたちは、ストーリーを持たなければ、社会の中で

きて行きにくいのですけど、ストーリーを持つが故に、社会

の持つ問題を抱え込むことになって苦しみます。



 たとえば、「良い大学を出て、良い会社に入って、経済的

に豊かになることがしあわせというものだ」というストーリ

ーをもっていると、それが具現化できないことは、挫折・敗

北であり、「不幸である」ということになってしまいますか

ら、なんとしてもそれを具現化しようとムチャな事やずるい

事をしたりして、今度はそれを正当化しようと余計なエネル

ギーを使います。それで、首尾よくストーリーが具現化すれ

ばまだしも、できなければずっと苦しいだけです。



 では、ムチャをせず、ずるい事もせず、スムーズにストー

リーが具現化したとすればどうでしょう? しあわせでしょ

か?

 いいえ、その人はつまらないと思いますよ。「自分の努力

や苦労が、自分のストーリーを形にした!」という、一番大

事なストーリーが欠けているからです。


 人がストーリーを持つのは、“自己肯定感” が欲しいから

です。その為には、「自分の力によって・・・」ということ

が外せません。マンガにしろ映画にしろ、主人公が障害を乗

り越える姿が描かれなければ、誰も喜ばないでしょ?

 ストーリーを持って、それを具現化して行くことは、マゾ

ヒスティックなものなのです。その為、障害が無ければ、わ

ざわざ障害のある方へ行きますし、無ければ作ります。


 自分で障害(問題)を設定して、自分で苦労するというマ

ッチポンプが、わたしたちの作るストーリーのキモなので

す。おつかれさま。


 私は、そういうのは疲れるし気持ち悪いのですが、社会が

その様な要請をしてくるように出来ているので、付き合わざ

るを得ません。ほんとうに迷惑しています。

 もっと気楽に、すんなり、自然にやれないものでしょう

か?


 問題なんか、生きていれば自然に発生して来るものです。

その対処だけで十分なのに、何やらわけのわからない夢を描

いて、問題を抱えては周りの人間まで巻き込んで行く・・。


 自然に生まれて来る問題を片付けたら、「あ~っ、終わっ

た!」と昼寝でもするか、涼しい所でビールでも飲んでいれ

ばいいと思う。

 「やりたいことがある」などと、あちこと動き回られる

と、暑苦しいしホコリも立つ。

 「ちょっと、じっとしてなさいよ」

 そう言いたいんですが。


 「そういうのって “ビョーキ” なんだ」、という社会通念

が出来てくれればいいのにと思うけれど、社会の方でそれを

奨励するもんだから手の打ちようも無い。そして、奨励して

おいて、山根氏の様な人間がでてくると、「何であん

な・・」とか言って呆れたり、訝しんだりする・・・。

 「同じ穴のムジナだよ」と、こっちは思ってる。


 しなければしょうがないことはあるけれど、するべきこと

や、することなんて本当は無いのだ。


 自己実現して、自己肯定するなんて手間なことしなくった

って、自分は今ここに生きているじゃないか(明日の事は知

りませんが)。


 はた迷惑です。

 おとなしくしてなさい。




2018年8月11日土曜日

男一匹、〈世の中〉を生きる


 この一週間ほど、ブログを書く取っ掛かりが見つからな

い。

 世の中にはいろいろなニュースがあって、まあネタはある

のだけれど、どれもこれも「まいどお馴染み」の人間のアタ

マの悪さによるもので、顔ぶれが変わるだけでやってること

に本質的な違いは無い。違うニュースについて突っ込んで

も、今まで書いて来た事と、たいして変わり映えがしないこ

とになってしまうだろう。

 そういうわけで、書きたいけれど書く気がしない。

 相変わらず「人は人」、「世の中は世の中」なんです。



 とはいうものの、日本ボクシング連盟の山根氏の “俗物” 

ぶりには驚かされた。78歳という年代とはいえ、「男とし

て・・」といった発言を連発し、あまりのアナクロさと、

己劇化の激しさは、とても現代の人間とは思えない。あゝも

単純に〈世の中のストーリー〉  それもかなり古い  

どっぷりハマれるのは不思議な気さえする。ほんとうに、自

分の都合の良い、閉じた世界で生きて来たのだなぁ・・。



 あのような人間が生き残って来て、尚且つ権力を持つとい

うことは、その世界が、その同じ価値観の人間で構成されて

きた証拠でもある。「“山根” 的」な人間の集まりなんだろ

う。

 私にはこの世のものとは思えないけれど、彼らには、それ

こそが〈この世〉なんだろうなぁ。



 どうしても、商売(金儲け)と政治とスポーツの世界

は、“俗物” であればあるほど、力を持ちやすいようだ。

 まぁ、それは当然でもあるのだけれど、ああいう人物を目

の当たりにすると、あらためてその本気さに驚かされる。

「本当に〈アタマ〉だけで生きて来たんだ」と・・・。



 しみじみと自分に親しんだり、しみじみと自分を見つめた

りしたことなど一度も無かったのだろう。気の毒なものだ。



 ああやって、自分のエゴをむき出しにして、エゴの充足だ

けを糧にして何十年も生きて来て、本人は満足し、刺激に満

ちた年月だっただろうが、私から見れば完全な「生きそこな

い」だ。だからこそこんな事件になってしまうのだが、その

ような状況になればなるほど、本人は頑なになる。なぜな

ら、その小さな小さな世界が彼のすべてだから・・・。よう

するに “お山の大将” なわけですね。

 世間的にどんなに大きく見えようが、 “お山の大将” は

「エゴの砂山」の上でほくそ笑んだり、足元をさらわれない

かと不安に怯えてるだけだ。不安だからこそ高圧的だし、自

分の立場の確かさを感じられることには、「バカじゃねえ

の」というほど単純に喜ぶ・・・。ほんとに幼稚で単純で始

末が悪いね。


 「比べあうこと」 

 「得ること」

 「管理・支配すること」

 そういったことが中心となるような世界(人の集まり)

は、どうしてもエゴのエネルギーが濃くなる。違う表現をす

るなら、「ストーリーが、狭く・強固になる」。

 ある決まった形の〈成功〉といったものを、誰もが信じて

疑わない世界・・・。

 カルト教団や、過激なイデオロギーの集団と本質的な違い

は無くて、その小さな社会の中で自己完結して、エゴイズム

を濃縮させてゆく・・・。


 「違う世界もあるのだ・・・」とか、「自分(たち)が正

しいという確証なんて無いのだ・・」とか考えてみるゆとり

のない人達が、それぞれに集まって小さな社会を作り、それ

らが集まって、一つ上の階層の社会を構成する。

 人間の世界は、〈エゴ〉のフラクタルなシステムだ。


 違う世界で生きているはずなのに、集団と集団の価値感に

対立があれば衝突したりする。「衝突できる」ということ

が、本質的に同質であることを表わしている。

 サメと狼が衝突する事は無い。違う世界で暮らしているか

らだ。けれど、オオカミと熊が衝突する事はありえる。生き

方は違っても同じ世界で暮らしているからだ。


 「(自分の)エゴに応える」という行動原理を同じくして

いる限り、違うはずの者の間には問題が生まれ続け、世の中

は乱れ続ける。さらには、“乱れること” がエゴを興奮さ

せ、SM的な喜びを感じさせるので、エゴは密かにトラブル

を望んでいる。手に負えない


 私たちは、多かれ少なかれ「“山根” 的」なものである。

 「それが問題なんだよ」と、キリストや釈迦が指摘してか

ら、もう二千年以上が経つのだが、相も変わらずエゴの興奮

を、「しあわせ」だと思って生きている。


 山根氏を、社会の価値感の上に立って真っ向から批判する

のであれば、同じリングに上がっているのだから、「明日は

我が身」と思っておくべきだろう。


 山根氏の居るリングの照明を、「黙って消す」とか、会場

に「外からカギを掛けてしまう」というのが、上手なやり方

のように思うけどね。「放ったらかして相手にしない」とい

うのがね。

 ああいう小さな業界が腐ってしまっているのなら、自然消

滅させた方がいいでしょう。必要なら、また自然発生するの

だろうからね。

 それでマシになったとしても、所詮「エゴはエゴ」に止ま

るのだけども。まあ、世の中の話ですね。




2018年8月5日日曜日

「夏休み」と「自殺」。そして「居場所」。


 夏休みの後半。それと九月一日には、子供の自殺が増える

ということで、去年もその事についてふれた・・・。

 今年も、すでに夏休みに入って二週間ほどが過ぎている。

 子供たちの自殺が増える事は今年も避けられない事だろう

と思うけれど、少しでもなんとかならないものだろうか。


 その子が自殺するのは、運命なのでしょう。どうにもなら

ないことなのでしょう。でも、どうにかならないか?


 彼ら、彼女らが自殺する直近の理由は、大抵「居場所が無

い」ということだろうと思う。

 そういう想いに至るさまざまな要因があってそうなるわけ

だけれど、最終的には「居場所が無い」という想いにかられ

て自ら命を絶つのでしょう。

 無いのだろうなぁ、「居場所」が・・・。可哀相になぁ。


 今の私は、“オヤジ” です。小中高生のような「居場所が

無い」という想いを持つ可能性は低い。

 それなりに、いろんな人と関わり、いろんな場所で、いろ

んな経験をしてきたので、「ここがダメでも、他の所やほか

の関係が有る」と思えるから、「死のう」とは想いにくいの

だけれど、でもそれは “可能性が低い” だけで、ゼロではな

い。

 苦しい状況が続いて、そこから抜け出す方法が見いだせな

ければ、“オヤジ” であっても「死のうかな・・」とは思っ

てしまう。現に、中年の自殺は多い。


 「居場所が無い」ということを、「彼ら、彼女らの自殺の

理由だろう」と書いたけれど、何も「彼ら、彼女ら」に限っ

た事ではない。自殺する者は、居場所を失くしたが故に自殺

するのです。

 なぜそうなってしまうかというと、そもそも社会(人間関

係)の中に “居場所” を持とうとするからですね。


 社会というものは、ひとりひとりの〈エゴ〉の集合だとい

うことは、今までも書いて来ました。と同時に、ひとりひと

りの〈エゴ〉は、社会と関わる事によって作られるとも書い

来ました。それはつまり、社会の中は数限りない〈エゴ〉

葛藤と闘争の場だということです。

 そんな中に自分の居場所を持とうとすること自体が、大き

な間違いなんですね。


 誰も彼もが、自分の居場所を確保する為に、自分の正当性

を主張し、他の者を仲間に引き込んでそれを堅固なものにし

ょうとし、合い入れないと見做した者を排除して、自分の立

場をより強固にしようとします。

 なぜそうなるかというと、そもそも社会の中に自分の居場

所を持とうとすることに無理があるからです。


 社会というものは、人々の〈エゴ〉によって出来ていま

す。〈エゴ〉というものは、“不安” と “不安からくる欲望”

によって出来ていますから、そんなところに安定した居場所

なんか作れないのです。

 表面上、安定している様に見えていても、その土台が〈エ

ゴ〉である限りは、永久に安定はありません。

 ですから、自分の縄張りや仲間を拡げ、自分とは違う人間

を設定して排除することで、「自分は正しい側だ」という安

心を得ようとせずにはいられないのです。それに終りは無い

と気付けずに・・・。


 社会  自分が暮らす世界  の中に “自分の居場所” を

作ろうとすることは、川の堤防の内側に家を建てるようなも

のです。ちょっと雨が降れば流されてしまいます。

 自分の居場所は、自分の中に作るべきなのです。いえ、自

分の中にもともとあって、自分の中にしか無いものなので

す。


 《 わたしが、わたしのマイホーム 》


 という言葉をだいぶん前に載せましたが、自分の居場所は

自分の中にしか無い。


 わたしたちは、世の中と関わり合う中で、あれやこれやと

様々な事を考え続けます。

 その考えの流れの中で、「流されまい」として何かにつか

まろうとしますが、“世の中の考え” も “自分の考え” も、

「流れ」なのです。確固としたものは何もないし、人々は自

分がつかまる処を得ようと、他の者の手を払います。

 そんなところで自分の居場所を得ようとする事は、悲劇で

すが、みんな「そうするしかない」と思っているのです

ね・・・。


 居場所はあるんですよ。自分の中に。


 世の中の考え・価値観・約束事・・・、そんなものとは関

係なく、生きている・存在している自分が居ることは間違い

ようの無い事実なんです。


 あなたが、サハラ砂漠の真ん中に運ばれて、たった一人置

きざりにされても、すぐにあなたの存在が無くなるわけでは

ないですよね?

 世の中と完全に無関係な状態になっても、自分は存在して

いる(それでいつまで生きられるかはさておき・・・)。

 世の中との関わり以前に、さまざまな思考の条件付けより

前に、自分は存在している。自分は居る。

 「自分は居る。」のなら、そこには “自分の居場所” があ

るはずでしょう。実際、「有る」のです。


 そのことを忘れて(そう思い込まされて)、世の中に “自

分の居場所” を求めてしまう・・・。それが、人間の不幸の

始まりです。
 

 振り返ってみればいいんです。いや、ちょっと首を振って

確かめ直してみればいいんです。

 世の中(他の人たち  家族も含めた)とは無関係に、自

分が在る。その自分がほんとうの “自分の居場所” です。

「自分が自分の居場所」なんて、当たり前すぎることです。

なんの疑いもない事です。それに気付けないようになってい

るんです。〈アタマ〉が悪さをするせいで・・・。


 誰が何を言おうが、どんな態度をとろうが、どんな仕打ち

をしようが、たとえ明日が来る前に殺されようが、それであ

ればなおさら、そんな世界に “自分の居場所” を求めるべき

ではありません。
 

 世の中の自分は、困った事に振り回されているかもしれな

い。心無い人に苦しめられているかもしれない。殺されよう

としているかもしれない。でも、どんな瞬間であっても、

「今・ここに・自分が在る」。それは、“自分の居場所” が

あるということでしょう?


 どんな境遇にあっても、
 

 《 自分はいつも “自分” という居場所にある 




 そんな風に考えたところで、世の中のエゴから自分の生命

さえ守れないかもしれない。

 けれど、「自分が居るべき場所に居ること」が、本当に

「生きること」ではないでしょうか。



 夏休みが中盤になってくると、そんなことを考える。



 「小学生にも伝わる言葉で、同じことを語れたらなぁ」と

思うけれどね・・・。






2018年8月4日土曜日

「普通」は普通か?


 今日は「普通」について考える。

 「普く通ずる」のが「普通」ということだろう。

 「普通」は、〈人間の判断の基準〉という意味として使わ

れていると考えてよいと思う。

 「普く通ずる判断基準」

 ウソだね。


 「普く」というほど普遍的な判断基準を、普通の人(!)

はとっていない。「まぁ、この位が妥当で納得出来るね」と

いう程度で、尚且つ自分がそこから外れないことを「普通」

と言っているだけです。まったくの “ご都合主義” です。

 自分に都合がいいことが、「普通」なんです。

 そして、自分の都合に余裕の無い人間ほど、「普通」のキ

ャパシティが小さくなる。


 「普通」の反対語は、たぶん「特殊」あるいは「異常」と

いうことになるんでしょうが、余裕の無い人は「普通」の範

囲が狭い為、「異常」と感じる事が多くなります。そして、

「おかしい」「それは違う」「それは変だろう」などという

ことを、しょっちゅう口にすることになります。すごく狭い

世界に身を置いているんですね。


 あなたのまわりにも居るでしょう。二言目には「あの人は

おかしい」とか「あのやり方は変だ」とか言う人(もしかし

たらあなた自身かもしれませんが・・・)。

 「まわりにも居るでしょう」というより、たいていの人は

そういうことを普通に言いますね。

 自分の拠って立つ世界を乱されたくないので、そこから外

れる事や人を否定するのです。でも、しょっちゅう否定して

いるというのは、自分の世界の “狭さ” “余裕の無さ” の証拠

です。自分の世界が “狭い” ということは、「普通」じゃな

くて「おかしい」のは自分の方かもしれませんよ。


 人のことを「おかしい」「変だ」としょっちゅう批判する

人は、「もしかしたら自分は普通じゃないかもしれない」、

「自分はおかしいのかもしれない」という不安を強く持って

いるのだと思います。


 世の中から教えられた基準や、自分の心理的安定を保つた

めの価値感が狭かったり、偏っている為に、常に不安を感じ

させる事に出会ってしまう。そして、自分の正当性を自分に

い聞かせる為に、口癖のようにしょっちゅう口走る「あれ

おかしい・・・」。

 「自分の方がおかしいのかも知れない」なんて、恐ろしく

て考える事も出来ないんです。


 確かに、人間から見て「普通」というカテゴリーに入れて

おいてよいことは有りますよ。日々の暮らしを成立させるた

めに都合が良いことはね。

 でも、本当は「普通」なんて存在しませんね。


 このところの連日の猛暑で「異常だ。異常だ」とやたらに

言いますが、「都合が悪い」「気に入らない」というだけで

しょ。

 「異常だ」と言って気温が下がってくれるのであれば良い

けれど、そんなはずもない。「異常」だろうが、「非常」だ

ろうが、「無情」だろうが、それが現実ならその現実を生き

るしかありません。どうせ「平年並み」でも「暑い!暑

い!」と言っているはずだろうし・・・。(たとえば、一日

だけ東京中のエアコンをOFFにして、マイカーの使用を停止

して、東京の気温がどうなるかを実験してもらいたいと思

う。3℃ぐらいは下がるんじゃないだろうか・・。実際にや

らなくても、コンピューターのシュミレーションで答えは出

るだろうけど、そんな都合の悪い結果の出そうな事はやらな

いいだろうね。エアコン点けて、車で走り回って、街を暑く

して、暑いからエアコンをさらに強くして・・・。そんなこ

とだろうと思うけどね)


 自分は「普通」。

 自分に都合の悪いものは「おかしい」。

 それが、普通の人間というものでしょう。


 そんなに「普通」が良いんだったら、「人より賢く」とか

「人より美人」とか「人より金持ち」とか「人より長生き」

とか求めるんじゃない!

 自分の都合が良い事だけ、「普通じゃない」方が良いなん

て勝手ですね。でも、そんな勝手な人が「普通の人」なんで

すね。「普通」って、胡散臭くてズルイものをかかえてるも

のです・・・。


 「普通」かどうかなんて考えなくなったら、世界がかなり

広がって、生きることに余裕が出てくると思うんですが、そ

んな考え「普通じゃない」んですね・・。 


 「普通」の人っておかしいんですよ。アタマがね・・・。