2017年1月29日日曜日

うるさいのは?



  《 窓の外で、けたたましいクラクションが鳴った。

    「うるさい!」と思ったけど、思った時には

    もうクラクションは鳴っていない。

  
    では、何がうるさいか?

    どうやら自分の頭がうるさいらしい 》



 これはね。昔、ほんとにあった事なんですよ。

自分の家で本を読んでたら、窓の外でトラックがおもいっきりクラ

クションを鳴らしたんです。反射的に「うるさい!」とキレかけた

んですが、その瞬間に、頭のテッペンまで昇りかけてた血がスッ

と下がって、「あれっ。うるさいと思ったけど、うるさいはずのクラ

クションは、もう鳴っていないよなぁ。はは~ん。オレの頭の中が

うるさいのか。」そう思った。

 この出来事は「アタマってバカだね」と、私が思うようになった

キッカケのひとつです。

 精神分析だとか、仏教だとかに興味を持って、いろいろ本を読

んだりして「余計なことを考えるから、人は不幸になるんだ」と頭

では分かってきてたんですが、この時にそれが腑に落ちたんで

す。身体で分ったというか、肚で分ったというか。


 人はすぐに出来事を追っかけたり、引きずったりしちゃうんです

よね。そして、今ある現実からはぐれて、自分の妄想の中をグル

グル グルグル廻り続ける。

 それが、嬉しい出来事の後、ニヤニヤ笑ってるぐらいなら、まぁ

いいんでしょうが、どちらかといえば妄想の中の不愉快なドラマ

に入り込んじゃうことの方が多い。そうなると、美味しいものを食

べても、味が分からない。家族や友達が面白い事を言っても、ろ

くに聞いていない。うっかりすると、周りの人間に不機嫌をまき

散らす。


  《 起こった時には、終わってる 》


 どんな出来事も、起きた時にはもう終わってます。

 自分で勝手に背負い込んで、いつまでもしんどい思いをしてい

るだけです。 「アタマ」が悪いのです。


 十年前に失恋した事を思い出して、友達が泣いていたら「こい

つバカか?」って思うでしょ。だって十年前ですからね。でも、こ

れが昨日フラれたんだったら、泣いてても仕方ないって思います

よね。だけど本当は、十年前でも昨日でも、もう終わってしまって

いて、今はもう無い事だというのは同じです。 それを同じに出

来ないのが、「アタマ」なんです。

 もう存在してない過去が、今という唯一の実在を喰ってしまっ

てるんです。 こういう状態を、私は 「生きていない」 と言いま

す。 ( ただね、失恋したり、受験に失敗したばかりで泣いてる

若い子に「済んだ事でメソメソと・・・、バカじゃねえの」なんて言う

気は無いんですよ。人間って普通そういうもんだから、それはそ

れで人間らしくてよろしい。人間なんだから、情をまったく無くし

てしまうのは行き過ぎでしょう。もっとも、それで三か月も泣いて

たら、「バーカ。もう死んだら?」ぐらいのことは言っちゃうけど )


 ちょっと重い話になりますが、大切なひとを亡くした人が悲嘆

に暮れますよね。 当然です。 人として仕方がないことです。

時間が必要です。 でも、一年も二年も、場合によってはもっと

もっと長く引きずる人が居ますよね。 私も子供の頃に父親を亡

くしているので、それに免じて言わせてもらいたいんですが。や

っぱり、そんなに引きずるべきではないと思うんですよね。 良く

ないですよ。


 そういう人は、悲しまないのは冷たい人間だと、自分で無意識

に思ってるんじゃないでしょうか? 悲しむことが、愛してた証し

なんだと、どこかで思ってる。 

 でも、悲しむことと愛してることは、別だと思いますよ。

 悲しみっていうのは、失望から生まれるのであって、愛情から

は生まれません。 悲しみというのは、エゴの一面です。 あまり

に悲しみ続ける人は、エゴイストです。


  私は、エゴを完全に否定しませんよ。

 エゴは、人間に作り付けになってます。人間にエゴがあるのは

自然です。 ただ、エゴの僕(しもべ)になってはならない。


 私はこんな風に考えるんです。

 もし私が死んで、家族が何か月も泣いていたとしたら、あの世

から見てて、こう思うでしょう。「おい。おれのせいで、いつまでも

泣かないでくれ。いいかげん機嫌よくやってくれないと、オレは

心苦しくてたまらん」と。

 自分が死んだら、家族に何年でも泣き続けて欲しいなんて

思ってる人がいたら、そんなのロクな奴じゃない。 だっ

て、愛する人には笑顔でいて欲しいっていうのが、当たり前

でしょ?

 だから大切な人が亡くなったら、なるべく早く、程々のところで

泣くのは止めるべきなんです。 それが、愛じゃないでしょうか?  

 その方が、亡くなった人も、あの世で喜ぶと思うんですよ。

 きっと。






2017年1月24日火曜日

機嫌の悪い奴はバカである

 《 要するに、機嫌の悪い奴はバカである 》


 
前回、あなたも私も、しあわせになれました。

 「でも、会社に行けば酷い上司が居るんだ」

 「ローンを抱えているのに、収入が減ってしまって大変なんだ」

 「子供をあずける保育園が見つからなくて、困っているのに・・」

 いろんな文句があるでしょう。 当然ですね。

 みんな、それぞれに事情があって、暮らしていくことは、なかな


か大変です。そりゃあそうですね。当たり前です。しかし、暮らし

が大変だとしても、それが現実なら、大変なまま暮らして行くん

ですよ。 だって当たり前なんだから。


 酷い目に逢ったりもしますよ、ラッキーな人もいるのに、なんで

自分はツイてないんだとか思ったり。

 キツイですよね。でも、自分は自分なりに精一杯生きていくだ

けです。自分は自分でしかないんだから。

 自分なりにしかできないでしょ?


 “ビル・ゲイツなりに” とか、“イチローなりに” とか出来ない


でしょ?自分にできる事って、どこまで行っても “自分なりに” 

でしょ? 人と較べたって、たいてい不愉快になるだけです。


 私は、ひとは誰でも精一杯やっていると思いますよ。

 あなたが一生懸命働いている時に、裏口のドアの外でサボっ

てタバコを吸っている同僚がいる。サボっているのは確かです。

でも、彼はそれが精一杯なんです。今の彼は、サボってタバコを

一服せざるを得ないんです。サボらずに仕事を続ける余裕がな

いのです。それが、今の “彼なり” なんです。

 逆にあなたがサボったって、それが “あなたなり” だから、そ

れでいい。誰かに見つかって嫌われたら、またそこから、嫌われ

たなりの自分を生きてゆく。そうやって、揺れ動きながら自分を

生きてゆく。 他に、どうしようがあります?


 サボったりせず、いつも100%の力で生きてゆきたいなら、そ

れでもいいんです。


 出来るだけ手を抜いて、楽して生きてゆきたいなら、それでも

いいんです。

 どちらも、それが、その時、その人の精一杯だと思います。

 「お好きなように」 と言うより、そうしか出来ないんでしょう。

人は皆、その時その時、そうせざるを得ないことをしながら生き

ているだけだと、私は思います。

 そうやって、それぞれの精一杯を生きながら、楽しい事だけじ

ゃなく、嫌な人、嫌な事に出会いながら生きてゆく。文句を言い

ながら・・。


 でも、いくら文句を言ったところで、「嫌な人」も「嫌な事」も死ぬ

まで消えて無くならない。

 文句を言っていいんですが、言うなら機嫌よく言った方が良

い。「嫌な人」や「嫌な事」と、どうやって付き合ってゆくかってい

うのが智慧なんですよ。

 で、機嫌が悪い人は、その智慧が無い人なんです。 だから、

「機嫌が悪い奴はバカ」なんです。



 「バカ」だなんて、ごめんなさいね。

 あなただって、機嫌が悪いことはよくあるでしょうから、自分が

バカにされた様に感じるでしょう。でも「バカ」なのは、
 ”機嫌が

悪い時のその人” なのであって、その人の全人格を「バカ」だと

言っているわけではないんです。「機嫌が悪い時、その人はバカ

になっている」ということなんです。

 だから、私もちょくちょく「バカ」になります。そして、その都度


「あ~ぁ、また損した・・」と思います。大事な自分の時間を不機嫌

に過ごしてしまって、もったいないからです。 二度とない自分の

時間を不機嫌の為に使ってしまうなんて、バカでしょ?

 それに、損するのは自分だけではなく、不機嫌は周りの人にす

ぐ伝わりますから、周りの人も不機嫌になってゆきます。他の人

にも損をさせるんです。本当は犯罪行為と言うべき事なんです。

だから、こんな言葉もあります。


 「不機嫌ほど大きな罪はない」  ゲーテ


ゲーテに出てこられちゃしょうがない。って感じもしますが、一番

大きな罪だと言っているわけですから、人間のする事の中で最

も破壊的だと、ゲーテも思ったんですね。こいつをなんとかしなく

ちゃと。


 なんとかしましょう、わたしたちも。

 どうするか?


 私は、「機嫌が良い」=「しあわせ」 と考えています。


「機嫌が良いけど、不しあわせ」、「しあわせなのに、不機嫌」 と

いうのは、ありえません。

 だったら、前回のやり方でいけます。


 機嫌良くなるのに、理由はいらない。



 機嫌が悪くなるのは、またしても 「アタマ」 のミスリードが原

因で、ホントは不機嫌になる必要はないんです。

 だから、我に返って、こう言いましょう

 
「や~めた。ばからしい」

 それで、おしまい。

 機嫌良くなっちゃいましょう。






2017年1月23日月曜日

しあわせになるのに、理由はいらない


  《 しあわせになるのに理由はいらない 》


 

 人は、結局 「しあわせでいたい」 というのが望みでしょう。

 何が〝しあわせ″かって言うと、まぁ人それぞれですよね。

 お金がたくさん欲しい。恋愛がうまくいって欲しい。結婚した

い。子供が欲しい。健康でいたい。仕事などで成果を出したい。

などなど。いずれにしても、自分の望みが叶うことですけど、そ

れぞれの現実的な望みは違っても、その望みが叶って得られる

のは幸福感であって、それぞれの望みは、幸福を感じさせるス

イッチを入れる鍵ですね。 鍵そのものが幸福ではない。


 だったら、幸福を感じさせる鍵が、手に入れ易ければ、手に入

れ易い程、幸福感も得やすいわけです。


 誰の言葉か忘れましたが、「その快楽に最も金のかからない

人が、最も富んでいる」 というのがあります。

 この場合は、「金」を指標にして語っているわけですが、「金」は

労力に対する対価のひとつですから、「金」ではなく「労力」と言

った方が良いですね。

 「その快楽に最も労力のかからない人が、最も富んでいる」

 (ここで、「富んでいる」というのは、当然「しあわせ」ということ

です)


 「最も労力のかからない」って、どういう状況でしょう?

 明白です。

 「ただ生きている」 ということですね。

 ただし、意識が無ければ、しあわせも感じられませんから、意

識があることが最低条件です。


 「ただ生きている」 それだけでいい。たとえ、あと一時間後に

死ぬという状態にあったとしても、しあわせでいることが出来る。

 その可能性はある。

 いや、無ければ困るのです。


 なぜなら、人は皆死ぬのですから、今まさに死が訪れようとし

ている時に、しあわせの可能性が無く、誰もが皆、死の怖れの

中で人生を終えるのでは困るんです。しあわせに人生を終える

ことが出来るべきです。だから、死が訪れる時も、しあわせでい

る可能性がなくては困ります。


 だって、嫌でしょ? 死を怖れながら、不幸を感じながら人生を

終えるなんて。

 そして、死に臨む時でも、しあわせでいることが出来るのなら、

人生のどんな局面でも、しあわせでいることは出来るはずです

よね。

 しあわせになっちゃいましょう。


 「お金が儲かったので、しあわせ」

 「彼氏が出来たので、しあわせ」

 「健康なので、しあわせ」

 「金メダルを獲ったので、しあわせ」

 普通、わたしたちがしあわせを感じる時は、「~なので」という

理由があります。ありますけど、考えてみて下さい。理由は必要

でしょうか?

 理由もなくしあわせ、というのは可能でしょうか?

 理由もなくしあわせ、というのはダメなんでしょうか?

 理由もなくしあわせは可能です。私はそう思っています。

 「せっかく生まれて来たんだから、しあわせになりたい!」そう

思いますよね?

 だったら、しあわせになっちゃえばいいんですよ!

 今すぐ。今ここで、しあわせになっちゃったらいいんです。




 「そんなこと言ったって、どうやってしあわせになったらいいん

だよ」




 「どうやって」じゃないんです。

 「どうやって」というのは、“やり方・条件”という理由ってこと

ですけど、すでに書いた様に、理由は要りません。

 しあわせになったらいいんです。

 最低条件は意識があるということですから、今、これを読んで

いるのなら、間違いなく意識があるわけです。 だったら OK!

 今すぐ、しあわせになりましょう。


 今、あなたはここに居ます。

 それ以上、何が要りますか? 

 本当に、何か要るのでしょうか?

 今、あなたがここに生きている。それでいいと思いませんか?




 たとえば、あなたは今、とても辛い仕事をしている真っ最中。

辛くて、辛くて、泣き出しそうです。泣いているかもしれない。でも

今は生きている。生きているのなら、OK。


 たとえば、あなたは今、末期のガンで、あと数日も保たないの

は明らかな状態。ベッドに伏したまま、スマホでこれを見ている、

見ている今、あなたは生きている。それでいいとは思えません


か?

 わたしたちは、今 ここに無い、想像の未来や、すでに存在し

ない過去と引き較べて、今を台無しにするのが得意です。

 日々、暮らしているのですから、未来の為に準備したり、過去

から学んだりすることは必要です。でも、わたしたちは未来や過

去を想う時は、今を忘れています。忘れているだけならまだしも

すぐに今を否定します。「これじゃダメだ」と。

 今、今を生きているのに、今はたいてい無視されてしまう。

 今が可哀相ですよね。


 一度、今 ここに引き籠ってみませんか?

 一分でも、三十秒でもいい。今 ここに 徹底的に引き籠ってみ

るんです、過去も未来も夢も想い出も、何もかも締め出して、引

き籠ってみるんです。 そこに、何があるか?




 わたしたちは、「アタマ」の条件付けに、骨の髄まで侵されてい

るんです。だから、どんな事にも理由を見つけなければ気が済

まない。条件が揃わなくては、物事を正当化し、承認することが

出来ない。でも、条件が充分に揃うことはなかなか無い。

 理由を探しても、「正しいとは、そういうことにしておけば気が

済む」ということでしかありませんから、心の底から確証を持て

ません。すぐに、正しさを否定する要素が出てきます。わたした

ちは、いつもいつも揺れ動いています。

  でも、「今、生きている」ということだけは、否定しようが無い


事実です(夢でなければ)。こんなに確かなことは他にありませ


ん。 これだけが確かです。

 だったら、その唯一確かなものの上に立って、その確かさを骨

の髄まで確かめてみましょう。

 そして、こう決めましょう。

 


 「わたしは、しあわせである」



 誰が何と言おうと、「アタマ」が何をつぶやこうと、そんなこと放


っておけばいい。


 今まで、勘違いさせられてきたんです。


 今すぐ、しあわせになっちゃえばいいんですよ。


 自分でそう思えないと言うなら、私が言ってあげますよ。



 「あなたは、今 しあわせです。


  これからも、ずっと しあわせです。


  死ぬまで、死んでからも しあわせです」







2017年1月16日月曜日

みんな、わけがわからない


  《 誰も わけがわかって生きているわけじゃない 》


 今、私はパソコンのキーボードに、この文を打ち込んでいる。

でも、なぜ今、私がこんなことをしているのか、私自身まったくそ

の理由は分からない毎日、朝目覚めて一日を過ごし、夜眠り

つく。その一日の間に、幾度か同じ思いがよぎる、「なぜ、今、

分はこんなことをしているのだろう?」 そして、こうも思う「自

分が今ここに居ることは確かなようだが・・・、ほんとに確かなん

だろうか・・・」



 荘子に「胡蝶の夢」という話がある。

 ある日、自分が蝶になる夢を見て目覚めた荘子はこう思う。

「今、こうして自分が荘子だと思っているけれども、もしかしたら、

これは蝶がわたしの夢を見ているのかもしれないぞ」



 自分はなぜ、今、ここに、こうしているのだろう?

 誰もその理由は知らない。気付いた時には生きていて、そのま

ま生き続けている。

 良いことも悪いことも、正しいことも間違ったことも、考えること

はすべて後知恵でしかなく、本当は何の確証もないまま、なにか

を自分の拠り所にして生きている。



 “われわれは何処から来たのか、われわれは何者か、われ

われは何処へ行くのか”



 有名なゴーギャンの作品のタイトルですが、本当に「何処から

来て、何処へ行くのだろう?」 出発地は知らないし、目的地も

からないまま、どこかへ行き、何かをする。

 この世で迷子のまま、その底なしの寄る辺なさから逃れようと

して、親しげな「正しさ」にすがりつく。

 社会の中で、何か意義のあることをしたり、金や物を手に入れ

て、その度に満足を得るのは確かだが、ホントにそれでいいの?

そうやって、ひと時お茶を濁してるだけじゃないの?



 ヤなこと言ってますよね。

 そんなに、メンドウなこと考えなくてもよさそうなもんです。でも

考えてしまう。思ってしまう。心の隅のちょっとした引っ掛かりを

どうしても無視できないんですよ。欲張りなんですね。

 永遠に失うことのない、絶対の幸せが欲しいんでしょう

ね。私は。



 “永遠に失うことのない、絶対の幸せ”って何でしょう?

 わかりません。

 知りません。  

 でも、今はこう思っています。

 わからない。知らない。っていうことを、徹底的に肯定して、わ

からないまま、知らないまま、そのままで居続けることで、言葉

ではなく、***でわかると。

 ( ***の中に入る言葉が無いんです。“心”と言っても

“身体”と言ってもしっくり来ない。“命”という言葉が近い気

もするけど、でも何かちがう・・・。たぶん言葉に出来ないことでし

ょう )

2017年1月13日金曜日

自分を葬る

   《 自殺する人は死にたいのではなくて

     死ぬしか生きる道がないのです 》



 「死にたい」とか、「自分なんか死んだらいいのに」なん

て思ったことは無いですか?結構そういう人は多いと思いま

す。

 私も二十歳前後に、そういう時期がありました。色々な事

があって、精神的にかなり不安定になり、「自分なんか、死

んだらいいのに・・・」と毎日のように思っていました。で

も、私が今こうしていられるのは、私が強かったとか、諦め

なかったとかいうことではなくて、たまたまです。


  本当に自殺してしまう人は、別に弱い人でも、ズルイ人

もありません。いわば、勘違いさせられて来た人です。


 というか、人はみんな勘違いして生きています。その中

で、その勘違いを他の人間と共有してグループを作ることが

出来た者は、安心感を持ち、それを守る為に自分たちとは別

の勘違いをしている人間を、「間違ってる」と排除します。



 生きていく中で、世の中の、自分のとは違う「正しさ」に

り囲まれ、気が付けばいつのまにか、「自分は間違った存

なんだ・・・」と思い詰めさせられ、抜き差しならない所

立たされてしまった人が自殺するのです。



 「この世には、もう自分の居場所はない・・・」そう思っ

て、自ら命を絶つ・・・。(実際に自殺した人に聞くことは

出来ませんから言い切れはしませんが・・、きっとそうだと

思います)


 でも、「居場所が無い」わけではないのです。

 居場所を求める所が間違っているのです。

 本来自分が居る必然性のない所に、居場所を求めて生きて

来てしまったのです。それが ”勘違い” なんです。

 ですが、「そこにしか世界がない」と思い込んでしまって

いるので、自分を  これが自分だと自身で思い込んでいる 

“自分”を  強く否定されてしまうと、もう「自分は間違っ

た存在なんだ」と思ってしまいます。

 「自分は世界に否定された人間だから、この世界には、も

う存在できない。ここでは、生きて行けない・・・」 

 そうなると、「この世界」の外へ出るしかない。

 しかし、彼には他に “世界”が無い。

 でも「ここには居られない。あまりにも苦しい・・」。

 行き場のない彼が、「この世界」から逃れる為には、自分

を消すしかない・・・。
 

 同じ経緯で、精神が崩壊してしまうこともあるでしょう。

 “自分” と「世の中」の関係の持ち方によっては、「消し

たい」想いは「世の中」に向かい、破壊的な行動に出る。

 通り魔、無差別殺人・・・。



 しかしその様な結果を、人間は本来望んでいるはずがな

い。

 「本来の自分」とでもいうべきものが、わたしたちの中に

はある。しかし、わたしたちは「世の中」に取り囲まれ、惑

わされ、「本来の自分」を見失う。

 「本来の自分」を取り囲むように、わたしたちの “アタ

マ” は「もう一つの自分」を作り上げる。その「もう一つの

自分」は「世の中」に合わせるための、仮のものでしかない

のだけれど・・・。


 心の奥のほうから、言葉にならない言葉で「本来の自分」

が呼び掛けていたはず・・・。

 「世の中の正しさ」に幻惑されすぎた(信じ過ぎた)「も

う一つの自分」に対して、少し我に帰って「本来の自分」の

声に耳を傾け、自分に親しみ、自分を慈しんでくれればと、

一度、振り返ってくれればと・・・。

 でも、「もう一つの自分」には、それが出来なかった。

 「自分」の中には「自分」しかいなかったから。

 振り返るべき「自分」の存在など、見えなかったから。


 それは、「愚かなこと」とみなされるかも知れない。「弱

さ」と呼ばれるかも知れない。しかし、その「愚かさ」「弱

さ」は、真っ白で生まれて来る人間に「世の中」が植え付け

たものなのだ。決して、人が持って生まれて来るものではな

い。


 小学生や中学生が、イジメを受けたりして自殺する。過労

自殺や、老々介護に疲れての無理心中・・・。

 そんなニュースを見るたびに、本当にやるせない。


 そうやって自ら命を絶つ人を、「弱い」とか「ズルイ」と

か「自殺される家族の身にもなれ」とか言う人がいる。その

人に言いたい。

 「あなたが、その人に生まれ、その人の人生を生きたら、

まったく同じ時、同じ様に、あなたも自殺するよ」と。

 頭だけすげ替えて「自分ならそうならない」なんて、お気

楽すぎる。「あなたが、その人に生まれたら、それは、あな

たではなく、そのひとなんだ。自殺で終わる人生がどんな

ものだったか、想像してみることが出来ますか?」と・・。

 「仕方ない事」は仕方がないんですよ。


 でも、「世の中」の「正しさ」に取り囲まれて苦しんでい

る人に、私の言葉が届くチャンスがあるのなら、言ってあげ

たいんです。

 「人の数だけ、世界はある」と。

 本当の「自分」は「世の中」のパーツの一つではないと。

 「“正しい”とは、そういうことにしておけば気が済むとい


うことでしかない」と。

 正しいか正しくないかに関係なく「あなたはそこにいる」

と。


 「自分の居場所」とは「自分」だと。

 それは、誰に認めてもらう必要もないことだと・・・。

 人間の約束事の外に、約束事以前に「あなたは居る」と。

 人間の約束事は、出来損ないなんだと・・・。






世の中をたしなむ


 《 世の中なんか、たしなむ程度にしておきなさい 》



 ひと頃、自分探しという言葉がよく使われました。

 今でも自分探しは続いている様ですが、この頃は「アタ

マ」の中に“小さな自分”を設定して、それを囲い込んで“自

分”とするパターンも多い様です。

(もしかしたら、このブログもそうかも知れない・・・。う

~ん・・・。)


 「意識というものは、社会(世の中)が脳の中に浸潤して

来たもので、どちらかといえば自分ではなく社会(世の中)

に属するものです」から、「世の中」や「自分のアタマ(意

識)」の中に、「自分」をいくら探しても見つかるはずはあ

りません。



 「世の中」は、わたしたちの「アタマ」の本体です。本体

なんですが、わたしたちの「アタマ」が端末で、「世の中」

はわたしたちの「アタマ」が繋がったネットワークであっ

て、「これが本体」という独立した実体が在るわけではあり

ません。まぁ、大きなサーバーとかは在りますね、聖書・コ

ーラン・学校・マスコミ・株式市場 etc・・・・。

 そういったものも在りますが、「世の中」の実体は、相互

に関わり合うわたしたち自身、ということに成りますね。


 考えれば当たり前の話なんです。

 当たり前の事なんですが、でも普通は「わたし」という個

人が先にあって、その個人が繋がって「世の中」を作ってい

るとかんがえます。しかし、実際は「世の中」がわたしたち

を作ります。

 わたしたちは「世の中」に作られ、わたしたちが「世の

中」を作ります。「世の中」はわたしたちを作ることで、

「世の中」の再生産を続けている訳ですね。



 でも、今や「世の中」はあまりにも膨れ上がり、その片隅

でわたしたちは窒息寸前じゃないですか?(そうは思いませ

んか?)

 だから、こう薦めます。

 《 世の中なんか、たしなむ程度にしておきなさい 》 

 と。

(「なさい」とチョット上から目線なのは、その方が文章の

切れが良いからで、私が偉いと思っているわけではありませ

ん。それと、そもそも自分に言い聞かせていることですか

ら)


 では、誰が「世の中をたしなむ」のでしょう?

 「世の中をたしなむ」という意識を持つ時、その意識は、

それまでの「世の中」に作られた意識ではなく、「世の中」

から外れた意識になります。それが「自分」というものだと

思います。


 わたしたちは、「本来の自分」から離れる程、幸せを感じ

られなくなります。完全に離れてしまえば、生きていられま

せん。

 「世の中」に完全に取り込まれてしまった時、わたしたち

は、まさに“自分”を見失い、人を殺し、テロや戦争まで行

い、日本では多くの人たちが自ら命を絶ちます。

 「それは、時に想像を絶する恐怖として、時には巨大な怪

物となって、わたしたちを押し潰しさえします」と初回に書

いたのはそういうことです。






 

2017年1月12日木曜日

意識というものは・・・


《 意識(自意識)というものは、社会が脳の中に浸潤してきたもので、

  どちらかといえば自分ではなく、社会に属するものです 》


 前回、「意識を持ち、社会を持ってしまったために、かなり困っ

たことになってしまった」と書きましたが、わたしたちの意識のほ

とんどは(わたしのイメージでは90%以上)社会によって作られ

ものです。

 生まれた時から、言葉を、言葉の意味をインプットされ、わたし

たちの意識は社会化されていきます。

 言葉が無ければ、わたしたちの脳は、自身の感じていることを

言語化して、意識することは出来ませんから、ただ漠然と、快感

や、不安や、安堵や、歓喜など、さまざまな感覚に揺れているだ

けでしょう。(ただ、言語化できなくても大脳皮質を持っているの

で、他の動物とは違う、いわば価値観を伴った「知的な(!)感覚」

の中にあるんじゃないかな?)

 わたしたちの意識はそうやって、言葉と、言葉の関連を覚える

ことで作られていきますが、言葉というもの自体が社会から生ま

れたものなので、“言葉を持つ” ことがそのまま、意識を社

してゆくことになります。

 わたしたちは、「“意識”という社会」を、頭の中に持つことから

逃れられません。もちろん、この意識が無ければ、わたしたちは

生きてゆくことが出来ませんが、その一方で、この言語化された

意識は、飽きることなく悪さを繰り返します。

 つまり、これが「アタマ」です。

 そして残された「知的な感覚」が本来のわたしたちです。


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 このあたりのことは、ジル・ボルト・テイラーさんの「奇跡の脳」

(新潮文庫)を読まれるか、YouTubeで「TED]でのプレゼンテ

ーションをご覧になると良いです。わたしの拙い文章とは、説得

力が違います。とても面白く、感動ものです。

 ということで、テイラー博士の動画をご紹介。

 追記・「ご紹介」していたのだけど、元の動画が無くなりました。同じ内容のものが別に有るので、お勧めはしておきます。


 


2017年1月11日水曜日

自分は正しい?


  《 人間の考えていることといったら

   「自分は正しい」

   「あいつはおかしい」  そればっかり! 》


  朝起きてから、夜眠りにつくまで(ときには夢のなかでも)、わ

 たしたちは一日中これをやっています。


  「わたしは正しい」


  「わたしは間違っていない」


  「あいつはおかしい」


  「こいつは変だ」


  「おまえは間違っている」


 日々、自分が考えていることを振り返れば、あなたにも心あたり

 
 があると思います。

   朝起きて、家族と顔を合わす。


   子供が「おはよう」と言わない。


   顔を洗ってタオルを取ろうとすると、いつものところに

    
    タオルがない。

   支度を整えて玄関を出た途端、横から自転車の高校生


   がスッ飛ばして来て、思わず後ずさり。


   駅の改札では、前の奴がモタモタしてる。


   電車に乗り込むと、先の連中が詰めようとしない。


   会社に着けば、どいつもこいつも頼んだ事をしていないわ、

   つまらんミスをするわ、オレのせいじゃない事で部長に小


    言を言われるわ・・・。


   うんざりしながら仕事を終えて、コンビニでビールを買って


   帰ろうとすると、前のオバサンが店員に商品のことをなんだ


   かんだと聞いたあげく、やっと買うことを決めたと思ったら


   ゴソゴソといつまでもサイフの小銭をさぐったあと、結局


   千円札を出してお釣りをもらう。


   ムカムカしながら家に帰ると、「今日は鍋だ」と聞いていた


   のに、「忙しかったから」と、吉野家の牛丼とコンビニのお


   惣菜・・・・・。(「忙しかった」って・・、まだ


   6時じゃねえか・・)

  ここに挙げた事は、わたしたちの一日の、ほんの一部。


  実際はこれの数倍も気に入らない事に出くわします。


  そして、その度に


    「あいつは、おかしい!」


    「こいつは、おかしい!」


    「自分は、正しい!」


  と、アタマの中でつぶやき続ける。  そうでしょ?    


  でも、その結果、あなたは誰にも知られることなく、自分ひとり


 で不機嫌になってるだけだし、その原因(あなたにとっての原


 因)である相手は、あなたがそんなことを思っているなんて、な


 にも知らないし、あなたの存在にさえ気付いていない人もいる。


  あなたが胸の内に抱いた怒りは、外の世界をなにひとつ変え


 はしないし、それを相手に伝えたとしても、ほとんどの場合、状


 況は悪くなるだけでしょう。


  これでは、あなたが抱いた怒りは、何のメリットももたらさない


 ということになりますね。


  わたしたちのアタマは、何の為にいつもこんな事をしている


 のでしょう?

  
  アタマがこんな作業を止めてくれたら、わたしたちはどれほど

 気楽に暮らせることでしょう?


  前のオバサンがレジでモタモタしている時、怒っても怒らなくて


 も待つ時間は一緒。それならば、機嫌良くしている方が得です。


  でも、わたしたちは日々アタマの中でつぶやき続けます、


    「わたしは正しい、わたしは正しい、わたしは正しい、わたしは正し



    い・・・・・・・・・



  なぜ、わたしたちのアタマは、こんなに「正しさ」にこだわり続


  けているのでしょう?
  
  それは「生き残る為」でしょう。本来は。

  すべての生き物は、常に生きる為の選択にせまられている。


   (細菌レベルではどうなのか知りませんが・・・)


   右へ行くか左へ行くか?暗がりへ行くか、明るい方へ行く


  か?選択を間違えれば、捕食者に目をつけられる。


   今、食べるべきか待つべきか?チャンスを逃せば食べ損ね


  る。   


   死ぬリスクが増える事を避けるために、本能的に行動して


  リスクを減らしている。


   死ぬリスクを減らすこと(それと子孫を残すこと)が正しい行


  動となる。


   人間も根本的には同じ。しかし、意識を持ち、社会を持って


  しまったために、かなり困ったことになってしまった。


   生き残ること、子孫を残すこと、という正しさの前に、社会の


  承認という手続き(ルール)が必要になった。




   たぶん石器時代であれば、その手続きはかなり緩いものだ
  
  ったでしょう。 しかし時代が下がるにつれ、人口が増え、文明が

  進み、手続きは複雑になり続けた。(人口が増えるから文明の


  進歩が必要なのか、文明の進歩によって人口が増えるのか。

  まあ、これはまた考えましょう)

   その過程で、 「正しさ」 は生き残ることから段々と離れ、


  ずてゆき、宙に浮いてしまった。

   今では、生き残ることを暗示することや、50年後の自分たち


  を生かすことや、地球の裏側に居る誰かを生かすことなど、


  数え切れない 「正しさ」 に取り囲まれ、その中でわたしたち


  には、もうどれが「正しい」か分からない。


   どの 「正しさ」 にも安住できずに、常に不安に突き動かさ


  れている。 その為、取るに足りない出来事にさえ不安を覚


  え、揺さぶられ、アタマの中で警戒のチャイムが鳴る。


   「これは、おかしい」 「あれは、間違っている」・・・・。


  わたしたちは、もう窒息寸前なのだと思う。


   

   
   さまざまな依存症、理由の分からない殺人、いじめ、過労死

  自殺・・・・・。ほんとに窒息してしまう人たちが出てくる。


  

   わたしたちは、 「正しさ」 に幻惑されていると言っていい

  でしょう。




   




  


2017年1月10日火曜日

正しいとはどういうことか?

 《 「正しい」とは、そういうことにしておけば

    気が済むということ 》


 いきなり、申し訳ないことを言ってしまいました。

 なにが申し訳ないかと言いますと、

 《 「正しい」とは、そういうことにしておけば

    気が済むということ。》

 という、この言葉を一度目にしてしまえば、あなたは生

涯、この言葉から逃れることはできないでしょうから。(極

度に忘れっぽいのであれば別ですが・・・・ある意味しあわ

せですね。)

 そして、この世界のすべての事柄に断定を下すことは、二

と出来なくなってしまうからです。

 この言葉は、あなたを常に不安定な状態に、軟弱な地面の

上に立たせることになるでしょう。

 もはや確固としたものは何も無くなり、今まで信ずるに値

すると思っていた全てが、ホログラフィーのように実態を失


い、あなたが掴もうとしても、その手はすりぬけてしまいま

す。



 本当に、この言葉はタチが悪い。

 人類史上、これほどタチの悪い言葉もないと思います。

 同じ意味をもつ言葉は、何度となく発せられてきたことで


しょうから、別にわたしの発見ではありません。ただ、この


言い回しは、とても「いやらしい」。


 逃げ道がない。


 潰しようがない。

 
 ひとによっては、ほとんど悪夢です。

 もう取り返しがつきません。


 「なんてことをしてくれたんだ!」


 あなたの心の中で、誰かが悲鳴を上げているかも知れま


せんね。

 でも、ここで注意して見てください。

 心の中で悲鳴を上げている、それは誰ですか?

 それはあなたですか?

 今、悲鳴を上げている、それは「あなた」ではなく、それ

こそが飽きることなく悪さを繰り返す、あなたの「アタマ」

なんです。



                    


 


 

2017年1月9日月曜日

ごあいさつ

 アタマが悪いのです。

 アタマが悪くて困っています。


 「誰の頭が悪いのか?」って?

 それは、あなたのアタマです。


 「失礼な!わたしの頭は悪くない」


 いいえ。あなたのアタマは悪いのです。

 それも、ちょつとやそっとではありません。とてつもなく


悪いのです。

 ただ、「あなたのアタマが悪い」と言いましたが、悪いの



はあなたのアタマだけではありません。私のアタマも悪いの

です。

 あなたと私だけではなく、あいつもこいつも誰もかれもア


タマが悪いのです。

 アタマが悪いのですが、ここで言うアタマの悪さとは、計


算ができないとか、記憶力が悪いといったことではありませ

ん。「あたまが悪さをする」ことを、「アタマが悪い」と言

うのです。

 わたしたちのアタマは、四六時中悪さをしているといって

いいでしょう。そして、わたしたち自身を苦しめています。

それは時に想像を絶する恐怖として、時には巨大な怪物と

なって、わたしたちを押し潰しさえします。

 この「アタマ」の悪さから、わたしたち自身を守るための

アイテムとして、私が使っている言葉たちを、これからご紹


介していこうと思っています。

 興味を持たれた方は、お付き合い下さい。