2021年7月24日土曜日

支配者は誰?



 わたしたち人間の大きな錯覚の一つとして、“「大きな者」

「力の強い者」が支配者である” というものがある。


 よく「一億年前には恐竜が地球を支配していた」とか、

「現在は人間が地球を支配している」とか言う。あるいは

「強大な資本力を持つユダヤ人が、世界を支配している」な

んていう人もある。

 けれど、今、世界中の国が目にも見えない、生物ですらな

いウイルスに引っ掻き回されている。「大きさ」とは「強

さ」とは何なのか? 「支配」とは何なのか?


 一億年前にタイムスリップして世界を見てみれば、恐竜の

姿が目立つことだろうが、その風景は「恐竜が地球を支配し

ていた」ということを意味しない。

 今、人間が地球の環境を大きく変えてしまうほどの活動を

してはいるけれど、それは「人間が地球を支配している」と

いう話でもない。

 今現在、人間の活動が経済を基盤に動いてしまっているこ

とは否定できない。その為、一部のユダヤ人の強大な資本力

をもってすれば、世界を望む方向へ動かすことも可能なのだ

ろう。けれど、そのことをもって「ユダヤ人が世界を支配し

ている」というのは、ものの見方が浅いだろう。


 大きくて目立つものや、ある状況下で力の強さが目立つも

のを目の当たりにすると、わたしたちは脅威に感じる。そし

て、それが世界の大きな動きを方向付けているように感じ

て、それが「世界を支配している」というように思ってしま

う。けれども、それは人間的なサイズ感と、比較する癖が生

出す勘違いに過ぎない。46億年と言われるこれまでの地球

歴史の中で、「地球を支配していた」ものなど存在しない

し、これからも存在しない。


 「支配」という概念は、存在と存在の「関係性」に、エゴ

の偏った見方を持ち込むことによって生まれる非常に恣意的

で浅はかなものだ。


 ある “存在” は、対照となる別の “存在” が無ければ意識さ

れない。その存在は、対照となる “存在” に依存している。言

わば「弱い」のだ。


 前に「弱肉強食」とは、“弱い者が強い者の肉を食う” こと

だと書いたことがある。(『ピラミッドを寝かせてみれば。

弱肉強食?』2017/7)

 草食獣は肉食獣がいなくても生きられるが、肉食獣は草食

獣がいなければ生きられない。草食獣の方が上位の存在だ

と。

 さらには、植物が存在しなければ草食獣は生きられない

し、菌類がいなければ植物も滅んでしまう。そして、植物が

滅びれば、たぶん菌類も滅びることだろう。


 「子は親を生む」という言葉がある。

 「子」も「親」も関係性を表すものなので、「子」が生ま

れなければ「親」も生まれない。


 「支配している者」も、「支配されている者」もいない。

すべての “存在” を生かしているのは、世界の「同時相関相補

性」による。

 世界は「同時相関相補性」に支配されているのであり、す

べての “存在” が、お互いに依存し合あうことで “それ” であ

り得るというのが実情だ。


 ある者が「支配している」とか、ある者が「強い」だとか

口にすることは、もう止めにした方がいいだろう。


 人類が世界や自分たちのことを考え始めて、もう数千年。

今になっても、「支配する」とか「支配される」などという

言葉を口にする者は、相も変わらず人間的な愚かさに「支配

されている」、と自ら表明しているのと同じだから。


 この世界に支配する者はいない。

 すべての存在は「その時、そのように在るだけ」なのだか

ら。






 

2021年7月23日金曜日

心の物語 Ⅱ



  前に書いた『心の物語』(2021/1)という話の続きのよ

うなものを書こうと思う。


 You Tube で明治時代に起きた潜水艇事故の話を知った。

当時から大変よく知られた話だそうだが、なにせ「軍隊」に

まつわる話はタブーとする社会で教育を受け、育ってきた世

代なので、この歳になるまでまったく知らなかった。


 潜水艇の演習中に事故が起きて沈没し、乗員十四名が全員

死亡したという話で、艇長が艇内で書き残した遺言と、引き

揚げられた艇内の様子から、乗組員全員がいかに冷静で、最

後まであきらめずに何とか事態を収拾しようと奮闘したこ

と、死を前にしてもうろたえなかったことが分かっているそ

うで、艇長の遺言には、自身の不徳を詫びる言葉と乗組員の

家族への支援を願う言葉などが綴られていたそうだ。


 こういう話は、美談に仕立てる為に脚色されているかもし

れない。動画のコメント欄にはリベラルらしい視聴者からの

そのような指摘も有った。実際のところ、どこまで本当なの

かは分からないのだけど、そのまま受け取っておけばいいじ

ゃないかと思う。この話が、即「戦争肯定」というわけでは

ないし、「死を前にしてうろたえない」ということは、普通

は人の態度として望ましいとされるだろうから、こういう話

を知って、「自分もそうありたい」(死を前にしてうろたえ

ない)と思う人間が増えれば、その分だけ世の中はマシにな

るように思う。


 この話題で私が語りたいのは、政治的な事ではなく、この

組員たちが、死を前にしてうろたえなかったのはなぜなの

かということ。


 この人たちがうろたえなかったのは、 “個” として閉じてい

なかったからだと思う。

 心が “大きなも” のと繋がっていたのだろう。だから「自分

が死んでも、自分が完全に無くなるわけじゃない」といった

意識を持っていたのではないだろうかと思う。

 その “大きなもの” は、当時であれば天皇陛下だったかもし

れないし仲間だったかもしれない、あるいは神や仏、自然だ

ったかもしれない。いずれにせよ、世界から独立した「自

分」という意識ではなかっただろう。世界から独立していれ

ば、死ねば何も無くなってしまう。

 イスラム原理主義者が自爆テロを行えるのも、「アラーと

繋がっているから死がすべての終わりではない」と思えるか

らだろう。


 そのような「自分は “大きなもの” と繋がっている」とい

う “心の物語” を持つと、人は死をそれほど恐れなくなれる。

そして死を恐れ過ぎることから生まれる、さまざまな人間ら

しい過ちから、かなり解放される。とはいえ、その繋がる 

“大きなもの” が何であるか、どのように「繋がる」かは問題

だ。変な繋がり方をすれば自爆テロになったりしてしまう。

いったい、「何」と、「どのように」繋がることが最善か?

 「死」と繋がることが最善だろう。


 死への恐れから、人は苦悩し、さまざまな愚かしい事をし

でかす。ならば、自分が「死」と繋がり、「死」に包まれ、

「死」の一部になってしまえば、「死」を恐れることはなく

なる。生きているうちから、もうすでに自分は「死」だとい

うことになるのだから。


 私の “心の物語” では、「人は “死” から生まれてきた。

“死” が “生” の母体である」ということになっている。


 わたしたちの身体は、当然ですが物質によって出来ていま

す。細胞より少し下のレベルでは “物” です。生きていませ

ん。その生きていはいない “物” が集まって、なぜか “生命” 

という働きをしています。そのことを考えれば、わたしたち

の母体は「生きていないもの」、つまり「死」だと言うしか

ありません。「生命」は「死」から生み出される働きです。

わたしたちは「死」に包まれて、 “わたし” として存在してい

ます。「死」というものは、冷たく静止した「虚無」ではな

く、無限に豊かにすべてが用意され、「生命」も含めたすべ

ての働きを生み出す “場” だと言えます。つまり、「世界」で

す。




 

2021年7月17日土曜日

彩雲に出会う



 今日、気象庁が近畿地方の梅雨明けを発表した。昨日まで

とは違う、格段にパワーアップした日差しの中、スーパーへ

買い物に出かけたのだが、汗をかきながら帰って来る途中、

私の労をねぎらうように、ご褒美があった。





 彩雲。

 瑞雲とも言い、良い事が起こる前ぶれとされる(厳密に言

えば、これは環水平アークと呼ばれるもので彩雲ではないの

だろうけど)。

 私からして、いま「良い事」と言えば、新型コロナが指定

感染症 2 類相当から引き下げられることだろうか。そうなっ

て欲しいところだが、さしあたり無理だろう。まぁ、彩雲の

ような美しい光景を見られること自体が「良い事」なので、

それで良しとする。


 世の中には、「良い報い」「悪い報い」といった考えがあ

る。「因果応報」で自分のしたことが自分に返って来ると考

えるのだが、この「因果応報」について、私の考えを一変さ

せる話を昔読んだ。

 確か山岡鉄舟の逸話だったと思うが、弟子が鉄舟にこんな

ことを言う。

 「先生、バチが当たるなんて言うのは嘘ですね。わたしは

この前、神社の鳥居に小便をしましたが、何にも起こりませ

んよ」

 それを聞いた鉄舟は弟子を叱りつける。

 「この、大バカモノ! 鳥居に小便をした時点で、お前は 

“鳥居に小便をする人間になった” というバチが当たっている

のだ!」


 この話を読んだときは、まさに「目からうろこが落ちた」

という感じだった。
 

 バチは後から当たるのではない。

 良い報いも後から訪れるのではない。

 悪い事をすれば「悪い事をする人間になっている」という

バチが当たっていて、良い事をすれば「良い事をする人間に

なっている」という報いの中にある。
 

 「酒を飲み過ぎて二日酔い・・・」などというのは、報い

が後から来ているのだけど、ああいうのは「因果応報」とい

うよりは「原因と結果」というべきだろう。「そりゃぁ、そ

うなるよ」ということでしかない。


 「因果は、巡る糸車」なんてことを言ったりもするけれ

ど、仏教用語には「前後際断」というのもある。いつも「い

ま」。わたしたちには「いま」しかない。「いま」がすべ

て。身も蓋も無い言い方をすれば、「因果」が時間を越えて

「報い」をもたらすなんて妄想だ。


 ところがもう一方で、「縁起」という考え方もある。すべ

ての出来事は、過去からの「因縁」によって起こる。「どっ

ちなんだ」と言いたいところだが、「縁起」の方が上位の概

念だと捉えるべきだろう。


 「縁起」によって起こる事は、その起こった事が次の出来

事を起こす「因」となるのであって、「縁起」の中には「結

果」が無い。「結果」が無いので「評価」も無い。出来事は

ただ起こり続け、切れ目なく影響し合いながら移り変わって

行く。


 過去と関連付けている間にも、出来事は起こり続け、“新し

く生まれた過去” が次々と積み重なるので、本当は、過去に

付き合っている暇など無い。

 「ここで、ストップ! 採点します」などということはでき

ない。

 世界に、生きることに、「評価」は無い。


 いつでも、今することをする。

 いつでも、今起こる事を、今受け取る。

 今することは、「因縁」によって今するしかないのだか

ら、喜んでする。

 今起きることは、「因縁」によって今起きるしかないのだ

から、喜んで受け取る。

 「喜んでする」ことができなくても、「喜んで受け取る」

ことができなくても、そのこと自体が「因縁」によるのだか

ら、苦にする必要が無い。“喜べない自分” を喜んで受け取れ

ばよい。


 虹色の彩雲に出会う「縁」。それをネタにこんなブログを

書ける「縁」。有り難いと思う。感謝感激雨あられ。


 そんなことを書いているうちに、空が少し暗くなってき

た。積乱雲が発達して、本当に雨あられになるかもしれな

い。洗濯物を取り込んでおこう。



 

2021年7月9日金曜日

悟りとは何か?

 

 《 悟りとは落ち着かない状況に腰を据えることである 》


 「一年前、何を書いただろうか?」と思って、ブログを読

み返したら、「‥落ち着かない状況に腰を据える」などとい

う言葉が書いてあった。

 「ムチャなこと書いてるなぁ」と思いつつ、面白いからこ

の言葉で一つブログを書こうということで、しばらくぼ~っ

としてたら冒頭の言葉が浮かんで来た。


 「腰を据える」というのは「落ち着く」ということなの

で、「落ち着かない状況に落ち着く」というムチャを書いて

いるわけではあるけど、「悟り」へ導こうという仏教の言葉

などというものは大抵ムチャなものなので、これしきの事は

驚くに足りないし、驚いてはいけない。なぜなら「驚かな

い」ということが肝になるからだ。


 驚かなければどうなるか?


 「落ち着かない状況」であっても、「驚かない」ことにす

る。

 徹底して「驚かない」。

 驚いてみせることを辞める。

 その結果、“状況” から「落ち着かなさ」が消える。「落ち

着かなさ」は “状況” が生んでいるのではなく、自分が生んで

いるからだ。


 わたしたちは、未経験のこと、想定外のことに出会った時

に、「驚く」ようにプログラムされている。

 生物として当然な部分もあって、そこのところはそれでい

いのだが、社会的に組み込まれてしまっている部分について

は、削除した方が幸福になれる。なので、驚いてみせること

を辞める。

 衝撃的なニュースを耳にしても、「エーッ!」と驚かず、

「あ、そう」と反応してもイイわけです。


 「検査の結果、あなたはガンです」

 「あ、そう」


 それでもいいのです。驚こうが驚かなかろうが、ガンはガ

ンです。

 驚くのが好みの人もいますから、そういう人は驚けばいい

けど、それで何か良いことがあるとも思えません、当人はそ

の方が気が済むのでしょうが、単に「こういうことは、驚い

て、ショックを受けてみせるものだ」と思い込んでるだけで

しょう。

 現代ではちょっと知識と経験を重ねれば、この世界の出来

事にいちいち驚く必要はないと分かるはずです。


 「不幸」と言われることがどういうことかをわたしたちは

知っています。

 病気・事故・災害・貧困・死・・・、「例を上げろ」と言

われればいくつも挙げられるでしょう。数十億年後には地球

自体が太陽に飲み込まれて無くなるなんてことまで想定して

います。知識と経験によって、自分と自分の生きているこの

世界に起きうる事をだいたい把握しています。だったら、

「そういうことはあるものだ」ということで、たいていの事

には驚かなくていい。「こういう時は驚くものだ」などとい

う世の中のムードにいちいち付き合う必要はない。


 「あ、そう」


 起こってしまうことは止められない。

 起きてしまったことは変えられない。

 事実として立ち現れて来た事は、受け止めて対処するしか

ない(「逃げる」という対処も込みで)。それがしばらくの

間、自分を落ち着かない状態に引き込んだとしても、それが

事実ならそれを生きるしかないのだから、驚いたってしよう

がないし何にもならない。

 驚かないことで、その「落ち着かない状態」に腰を据える

ことができる。「お~、揺れるなぁ~」みたいな、一歩引い

た視点で、自分の置かれた状況を見ることができるはず。


 私のモットーの一つで、《 やるのなら、機嫌よくやる。機

嫌よくできないのなら、やらなければいい 》というのがあり

ます。そして、この言葉はさらにこう続きます。

 《 生きるなら、機嫌よく生きる。機嫌よくできないなら、

生きなければいい 》

 どうせ生きているのなら、どうせ死ぬのなら、機嫌よくし

ているのに越したことはない。


 「生老病死」「四苦八苦」。誰もそれから逃れられない。

分かり切ったことなのに、起きるのが当たり前なのに、みん

なが深刻にうろたえてみせたりする。そんなことに付き合う

必要はない。

 「あっ、わたしの場合はこういうパターンなのね。ふう~

ん・・・」と、初めて行ったカフェで頼んだランチが運ばれ

てきたように、自分に起こる出来事を見ればいい  まぁ、

頼みもしていない事が起こっちゃうんだけど・・・。


 わたしたちは、世の中で「不運」とされることに大袈裟に

反応するように刷り込まれている。現代ではそれがさらにエ

スカレートして、「不運を予感させる事(不安)」を聞かさ

れただけで、国までが揺れるほど大袈裟に右往左往する。も

はや狂気の沙汰です。


 自分も世界も変化し続けている。一見落ち着いているよう

に見えたとしても、本当は、何ひとつ、一瞬たりとも落ち着

くことはない。逆説的だけど、落ち着くことが可能なのはわ

たしたちの心だけです。思考と感情の後ろに広がっている、

何ものにも乱されることのない意識のスペースに気付け

ば・・・。


 わたしたちにそういうスペースが持たされているというこ

とこそ、驚くべきことでしょう。



 

2021年7月4日日曜日

病気と体調 ~ “病原体感染可能症” について~



  去年から、コロナのことばかり考えながら過ぎているよう

で不愉快な日々が多いのだけど、そのおかげでこれまで思い

もしなかったことがあたまに浮かんだりする。最近浮かんだ

のが、病気と体調ということ。そして、思ったのが「病気っ

て存在しないんだな」ということだった。


 「病気」って存在しないんですよ。いろんな「体調」が有

るってことだけです。

 たとえば、今なら『新型コロナウイルス感染症』という病

気と『インフルエンザウイルス感染症』というふうに、分け

て考えるけど、それはウイルスの区別ができる(区別する)

から分けるのであって、これが五十年前だったら分けられな

い。新型コロナに感染していようとインフルエンザに感染し

ていようと、「ちょっとひどい風邪を引いたようだ」という

ことでけりがつく。

 同じように、たとえば耳が聞こえにくくなるとしても、今

では原因を調べていろいろな病気に分けるだろうけど、昔な

ら「耳が聞こえにくい」ということで片が付く。

 そのように、それぞれ個別の病気は、区別することによっ

て発生する。区別しなければ発生しない。診断を下すことが

病気を生みだすのであって、診断しなければ、ただ「そのよ

うな体調である」ということにとどまる。そして、そういう

見方を突き詰めてゆくと、「調子がいい」「調子が悪い」と

いうだけの話になってしまって、「病気」という概念は消え

てしまうことになる。ずっとずっと昔はそういうことだった

だろう。「病気」は医者が生み出すのだ。(今は、製薬会社

の貢献も大きいだろう)


 昔なら「今日は頭が痛い」というだけのことだったのが、

現代では頭が痛いというだけでも、あれやこれやと病名が思

い浮かんで悩ましいことになったりする。

 医者にかかり、診断を受けて病名が付き、治療をしてそれ

で良くなればよいが、なかなかそうも行かない。そういう場

合、細かな診断と病名(病気の区分)は役に立っていないの

でムダである。かえって、大雑把に捉えて対処した方が良い

こともあるだろうが、細分化して複雑にしてみせるのが、医

学に限らず学問というものの業なので、そのあたりの意識の

低い医者にかかるとなにやら面倒なことになったり、いっこ

うに良くならなかったりすることになる。


 昔にくらべて日本のような先進国では、総じて寿命は延び

ただろうが、一番の要因は上下水道の整備や衛生的な食品流

通の発達などの衛生環境の向上であって、そこに医学はあま

り貢献していないだろう。むしろ健康診断に代表されるよう

な検査と診断が常態化したことで、からだに不具合を感じて

いない人間まで「病気」とされるようになり、「病人」の割

合は増えたのではなかろうか? 現代医学は物事を面倒にした

だけなのかもしれない。その分、上手くやれば金はもうかる

かもしれないが。


 少し強引な話をするけど、今回、人類のほとんどにワクチ

ンという薬を使おうとしているが、普通、薬というものは

「病人」に使うものだから、ワクチンを打つ人は「病人」だ

と言えるかもしれない。製薬会社や感染症の専門家や厚労省

や WHO なんかからすれば、わたしたちはみんな “病原体感

染可能症” とでもいうような「病人」なのだろう。さらに言

うならば、生きていることは “不可逆性死亡症” とでも言うべ

恐ろしい病なのだろう。


 生きてるだけで「病人」だなんて、こんなことなら生まれ

て来なければよかった・・・。

  “医学がデカい面をし過ぎている世の中に・・・” というこ

とだけれども・・・。






2021年7月3日土曜日

「科学」という宗教について



 ちょっと量子コンピュータの話をネットで見ていて、今後

コンピュータが超高性能になったらどうなのかを考えた。


 どんなにコンピュータの性能が上がっても、それを使うの

は人間。例えば、中国共産党が「国をさらに発展させるため

に最善の方法」を超々スーパーコンピュータに計算させたと

する。その答えが「中国共産党を解体すること」だったとし

たら、共産党はそれを採用するだろうか?


 「絶対に正しい」とされることがあっても、自分が気に入

らなければ人はそれを認めない。コンピュータが神のように

賢くなっても、それを使う人間がバカなら何にもならない。

しかし、逆に、神のようになったコンピュータにすべて従う

ようになるなら、さらにバカではなかろうか? でも、暗黙の

内にそれを求めている人間はもうすでに相当数になっている

ように思う。それは「コンピュータ教」の誕生であり、映画

『マトリックス』の世界の始まりと見做せるだろう。


 自分を越えた存在に、絶対に間違いのない生き方を教えて

もらって、その通りに生きる。人というものは、古来からそ

れを望んで来た。その望みが数々の宗教を生みだし、さまざ

まな教義が人々を律してきたのだが、それの最新版が、スー

パーコンピュータという神であり、コンピュータシミュレー

ションによる予測という教義なのだろう。


 「原理主義」という言葉は、もともとイスラムやキリスト

教の極端な信奉者を表すために生まれた言葉だそうだが、

「原理主義」は宗教と親和性が高い。いや、「原理主義」は

宗教からのみ発生する。「原理主義」を生み出すものは、表

面上宗教の体裁をしていなくても宗教だと言えるだろう。そ

教義と個人のエゴが融合した時、「原理主義」が生まれ

る。    


 コンピュータを神とし、その予測を教義とする現代の新興

宗教は「安心安全原理主義」とよくなじむ。というわけでス

ーパーコンピュータ「富岳」のウイルス飛散シミュレーショ

ンが示され、安心安全の為に人々は自粛し、ワクチンを接種

する。


 変化はリスクを伴うから、「安心安全」を突き詰めてゆく

と、最適環境を作ってそこにとどまっているというようにな

らざるを得ないだろう。その究極は、まさしく『マトリック

ス』で描かれる生命維持システムに繋がれた人間の姿だが、

ステイホームで外界とリモートで繋がって、食事を宅配で手

に入れ、「安心安全」に生きようとすることは、そういうこ

とではないか。

 人は「安心安全」を求めるものだ。しかし、それが目的に

なってしまうのは愚かなことだと私は思うし、それでしあわ

せだとも思えない。


 科学的知見という祝詞を上げ、スーパーコンピュータにお

伺いを立て、学者、専門家と称する神官がご託宣を述べて、

人々は「へへーー」とそれに従う。科学とはいったい何なの

か?


 西洋で、宗教の行き過ぎた部分を中和する役割で発生した

科学は、今やそれ自体が宗教になってしまい、原理主義者の

り代となってしまっている。思想であれ物であれシステム

であれ、何を創り出しても、与えられも、人間がバカなら

それを有効に使うことはできない。そどころか、かえって

害を生みだしてしまう。


 アタマの悪さをそのままにしておいて、何を信じようと、

何を利用しようと、人はしあわせにはならない。

 アタマの悪さを脇にどけさえすれば、何も信じなくても、

便利な道具や快適な環境を手に入れられなくても、そこには

しあわせがある。


 アタマの選ぶ神ではなく、アタマが選ぼうとしない神こそ

が、わたしたちが「神」と呼ぶにふさわしいだろう。そして

その「神」は常に在る。世界に遍満している。自分の外に、

自分の内に。