2021年7月23日金曜日

心の物語 Ⅱ



  前に書いた『心の物語』(2021/1)という話の続きのよ

うなものを書こうと思う。


 You Tube で明治時代に起きた潜水艇事故の話を知った。

当時から大変よく知られた話だそうだが、なにせ「軍隊」に

まつわる話はタブーとする社会で教育を受け、育ってきた世

代なので、この歳になるまでまったく知らなかった。


 潜水艇の演習中に事故が起きて沈没し、乗員十四名が全員

死亡したという話で、艇長が艇内で書き残した遺言と、引き

揚げられた艇内の様子から、乗組員全員がいかに冷静で、最

後まであきらめずに何とか事態を収拾しようと奮闘したこ

と、死を前にしてもうろたえなかったことが分かっているそ

うで、艇長の遺言には、自身の不徳を詫びる言葉と乗組員の

家族への支援を願う言葉などが綴られていたそうだ。


 こういう話は、美談に仕立てる為に脚色されているかもし

れない。動画のコメント欄にはリベラルらしい視聴者からの

そのような指摘も有った。実際のところ、どこまで本当なの

かは分からないのだけど、そのまま受け取っておけばいいじ

ゃないかと思う。この話が、即「戦争肯定」というわけでは

ないし、「死を前にしてうろたえない」ということは、普通

は人の態度として望ましいとされるだろうから、こういう話

を知って、「自分もそうありたい」(死を前にしてうろたえ

ない)と思う人間が増えれば、その分だけ世の中はマシにな

るように思う。


 この話題で私が語りたいのは、政治的な事ではなく、この

組員たちが、死を前にしてうろたえなかったのはなぜなの

かということ。


 この人たちがうろたえなかったのは、 “個” として閉じてい

なかったからだと思う。

 心が “大きなも” のと繋がっていたのだろう。だから「自分

が死んでも、自分が完全に無くなるわけじゃない」といった

意識を持っていたのではないだろうかと思う。

 その “大きなもの” は、当時であれば天皇陛下だったかもし

れないし仲間だったかもしれない、あるいは神や仏、自然だ

ったかもしれない。いずれにせよ、世界から独立した「自

分」という意識ではなかっただろう。世界から独立していれ

ば、死ねば何も無くなってしまう。

 イスラム原理主義者が自爆テロを行えるのも、「アラーと

繋がっているから死がすべての終わりではない」と思えるか

らだろう。


 そのような「自分は “大きなもの” と繋がっている」とい

う “心の物語” を持つと、人は死をそれほど恐れなくなれる。

そして死を恐れ過ぎることから生まれる、さまざまな人間ら

しい過ちから、かなり解放される。とはいえ、その繋がる 

“大きなもの” が何であるか、どのように「繋がる」かは問題

だ。変な繋がり方をすれば自爆テロになったりしてしまう。

いったい、「何」と、「どのように」繋がることが最善か?

 「死」と繋がることが最善だろう。


 死への恐れから、人は苦悩し、さまざまな愚かしい事をし

でかす。ならば、自分が「死」と繋がり、「死」に包まれ、

「死」の一部になってしまえば、「死」を恐れることはなく

なる。生きているうちから、もうすでに自分は「死」だとい

うことになるのだから。


 私の “心の物語” では、「人は “死” から生まれてきた。

“死” が “生” の母体である」ということになっている。


 わたしたちの身体は、当然ですが物質によって出来ていま

す。細胞より少し下のレベルでは “物” です。生きていませ

ん。その生きていはいない “物” が集まって、なぜか “生命” 

という働きをしています。そのことを考えれば、わたしたち

の母体は「生きていないもの」、つまり「死」だと言うしか

ありません。「生命」は「死」から生み出される働きです。

わたしたちは「死」に包まれて、 “わたし” として存在してい

ます。「死」というものは、冷たく静止した「虚無」ではな

く、無限に豊かにすべてが用意され、「生命」も含めたすべ

ての働きを生み出す “場” だと言えます。つまり、「世界」で

す。




 

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